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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>サンデーモーニング</title>
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				<updated>2018-04-24T13:57:05Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;男の娘: /* 年末・新春スペシャルについて */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''サンデーモーニング'''（英字：'''Sunday Morning'''）は、[[東京放送|TBS]]系列（[[Japan News Network|JNN]]）で、毎週[[日曜日]]の[[朝]]に放送されている[[関口宏]]司会の[[報道]]系[[ワイドショー]]・[[情報番組]]である。それまで30分単位の番組が当たり前だった各局日曜午前がワイド化する先鞭となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[裏番組]]の中山秀征が司会を務めるシューイチ（[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列ほか）とは毎週激しい視聴率争いを演じている。[[2005年]]以降は『サンデーモーニング』の方がリードしている。また、「生放送(シューイチ)より録画(サンデーモーニング)が勝つ」のジンクスがこの時間帯にも現れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
=== 初期（1987年10月 - 1997年9月） ===&lt;br /&gt;
[[1987年]][[10月4日]]に放送が始まった（当時の放送時間は8:30 - 9:54（以下、[[日本標準時|JST]]）、初期のみ一部地域では9:30まで）。企画・立案は、[[大橋巨泉]]である。ちなみに、大橋巨泉は出演しない(スーパーバイザーとして参加)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1994年4月3日からは、放送開始が30分繰り上がって8:00開始になった。1997年9月までは『'''関口宏のサンデーモーニング'''』というタイトルで、[[北野大]]、[[ケント・ギルバート]]、[[三屋裕子]]、[[新堀俊明]]、[[定岡正二]]などがレギュラーコメンテーターとして出演。そのうち、北野大、ケントギルバートの二人は、大橋巨泉の推薦である&amp;lt;ref&amp;gt;北野大は「クイズダービー」で、ケント・ギルバートは「世界まるごとＨＯＷマッチ」でそれぞれ回答者として共演経験をもつ&amp;lt;/ref&amp;gt;。関口の所属事務所である[[三桂]]の[[タレント]]が多く出演した。制作スタッフは平日の『[[モーニングEye]]』とほとんど同じだった。1994年4月からは8:00開始の2時間に枠が拡大し、テーマ曲が変更されるなどリニューアルされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年に明るみになった[[TBSビデオ問題]]により番組制作を担当していた社会情報局が廃止され、制作を報道局に移管することで番組は継続することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初期から収録日は土曜日で隔週２度録だった(1回目は翌日、2回目は翌週日曜日に放送)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新サンデーモーニング（1997年10月 - 1999年3月） ===&lt;br /&gt;
放送開始10周年を機に、1997年10月『'''新サンデーモーニング'''』に改題した。関口は残るものの出演者を総入れ替えした。アシスタントに[[中江有里]]、コメンテーターには[[矢崎滋]]、リポーターとして報道局記者や報道番組のキャスターが出演した。また、声優によるナレーションを導入。ナレーションには[[戸谷公次]]が担当した。このテコ入れは、大橋巨泉によるものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 現行（1999年4月 - ） ===&lt;br /&gt;
1999年4月に再びリニューアルし、番組タイトルを『'''サンデーモーニング'''』と改めた。同年9月からは1997年まで使用していたテーマ曲や一部BGMを復活させ、コメンテーターを新たに起用、[[三桂]]や[[セント・フォース]]所属の[[フリーアナウンサー]]がナレーターとして出演している。リニューアル当初はコメントを求めるために大学生が観客として出演する演出があった。また、放送事故は[[石原発言捏造テロップ事件]]以外、一切起きていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]]以降、[[関東地方|関東地区]]で15%前後の[[視聴率]]を獲得しており、[[2005年]]頃から本番組が時間帯1位を奪取し、その後も長らく保持している。一方で番組の主要キャストが高齢化してきた事情から、テレビ誌記者が今後の視聴率について、「その先はどうなるかわからないという弱みを抱えている」と指摘している&amp;lt;ref&amp;gt;http://wjn.jp/article/detail/8156922/ [[週刊実話]](2013年3月17日)&amp;lt;/ref&amp;gt;。これを鑑みて、[[ジャニー喜多川]]氏が本番組のリニューアルを模索している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]][[2月]]に報道局が、生放送化した上で、司会を[[みのもんた]]に交代させる案を企てたが、大橋巨泉に却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2012年]][[9月]]以降は本番組が関口の地上波における唯一のレギュラー番組となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2013年]][[7月]]以降は前番組である[[がっちりマンデー!!]]との[[ステーションブレイク|ステブレ]]レス接続で放送されている。このときから、収録方式が毎週土曜日収録、翌日放送の撮って出しとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2016年]][[7月]]この番組の主導権を握っていた大橋巨泉が死去。これにより、スーパーバイザー枠を廃止。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 年末・新春スペシャルについて ===&lt;br /&gt;
年に1回、年末または年始に11:25まで拡大して放送される（代わって2001年10月以降、後座番組となっている『[[サンデージャポン]]』は休止）。12月30日か31日が日曜の場合は「年末スペシャル」に、1月2日 - 4日が日曜の場合は「新春スペシャル」になるが、元日が日曜日の場合は休止&amp;lt;ref&amp;gt;『[[ニューイヤー駅伝]]』を放送する。&amp;lt;/ref&amp;gt;となり1週間前の[[12月25日]]に年末スペシャルとして放送される。スペシャル版は2部構成となり、第1部は通常のタイムスケジュールで進行され、9:40頃「風を読む」コーナー部分から第2部となり当年（または前年）をVTRで振り返り、来年（または今年）がどういう年になるかコメンテーターとともに討論する形式になる。2009年 - 2010年は1月3日が日曜にあたっていたが「新春スペシャル」はなく（[[特別番組]]で休止）、1週間前の2009年12月27日に年末スペシャル、翌年1月3日にレギュラー版を放送した。2010年 - 2011年は前年と同様に、12月26日に年末スペシャル、翌年1月2日はレギュラー版を放送。2011年 - 2012年は2011年12月25日に年末スペシャル（この年は『[[報道の日|報道の日 2011 記憶と記録そして願い]]』の第一部として）、翌年1月8日はレギュラー版を放送。なお、曜日配列によっては、年末年始も休まず放送する。この場合、12月中旬に収録する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の休止 ===&lt;br /&gt;
*2001年・2007年・2011年の「[[世界陸上選手権]]」期間中では1回だけ休止。&lt;br /&gt;
*また、オリンピック関連では[[2004年]][[8月15日]]の「[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]」ハイライトで休止。[[2012年]][[8月5日]]には「[[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]]」ハイライトで休止。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演者 ==&lt;br /&gt;
=== 司会 ===&lt;br /&gt;
* [[関口宏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アシスタント ===&lt;br /&gt;
'''太字'''は[[三桂]]所属&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''現在の出演者'''&lt;br /&gt;
*'''[[橋谷能理子]]'''（2000年4月  - 〈斎藤と2期メンバー〉）&lt;br /&gt;
*'''[[唐橋ユミ]]'''（2004年10月3日 - 〈鬼頭あゆみ・用稲千春と入れ替わり〉）&lt;br /&gt;
*[[滝本沙奈]]（2009年7月5日 - 〈津島亜由子と入れ替わり〉）&lt;br /&gt;
*[[水野真裕美]]（TBS[[アナウンサー]]・2012年4月1日 -〈佐藤渚と入れ替わり〉）&lt;br /&gt;
「週刊御意見番」専属アシスタントは2002年9月以前は[[川村美絵子]]が、同年10月から2008年9月までは[[今山佳奈]]がそれぞれ務めていた。今山退任後は専属担当者を決めず、橋谷以外の3人が持ち回りで担当していたが、2008年12月から唐橋が専属で担当するようになった。なお、今山不在の時は津島や唐橋が代理をしたこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''過去の出演者'''&lt;br /&gt;
* [[佐藤渚]]（TBSアナウンサー・2011年4月 - 2012年3月〈柴田奈津子と入れ替わり〉）&lt;br /&gt;
現在はサンジャポに出ている&lt;br /&gt;
* [[柴田奈津子]]（2008年10月 - 2011年3月〈今山佳奈と入れ替わり〉）&lt;br /&gt;
* [[津島亜由子]]（2004年10月3日 - 2009年6月28日〈鬼頭あゆみ・用稲千春と入れ替わり〉）&lt;br /&gt;
* [[今山佳奈]]（2002年10月 - 2008年9月〈城向あかり・佐藤まり江・川村美絵子と入れ替わり〉）&lt;br /&gt;
* [[鬼頭あゆみ]]（2003年2月 - 2004年？〈橋谷・用稲・今山と4人体制に〉）&lt;br /&gt;
* [[用稲千春]]（2001年4月 - 2004年？〈斎藤英津子と少し重なった後入れ替わり〉）&lt;br /&gt;
* [[城向あかり]]（1999年9月 - 2002年9月〈5人でスタート〉）&lt;br /&gt;
* [[佐藤まり江]]（1999年9月 - 2002年9月〈5人でスタート〉）&lt;br /&gt;
* [[川村美絵子]]（1999年9月 - 2002年9月〈5人でスタート〉）&lt;br /&gt;
* [[斎藤英津子]]（2000年4月 - 2001年6月〈橋谷と2期メンバー。米国へ〉）&lt;br /&gt;
* [[村瀬美希]]（1999年9月 - 2000年7月〈5人でスタート〉）&lt;br /&gt;
* [[森麻季 (アナウンサー)|森麻季]]（1999年9月 - 2000年7月〈5人でスタート〉）&lt;br /&gt;
* [[浜尾朱美]]（『[[筑紫哲也 NEWS23]]』担当以前の1987年10月 - 1989年9月）&lt;br /&gt;
* [[宮田佳代子]]（[[テレビ朝日]]『[[サンデープロジェクト]]』担当以前）&lt;br /&gt;
* [[伊藤聡子]]&lt;br /&gt;
* [[広重玲子]]（[[早稲田大学]]在学時代に学生リポーターとして出演。後に[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初期の頃、司会の関口はアシスタントを「○○君」（例・橋谷君）と呼んでいたが、現在の放送では「○○さん」と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナレーション ===&lt;br /&gt;
* [[鈴木麻里子]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== パネリスト（コメンテーター） ===&lt;br /&gt;
コメンテーターの人名紹介テロップは、必ず「さん」付けされる。&lt;br /&gt;
* [[岸井成格]]（[[毎日新聞]][[主筆]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''過去の出演者'''&lt;br /&gt;
* [[与良正男]]（毎日新聞論説委員）※岸井の代役。&lt;br /&gt;
* [[後藤謙次]]（政治コラムニスト）※岸井の代役。2008年10月から月1回程度のペースで出演。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 週刊御意見番 ====&lt;br /&gt;
* [[大沢啓二]]（ - 2010年9月19日） -  2010年9月26日と10月3日は休演。10月3日に本人からの手紙を関口が紹介し、その中で「体調不良」を明らかにしていたが、10月7日に死去した。&lt;br /&gt;
* [[張本勲]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大沢死去後の2010年10月17日から週替わりで、TBS系列の野球解説者を含め、様々なジャンルのスポーツ評論家が出演している。&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;NavFrame&amp;quot; style=&amp;quot;clear: both; border: 0px;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;NavHead&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: left;&amp;quot;&amp;gt;御意見番一覧&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;NavContent&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: left;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
:{| class=wikitable&lt;br /&gt;
! 担当者 !! 初出演日 !!  出身スポーツ競技 !! 主な実績&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[土橋正幸]] || 2010年10月17日 || rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; |[[プロ野球]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[高田繁]] || 2010年10月24日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[大古誠司]] || 2010年10月31日 || [[バレーボール]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[山田久志]] || 2010年11月7日 || rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; |プロ野球||[[木俣達彦]]、[[小松辰雄]]、後に出演する[[牛島和彦]]と共に[[中部日本放送|CBC]]野球解説者を務め、地方のTBS系列の野球解説者の中では一番多く出演している。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[村田兆治]] || 2010年11月14日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[佐々木主浩]] || 2010年11月21日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[瀬古利彦]] || 2010年11月28日 || [[陸上競技]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[北の富士勝昭|北の富士]] || 2010年12月5日 || [[大相撲]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[松尾雄治]] || 2010年12月12日 || [[ラグビー]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[斉藤仁]] || 2010年12月19日 || [[柔道]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[江本孟紀]] || 2010年12月26日 || プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[青木功]] || 2011年1月2日 || [[ゴルフ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[王貞治]] || 2011年1月9日 || プロ野球 ||日本プロ野球で868本・本塁打世界記録&amp;lt;br&amp;gt;第1回[[ワールド・ベースボール・クラシック]]優勝監督&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[大八木淳史]] || 2011年1月16日 || ラグビー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[鈴木大地]] || 2011年1月23日 ||  [[水泳]] ||1988年、[[ソウルオリンピック]] 200Ｍ背泳ぎ・金メダリスト&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[石毛宏典]] || 2011年2月6日 || rowspan=&amp;quot;4&amp;quot; |プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[駒田徳広]] || 2011年2月13日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[達川光男]] || 2011年2月20日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[金田正一]] ||  2011年3月6日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[中西哲生]] || 2011年3月27日 || [[サッカー]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[具志堅用高]] || 2011年4月10日 || [[ボクシング]] || ボクシング防衛記録の13回は現在、世界記録中！&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[槙原寛己]] || 2011年4月17日 || rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; |プロ野球 || 1994年、[[福岡ドーム]]の試合で[[完全試合]]を達成！　1985年の[[ランディ・バース|バース]]、[[掛布雅之|掛布]]、[[岡田彰布|岡田]]による伝説の[[バックスクリーン3連発]]を喫する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[広澤克実]] || 2011年4月24日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[篠塚和典]] || 2011年5月1日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[朝原宣治]] || 2011年5月15日 || 陸上競技 || [[2008年]]、[[北京オリンピック]]の400Ｍリレーで銅メダル。妻は元シンクロ選手の[[奥野史子]]。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[立浪和義]] || 2011年5月22日|| rowspan=&amp;quot;9&amp;quot; |プロ野球 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[北別府学]] || 2011年5月29日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[衣笠祥雄]] || 2011年6月5日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[有藤通世]] || 2011年6月19日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[工藤公康]] || 2011年6月26日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[中畑清]] || 2011年7月3日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[佐々岡真司]] || 2011年7月10日 ||  2013年現在[[安仁屋宗八]]、[[高橋建]]、[[山崎隆造]]と共に[[中国放送|RCC]]野球解説者を務める。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[柴田勲]] || 2011年7月17日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[山下大輔]] || 2011年7月31日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[川合俊一]] || 2011年8月7日 || バレーボール&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[香川伸行]] || 2011年8月14日 || プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[大林素子]] || 2011年8月21日 || バレーボール&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[大矢明彦]] || 2011年9月25日 || rowspan=&amp;quot;6&amp;quot; |プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[東尾修]] || 2011年10月2日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[木田勇]] || 2011年10月9日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[藤田平]] || 2011年10月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[高木守道]] || 2011年11月13日 || 当時はCBC野球解説を務めていたが、翌年に[[中日ドラゴンズ|中日]]の監督に就任する&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[西崎幸広]] ||  2011年11月27日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[樋口久子]] ||  2011年12月4日 ||ゴルフ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[沢松奈生子]] ||  2012年1月22日 ||[[テニス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[魁皇博之|魁皇]] ||  2012年1月29日 ||大相撲&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[川藤幸三]] || 2012年2月12日 ||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; |プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[仁志敏久]] || 2012年2月19日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[小島伸幸]] || 2012年3月4日 || サッカー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[吉村禎章]] || 2012年4月1日 ||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; |プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 牛島和彦 || 2012年5月6日 || TBSとCBCの野球解説者を兼務する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[篠原信一]] || 2012年5月20日 || 柔道&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[吉原知子]] || 2012年5月27日 || バレーボール&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[釜本邦茂]] || 2012年6月10日 || サッカー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[定岡正二]] || 2012年6月17日 || 野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[内藤大助]] || 2012年6月24日 || ボクシング&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[斉藤明夫]] || 2012年7月1日 || 野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[杉山愛]] || 2012年7月8日 || テニス&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[山口香]] || 2012年7月29日 || 柔道&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[有森裕子]] || 2012年8月12日 || マラソン || 1992年のバルセロナ・1996年のアトランタと2大会連続で女子マラソン・銅メダル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[鹿取義隆]] || 2012年8月26日 ||rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; |プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[金村義明]] || 2012年9月9日 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[大島康徳]] || 2012年9月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[貴乃花光司|貴乃花]] || 2012年9月30日 || 大相撲&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[山本浩二]] || 2013年2月11日 || プロ野球 || 愛称は'''ミスター赤ヘル'''&amp;lt;br&amp;gt;第3回[[ワールド・ベースボール・クラシック]]　日本代表([[侍ジャパン]])監督&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[辻発彦]] || 2013年3月24日 || プロ野球 || 二塁手では史上最多の[[ゴールデン・グラブ賞]]を8回受賞！特に[[1988年]]から[[1994年]]迄の7年連続受賞はファンから'''二塁手＝辻'''の異名と取っていた。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[高見盛精彦|振分]] || 2013年3月31日 || 大相撲 || ユーモラスな「気合い入れ」が、観客から掛け声がかかるほどファンの人気を集めた。愛称は'''角界のロボコップ'''。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[野村克也]] || 2013年6月9日 || プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[ラモス瑠偉]] || 2013年6月16日 || サッカー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 岡田彰布 || 2013年7月7日 ||rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; | プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[掛布雅之]] || 2013年8月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[元木大介]] || 2013年8月18日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[高橋みゆき]] || 2013年9月1日 || バレーボール&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[金本知憲]] || 2013年9月15日 || プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 佐々木主浩 || 2013年9月22日 || プロ野球&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[清原和博]] || 2013年9月29日 || プロ野球&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 週替わり ====&lt;br /&gt;
1回の放送に5～6名が出演。'''太字'''は[[三桂]]所属&lt;br /&gt;
* '''[[浅井信雄]]'''（国際政治学者）&lt;br /&gt;
* [[寺島実郎]]（[[多摩大学]]学長、[[日本総合研究所 (財団法人)|日本総合研究所]]理事長）&lt;br /&gt;
* '''[[浅井慎平]]'''（写真家）&lt;br /&gt;
* [[大宅映子]]（ジャーナリスト）&lt;br /&gt;
* [[田中秀征]]（[[福山大学]]客員教授）&lt;br /&gt;
* [[金子勝 (経済学者)|金子勝]]（[[慶應義塾大学]]教授）&lt;br /&gt;
* [[幸田真音]]（作家）&lt;br /&gt;
* [[Dr jimmy（ウィキペディアン）|佐高信]]（評論家、[[週刊金曜日]]編集委員）&lt;br /&gt;
* [[田中優子]]（[[法政大学]]教授）&lt;br /&gt;
* '''[[中西哲生]]'''（スポーツジャーナリスト、[[川崎フロンターレ]]特命大使）&lt;br /&gt;
* [[西崎文子]]（[[東京大学]]教授）&lt;br /&gt;
* [[辺真一]]（コリア・レポート編集長）&lt;br /&gt;
* [[目加田説子]]（[[中央大学]]教授）&lt;br /&gt;
* '''[[涌井雅之]]'''（造園家、[[東京都市大学]]教授）&lt;br /&gt;
* [[河野洋平]]（元[[衆議院議長]]）&lt;br /&gt;
* [[アーサー・ビナード]]（[[詩人]]・[[俳人]]） - 2013年9月29日から&lt;br /&gt;
'''過去の出演者'''&lt;br /&gt;
* [[江川紹子]]（ジャーナリスト） - 2010年6月20日放送分を以って降板（後述）。&lt;br /&gt;
* [[中坊公平]]（弁護士）&lt;br /&gt;
* [[諸井虔]]（元太平洋セメント株式会社相談役）&lt;br /&gt;
* [[ペマ・ギャルポ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主なコーナー ==&lt;br /&gt;
=== メインニュース ===&lt;br /&gt;
放送開始前の1週間以内に起きた出来事3つ程度を[[ニュース]]として取り上げ、VTRによる検証とスタジオトークを展開する。現在は手作り風の小道具を用意し、アシスタントがそれを用いながら原稿読みをしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 週刊御意見番 ===&lt;br /&gt;
雑誌の[[中吊り]]（順番は中吊りの右側から順に進む）をイメージした項目フリップに沿って関口が進行し、御意見番が[[プロ野球]]を中心にスポーツの様々な話題について「球界の御意見番」として辛口のコメントをする。憤りを感じるネタには『喝』、素晴らしいネタには『あっぱれ』と称して、関口がそれぞれのワッペンを項目フリップに貼っていく。ゲストコメンテーター制になってからはゲストは一週のみ出演であり、コーナーの勝手が分からないのか、あまり積極的に『喝』や『あっぱれ』を言わないため、関口に促されて『喝』や『あっぱれ』を言うことが非常に多い。ちなみに、ゲストコメンテーターが初登場の場合に限り、過去の懐かしいまたは印象的な映像を用い、当該日に出演するゲストの当時のエピソードなどを語るのが決まりとなっている。赤丸が付いている記事はアシスタントのナレーション付きで紹介する。時に自分で製作した表を使ってその内容を詳しく解説することもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本コーナーは1999年7月頃に『親分は怒ってるんだぞ』と言う題名のコーナーでスタートし、程無くして現在の形態となった。当初は20分程度のコーナーであったが、好評だったために段々と時間が延ばされ、現在は40分程度となっている。前半で進行が遅れると後半の話題がカットされることがあり、その場合には中吊り風フリップに合った見出しの上に無地の紙が貼られて隠される。後半には日本ではあまり有名ではないスポーツ（[[ニュースポーツ]]）が取り上げられることが多く、例えば[[カバディ]]、[[ペタンク]]、[[スポーツチャンバラ]]といった競技から、変わった所では[[競技かるた]]をスポーツとして取り上げることもある（年明け最初の放送で、必ず競技かるたの[[名人・クイーン]]決定戦の模様を放送する&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、2013年の放送は、競技かるたを取り上げられなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;）。また、少年少女や高齢者のみで行われるスポーツ大会も後半で取り上げられる。これらについては勝敗に関係なく、参加した全員に対し健闘を称え「あっぱれ」をあげることが多い（極稀ではあるが、マナーの悪い小中学生がいた場合等は「喝」をつけることがある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年から、日本人メジャーリーガーはその週の結果によって、投手・野手関係無く成績の良かった選手には「エエジャー」(顔はピンクで笑顔)、反対に成績の悪かった日本人選手は「ダメジャー」(顔は青で罰顔)と言う称号で紹介する様になり、2010年からは良いとも悪いとも言えない場合の「どっちジャー」の称号も使用されている。しかし張本らのメジャーリーグ嫌いが影響してか、2011年にはコーナーで扱われることは減り、称号も使用されなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中西哲生出演時は[[サッカー]]に関する話題を中西が解説し、理論面からサポートする。その際に中西が「喝」「あっぱれ」を入れることがある。中西は本コーナーで2006年の[[2006 FIFAワールドカップ|ドイツワールドカップ]]での予想を求められた際には、「予選リーグで3連勝もあれば3連敗の可能性もある」というコメントをしており、実際に日本はグループリーグで1分2敗を喫して敗退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スポーツが専門である中西以外のコメンテーターも関口からコメントを求められたり、自主的に発言することもある。特に[[ラグビー]]の話題や出身校である[[早稲田大学]]関連の話題に関しては浅井慎平、[[横浜DeNAベイスターズ]]の話題に関しては浅井信雄、[[相撲]]の話題に関しては岸井成格、[[水泳]]や[[ゴルフ]]の話題に関しては大宅映子、[[卓球]]の話題に関しては佐高信、[[陸上競技]]の話題に関しては河野洋平と、その競技に縁のあるコメンテーターが発言し、「喝」「あっぱれ」の判定に影響を及ぼすこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
張本（かつては大沢も）が地方の仕事などでスタジオに来られない場合に、[[拡張現実|バーチャル]]出演することがある。この場合、地方のスタジオから出演している姿を、東京のスタジオの本来のポジションに合成する&amp;lt;ref&amp;gt;この技術は、同じTBSの番組である『[[情報7days ニュースキャスター]]』で[[橋下徹]]（大阪府知事時代）が[[毎日放送|MBS]]のスタジオから出演する際にも活用された。&amp;lt;/ref&amp;gt;。コーナー開始当初は大沢と張本のどちらかが出演できない場合に、TBS解説者である[[衣笠祥雄]]が出演することがあったが、その後はバーチャル出演もしくはどちらかのみの出演になった。ただし、2012年[[12月13日]]放送分は、張本が諸事情で欠席しバーチャル出演も行わなかったため、代理に[[大八木淳史]]と[[上原浩治]]の2人を招聘して本コーナーを進行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 張本は「喝」を、かつて出演していた大沢は「あっぱれ」をよく付ける傾向にあり、また関口が「喝」「あっぱれ」を付けるように2人に促す場合もある。&lt;br /&gt;
* 著しく不愉快なものや、[[スポーツマンシップ]]に反する行為については「大喝」をつける。&lt;br /&gt;
* プロ野球経験者ならではの視点で、特に野球に関しては素人から見れば「喝」をつけそうなネタでも、同情的なコメントをしたり、逆に称賛されるべきことに対して厳しいコメントをすることがある。&lt;br /&gt;
* プロ野球人気の低下を危惧しており、メジャーリーグの話題も「日本人選手のことが気になるだけで、別にどこが勝とうがどうでもいい」（大沢・張本両名は「メジャー嫌い」をこのコーナーで公言している）という発言や、TBSだけでなく他の在京キー局が[[プロ野球中継]]を削減していることに関して「なぜこんないい試合（＝[[クライマックス・シリーズ]]や国内のペナントレース）をテレビでやらないのか」とコメントしている。&lt;br /&gt;
* 野球に次いで積極的に発言するのはゴルフである（ゴルフの解説は[[小山武明]]が担当する。この際、小山は[[副調整室]]から出演し、関口が司会を務めていた『[[クイズ100人に聞きました]]』になぞらえて「屋根裏のゴルファー」と呼ばれる）。&lt;br /&gt;
*一方、サッカーについては、野球やゴルフほどクローズアップされない。過去に中西の[[DF]]のポジション取りの説明中に関口が「わけわかんないから、ゴルフにしてくれ!!」と強制的にゴルフ替えられることがある。サッカーでは、中西以外が「あっぱれ」「喝」をつけることは少ない。ただし、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の成績を示したフリップ（J1は18チームあるので縦長になる）を映す際、関口が「最後まで映りましたか?」と最下位チームの成績まで映ったかを必ず確認する配慮をしている。&lt;br /&gt;
* 大沢が[[日本プロ野球OBクラブ|全国野球振興会]]の元理事長で、振興会が設立に深く関わった[[プロ野球マスターズリーグ]]議長職を務めていたため、マスターズリーグ開催中はその試合内容を伝えることが多い。マスターズリーグが行われる冬季においては、コーナーの最後では懐かしの名選手の紹介を交えながら、マスターズリーグの珍プレー好プレー・開催予定のマスターズリーズの試合日程を伝えていた。&lt;br /&gt;
* 2005年12月に[[仰木彬]]の死去の際に関口が（生前の功績に対し）「“あっぱれ”をあげましょう」と発言したが、張本に発言の真意が伝わらず「亡くなっているのに“あっぱれ”はあげられません」と発言した。&lt;br /&gt;
* 通算安打の話題ではプロ野球記録保持者の張本の名前が上がる。また退場の話題では通算退場回数7回（生前歴代4位）の大沢の名前が必ず上がり、毎回笑いを呼ぶのが恒例だった。&lt;br /&gt;
* 2000年代中頃からは大沢がその1週間で中心になった人物に関する自作自演歌（多くは[[替え歌]]）を歌いながら登場するのがこのコーナーがスタートする時のお決まりになっていた。ただし、災害などの不幸事が起きた場合は自粛していた。大沢の死去後は、かつてのTBSスポーツ中継のテーマ曲「[[コバルトの空]]」で登場するようになった。&lt;br /&gt;
* このコーナーは『[[王様のブランチ]]』の「視聴率瞬間ランキング」にも毎週のように登場し、上位にランクする。&lt;br /&gt;
* プロ野球のハイライトでは実況音源がよく使われている。基本的にはテレビ放送からの中継音源だが、ラジオ放送から（TBS系列でのテレビでの中継放送がない時）の音源や、取材用に収録した音源が使われることもある（テレビ・ラジオ放送の音源はTBS系列局からの放送のみ使用）。ラジオの野球中継が[[Japan Radio Network|JRN]]（TBSテレビの兄弟会社・[[TBSラジオ&amp;amp;コミュニケーションズ|TBSラジオ]]がキー局）・[[全国ラジオネットワーク|NRN]]（[[ニッポン放送]]・[[文化放送]]がキー局）の[[クロスネット局|クロスネットになっている局]]（[[東北放送]]・[[MBSラジオ|毎日放送]]・[[中国放送]]）の音源も、ネットワークの担当曜日に係わらず使用しているため、NRNナイターとして放送された中継音声が流れることもある。ただし、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]主催試合はラジオも含めてTBSに放送権がないため（ヤクルト主催試合の放映権は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]にある）、実況音源なし、もしくは[[アフレコ]]実況となる（試合映像はフジテレビから提供）。2010年度からはTBSラジオでの土曜・日曜の野球中継が編成されなくなったため（ビジターチームの地元局向け[[裏送り]]は継続）、当該曜日の在京球団主催試合の音源がアフレコになるケースが増加している。&lt;br /&gt;
* プロ野球以外の一部のスポーツにもプロ野球同様のアフレコ実況が加えられている場合がある（Jリーグ、ラグビー、大相撲他）。&lt;br /&gt;
* 2010年5月23日放送分で、張本が途中降板した当時[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]投手の[[岩隈久志]]へ「エースとしてマウンドを守るべき」と「喝」を入れた。この際、出演者である[[江川紹子]]は「途中降板もありなのでは」という意見を述べた。放映中には口論にならなかったものの、両者の関係がこじれたため、後日TBS側は何度か両者と話し合いを行った。しかし解決に至らず、江川は6月20日放映分への出演自粛をTBSから求められたとツイッターで明らかにした。江川は今後の出演予定は未定としていた。その後江川はツイッター閲覧者からの「復帰しないのか」という質問に、「張本さんがお出になっている間、私の復帰はない、とのことです。数日前、正式に通告がありました」と回答。番組関係者は、「江川さんとは年間契約などをしているわけではない。コメンテーターとしての出演をお願いしないということです」と説明した。&lt;br /&gt;
* 大沢が死去した週の週末となる2010年10月10日放送分では番組冒頭からスタジオに大沢の写真を置き、御意見番コーナーでは約半分を「追悼 大沢親分」として大沢の野球人生や番組に関する思い出などを振り返った。その後、同年12月19日放送分の2010年墓碑銘でも、少しではあるが取り上げられた。&lt;br /&gt;
* 1年の最後にはその年1年のスポーツを振り返るコーナーとして「'''総喝スペシャル'''」が放送される。2006年にはナンバーワンの喝とその主役に「'''大喝グランプリ'''」が贈られた。&lt;br /&gt;
* 2008年の最後の放送では、大沢と張本それぞれが1年の間に印象に残った「喝」を取り上げた。&lt;br /&gt;
* 2009年の年末スペシャルでは、1年間放送されてきた喝のシーンを「あんな喝、こんな喝」と題して取り上げた。ちなみに、ゲストコメンテーター制になってからは、この1年間に放送された中から特に印象深かったものを取り上げ、該当する放送日に出演したゲストのエピソードも交えて振り返る。&lt;br /&gt;
* 「カツをいれる」という慣用句は、'''喝を入れる'''ではなく'''活を入れる'''という表現が正しい。2010年11月21日放送の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列『[[平成教育委員会]]』でこの問題が出題されたが、本コーナーの影響からか出演者の多くが「喝」と答えていて、[[ビートたけし|北野武]]も「大沢親分の喝」と発言しており、いかに本コーナーの影響力が大きいかというのを物語っている。&lt;br /&gt;
* 2001年に[[アメリカ同時多発テロ事件]]が発生した際は2週休止になった。2011年3月13日と20日は[[東北地方太平洋沖地震]]（[[東日本大震災]]）による番組内容の大幅変更でコーナー自体が休止し、27日から再開したが、「喝」「あっぱれ」という表現は行わなかった。&lt;br /&gt;
* TBSが株式を保有するプロ野球球団・横浜DeNA（前身・横浜ベイスターズ時代はTBSが親会社）の結果や話題を取り上げることが多い。また、2013年1月20日放送分では横浜DeNA監督の[[中畑清]]が助っ人ご意見番として出演した。&lt;br /&gt;
* 2013年9月8日は、(日本時間)同日早朝に2020年夏季オリンピック・パラリンピックの東京開催が決定したことから、番組冒頭は関連情報を放送し、そのつながりで、通常より15分ほど早い8時25分頃からコーナーが始まった。&lt;br /&gt;
2015年2月1日は後藤謙二が殺害された為休止になった&lt;br /&gt;
2015年11月8日は張本が女性と言いすぎた為喝と言われてしまった。ヤフー乗っていた。ヤフーに乗るのは珍しい。サンジャポはほぼ毎週乗っている。&lt;br /&gt;
2016年5月8日は張本が岡崎にあっぱれ言わずゴルフにあっぱれと言った。ヤフー乗っていた&lt;br /&gt;
2016年6月19日は張本がイチローにあっぱれ言った。ヤフー乗っていた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 一週間のニュース・週間天気 ===&lt;br /&gt;
開始以来続くコーナー。テーマ曲をBGMにして関口がその週の主なニュースを紹介し、コメンテーターに意見を求める。訃報も爽やかなテーマ曲が流れ続ける不謹慎な一幕もあった。現行では前半で取り上げなかった話題が中心。&lt;br /&gt;
* 一通りニュースを読み終わった後に関口による『カメラ外に出ます』という一言で映像がお天気カメラ（概ね[[横浜市|横浜]]または[[皇居]]、夏場や[[富士山]]がよく見える場合などは[[江の島]]）に切り替わり、それをバックに週間天気が表示され、スタジオからコメントが入れられ、その後次のコーナーに移る。2013年夏からは中継コーナーが長くなり、毎回首都圏各地の変わった場所を、カメラマンが手書きフリップを見せながら現地中継するようになった。&lt;br /&gt;
* 通常は前週の日曜から順番に取り上げていくが、2004年11月に発生した[[元千葉ロッテマリーンズ投手強盗殺人事件]]の際は最初に取り上げて、前コーナーからそのまま待機させていた大沢と張本にコメントを求めた。&lt;br /&gt;
* 週間天気は「風をよむ」のコーナーの登場とともに終了となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 風をよむ ===&lt;br /&gt;
ニュースよりも主に世相の動きを取り上げ、通行人のインタビューを織り交ぜながら、コメンテーターの見解を聞いていく。現代の世相をそぎ切りつつ、明日の日本、世界を展望する。&lt;br /&gt;
* 現在のタイトルになったのは2002年になってからで、2000年までは「ブリッジ21」、2001年は「breeze21」というタイトルで放送していた。コメンテーターが発言する時にBGMとして[[エンヤ]]の「Only Time」が流れていたが、2013年現在は[[2002]]の「First Daughter of the Moon」に代わっている 。&lt;br /&gt;
* 当日出演のコメンテーター全員が必ず指名されて発言する。毎回政治や外交の話題が殆どではあるが、サッカーが専門の中西などもコメントする。&lt;br /&gt;
* 2011年3月13日から休止され、代替企画として3月27日からは「考（こう）・震災」が放送されていたが、2012年3月18日から再開された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 今週の一枚 ===&lt;br /&gt;
番組のエンディングで行われ、CM前に一部分が隠された写真を見せ、CM明けに隠された部分をめくって紹介する。&lt;br /&gt;
*世相を反映したと思われる光景・現象の写真が多い。&lt;br /&gt;
*「風をよむ」が長引いた場合は中止される（この場合、最後にコメントする岸井の見解をCM明けにまわし、エンディングで岸井が見解を語る）。まれに、関口が写真を出そうとしたが、「あっ、時間がない?」と言って写真を下げる光景もある。かつては、[[中央競馬]]の主要GIレース（[[東京優駿|日本ダービー]]、[[有馬記念]]など）がある日にも中止して、出馬表を紹介していたこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ○○年墓碑銘 ===&lt;br /&gt;
通常放送の年内最終日限定のコーナーで「風をよむ」の代わりに行う。9:35頃、その年に亡くなった有名人・著名人を一気に紹介する。ただし、芸人は取り上げない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 終了したコーナー ==&lt;br /&gt;
;早わかり一週間&lt;br /&gt;
:番組冒頭で、一週間のニュースをコンパクトに振り返る。このコーナーが放送されていた時期は本コーナーを3分程度放送してからオープニングが放送されたが、番組開始直後とオープニング、MC挨拶の間にCMが入るやや変則的な構成になっていた。&lt;br /&gt;
;ニュースのその後&lt;br /&gt;
:世間を騒がせたニュースの現場の「その後」を、当時出演していた[[長岡杏子]]アナウンサーらが取材。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== テロップ捏造事件 ==&lt;br /&gt;
{{Main|石原発言捏造テロップ事件}}&lt;br /&gt;
2003年11月2日の放送で、当時東京都知事の[[石原慎太郎]]の「私は[[韓国併合|日韓合併]]を100%正当化する'''つもりはない'''が、（以下略）」という発言に「私は日韓合併を100%正当化する'''つもりだ'''」という正反対の[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]をつけ、音声・映像もテロップに合わせるように「…つもりは…」と切って編集し、放送した。コメンテーター達もその映像、[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]に沿って都知事を批判した。しかし一方では、後枠『[[サンデージャポン]]』では普通に「つもりはない」と、石原の発言を出していた（岸井成格はこの発言の翌日に石原と面会したと発言していたが、テロップミスに気付いていなかった）。翌週の番組内にこの放送に関しての謝罪があったが、あくまでも「テロップミス」に対する謝罪であり、意図的ともいえる編集、及びそれらに基づいてなされた都知事批判に対する謝罪はなかった。石原知事は告訴し、2004年12月14日、番組制作にかかわった[[プロデューサー]]ら4人が[[名誉毀損]]の疑いで[[書類送検]]されたが、その後刑事処分は不起訴となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後石原はTBSに相手に8000万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こしたが、2006年6月22日に東京地裁で和解が成立。TBSが誤報を認めて謝罪し、石原は賠償請求を放棄した（同年6月23日未明のNHKラジオニュースで放送し、TBSは『[[イブニング・ファイブ]]』が伝えた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
* 男性出演者は関口を筆頭に原則ノーネクタイ（冬季の場合はアスコットタイをする人もいる）などカジュアルな装いで出演する（大抵は[[背広]]・[[ブレザー]]に[[ワイシャツ]]。ただし浅井慎平のみ主に[[ジージャン]]、ご意見番の大沢のみ和装で出演）。ただし、事件・事故など緊急時になると関口は（場合によっては男性出演者全員）スーツ・ネクタイ姿になる。&lt;br /&gt;
** 大沢死後最初の放送となった2010年10月10日の放送では出演者全員が黒めの服装で出演。&lt;br /&gt;
** 2011年3月11日の[[東日本大震災]]発生直後となる3月13日放送分から4月24日放送分までの毎週および12月25日の年末スペシャル（『報道の日』の第1部）では、スーツ・ネクタイ姿。&lt;br /&gt;
** その東日本大震災による原発停止の影響で電力不足が懸念された2011年夏季の放送では、ほぼ全ての男性出演者が半袖シャツにネクタイ姿という、他のニュース番組より度合いが強いクールビズの装いに統一されていた（ただし、浅井慎平はここでもノーネクタイ）。&lt;br /&gt;
* ナレーションは女性アシスタントがスタジオで原稿を読む。時間が長くても[[ストレートニュース]]と構図は同じであり、芸能の話題はほとんど取り上げない（例外として、大物[[芸能人]]の死去や引退のニュースについては取り上げることもある）。ニュース、スポーツが内容の中心であり、政治や国際情勢に重きを置いている。&lt;br /&gt;
* 先述の2011年3月13日の放送では、東日本大震災関連の報道特番としてCMなしで11時30分まで延長放送された（詳細は[[Nスタ#特別編成|そちら]]を参照）。&lt;br /&gt;
* 番組中のテロップはTBS報道局の現行デザインではなく、1997年からのものを継続して使用し続けている（少なくとも『[[総力報道!THE NEWS]]』で一度デザインが変更されているので、それ以前のデザインであると思われる）。&lt;br /&gt;
* 1990年頃から女性リポーター専属事務所[[セント・フォース]]からもフリーアナウンサーを起用し始めている。1997年のリニューアル時に、報道局主導の制作に代わったことによりキャスター陣全てをTBSアナウンサーに代えた時期もある。現在、キャスターはTBSアナウンサーの[[佐藤渚]]以外、三桂とセント・フォース所属、レギュラーコメンテーター陣の一部が三桂所属とするスタイルに戻っている。&lt;br /&gt;
* [[東海地方|東海地区]]（[[中部日本放送]]）・[[近畿地方|関西地区]]（[[MBSテレビ|毎日放送]]）・[[北九州地区|北部九州地区]]（[[RKB毎日放送]]）では常時15%以上の高視聴率を得ている（週間視聴率ベスト10にランクインされることもしばしばである）。回によっては、20%以上得ることもある。&lt;br /&gt;
* [[湾岸戦争]]や[[イラク戦争]]に関しては、対話での解決よりも武力で国際紛争に介入するアメリカの姿勢を開戦当時から批判し、「爆撃の被害を受けたイラク」というスタンスで報道する。湾岸戦争終結後の1992年にはイラクでの現地取材を行い、アメリカが「[[化学兵器]]製造工場」だとして爆撃した施設を、「[[粉ミルク]]製造工場」であるとのイラクの主張に則って取材している。2008年現在、日本のテレビでイラク戦争に関する関心が遠のきつつある中、積極的に報道を続けている。&lt;br /&gt;
* [[大相撲]]が若貴フィーバーに湧いていた1991年、[[日本放送協会|NHK]]と[[テレビ朝日]]の『[[大相撲ダイジェスト]]』以外の番組は、1回の放映に原則1取組しか放映できなかったため、関口が「相撲協会さん、せめて2取組位放送させてください」と発言したところ、その年の夏場所の映像の配信を[[日本相撲協会]]から拒否されたことがあった。この配信拒否は本番組のみならず、TBSテレビの全番組に及んだ。&lt;br /&gt;
* 本番組内で天気ループを表示している地域は非常に少なく、現在では[[チューリップテレビ]]・[[北陸放送]]・[[山陽放送テレビ|山陽放送]]・[[あいテレビ]]・[[大分放送]]・[[琉球放送]]の6局のみである。&lt;br /&gt;
* 毎年[[4月]]上旬に『[[マスターズゴルフトーナメント|マスターズゴルフ]]』が生中継されるため、この時に限り8:30スタートになる。&lt;br /&gt;
* 本番組内で放映されるCMは高齢層を意識した内容のものが多い&amp;lt;ref&amp;gt;『[[日刊ゲンダイ]]』2011年9月2日付&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 本番組が生放送できない理由は、出演者に高齢層が多いことや、体調面を考慮しているためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==スタッフ==&lt;br /&gt;
*構成：平松邦宏、雀部俊毅、田中陽一、藤井誠、大野剛&lt;br /&gt;
*監修：上西研三郎&lt;br /&gt;
*ナレーション：[[鈴木麻里子]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*TD：瀬戸博之、山田賢司、依田純&lt;br /&gt;
*VE：姫野雅美、下山剛司、菅沼智博（菅沼→以前は、音声）、佐藤公幸&lt;br /&gt;
*音声：朝日拓郎、渡邊学、山田健吾、相馬敦&lt;br /&gt;
*照明：山本守&lt;br /&gt;
*カメラ：中村年正&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*美術制作：平原道夫&lt;br /&gt;
*美術プロデューサー：[[中西忠司]]&lt;br /&gt;
*フラワーアレンジ：中川雅子&lt;br /&gt;
*装置：西原武志（以前は、大道具操作）&lt;br /&gt;
*マルチ：小林篤（以前は、電飾）&lt;br /&gt;
*オブジェ製作：中島勘也&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*音響効果：[[アックス (会社)|アックス]]（2009年6月まで[[サウンズ・アート]]と表記）&lt;br /&gt;
*編集：[[エフエフ東放]]&lt;br /&gt;
*選曲：林章雄、山下博文&lt;br /&gt;
*音楽：[[三枝成彰]]&lt;br /&gt;
*TK：飛田亜也、岸田純子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*AD：戸所佑輔、杉浦慎一&lt;br /&gt;
*ディレクター：松井幸雄、原哲男、市来忠紀、田向玲子、塩飽達也、杉山拓、工藤和靖、吉田敦、大橋孝大、荒井正春、久我雄三、大槻悦子、重原由佳&lt;br /&gt;
*制作協力：[[東京ビデオセンター]]、ファーストハンド、[[メディア・バスターズ]]、[[泉放送制作]]、プロジェクトウィング、[[JOBX]]、81NEWS、Profit inc&lt;br /&gt;
*番組宣伝：樋口真佳&lt;br /&gt;
*協力：[[三桂|sankei]]（清水康三）&lt;br /&gt;
*チーフディレクター：出原宏明、金富隆&lt;br /&gt;
*アシスタントプロデューサー：橋本敏雄&lt;br /&gt;
*スポーツプロデューサー：松原健（以前は、ディレクター→チーフディレクター）&lt;br /&gt;
*番組プロデューサー：廣井紀年&lt;br /&gt;
*制作プロデューサー：西野哲史（2011年10月9日 - ）&lt;br /&gt;
*製作著作：TBS&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===過去のスタッフ===&lt;br /&gt;
*制作プロデューサー：日野桂文、向山明生（2010年4月4日 - 2011年10月2日）&lt;br /&gt;
*番組プロデューサー：鈴木宏友、赤坂知泰&lt;br /&gt;
*チーフディレクター：鮎澤毅、岡崎吉弘、石川豊、遠山友季、水口康成、本田三奈（本田→以前、番組宣伝）&lt;br /&gt;
*制作協力：C3、[[千代田ラフト]]、TRIM、幸喜、[[エフエフ東放]]&lt;br /&gt;
*ディレクター：深川隆司、中村有里、佐藤純一、遠藤靖、仙波幸英、本橋英明、進藤昭人、古橋大輔、飯村雅之、山瀧祥子、峠田浩、橋本梓、山本有人、近藤容一、八木仁士、溝口勝之、浦弘二、稲田博臣、片山薫、福永大輔&lt;br /&gt;
*番組宣伝：小池由起&lt;br /&gt;
*大道具製作：藤満達郎&lt;br /&gt;
*音響効果：アーツポート企画&lt;br /&gt;
*スーパーバイザー: 大橋巨泉&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ネット局 ==&lt;br /&gt;
[[Japan News Network|JNN]]各局で放送中。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 番組開始後に放送を開始または終了した局&lt;br /&gt;
** [[テレビユー山形]]（1989年10月の開局から）&lt;br /&gt;
** テレビユー富山（現：[[チューリップテレビ]]）（1990年10月の開局から）&lt;br /&gt;
** [[南海放送]]&amp;lt;ref&amp;gt;南海放送は『[[24時間テレビ「愛は地球を救う」]]』放送時も同番組を[[飛び降り (放送)|飛び降りて]]本番組を放送していた。&amp;lt;/ref&amp;gt;（[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列）伊予テレビ開局後も半年間継続（1987年10月から1993年3月まで）&lt;br /&gt;
** 伊予テレビ（現：[[あいテレビ]]）（1993年4月から）&lt;br /&gt;
*** [[愛媛県]]では番組スタートから南海放送（日本テレビ系列）でネットされた。1992年10月にTBS系新局として[[あいテレビ]]（当時の伊予テレビ）が開局してからも、[[スポンサー]]の都合で半年間南海放送でネットされていたが、1993年4月に伊予テレビに移行した。これはその当時、土曜朝に放送されていた『[[すてきな出逢い いい朝8時]]』でも同様だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 番組開始当初、後半30分を飛び降り放送していた局&lt;br /&gt;
** [[東北放送]]&lt;br /&gt;
** [[静岡放送]]（9:30からは自社制作のドキュメンタリー番組を放送していた）&lt;br /&gt;
** [[北陸放送]]&lt;br /&gt;
** [[毎日放送]]&lt;br /&gt;
** [[山陰放送]]&lt;br /&gt;
** [[テレビ高知]]&lt;br /&gt;
** [[琉球放送]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 1989年までの九州地区ブロックネット&amp;lt;ref&amp;gt;[[RKB毎日放送]]、[[長崎放送]]、[[熊本放送]]、[[大分放送]]、[[宮崎放送]]、[[南日本放送]]。&amp;lt;/ref&amp;gt;は『[[窓をあけて九州]]』の放送のため、9:30までの飛び降り放送となっていたが、後に『窓をあけて九州』が10:00に移動したため、フルネットで放送されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地上デジタル放送 ===&lt;br /&gt;
2006年6月までは、『[[みのもんたの朝ズバッ!]]』、『[[はなまるマーケット]]』と同じく、本番組を1080i方式の[[高精細度テレビジョン放送|HD放送]]で流している放送局は製作局のTBSのみで、地方ネット局の[[地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]では全て525i方式のSD放送（一部系列局は画角16:9のSD放送）となっていた。2006年6月4日深夜にNTT中継回線が完全にデジタル回線に切り替わり、以後は地方ネット局もHD放送となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* 琉球放送は、12月の第一日曜日に限り[[NAHAマラソン]]中継のため、午後からの時差放送。&lt;br /&gt;
* テレビユー福島は11月中旬の日曜に[[ふくしま駅伝]]を中継するため、9時半から時差放送。『[[サンデージャポン]]』は休止となる。&lt;br /&gt;
* 中国放送では8月6日が日曜と重なった場合（過去に1989年、1995年、2000年、2006年）には、原爆記念式典を生中継するために時差ネットとなる。2006年の場合は8:30 - 10:24であった。また、以前は「中国駅伝」（現在は終了）を生中継した際にも午後からの時差ネットとなっていた。&lt;br /&gt;
* 山陰放送は2000年9月24日にテレビ朝日系で放送された[[シドニーオリンピック]]女子マラソン中継放送のためこの回のみ13:00からの遅れ放送となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[水曜ノンフィクション]]（当番組と同じ制作スタッフ）&lt;br /&gt;
*[[ブロードキャスター]]&lt;br /&gt;
*[[スペースJ]]&lt;br /&gt;
ニューススター。2014年10月6日スタートの芸能スポーツの見出しが週刊ご意見番意識している&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.tbs.co.jp/sunday/ TBS「サンデーモーニング」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 前後番組 ==&lt;br /&gt;
{{前後番組&lt;br /&gt;
| 放送局=[[TBSテレビ|TBS]][[Japan News Network|系列]]&lt;br /&gt;
| 放送枠=[[日曜日|日曜]]8時台前半枠（1994年4月 - ）&lt;br /&gt;
| 番組名=関口宏のサンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;新サンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;サンデーモーニング&lt;br /&gt;
| 前番組=[[ふるさとニッポン]]&lt;br /&gt;
| 次番組=-----&amp;lt;!--[[]]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 2放送局=TBS系列&lt;br /&gt;
| 2放送枠=日曜8時台後半枠（1987年10月 - ）&lt;br /&gt;
| 2番組名=関口宏のサンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;新サンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;サンデーモーニング&lt;br /&gt;
| 2前番組=[[日曜放談]]&amp;lt;br /&amp;gt;【60分繰り上げて継続】&lt;br /&gt;
| 2次番組=-----&amp;lt;!--[[]]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 3放送局=TBS系列&lt;br /&gt;
| 3放送枠=日曜9時台前半枠（1987年10月 - ）&lt;br /&gt;
| 3番組名=関口宏のサンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;新サンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;サンデーモーニング&lt;br /&gt;
| 3前番組=[[兼高かおる世界の旅]]&amp;lt;br /&amp;gt;【60分繰り上げて継続】&lt;br /&gt;
| 3次番組=-----&amp;lt;!--[[]]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 4放送局=TBS&amp;lt;!--『関口宏のサンデーモーニング』時代に飛び降り局があったため、「系列」を入れないで下さい。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 4放送枠=日曜9:30 - 9:45枠（1987年10月 - ）&lt;br /&gt;
| 4番組名=関口宏のサンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;新サンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;サンデーモーニング&lt;br /&gt;
| 4前番組=[[世界の結婚式]]&amp;lt;br /&amp;gt;【土曜10:00に移動して継続】&lt;br /&gt;
| 4次番組=-----&amp;lt;!--[[]]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 5放送局=TBS&amp;lt;!--『関口宏のサンデーモーニング』時代に飛び降り局があったため、「系列」を入れないで下さい。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 5放送枠=日曜9:45 - 9:54枠（1987年10月 - ）&lt;br /&gt;
| 5番組名=関口宏のサンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;新サンデーモーニング&amp;lt;br /&amp;gt;↓&amp;lt;br /&amp;gt;サンデーモーニング&lt;br /&gt;
| 5前番組=[[YOU&amp;amp;遊]]&amp;lt;br /&amp;gt;※9:45 - 10:00&lt;br /&gt;
| 5次番組=-----&amp;lt;!--[[]]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;br /&gt;
{{TBSテレビ系列朝の番組}}&lt;br /&gt;
{{関口宏}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さんていもおにんく}}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:反日主義]]&lt;br /&gt;
[[Category:1987年のテレビ番組 (日本)]]&lt;br /&gt;
[[Category:TBSのニュース・報道番組]]&lt;br /&gt;
[[Category:TBSの情報・ワイドショー番組]]&lt;br /&gt;
[[Category:関口宏]]&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:左翼]]&lt;br /&gt;
{{Stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>男の娘</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8&amp;diff=353277</id>
		<title>Yourpedia:テストページ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8&amp;diff=353277"/>
				<updated>2018-04-06T14:00:57Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;男の娘: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&amp;lt;!-- ↓このコメントと以下のテンプレートは削除しないでください。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{これは消さないで下さい。 (サンドボックス)}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ここから下に書き込んで下さい。 --&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>男の娘</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2&amp;diff=353228</id>
		<title>大相撲</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2&amp;diff=353228"/>
				<updated>2018-04-05T06:06:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;男の娘: /* 伝統とそれによる問題点 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大相撲'''（おおずもう）は、[[日本相撲協会]]が主催する[[相撲]][[興行]]。主たる開催地である[[日本]]国内においても、その他の国においても一般に「相撲」と言えば大相撲を指すほど著名な競技興行である。東京での開催場所が'''[[両国国技館|国技館]]'''であるが、[[国技]]と言う[[法制度]]は日本にないため、特に国技と言うわけではない。詳しくは[[両国国技館|国技館]]や[[国技#日本の国技]]の項目でも述べているが、「自称・国技」のようなものである。ただし後述するように、相撲の歴史は非常に長く、天皇家との関わりも深いと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の[[江戸]]および[[大坂]]における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、[[大坂相撲]]の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の[[歴史]]について叙述する。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Somagahana Fuchiemon.jpg|right|thumb|280px|大小の[[刀]]を佩刀し[[武士]]と同じ待遇であった力士&amp;lt;ref&amp;gt;[[歌川国貞]]画：大判[[錦絵]]：杣ヶ花渕右エ門（そまがはな・ふちえもん）&amp;lt;/ref&amp;gt;]] &lt;br /&gt;
=== 江戸時代 ===&lt;br /&gt;
興行としての相撲が組織化されたのは、[[江戸時代]]の始め頃（17世紀）と言われている。しかし、浪人集団との結びつきが強いという理由で、[[1648年]]（[[正保]]4年）には幕府によって江戸における[[辻相撲禁止令]]が出された。その後、[[1684年]]（[[天和 (日本)|天和]]4年）、[[寺社奉行]]の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立が条件とされて、相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の[[雷 (相撲)|雷権太夫]]がいて、それが[[年寄名跡]]の創めともなった。この時の興行は江戸深川の[[富岡八幡宮]]境内で行われた。このとき、寺社奉行の管轄となったことで、江戸時代の間、興行は江戸市中の神社や寺院の境内で行われた。本所の[[回向院]]での開催が定着したのは、[[1833年]]（[[天保]]4年）のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『相撲傳書』によるとこの頃は[[土俵]]はなく「人方屋」という見物人が直径7～9[[メートル|m]]（4～5[[間]]）の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。[[寛文]]年間（17世紀半ば）には[[リング_(格闘技)|格闘技のリング]]のように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に[[延宝]]年間（1670年頃）に土俵の四隅に[[四神]]を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m（13[[尺]]）の丸い土俵が設けられた。[[享保]]年間（18世紀始め）に俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵（これは「蛇の目土俵」とも言う）となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は[[朝廷]]の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた[[番付]]も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では[[1757年]]（[[宝暦]]7年）のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。各地の相撲集団に所属する力士たちは薄給で酷使され、その実態は男の売春業だったとする説もある（[[日下公人]]「あと三年で、世界は江戸になる」ビジネス社、p.74）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし江戸相撲は、[[1789年]]（[[寛政]]元年11月）、司家の吉田追風から[[谷風梶之助_(2代)|二代目・谷風梶之助]]、[[小野川喜三郎]]への[[横綱]]免許を実現。さらに[[征夷大将軍]][[徳川家斉]]観戦の[[1791年]]（寛政3年[[6月11日_(旧暦)|6月11日]]）上覧相撲を成功させる&amp;lt;ref&amp;gt;*[http://ci.nii.ac.jp/naid/110001919260/ 「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[雷電爲右エ門|雷電爲右衞門]]の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行（大場所）も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1827年]]（[[文政]]10年）、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の[[吉田司家]]に認めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[幕末]]に「相撲VS[[レスリング]]」や「相撲VS[[ボクシング]]」の[[異種試合]]が行われた事がある。また、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海軍|海軍]]の[[マシュー・ペリー]]提督が[[黒船]]で来航した[[1853年]]（嘉永6年6月11日）に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1863年]]（[[文久]]3年[[6月3日_(旧暦)|6月3日]]）、大阪北新地で壬生浪士組（後の[[新選組]]）と死傷事件を起こしたのは大阪相撲の力士で死亡したのは中頭の[[熊川熊次郎]]（[[肥後国|肥後]]出身）であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の[[志士]]となったものもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
『日本の国技&amp;quot;相撲&amp;quot;の歴史と伝統』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校の時、ある授業で私が調べたものです。 &lt;br /&gt;
でもその時は授業時間が限られていたので満足に出来ませんでした。 &lt;br /&gt;
とりあえず調べていたものから載せていきます。 &lt;br /&gt;
そして時間をかけて満足出来るものを作ろうと思っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
序章 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
相撲が日本の国技と言われるようになったのは、明治42年（1909）に国技館が完成した際に、作家の江見水陰が開館式の案内状に書いた、『相撲は日本の国技である』というのがきっかけであるといわれている。 &lt;br /&gt;
『国技館』という名もこの文章を見た年寄が考えつき、採用されたのである。 &lt;br /&gt;
この命名が及ぼした影響は決定的で、その後の相撲は日本の国技としての地位を固めていく事になるのである。 &lt;br /&gt;
相撲が国技と言われるに相応しいのは、長い歴史と伝統があり、それらを守りつづけてきたからであろう。 &lt;br /&gt;
私は、小学校4年生のときから祖父や両親がテレビで相撲を見ていた影響で、相撲に興味を持った。その当時の私にとって、回しを締めただけの裸でぶつかる力士、髷を結っているその姿、土俵etc…　すべてが不思議なものだった。いかにも、現在の日本には合わなさそうな古くさいものが、何故こんなに人気を呼ぶのだろう。それが当時の私にはわからなかった。 &lt;br /&gt;
しかし、その長い歴史の中で、相撲は、人々に娯楽として楽しまれたり、感動を与えたり、多くの影響を与えてきたのである。 &lt;br /&gt;
そんな相撲の歴史と文化を、この機会に今までよりも深く理解し、そして現在の相撲のあり方を考えたい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1章：　『神話時代から続く日本の相撲』 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●神話の中の相撲 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今や『日本の国技』と言われる相撲。その歴史は長い。それは神話時代にまで遡る。 &lt;br /&gt;
決して現実にあった訳ではない、古代の人々が作り出した神話にまで相撲が登場してくるのだ。 &lt;br /&gt;
『古事記』には、天孫降臨の際、大国主命（おおくにぬしのみこと）が天照大神（あまてらすおおみかみ）に対し、出雲国を譲る事を拒んだために、天照大神が建御雷神（たけみかづちのかみ）を派遣したところ、大国主命の御子、建御名方神（たけみなかたのかみ）との力くらべで解決しようと申し出た、とある。 &lt;br /&gt;
この力くらべの方法は、互いに手を取り合い、投げ合う形で競技をするものであったと言われている。そして力くらべの結果、建御雷神が建御名方神を投げ飛ばして勝ち、出雲国を手にする事が出来たのだ。 &lt;br /&gt;
勝った建御雷神は鹿島神宮の祭神となり、武神として武術家やスポーツマンの信仰を集めている。一方、敗れた建御名方神は、長野県の諏訪に逃れて諏訪大社の祭神となった。同じく武神として祭られている。 &lt;br /&gt;
しかし、これらの話が現実にあったかというと、あくまで文献としてあるだけで、神話であるから、歴史上の確かな証拠とは言えない。 &lt;br /&gt;
日本の相撲史の始まりといわれるのは、『日本書紀』に書かれている、野見宿禰（のみのすくね）と当麻蹶速（たいまのけはや）の力くらべである。 &lt;br /&gt;
これは、垂仁天皇7年7月7日に行われたと記されている。垂仁天皇7年7月7日というこの日付けは、元々日本書紀が書かれたあたりは、七夕の頃に相撲を行う慣習があったため、このような特異な日の事実として日本書紀に登載しただけで、実際この日に行われた訳ではない。 &lt;br /&gt;
この当時の相撲は、現在の相撲からは想像できないくらいはるかに荒っぽく、乱暴で、何でもありという感じであった。土俵も無く、相手を殺すか降参させるまで闘い続けた。 &lt;br /&gt;
彼らの勝負は、両者とも足を上げて蹴り合い、抱え上げて投げ飛ばすなど、死闘を繰り返した末、宿禰が蹶速の肋骨を蹴折り、腰骨をも踏み砕いて殺し、勝利を手にしたという。 &lt;br /&gt;
奈良県桜井市穴師にある大兵主神社の庭が、その死闘の地と言われていて、神社の入り口には、『宿禰蹶速角力之跡』という標柱が建っている。 &lt;br /&gt;
勝った宿禰は相撲の始祖としてまつられている。宿禰と蹶速は郷士の家柄だと言われている。彼らの力くらべのほかにも、この時代には当時の天皇が時折力の強い郷士たちを集め、天覧相撲が行われていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●神事相撲 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天覧相撲とはまた別に、庶民の間でも、農耕儀礼として相撲が行われていた。近隣の村と比べどちらが豊作になるかを占う為、それぞれの村の力自慢を代表選手として送り出し、勝負をさせて、その結果によって豊凶を占った。そして豊作となったときは、神様に感謝の気持ちをこめて奉納相撲を行った。 &lt;br /&gt;
史実としては、奈良時代、神亀2年（725）の全国的な凶作のとき、聖武天皇が21の大社に勅使を送り込んで神の加護を祈念したところ、その翌年大豊作となり、その感謝を表すために各社の神前で奉納相撲を行ったという記録が残っている。 &lt;br /&gt;
このように、神様に占問して結果を求めるために行われた相撲を神事相撲といい、現在でも日本の各地で盛んに行われている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●相撲節会（すまいのせちえ） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
相撲節会とは、節会相撲ともいい、天候の温順と豊作を神様に祈るために諸国から有力な相撲人を宮中に集めて定期的に開催された1つの儀式だった。 &lt;br /&gt;
奈良時代に入ると、天皇家や貴族たちにも相撲は愛好されるようになった。聖武天皇は、神亀5年（728）に、諸国の郡司たちに対し、相撲人を貢進する旨を命令した。 &lt;br /&gt;
『勅して曰く、諸国郡司達よ、部下に騎、射、相撲及び膂力の優れた者があれば、速やかに王、公卿や大臣に献上せよ。もしこの命に反すれば、国司ならば位記を追奪し免職、郡司ならば先ず罰を加えてから免職にする。（意訳）』 &lt;br /&gt;
驚いた事に、命令に反すれば罰則を加えられるのだ。ここまでして何故相撲人を集めようとしたか。その頃には相撲は単なる遊びでだけではなく、武芸や軍事的なものとして取り扱われていたのではないだろうか。 &lt;br /&gt;
現にこの相撲節会に召し出された相撲人は諸国の防人だった。 &lt;br /&gt;
天平6年（734）7月7日に、七夕祭りの余興として天覧相撲が行われた。このとき行われたものが、相撲節会の端緒となった。 &lt;br /&gt;
天平年間に入ると、相撲は全国的に盛んになり、天皇家の貴族たちが宮廷で催すようになった。そして天平10年の七夕にも再び天覧相撲が行われた。 &lt;br /&gt;
相撲節会がさらに発展したのは、平安時代に入ってからだ。規模も以前より大きくなり、単なる余興ではなくなった。制度諸式も整えられた。 &lt;br /&gt;
弘仁年間（810～824年）には、相撲節会は宮中儀式の独立した儀式として行われるようになった。 &lt;br /&gt;
中国の唐の儀式を真似た中に相撲を取り入れたもので、猿楽の一団である舞楽、曲芸師、相撲係員などが、左右（今でいう東西）の相撲人34人を囲んで、およそ300人が楽の音と共に入場するという大変豪華なもので、天覧のもと、白砂の上で相撲を取り、勝負が一番終わるごとに勝ち力士側の雅楽が奏され、勝負の数を明らかにするために籌刺（かずさし）という役人が地上に矢を立てた。取組が全部終わると、この矢の合計数で左右どちらが勝ったかを決めていた。 &lt;br /&gt;
運営進行は、皇族、貴族など5位以上の高官達によって行われ、観戦できるのもそれら高官達だけだった。総監督である相撲司には、多くの場合、親王が任命され、歌人として有名な在原業平も任命された事があった。彼は相撲もなかなか強かったようだ。 &lt;br /&gt;
やがて武士が政権を握り、皇室、朝廷の力が衰えてくると、相撲節会は中断される事が多くなり、ついに、承安四年（1174）、高倉天皇の儀式を最後に廃絶してしまった。 &lt;br /&gt;
それにしても、300数十年にわたり催された宮中相撲は、現代の相撲においても大きな意味を持っている。相手を死に至らしめるような乱暴な技は禁じられ、相撲そのものが洗練され、今日の相撲の基本的な形態がこの時期に形成されたのであった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●武士政権時代の相撲　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎌倉時代に入り、武士が政権を握っていたが、相撲は武士の間で、心身の鍛練や戦闘に役立つ武術として盛んに行われるようになった。 &lt;br /&gt;
節会相撲末期には半ば職業化していた相撲人達は、武士として武将に仕え身を立て始めていた。一方で、故郷に帰った農民出身の相撲人達は、宮中の洗練された相撲の技と作法を教え、土地相撲を盛んにしていった。 &lt;br /&gt;
武士たちは相撲を武術化した一方で、娯楽としても楽しんでいた。酒宴の余興などに、力自慢の者同士で相撲を取るのが流行った。 &lt;br /&gt;
安元2年（1176）、源頼朝の前で河津三郎と俣野五郎の相撲が行われた。当時頼朝は伊豆に流されていたため、その退屈を慰めるために部下たちは、天城山中で狩猟を行い、酒宴を催した。その余興で相撲が行われたわけである。 &lt;br /&gt;
俣野五郎は力自慢で知られ、あっという間に21人を投げ飛ばしてしまった。それに河津三郎が挑んだ。熱戦の末に河津三郎が俣野五郎を投げ飛ばし、勝利した。 &lt;br /&gt;
しかし俣野五郎が仕える武将、工藤祐経はこの相撲を恨みに思い、部下を使って河津を暗殺してしまう。これがきっかけで、能や狂言、歌舞伎で有名な『曽我兄弟の仇討ち』へと発展するのである。 &lt;br /&gt;
この勝負で、河津が用いた技として、『河津掛け』という技が今も残っている。しかし、これは、実は俣野が河津にかけた技であったというのだ。 &lt;br /&gt;
それでは、何故『俣野掛け』ではなく『河津掛け』になってしまったのか。それは、江戸時代中期に普及した相撲四十八手に『蛙掛け（かわずがけ）』という技があり、どうやら芝居好きの江戸っ子が語呂合わせで『河津掛け』としゃれたのが真相のようだ。 &lt;br /&gt;
源頼朝は相撲好きだったようで、文治5年（1189）に相撲節会を真似た上覧相撲を鎌倉の鶴岡八幡宮で催し、その後もしばしば行ったことが『吾妻鏡』に記されている。その後の将軍も相撲を好んで奨励し、武家の間に相撲は完全に定着した。 &lt;br /&gt;
しかし鎌倉時代末期には上覧相撲もすたれ、支配階級の人々よりも、庶民や地方大名の間で相撲熱が高まっていった。 &lt;br /&gt;
室町時代には、庶民が経済力を持つようになってきたため、それまで神事相撲として農村で行われていた相撲が、都市の庶民の間でも娯楽として行われるようになったのだ。 &lt;br /&gt;
一方地方大名は相変わらず武術としての相撲を高く評価し、これを奨励していた。室町時代末期になると、セミプロの相撲人が各地で出現し、諸国への巡業が始まった。これは江戸の勧進相撲に繋がっていると言って良いだろう。 &lt;br /&gt;
戦国時代になると、地方大名によって相撲は武術としてますます愛好され、織田信長は特に大の相撲好きとしても名を知られている。 &lt;br /&gt;
彼は元亀元年（1570）から天正9年（1581）まで、多数の力士を集め、安土城などでたびたび上覧相撲を行ったことが『信長公記』に詳しく記録されている。 &lt;br /&gt;
彼は相撲大会の開催に際して色々細かい規則を定めたりし、より勝負を明確なものにしようとしていた事がうかがえる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●江戸時代の勧進相撲 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて戦乱も収まり、徳川家康が天下をとって政権が江戸に移されると、職を失った浪人者を交えた職業的力士集団が各地に発生し、大坂、京都、江戸をはじめとする都市部の盛り場で勧進相撲が盛んとなる。 &lt;br /&gt;
勧進相撲とは、寺社の建立や改修、橋の掛け替えなどの寄付金集めのために催す相撲大会の事である。現在、番付の中央上には『蒙御免（ごめんこうむる）』という文字が見られるのだが、これは勧進相撲の名残で、寺社奉行や町奉行から相撲興行の許可を得たという意味である。 &lt;br /&gt;
勧進相撲の歴史は古く、室町時代に始まったと言われている。当時は勧進のための田楽や猿楽が頻繁に行われており、そこに相撲が加わったのも当然の事であった。 &lt;br /&gt;
初期の勧進相撲は大坂や京都が中心で、江戸での興行の際には京阪相撲が下ってきていた。江戸で最初の勧進相撲は寛永元年（1624）、横綱の始祖である明石志賀之助（第2章参照）が四谷塩町の笹寺で行った晴天6日間の興行というのが通説である。しかし、明石志賀之助はその実在すら疑われている伝説の人物のため、この勧進相撲についてもはっきりした事は分からない。 &lt;br /&gt;
初めは、勧進という名の通り、寄進を勧めるための相撲興行であったが、次第にそうした目的から離れ、力士たち自身の生活のための営利的執行へと変わっていった。しかし、寺社奉行の許可を求める必要から、勧進相撲という名はそのまま使用された。そして結局昭和19年まではその名を通した。 &lt;br /&gt;
勧進相撲のほかにも、都市の盛り場では投げ銭目当ての辻相撲というのも頻繁に行われていた。 &lt;br /&gt;
相撲興行は、しばしばけんか騒ぎを起こし、風紀を乱すという理由から、たびたび弾圧を受けた。 &lt;br /&gt;
慶安元年（1648）から享保5年（1720）の間、幕府は数回にわたって相撲禁止令を出し、勧進相撲などを厳重に取り締まった。しかし、それでも庶民の相撲熱は衰えることなく、取り締まりの目を盗んでは、辻相撲が行われていた。 &lt;br /&gt;
おおっぴらに相撲が取れなくなった力士たちは、大名屋敷などに招かれ、相撲を見せるなどしていたが、やはり生活に困窮するようになった。困り果てた相撲集団は、その打開策として、けんかの原因になりやすい勝敗の決着を明確にするため、相撲作法（規則）を作り、四十八手の決め手を制定し、土俵を現在の形にするなどして興業としての形態を整え、相撲興行の許可を願い出た。 &lt;br /&gt;
そしてようやく貞享元年（1684）相撲集団を取り締まる責任者が町奉行に願い出て、公許勧進相撲の許可が取れるようになった。責任者のことを京阪では頭取、江戸では年寄といった。 &lt;br /&gt;
元禄時代（1688～1704）に入ると、有力な力士が数多く集まる京阪を中心として、勧進相撲が盛大に復興する。そして、番付が制度として成立したのもこの頃である。 &lt;br /&gt;
当時の番付は板にかかれたもので、盛り場の辻などに立てられていた。紙に刷られた番付が発行されたのは享保2年（1717）、京阪相撲でのことである。 &lt;br /&gt;
最初の番付は、東西それぞれの力士が別々に書かれた2枚組の横番付であった。現在のように縦1枚で東西に分けた番付が出来たのは江戸で、宝暦7年（1757）10月の冬場所からである。新興の江戸相撲が、依然として相撲の中心であった京阪に対しての対抗意識から新しいデザインの番付を考案したという。 &lt;br /&gt;
京阪相撲には、後援者として大商人がついていて、各地から数多くの力士を集め、実力と人気を兼ね備えた相撲集団を形成していた。それに対し江戸相撲というのは、京阪相撲に迎えてさえもらえない2流どころの力士の集団であった。 &lt;br /&gt;
しかし、江戸が大都市へと成長していくにしたがって、江戸相撲は関東を中心に東北地方の力士をも吸収し、次第に力をつけていく。 &lt;br /&gt;
宝暦、明和の頃（1751～72）になると、現在の相撲協会にあたる相撲会所の制度が整ってくる。興行や巡業の運営は全国的に組織化され、年功者の力士は、年寄となって新たな力士を養成する相撲部屋を経営するようになり、相撲は新たな発展の時代を迎えるのである。 &lt;br /&gt;
天明、寛政の頃（1781～1801）になると、相撲界の中心は京阪から江戸に移る。その理由としては、 &lt;br /&gt;
#江戸が首都としての機能を高め、人や富が多く集まるようになり、都市としての力をつけたこと。江戸相撲にも京阪相撲に負けないほどの後援者がつくようになり、力のある力士が集まるようになった。 &lt;br /&gt;
#力士を抱える大名の多くが江戸詰めとなり、京阪の相撲部屋の所属でありながら、江戸の年寄に弟子入りして江戸相撲に参加する事が可能になったという事。 &lt;br /&gt;
大名は、各藩内で職業力士を養成し、力のあるものには扶持を与えて抱え力士としたり、他国の名のある力士をスカウトするようになり、相撲興行のたびにお抱え力士を貸すというシステムをとるようになった。大名にとって強豪力士を多く抱える事がステータスシンボルとなったのである。 &lt;br /&gt;
江戸が相撲の中心となると、その組織も全国的なものになってくる。東西の力士の交流が盛んとなり、三役、幕内、幕下上位は江戸で春冬の各2回、京都大坂でも各2回ずつ定場所の土俵に上がるようになった。 &lt;br /&gt;
そして寛政の江戸相撲は谷風、小野川という強豪力士（第2章参照）の登場で黄金時代を迎える。彼らは、今日のように横綱免許（第2章参照）をもらった初の力士たちである。そして、その後も、相撲史上最強の力士と言われる雷電他、横綱も含め多くの力士たちが活躍した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●近代の相撲 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ペリー来航によって長い間の鎖国がとかれ、日本は明治維新が起こる。しかし、これは、古くからの歴史と伝統を受け継いできた相撲界にとっては、大変厳しいものになった。 &lt;br /&gt;
廃藩置県による大名の消滅で、それまで大名のお抱えとして、その庇護のもとで生活していた力士たちは、経済的な独立を図らなければならなくなった。明治維新によって不安な生活を送っていた人々は、とても相撲見物どころではなかった。 &lt;br /&gt;
明治2年（1869）3月、明治天皇が京都から江戸に移られるのに際し、京都の力士に錦旗奉持の命があった。そして、東京の力士たちは、品川高輪の大木戸までお迎えに出て、錦旗を引き継いで皇居までのさきがけの光栄をになった。 &lt;br /&gt;
このように相撲界は新政府に協力的だったにもかかわらず、西洋文明に習って近代国家への道を歩もうとしていた政府は相撲界にとって冷酷ともいえる態度をとった。文明開化の波は、相撲を江戸時代の旧弊とし、『相撲のような野蛮なものは禁止すべき』という記事が新聞に載る有様だった。しかも、明治4年（1871）8月には断髪令がだされ、力士の髷は、格好の攻撃目標となってしまった。 &lt;br /&gt;
しかし、相撲に理解のある高官によって、辛くも髷の伝統は守られた。それと、明治の元老と呼ばれる伊藤博文、黒田清隆、後藤象二郎、板垣退助といった大物政治家たちが、いずれも大変な相撲好きだったために、新政府から相撲禁止論が出てきたときも、彼らの弁護によって、相撲は生き残れたのである。 &lt;br /&gt;
その後、辛うじて年2回の相撲興行は催されていたものの、相撲は徐々に衰退の一途をたどり、経済的な不安に悩まされるようになった。しかし、その状態を打破しようとした男がいた。高砂浦五郎という男である。 &lt;br /&gt;
明治22年（1889）に東京相撲会所が東京大角力協会と名を変えたとき、協会取締役に就任。勝ち星による給金の増額、番付の明確化など、相撲規則を細目にわたって制定し、組織、制度を整備して、相撲を近代化させたのである。 &lt;br /&gt;
そして、組織、制度が整った相撲界が次に着手したのは、興行場の近代化であった。当時の相撲興行は、江戸時代から変わらない、小屋掛けの天幕張りで行われている晴天10日興行で、雨や雪が降ったり、強風が吹いたりすれば順延され、それが長引くようだと途中で打ち切りになるような状況だった。明治35年頃から雨が降っても相撲の行える相撲常設館を建設すべきであるとの声が上がってきていた。39年1月場所後から具体化し、5月には起工式が行われた。日本銀行本店や、東京駅などを設計した有名建築家辰野金吾博士による設計による、日本最初のドーム式円形建築であった。明治42年（1909）5月、3年の月日をかけてついに完成。6月2日には、皇族方、東京市長、両院議長、外国大使といったそうそうたる人々を迎えて開館式が華々しく行われた。 &lt;br /&gt;
国技館の完成によって、それまで晴天興行に限られていた本場所は天候を問わず開催されるようになり、3、4000人ほどだった収容人数は、一挙に13000人以上にまで増え、相撲は大衆のものとして不動の位置を確保した。 &lt;br /&gt;
大正時代に入ると、町に失業者があふれ、米騒動などが起きるような不安な世の中になっていった。そして、明治維新の頃のように人々はもはや相撲どころではなくなってしまった。明治後半には活況を呈していた相撲界は、再び衰退期に入ってしまい、学生相撲に人気を奪われるという事態にまで達した。そして大正12年（1923）9月1日の関東大震災によって国技館は全焼してしまった。 &lt;br /&gt;
力士の方は、昔は四つ相撲が得意だった力士が多かったのだが、この時代、突っ張り一発で相手をふっ飛ばした太刀山を初めとする、個性的なスピードのある相撲をとる力士が増えてきた。大正時代は、相撲そのものの近代化が行われたといってよいだろう。 &lt;br /&gt;
大正12年（1923）9月1日の関東大震災によって東京相撲は経営難に苦しんでいた。そこで持ち上がってきたのが同じく経営難に悩む大阪相撲との合併話だった。明治の末頃からそのような話は何度かあったが、そのたびに立ち消えとなっていたのだ。表向きは組織の体質の相違を理由としていたが、実際は、明治末に黄金時代を迎えていた東京相撲にとって、格下の大坂相撲と合併するなどありえないというのが本音であった。 &lt;br /&gt;
しかし、どん底にある以上、そんな事も言っていられなくなった。関東大震災の痛手から立ち直るための最後の手段として、大阪との合併を真剣に考えた。 &lt;br /&gt;
大正14年（1925）4月、東京協会は摂政宮殿下（後の昭和天皇）から下賜された金一封をもとに大坂造幣局に依頼して純銀製の優勝賜杯を作成する。この光栄を東京だけで独占するわけにはいかない。これを機に東西合併するべきではないかと大阪協会を説得し、同年7月、大阪において合併の調印が行われた。さらに、11月には、大日本相撲連盟協会を発足させ、合併番付編成のための東西連盟相撲が京都、大阪で開かれた。そして、昭和2年（1927）1月、財団法人大日本相撲協会が設立され、大相撲は新たな時代へと突入していくのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●戦前の相撲界 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和の初期は、江戸時代から続いてきたさまざまな制度が大きく変化した時期であった。 &lt;br /&gt;
昭和3年、ラジオ放送が開始され、これに伴い、限られた放送時間内に収めるために、これまで無制限だった仕切りに制限時間を設けた。幕内10分、十両7分、幕下5分と、現在の制限時間の倍以上あった。また、この年には、仕切り線の設定も行われた。 &lt;br /&gt;
昭和6年には、それまでの二重土俵を一重土俵に改め、土俵の直径を13尺（約4m）を15尺（約4.6m）に拡大し、土俵上の屋根を破風造りから、伊勢神宮と同じ神明作りに変えた。 &lt;br /&gt;
そして名力士も数多く登場した。昭和になって初めての横綱玉錦、そして、未だ破られていない69連勝という大記録を持つ大横綱双葉山などである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●戦後の相撲界 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年に日本がポツダム宣言を受け入れ終止符を打った太平洋戦争。 &lt;br /&gt;
この史上最悪の戦争は、相撲界にも大きな傷跡を残した。昭和20年（1945）3月10日の東京大空襲で、両国国技館は被災し、周辺にあった相撲部屋もことごとく焼失した。焼け野原となった東京を襲ったのが深刻な食料不足で、みな空腹を抱え途方にくれていた。徴兵された力士たちも戦地から帰ってきたものの、明け荷は失われ、相撲部屋は壊滅状態、そして何より食べ物が無かった。相撲協会は真剣に解散を検討していた。 &lt;br /&gt;
しかし、関係者の情熱が実を結び、同年11月には応急処置を施した国技館で秋場所を行う事が出来た。ひどい雨漏りのする状態で、国技館でありながら晴天10日間興行であった。 &lt;br /&gt;
しかし、やがて国技館は占領軍に接収されてメモリアルホールと名を変えた。土俵は外に追い出され、明治神宮外苑相撲場の露天土俵で2年、トタン張りの浜町仮設国技館で1年を過ごす事になる。25年、東京浅草蔵前にバラックの仮設国技館が出来る。29年9月には蔵前国技館が落成し、60年に両国の新国技館が出来るまでの間、戦後の相撲史を刻む事になる。 &lt;br /&gt;
そして協会は、双葉山の引退、プロ野球の人気によって先行きに不安を感じていた。その為観客動員のために様々な改革をおこなっていった。 &lt;br /&gt;
昭和22年に、それまでの東西対抗戦の取組から一門系統別総当たり制の取組に変わった。殊勲・技能・敢闘の3賞もこの年に設けられた。25年には横綱審議委員会が設置された。27年には43年ぶりに力士のぼりが復活し、弓取り式が毎日行われるようになった。土俵の四本柱が取り除かれ、房に変わったのもこの年である。 &lt;br /&gt;
場所数も、昭和28年からは年4場所、そのうち3月は大阪場所となった。32年からは11月の九州場所を加え年5場所となり、33年には7月の名古屋場所を加えて年6場所とし、今に至る。 &lt;br /&gt;
戦後、横綱は29人誕生した。そのなかで、『栃若時代』『柏鵬時代』『北玉時代』『輪湖時代』『千代の富士時代』と、数々の名勝負を残した横綱の時代がいくつも起こった。彼らと、それを支えてきた名脇役達によって相撲人気は空前のものとなったのだった。&lt;br /&gt;
//--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明治・大正時代 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Wrestling at Tokyo 1890s.jpg|thumb|240px|明治中頃]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hitachiyama Chicago 1907.jpg|thumb|200px|訪米中の常陸山]]&lt;br /&gt;
*[[明治維新]]と[[文明開化]]に伴い、[[1871年]]（明治4年）東京府のいわゆる「[[裸体禁止令]]」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「[[相撲禁止論]]」が浮上した事もある。これは、自らも相撲をとることの多かった明治天皇と、その意を受けた伊藤博文たちの尽力により、[[1884年]]（明治17年）に[[天覧相撲]]が実現し、大相撲が社会的に公認されることで危機を乗り越えることができた。この[[天覧相撲]]の力士は58連勝（史上3位）を記録した15代横綱[[梅ヶ谷藤太郎_(初代)|初代・梅ヶ谷藤太郎]]。&lt;br /&gt;
*東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。&lt;br /&gt;
*[[1890年]]（明治23年）に入幕から39連勝で大関に駆け上がった[[小錦八十吉 (初代)|初代・小錦八十吉]]と横綱免許を受けた大関[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代・西ノ海嘉治郎]]のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。&lt;br /&gt;
*この頃から映像が映され出し、[[小錦八十吉 (初代)|小錦]]や[[大砲万右エ門|大砲]]が映された貴重な映像（1900年撮影）が現存している。&lt;br /&gt;
*20世紀の変わり目の頃には、横綱[[常陸山谷右エ門]]（明治29年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ）と[[梅ヶ谷藤太郎_(2代)|二代目・梅ヶ谷藤太郎]]の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。&lt;br /&gt;
*[[1907年]]（明治40年）常陸山が渡米。本格的な日本国外への相撲の紹介の最初であった。&lt;br /&gt;
*[[1909年]]（明治42年）[[6月2日]]、初の常設相撲場となる[[両国国技館]]の落成。相撲が[[国技]]とされた。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。&lt;br /&gt;
**この時、東西制（後述）と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与された。&lt;br /&gt;
**時事新報社（現在は[[毎日新聞社]]）の[[優勝額]]贈呈により、現在の優勝制度が始まる。&lt;br /&gt;
**この時から、今までは幕内力士の出場がなかった[[千秋楽]]にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、[[1923年]]（大正12年）5月から11日間に増加した。&lt;br /&gt;
*1910年（明治43年）5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの[[裃]]、[[袴]]から[[烏帽子]]、[[直垂]]となった。&lt;br /&gt;
*[[1917年]]（大正6年）11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期[[靖国神社]]境内で本場所が行われたこともあった。&lt;br /&gt;
*[[栃木山守也|栃木山]]が登場し、スピード感のある近代相撲の原型を作る。&lt;br /&gt;
*興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。&lt;br /&gt;
**大阪相撲においては、[[1922年]]（大正11年）竜神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。&lt;br /&gt;
**東京相撲でも、[[1923年]]（大正12年）に[[三河島事件]]と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱[[大錦卯一郎]]が廃業する事件が起こる。&lt;br /&gt;
**1923年（大正12年）9月1日の[[関東大震災]]により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。&lt;br /&gt;
**[[1924年]]（大正13年）1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった。&lt;br /&gt;
*[[1925年]]（大正14年）、[[皇太子]]（[[昭和天皇|裕仁親王・後の昭和天皇]]）の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の[[天皇賜杯]]が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、[[1926年]]（大正15年）1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 昭和時代 ===&lt;br /&gt;
*[[1927年]]（昭和2年）、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月（両国）、3月（関西）、5月（両国）、10月（関西）の計4回：11日間で開催（1929年（昭和4年）は10月でなく9月）されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。（この時期の番付編成については[[能代潟錦作]]の項目参照）&lt;br /&gt;
*この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。[[1928年]]（昭和3年）から[[ラジオ]]中継が始まったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]・不戦敗制度の全面施行、[[物言い]]のついた相撲での[[預り (相撲)|預かり]]の廃止と[[取り直し]]制度の導入、二番後取り直しによる[[引分 (相撲)|引き分け]]の縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。&lt;br /&gt;
*[[1931年]]（昭和6年）4月の[[天覧相撲]]の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m（15尺）の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた[[勝負審判|勝負検査役]]を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。&lt;br /&gt;
*[[1932年]]（昭和7年）1月に起こった[[春秋園事件]]で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催（1月、5月）となった。&lt;br /&gt;
*69連勝を記録した[[双葉山定次|双葉山]]の影響で興行日数は[[1937年]]（昭和12年）5月場所より13日間となり、[[1939年]]（昭和14年）5月場所より15日間と移り変わる。&lt;br /&gt;
*戦争の影響が次第に相撲界にも及び、[[1944年]]（昭和19年）に両国国技館が[[大日本帝国陸軍]]に接収され、5月場所から本場所開催地を[[後楽園球場|小石川後楽園球場]]に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。[[1945年]]5月場所は晴天7日間、[[明治神宮外苑|神宮外苑]]相撲場（現[[明治神宮野球場|明治神宮第二球場]]）で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で[[傷痍軍人|傷痍将兵]]のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は[[春日野部屋]]で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。&lt;br /&gt;
*[[東京大空襲]]で両国国技館や相撲部屋を焼失。&lt;br /&gt;
*戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して[[連合国軍最高司令官総司令部]]（GHQ）に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年（昭和20年）9月に[[土俵]]を4.84m（16尺）と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所（11月：10日間）が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m（15尺）に戻された。1946年（昭和21年）に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所（13日間）が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、[[1947年]]（昭和22年）には[[明治神宮]]外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は[[1948年]]（昭和23年）の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年（昭和23年）の秋場所（10月：11日間）には、戦後初の大阪場所が[[大阪市]]福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]や[[三賞]]制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。&lt;br /&gt;
*[[1949年]]（昭和24年）になり[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の浜町公園内に仮設国技館（木造）を建設し、ようやく1月場所（13日間）を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館（[[蔵前国技館]]）も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となった。その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。&lt;br /&gt;
*[[1950年]]（昭和25年）から[[1952年]]（昭和27年）は、本場所（1月、5月、9月）各15日間行われた（ただし1952年（昭和27年）には大阪場所が行われず、全て東京での開催であった）。大阪場所は、1950年（昭和25年）の秋場所より開催地を[[阿倍野区]]に、[[1951年]]（昭和26年）の秋場所からは[[大阪市]]難波（現在の[[大阪府立体育会館]]のある場所）にそれぞれ変更し、仮設国技館が建築されたが、最終的には1953年（昭和28年）に仮設国技館を立替て、大阪灘波府立体育会館（旧大阪府立体育館：現在の府立体育館と同じ場所）を完成させた。同年3月に大阪場所を行い、以後3月場所は大阪場所を行うようになる。&lt;br /&gt;
*横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる[[横綱審議委員会]]が発足した。1957年には理事長に重要事項の建議を行える「運営審議会」も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。&lt;br /&gt;
*[[栃錦清隆|栃錦]]と[[若乃花幹士 (初代)|初代・若乃花]]の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。[[1957年]]（昭和32年）には11月場所（九州場所、[[福岡スポーツセンター]]）、[[1958年]]（昭和33年）には7月場所（名古屋場所、[[名古屋市金山体育館]]）を行うようになり、現在のような6場所（1月、3月、5月、7月、9月、11月）、15日間という体系になった。また、[[1965年]]（昭和40年）1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ{{CURRENTYEAR}}年現在に至っている。&lt;br /&gt;
*[[国会 (日本) |国会]]で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと（1957年4月、[[衆議院]][[文部科学委員会|文教委員会]]）を受けて、[[相撲茶屋]]制度の改革、月給制の導入、[[相撲教習所]]の設立などの改革がこの当時行われた。[[横綱審議委員会]]の内規もこの時期に充実した。また、1961年には[[年寄]]の停年制が実施された（「停年」の表記については後述）。1968年には役員選挙の制度を導入、また前頭・十両の枚数削減も実施した。&lt;br /&gt;
*全国的に[[テレビ]]が普及するに従い、[[日本放送協会|NHK]]の相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。&lt;br /&gt;
*[[1971年]]（昭和46年）に中学在学中の入門が禁止され、当時在籍していた中学生力士は、卒業まで東京場所の日曜日のみの出場となった。&lt;br /&gt;
*[[1972年]]（昭和47年）1月場所からは、[[公傷制度]]が導入された（[[2003年]]11月場所まで）。&lt;br /&gt;
*[[吉田司家]]が二度の[[不渡り]]を出したために、日本相撲協会と不仲になる。&lt;br /&gt;
*1965年（昭和40年）にはソ連、[[1973年]]（昭和48年）には中国、[[1981年]]（昭和56年）にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。&lt;br /&gt;
*[[1985年]]（昭和60年）1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 平成時代 ===&lt;br /&gt;
*若貴兄弟（[[貴乃花光司]]・[[花田勝|若乃花勝]]）の活躍により、一時相撲ブームが起こった（二人の名を取って'''若貴ブーム'''とも呼ばれた）。伯父が名横綱・[[若乃花幹士 (初代)|初代若乃花]]、父が名大関・[[貴ノ花健士|初代貴ノ花]]という血統が、オールドファンを呼び戻すとともに、貴乃花の精悍な風貌、若乃花の人好きのする童顔は、それまで相撲に興味のなかった層の女性ファンも獲得した。&lt;br /&gt;
*平成の大相撲の最大の特徴は、外国出身力士の活躍である。横綱[[千代の富士貢]]の引退が呼び水になったように生じた横綱不在、群雄割拠の中、まず[[KONISHIKI|小錦]]が抜け出した。彼は膝の故障をついに克服しきれず、史上初の外国出身横綱を逸したが、ハワイ出身の後輩、[[曙太郎|曙]]（現：[[プロレスラー]]）、[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]が共にこれを果たし、優勝も二桁10回以上を重ねた。平成1ケタ代後期から10年代初期にかけては、若貴兄弟らの[[二子山部屋]]勢対曙・武蔵丸のハワイ勢の様相を呈した。&lt;br /&gt;
*貴乃花は曙らを抑えて優勝22回を数え日本人力士の体面を保ったが、その引退と入れ違いのように外国出身力士の主流はモンゴル勢に移った。[[2006年]]（平成18年）3月場所では、優勝と三賞をすべてモンゴル勢で占めることになった。[[ブルガリア]]出身の[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]]や[[エストニア]]出身の[[把瑠都凱斗|把瑠都]]が大関に昇進するなど、旧東欧圏出身力士も目立ち始めた。2006年1月場所の[[栃東大裕|栃東]]を最後に、日本人力士による幕内最高優勝は達成されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Dohyo.png|200px|thumb|土俵と各配置（行司・力士・勝負審判・控え力士・力水・塩）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本場所と地方巡業==&lt;br /&gt;
プロ興行としての大相撲では、公式戦（技量を査定し、待遇（地位と給与）を決める性質がある）である[[本場所]]は年間6回行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本場所のない時期には、地方巡業を行う。本場所の回数の少なかった時代には、各部屋や[[一門 (相撲)|一門]]別に巡業をしていたが、年間6場所制が確立した以後は、協会が管理して行われるようになった。この巡業での収入が、協会や各部屋にとっても大きな位置を占めていたので、明治から大正・昭和初期にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分の明朗化がスローガンとして掲げられることが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地方巡業は、各地の興行を希望する〈勧進元〉と呼ばれる人たちが協会に巡業開催の契約金を支払い、興行権を譲り受ける形（売り興行）で長年行われてきた。しかし1995年の巡業改革により、当時の[[佐田の山晋松|境川理事長]]の下で勧進元主催から協会の自主興行に変更された。ところが地方巡業は1992年の年間94日間をピークに減少を続け、ついに2005年には1958年（昭和33年）以降最小の15日間までに落ち込んだ。そのため、[[北の湖敏満|北の湖理事長]]の下で再び勧進元形態に戻すことになった。2006年に再開された海外巡業についても、地方巡業の増加対策と並ぶ巡業改革の一環となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地方巡業における各地の相撲ファンとの接触は、相撲の全国の普及に力を発揮している。かつては巡業で現地の有望な青年を入門させ、そのまま巡業に帯同させて、帰京して初土俵をふませたケースも多くあり、夏休み終了後の9月場所の初土俵力士にはそういうケースが目立っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本場所一覧 ===&lt;br /&gt;
{{main|本場所}}&lt;br /&gt;
{{CURRENTYEAR}}年現在&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!開催月!!正式名称!!通称!!開催場所&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1月||一月場所||初場所||[[両国国技館]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3月||三月場所||春場所||[[大阪府立体育会館]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5月||五月場所||夏場所||両国国技館&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月||七月場所||名古屋場所||[[愛知県体育館]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9月||九月場所||秋場所||両国国技館&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11月||十一月場所||九州場所||[[福岡国際センター]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 花相撲 ===&lt;br /&gt;
{{main|花相撲}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 海外公演 ===&lt;br /&gt;
海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!回数!!開催年月!!名　称!!都　市!!備　考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第1回||1965年7月-8月||{{flagicon|URS}}[[ソビエト連邦|ソ連]]公演||[[モスクワ]]、[[ハバロフスク]]||日ソ復交調印10周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第2回||1973年4月||{{flagicon|CHN}}[[中国]]公演||[[北京市|北京]]、[[上海市|上海]]||[[日中国交正常化]]記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第3回||1981年6月||{{flagicon|MEX}}[[メキシコ]]公演||[[メキシコシティ]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第4回||1985年6月||{{flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国|アメリカ]]公演||[[ニューヨーク]]||東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第5回||1986年10月||{{flagicon|FRA}} [[パリ]]公演||パリ||東京パリ友好都市提携5周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第6回||1990年6月||{{flagicon|BRA}}[[ブラジル]]公演||[[サンパウロ市|サンパウロ]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第7回||1991年10月||{{flagicon|UK}} [[ロンドン]]公演||ロンドン||日英協会設立100周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第8回||1995年10月||{{flagicon|AUT}} {{flagicon|FRA}} ヨーロッパ公演||[[ウィーン]]、パリ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第9回||1997年6月||{{flagicon|AUS}}[[オーストラリア]]公演||[[メルボルン]]、[[シドニー]]||日豪外交100周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第10回||1998年6月||{{flagicon|CAN}}[[カナダ]]公演||[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第11回||2004年2月||{{flagicon|KOR}}[[韓国]]公演||[[ソウル特別市|ソウル]]、[[釜山広域市|釜山]]||日韓共同未来プロジェクト&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第12回||2004年6月||{{flagicon|CHN}}中国公演||北京、上海||日中定期航空路線開設30周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第13回||2005年10月||{{flagicon|USA}} [[ラスベガス]]公演||ラスベガス||ラスベガス市制100周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第14回||2009年10月(中止)||{{flagicon|UK}} ロンドン公演||ロンドン||世界的な不況により中止&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===海外巡業===&lt;br /&gt;
協会とは別に主催者となる地元の興行主（勧進元）がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、[[満州]]をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、[[国際連盟]]の[[委任統治]]領であった[[南洋群島]]に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後は[[ハワイ]]巡業がしばしば行われ、そこでスカウトされたジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルア青年が[[高見山大五郎]]の四股名で関脇にまで昇進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!回数!!開催年月!!名称!!都市!!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第1回||1962年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||[[ホノルル]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第2回||1964年2月||{{flagicon|USA}} ハワイ、ロサンゼルス巡業||ホノルル、[[ロサンゼルス]]||[[角界拳銃密輸事件]]が起こる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第3回||1966年||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第4回||1970年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第5回||1972年2月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第6回||1974年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第7回||1976年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ、ロサンゼルス巡業||ホノルル、ロサンゼルス||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第8回||1981年6月||{{flagicon|USA}} アメリカ巡業||[[サンノゼ]]、ロサンゼルス||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第9回||1992年6月||{{flagicon|ESP}} [[スペイン]]、{{flagicon|GER}} [[ドイツ]]巡業||[[マドリード]]、[[デュッセルドルフ]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第10回||1993年2月||{{flagicon|HKG}} 香港巡業||[[香港]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第11回||1993年6月||{{flagicon|USA}} アメリカ巡業||ホノルル、サンノゼ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第12回||2006年8月||{{flagicon|Taiwan}} [[台湾]]巡業||[[台北市|台北]]||13年ぶりに海外巡業が復活&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第13回||2007年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||14年ぶりのハワイ巡業&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第14回||2008年6月||{{flagicon|USA}} ロサンゼルス巡業||ロサンゼルス||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第15回||2008年8月||{{flagicon|Mongolia}} [[モンゴル]]巡業||[[ウランバートル]]||&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 番付と取組 ==&lt;br /&gt;
大相撲では、成績などを考慮して大きく2つ、小さくは6つのクラスに分けられ、このクラス内で対戦をするのが基本である。クラス内の地位は「[[番付]]」と呼ばれる順位表で示される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上位リーグは[[幕内]]と[[十両]]（十枚目）からなり、いわゆる[[関取]]と呼ばれるクラスの力士で構成される。その中でも最上位リーグに位置するのが'''幕内'''であり、番付上位から[[横綱]]・[[大関]]・[[関脇]]・[[小結]]・[[前頭]]の順位となる。[[三役]]とは小結以上を指し、前頭は「平幕」と呼ぶことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[本場所]]の[[取組]]は、日曜日から翌々週の日曜日までの1場所15日間で行われる。最初の日を「[[初日]]（しょにち）」、8日目を「[[中日]]（なかび）」、最終日を「[[千秋楽]]（せんしゅうらく）」と呼ぶ。幕内の取組は、幕内力士[[土俵入り]]、[[横綱土俵入り]]の後、16:15頃（以下[[日本標準時|日本時間]]）から行われ、千秋楽を除き大体18:00前後に全取組が終了する（[[大相撲中継]]に合わせるため）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一日の取組のうち、幕内以後を「[[中入]]」と呼び（ニュースのスポーツコーナーで報じられる結果は全てここから）、最後の取組を「結び（の一番）」と呼ぶ。また、全取組終了後に[[弓取式]]が行われ、これが終わった時点で「打出し」としてその日の日程は終了する。また、千秋楽に限り、残り3番となったところで、取組を控えた6人の力士が東西それぞれ3人ずつ土俵に上がり揃い踏みを行う。これを「[[これより三役]]」と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕内に続く上位リーグが'''十両'''で、15:00頃から15:50頃にかけて取組が行われる。下位リーグは、上位から[[幕下]]、[[三段目]]、[[序二段]]、[[序ノ口]]となっており、序ノ口には新規入門力士が多く登場する。関取を目指そうと、9:00頃から始まり15:00頃まで取組が行われる。さらに序ノ口の取組前には、番付にも載らない入門したての力士たちによる[[前相撲]]が行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 部屋別総当たり制 ===&lt;br /&gt;
幕内と十両では1場所で1人15番、幕下以下は1人7番の[[取組]]を行い、勝利数で優勝者を決める。勝利数が同じ場合は[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を行う。リーグは総当たり制ではなく、本割（ほんわり、正規の対戦）では同じ部屋に所属する力士同士は対戦しない。これは'''部屋別総当たり制'''と呼ばれる。部屋が違っても実の兄弟同士のおよび実の叔父甥の関係の取組は組まれないのが不文律であったが、[[2009年]]（[[平成]]21年）1月29日の理事会において4[[親等]]以内の力士同士での本割取組を行わないことを決定し、取組編成要領に明文化されることになった。なお優勝決定戦においては現行通り、4親等以内でも対戦させる。場所中の取組で白星（勝利）を多く重ねてくると、下位であっても終盤の対戦相手に上位の力士を割り当てられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
力士が本場所の取組で過半数（十両以上は8日、幕下以下は4日）勝つことを「[[勝ち越し]]」、これに満たないことを「[[負け越し]]」という。次の場所では勝ち越した力士の番付が上がり、負け越した力士の番付が下がる。ただし、横綱・大関は最上位の番付であるため昇進には厳しい条件がつけられているほか、横綱に降格はなく、大関の降格も2場所連続負け越しの場合に限られる（大関が負け越して翌場所陥落の可能性があることを[[角番]]という）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十両と幕下以下では[[#力士の待遇|力士の待遇]]で示すとおり大きく待遇が異なるため、幕下上位の取組や十両下位力士と幕下との取組では熾烈なものとなる。好角家にはこれらの取組を楽しみにしているものも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===東西制と系統別総当たり制===&lt;br /&gt;
番付には、東と西という区別がある。江戸時代から明治時代にかけては、東と西に分けられており、番付の昇降も東西それぞれで行われ、東西の同じ側同士の対戦はなかった。また、東と西との2枚の番付を作っていた大坂相撲とは違って、東西を1枚にまとめた江戸相撲では、東が右側に配置されていたが、最初は東西の間に優劣はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1890年]]（明治23年）5月に、横綱免許を受けていた大関・[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代西ノ海嘉治郎]]が[[張出]]大関にさせられることに抗議した結果、番付上に初めて〈横綱〉が明記されたとき、東に張り出されたことから、横綱を東方におくようになったことで、東が優位という印象が明確になっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1909年]]（明治42年）の夏場所に、国技館が開館したときに、幕内に団体優勝制度ができた。番付の東と西とで対抗戦をして、勝ち星の多いほうに優勝旗を授与し、翌場所の番付を東に配置することにしたのである。これを'''[[東西制]]'''と呼んだ。優勝旗は勝った側の関脇以下の幕内力士のうち最優秀の成績をあげた者が[[優勝旗手]]の栄誉を得ることと決められた。これは好評を呼び、当時の好角家の間でも、〈出羽海びいき〉〈連合（非出羽方）びいき〉という区別もできた。ただし、東西の戦力バランスの関係や、横綱が片方に偏らないように、ときどき東西の組み替えも行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、このシステムは幕内だけで、十両以下に関しては系統別総当たり制で東西の区別もなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1932年]]（昭和7年）の[[春秋園事件]]の結果、脱退者が多く、幕内力士の人数が少なくなったために、春場所から東西制を中止し、[[一門 (相撲)|一門]]による'''[[系統別総当たり制]]'''を幕内でも実施するようになった。しかし、[[出羽海部屋]]の幕内力士が増加し、公平な取組をつくることが難しくなったので、1940年（昭和15年）1月場所から、ふたたび東西制にもどし、団体優勝と旗手の制度を復活させた。しかし、それでも東西のバランスをとることはむずかしく、配置換えも何度もおこなわれ、[[伊勢ヶ濱部屋]]や[[朝日山部屋]]の力士が東西に振り分けられることさえあった。（もちろん同部屋の力士同士の対戦はなかった）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、大相撲の人気回復のために、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]や[[三賞]]制度を導入すると同時に、取組の多様化を進めるために、[[1947年]]（昭和22年）11月場所から、系統別総当たり制に戻した。しかし、[[立浪部屋]]と[[時津風部屋]]が一門としては別なのに、師匠同士が兄弟弟子（[[羽黒山政司]]と[[双葉山]]）というだけの関係で対戦がないことや、[[二所ノ関部屋|二所ノ関]]一門が次々と分離独立していったことから、再び取組が硬直化して不公平感が生じてきたので、[[1965年]]（昭和40年）1月場所から、完全な'''部屋別総当たり制'''を実施し、現在に至っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成時代初期に、[[二子山部屋]]や[[武蔵川部屋]]の幕内力士が上位に集中したことから、個人別総当たり制が話題になったこともあったが、養成員（幕下以下の力士）時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりから考えると、個人別総当たり制の実現は今後もまず不可能であると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 力士の条件と待遇 ==&lt;br /&gt;
=== 力士の条件 ===&lt;br /&gt;
{{main|新弟子検査}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 力士の報酬 ===&lt;br /&gt;
大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する[[力士褒賞金]]（給金）と、いわゆる2階建てになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
!項目!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|月額給与||282万0,000||234万7,000||169万0,000||130万9,000||103万6,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|年額給与||3,384万0,000||2,816万4,000||2,028万0,000||1,570万8,000||1,243万2,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|年額賞与||564万0,000||469万4,000||338万0,000||261万8,000||207万2,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|特別手当||120万0,000||90万0,000||30万0,000||　||　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|出張手当||115万5,000||99万7,000||85万0,000||74万5,000||68万2,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|力士補助金||7万5,000||7万5,000||7万5,000||7万5,000||7万5,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|力士褒賞金||60万0,000||40万0,000||24万0,000||24万0,000||16万0,000&lt;br /&gt;
|- bgcolor=&amp;quot;yellow&amp;quot;&lt;br /&gt;
|align=center|年額報酬||4,551万0,000||3,723万0,000||2,632万5,000||2,058万6,000||1,622万1,000&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
*力士褒賞金は、本場所ごとの最低支給金額（年額報酬では6場所分で計算）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 給与 ====&lt;br /&gt;
十両以上の力士には、次の通りの金額が月額給与として支給される。支給単位は本場所ごとになっているため、11月場所で十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。このため、幕下陥落が確実になり引退の意思を表明した力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付発表後まで遅らせ、番付に名を残すケースも多い。&lt;br /&gt;
*横綱：282万0000円&lt;br /&gt;
*大関：234万7000円&lt;br /&gt;
*三役：169万3000円&lt;br /&gt;
*平幕：130万9000円&lt;br /&gt;
*&amp;lt;!--十枚目（--&amp;gt;十両&amp;lt;!--）--&amp;gt;：103万6000円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 賞与 ====&lt;br /&gt;
賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本場所特別手当 ====&lt;br /&gt;
本場所特別手当は、三役以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日～10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休（不戦敗も含む）の場合は支給されない。&lt;br /&gt;
*横綱：20万0000円&lt;br /&gt;
*大関：15万0000円&lt;br /&gt;
*三役：  5万0000円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 出張手当 ====&lt;br /&gt;
出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分支給される。&lt;br /&gt;
*横綱：宿泊費8000円、日当3000円&lt;br /&gt;
*大関：宿泊費7500円、日当2000円&lt;br /&gt;
*三役：宿泊費6500円、日当1600円&lt;br /&gt;
*平幕：宿泊費5700円、日当1400円&lt;br /&gt;
*&amp;lt;!--十枚目（--&amp;gt;十両&amp;lt;!--）--&amp;gt;：宿泊費5300円、日当1200円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 力士補助金 ====&lt;br /&gt;
力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。&lt;br /&gt;
*横綱から十枚目（十両）まで：一律2万5000円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 力士褒賞金 ====&lt;br /&gt;
{{main|力士褒賞金}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 力士養成員の報酬 ===&lt;br /&gt;
幕下以下は「[[力士養成員]]」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されない。次の通りの金額が場所手当として本場所ごとに年6回支給される。&lt;br /&gt;
*幕下：15万円&lt;br /&gt;
*三段目：10万円&lt;br /&gt;
*序二段：8万円&lt;br /&gt;
*序ノ口：7万円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
!項目!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|場所手当||150,000||100,000|| 80,000|| 70,000&lt;br /&gt;
|- bgcolor=&amp;quot;yellow&amp;quot;&lt;br /&gt;
|align=center|年額報酬||900,000||600,000||480,000||420,000&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また本場所の成績により、次の通りの奨励金が支給される。&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
!項目!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|勝星奨励金||2,500||2,000||1,500||1,500&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|勝越金||6,000||4,500||3,500||3,500&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋で出来る（費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている）うえに、共同の食事である「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 懸賞金 ===&lt;br /&gt;
[[懸賞 (相撲)]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 力士の退職金 ===&lt;br /&gt;
十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金（いわゆる一般功労金）が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 養老金 ====&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|資格者||15,000,000||10,000,000||7,630,000||7,630,000||4,750,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|非資格者||--||--||7,630,000||4,750,000+（勤続場所数-1）×120,000||1,150,000+（勤続場所数-1）×150,000&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 勤続加算金 ====&lt;br /&gt;
番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の（　）内の数字は、非資格者。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|横綱||500,000||400,000||250,000||200,000||150,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|大関||--||400,000||250,000||200,000||150,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|三役||--||--||250,000||200,000 (150,000)||150,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|平幕||--||--||--||200,000 (150,000)||150,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|十両||--||--||--||--||150,000&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====特別功労金====&lt;br /&gt;
[[横綱]]･[[大関]]には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から[[個人情報保護法]]が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては'''[[公益法人]]'''たる財団法人[[日本相撲協会]]の方針として不適切であるとの意見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 力士の待遇 ===&lt;br /&gt;
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!地位!!幕内!!十両!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 髷&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[大銀杏]]&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|[[丁髷]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 服&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|紋付羽織袴&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|着物・羽織（外套・襟巻も着用可）&lt;br /&gt;
| 着物・羽織&lt;br /&gt;
| 着物（浴衣もしくはウール）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 帯&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;3&amp;quot;|[[博多織|博多帯]]&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;3&amp;quot;|[[銅アンモニアレーヨン|ベンベルグ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 履物&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|足袋に雪駄&lt;br /&gt;
| 足袋に雪駄（エナメル製）&lt;br /&gt;
| 素足に雪駄（エナメル製）&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|素足に下駄&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 稽古廻し&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|白色・木綿&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|黒色・木綿&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 取り廻し&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[博多織]]繻子&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|黒色・木綿&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 下がり&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|取り廻しの共布&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|紐&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 足袋の色&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|白&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|黒&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! &amp;lt;span style=&amp;quot;white-space:nowrap;&amp;quot;&amp;gt;控えの敷物&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 私物の座布団（色は自由）&lt;br /&gt;
| 共用の座布団（紫）&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|共用（畳）&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
このほかにも以下のような違いがある。&lt;br /&gt;
;三役以上の力士&lt;br /&gt;
*初日と千秋楽に行われる協会挨拶で理事長と共に土俵に上がる。&lt;br /&gt;
;幕内以上の力士&lt;br /&gt;
*横綱土俵入りで露払いや太刀持ちを務めることができる。&lt;br /&gt;
;十両以上の力士&lt;br /&gt;
*[[力士会]]に参加できる。&lt;br /&gt;
*幕下以下の力士が付け人として付く（地位が上がるほど人数も増える）。ちゃんこ作り、掃除、買出しなどの部屋の雑用も原則免除。&lt;br /&gt;
*相撲部屋において個室が与えられるか、別居が許される（幕下以下の力士は、共同の部屋で寝起きする）。&lt;br /&gt;
*起床時間など生活の自由度が飛躍的に増す。&lt;br /&gt;
*巡業・本場所などの興行で自分の名前が入った[[幟]]を立てることができる（一般に後援会から寄贈される事が多い）。&lt;br /&gt;
*化粧回しを締めて[[土俵入り]]を行う（十両と幕内は別に行われる）。&lt;br /&gt;
*支度部屋に[[明け荷]]を持ち込むことができる（横綱は3個、横綱以外は1個）。&lt;br /&gt;
*取組では、力水、力紙、塩を使用する（幕下上位の取組の場合で、進行が早い場合は塩を使用することがある）。&lt;br /&gt;
*一人前の力士の敬称である「関取」「＊＊関」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
*優勝力士に頼まれて優勝旗を持ち、優勝力士と一緒にオープンカーに乗って優勝行進できる。&lt;br /&gt;
なお、幕下以下の力士養成員でも本場所で十両力士と対する場合や弓取り式を行う者、[[初っ切り]]、甚句、断髪式の時は大銀杏が結える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 待遇の歴史 ===&lt;br /&gt;
歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。[[江戸時代]]には本場所の興行収入は一部の[[年寄]]たち（江戸相撲会所。現在の[[日本相撲協会]]の先祖）によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三役力士ともなれば、大名家から[[抱え (相撲)|お抱え]]とされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主（勧進元）から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていたが、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。もちろん、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うにこまるまで困窮する力士も少なかったが、本場所で「星を売る」、いわゆる[[八百長]]行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている（名指しされた者が認めるわけもないので事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、真相解明は尻すぼみに終わる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治]]に入って以降も、大名家が[[藩閥政治]]の有力者となった以外、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、[[昭和]]における[[春秋園事件]]はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1958年（昭和33年）、こうした相撲界の体質が[[国会]]でも問題視されて以降、月給制など力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所と相撲協会主導の地方巡業によって、一年のほとんどを拘束される力士たちに対して、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」などの声もある。一方で、税金対策や引退時の退職金制度など、表面に表れにくい部分で他のプロスポーツよりむしろ充実しているという見方もある。たとえば、国技館内には力士のみならず一般の診察も受け付ける[[相撲診療所]]があったり、[[社会保険組合]]を独自に運営していたりする点、また[[厚生年金]]制度を導入していることなど、福利厚生についてはむしろ一般企業に近いとも言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金銭の面に関しては、角界というのは、とにかく後援者（[[タニマチ]]）からの祝儀が大きな収入源のひとつになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへかなり有力な人物がタニマチとしてバックに付くと、優勝すれば1,000万以上の祝儀が集められるという。とくに千代の富士全盛時は一晩で5,000万集まったという。横綱の月給が282万であり、他のプロスポーツのトップクラスに比べて相当に安いのだが、これは角界ではこういった後援者からの祝儀が表面の給与に比べて大きな比重を占めているという現実がある。とくに年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金など、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝統とそれによる問題点 ==&lt;br /&gt;
大相撲は、力士が[[大銀杏]]などまげ（髷）を結うなどの[[日本]]の[[伝統]]的・古風な文化の他、[[土俵]]上への[[女性]]の立ち入りを認めない（春場所は[[2000年]]以降、時の[[大阪府]][[都道府県知事|知事]]・[[太田房江]]による知事賞の直接授与が認められなかった）など、[[男尊女卑]]の「伝統」も強く保たれている。その為、一部のフェミニストからは異論の声があがっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[横綱審議委員会]]と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士（[[年寄]]）によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、[[年寄名跡|年寄株]]もむしろ余り気味なのが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き、1998年5月には「[[準年寄]]」制度の導入などで対応したが（[[2006年]]末廃止）、それでも数々のトラブルが発生している。[[KONISHIKI|小錦]]、若乃花（[[花田勝]]）、[[曙太郎|曙]]といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、[[芸能界]]や[[格闘技]]、[[プロレス]]など他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。なお、年寄になるためには、[[日本国籍]]が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が[[文部科学省]]所管の[[財団法人]]であることが大きい。現実に外国出身で三役、横綱まで務める者が現れているが、彼らの中には協会に残るために日本国籍を取得（[[帰化]]）している（前述の元関脇・高見山、先代・東関親方など）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[力士養成員]]への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大相撲の公演中、升席では[[喫煙]]が認められていたが、[[健康増進法]]の施行に伴い、{{和暦|2005}}1月場所から全館禁煙となった（室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えたのが大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である）。そのため、升席で使用していた灰皿が[[相撲博物館]]に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一部の部屋では、俗に「かわいがり」と言われる（稽古名目での）[[私刑]]が横行している状況であり、下位力士に対し[[竹刀]]を用いて身体を叩くなどの厳しい指導を行うことに対する批判がある。[[2007年]]には[[時津風部屋力士暴行死事件]]が発覚。[[愛知県警察|愛知県警]]が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会[[北の湖敏満]]理事長が[[文部科学省]]より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。さらに、双津竜順一は、三田佳子の次男である[[高橋祐也]]から、[[覚醒剤]]を譲り受け、常習していることも明らかになっている。このことは、高橋祐也自身が梨元勝に暴露したことから、3度めの逮捕となったとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[2010年]]2月には第68代横綱・[[朝青龍明徳|朝青龍]]が度重なる[[トラブル]]に対し、横綱審議委員会から初の「引退勧告書」が提出された事も有り、朝青龍自ら責任を取る形で引退に追い込まれる。さらに同年5月には[[大相撲野球賭博問題]]が発生、大関・[[琴光喜啓司|琴光喜]]を筆頭に数十名の力士や親方らなどが関与したと報道、既に多くの相撲関係者が野球賭博などの違法賭博への関与を認めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした問題点を反映してか、近年の日本では力士になりたいと思う少年が大幅に減少し、2007年の名古屋場所では新弟子検査の受検者が0人であった。さらに大学相撲出身者と外国人力士の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」というよりも「一般スポーツ競技の一種」としか捉えていない力士が殆どで有る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
*1961年（昭和36年）から1991年（平成3年）まで、[[パンアメリカン航空]]賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人の[[デビッド・ジョーンズ (パンアメリカン航空)|デビッド・ジョーンズ]]が、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年（平成3年）5月場所を最後に同賞は廃され（パンナム自体その約半年後に倒産）、ジョーンズも2005年（平成17年）[[2月2日]]に逝去している。&lt;br /&gt;
*NHKがテレビ中継する際、懸賞の垂れ幕はCMになるため、文字が見えない程度まで広角に撮影し、会場の音声も出来るだけ絞って放送している（[[懸賞 (相撲)|懸賞]]を参照）。&lt;br /&gt;
*力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった[[旭道山和泰]]が[[衆議院議員選挙]]に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年（平成8年）11月17日から次のように表現を改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!区分!!改称前!!改称後&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|力士&lt;br /&gt;
||廃業||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; |引退&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|引退&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|年寄&lt;br /&gt;
||廃業||退職&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;| 停年&amp;lt;ref&amp;gt;「定年」ではない。[[相撲界|角界]]特有の表現。&amp;lt;/ref&amp;gt;、退職　&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*満65歳（誕生日の前日）を以って年寄は[[定年退職]]となるが、日本相撲協会では'''停年'''の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。&lt;br /&gt;
*かつては大相撲の力士がテレビの[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に出演することを全面禁止していた時代があった。これは大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという日本相撲協会の方針に沿ったものであった。ただCM禁止中の時代に特例で[[貴乃花光司|貴乃花]]、[[花田勝|若乃花]]兄弟が[[国民年金]]のCMに出演した例はある。現在､CM出演は再解禁されている。&lt;br /&gt;
*[[金星 (相撲)|金星]]などの番狂わせがあったとき、観客が[[座布団の舞|座布団を投げる光景]]が見られることがある。一方で、行司が務めている場内アナウンスでは「危険ですから座布団を投げないよう願います」と注意をしている。明治時代には、[[贔屓|ひいき]]の力士にご祝儀を与えるために、あえて個人を特定できるものを土俵に向かって投げるという習慣もあったというが、現在のいわゆる「座布団の舞」はそうした伝統に連なるものではない。&amp;lt;!--を知らずにやっている場合が多いといわれている。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用（縦1メートル25、横50センチ）の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた。--&amp;gt; '' → 詳細は「[[座布団の舞]]」の項を参照。''&lt;br /&gt;
*「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンを自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・[[ジャック・シラク]]が設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月に[[ニコラ・サルコジ]]が第六代大統領に就任すると、これをさっさと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったのとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大相撲を主題とした作品 ==&lt;br /&gt;
=== テレビゲーム ===&lt;br /&gt;
*大相撲（[[データイースト]]、1984年）&lt;br /&gt;
*出世大相撲（テクノスジャパン、1984年）&lt;br /&gt;
*[[つっぱり大相撲]]（[[テクモ]]、1987年）&lt;br /&gt;
*[[寺尾常史|寺尾]]のどすこい大相撲（[[ジャレコ]]、1989年）&lt;br /&gt;
*SDバトル大相撲　平成ヒーロー場所（[[バンプレスト]]、1990年）&lt;br /&gt;
*千代の富士の大銀杏（[[FACE]]、1990年）&lt;br /&gt;
*スーパー大相撲熱戦大一番（[[ナムコ]]、1992年）&lt;br /&gt;
*大相撲魂（[[タカラ_(玩具)|タカラ]]、1992年）&lt;br /&gt;
*つっぱり大相撲 立身出世編（テクモ、1993年）&lt;br /&gt;
*若貴大相撲 夢の兄弟対決（イマジニア、1993年）&lt;br /&gt;
*横綱物語（KSS、1994年）&lt;br /&gt;
*64大相撲（ボトムアップ、1997年）&lt;br /&gt;
*64大相撲2（ボトムアップ、1998年）&lt;br /&gt;
*日本相撲協會公認 日本大相撲（[[コナミ]]、2000年）&lt;br /&gt;
*日本相撲協會公認 日本大相撲 格闘編（コナミ、2001年）&lt;br /&gt;
*日本相撲協會公認 日本大相撲 激闘本場所編（コナミ、2002年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 落語 ===&lt;br /&gt;
*[[花筏]]&lt;br /&gt;
*[[阿武松_(落語)|阿武松]]&lt;br /&gt;
*[[大安売り]]&lt;br /&gt;
佐ノ山&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 雑誌 ===&lt;br /&gt;
以下の[[雑誌]]が定期的に刊行されている。&lt;br /&gt;
*[[大相撲 (雑誌)|大相撲]]（[[読売新聞|読売新聞社]]）&lt;br /&gt;
*[[相撲 (雑誌)|相撲]]（[[ベースボール・マガジン社]]）＝日本相撲協会[[機関誌]]扱い&lt;br /&gt;
*VANVAN相撲界（同上）&lt;br /&gt;
*別冊グラフNHK大相撲特集号→[[大相撲中継|NHK大相撲中継]]（[[NHKサービスセンター]]）&lt;br /&gt;
※NHK大相撲中継のみ隔月刊=場所前に発行、他は月刊誌。VANVAN相撲界は1998年終刊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漫画作品 ===&lt;br /&gt;
*[[ああ播磨灘]]（[[さだやす圭]]）&lt;br /&gt;
*[[両国花錦闘士]]（[[岡野玲子]]）&lt;br /&gt;
*[[のたり松太郎]]（[[ちばてつや]]）&lt;br /&gt;
*[[おかみさん]]（[[一丸]]）&lt;br /&gt;
*[[やぐら嵐]]（[[ビッグ錠]]）&lt;br /&gt;
*[[やぐら太鼓の詩]]（[[琴剣]]）&lt;br /&gt;
*[[ちゃんこ屋虎太郎]]（琴剣）&lt;br /&gt;
*[[はっけよい]]（[[前川たけし]]）&lt;br /&gt;
*[[巴戦、待ったなし]]（[[岸本景子]]）&lt;br /&gt;
*[[おっとと、お相撲くん]]（[[コンタロウ]]）&lt;br /&gt;
*[[どす恋ジゴロ]]（[[平松伸二]]）&lt;br /&gt;
*[[嗚呼どす恋ジゴロ]]（平松伸二）&lt;br /&gt;
*[[よりきり君]]（平ひさし）&lt;br /&gt;
*[[大相撲刑事]]（[[ガチョン太朗]]）&lt;br /&gt;
*[[力人伝説 -鬼を継ぐもの-]]（原作：[[宮崎まさる]]、作画：[[小畑健]]）&lt;br /&gt;
*[[ももたろう]]（[[小山ゆう]]）&lt;br /&gt;
*[[バチバチ]]（[[佐藤タカヒロ]]）&lt;br /&gt;
*[[達磨(漫画)|達磨]]（[[木村えいじ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画作品 ===&lt;br /&gt;
*[[名寄岩 涙の敢闘賞]]（[[小杉勇]]監督、[[1956年]]）&lt;br /&gt;
*[[若ノ花物語 土俵の鬼]]（[[森永健次郎]]監督、1956年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[千代の富士物語]]（[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、1991年）&lt;br /&gt;
* [[まったナシ!]]（[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1992年）&lt;br /&gt;
* [[ひらり (朝ドラ)|ひらり]]（[[日本放送協会|NHK]]、1992年）&lt;br /&gt;
* [[おかみさんドスコイ!!]]（[[毎日放送]]、2002年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==大相撲ファンの著名人==&lt;br /&gt;
*[[好角家]]を参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Wikinewscat}}&lt;br /&gt;
*用語･名鑑&lt;br /&gt;
**[[相撲用語一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲の決まり手一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲隠語一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲力士一覧]]&lt;br /&gt;
**[[現役中に死亡した力士一覧]]&lt;br /&gt;
**[[横綱一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大関一覧]]&lt;br /&gt;
**[[関脇一覧]]&lt;br /&gt;
**[[小結一覧]]&lt;br /&gt;
**[[現役年寄一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲優勝力士一覧]]&lt;br /&gt;
**[[幕内最高優勝の記録]]&lt;br /&gt;
***[[勝利#大相撲|勝利数]]&lt;br /&gt;
*概論･制度･伝統&lt;br /&gt;
**[[相撲]]&lt;br /&gt;
**[[相撲界]]&lt;br /&gt;
**[[年寄]]&lt;br /&gt;
**[[年寄名跡]]&lt;br /&gt;
**[[行司]]&lt;br /&gt;
**[[横綱土俵入り]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲中継]]&lt;br /&gt;
**[[座布団の舞]]&lt;br /&gt;
**[[水入り]]&lt;br /&gt;
**[[日本大相撲トーナメント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*団体･施設&lt;br /&gt;
**[[日本相撲協会]]&lt;br /&gt;
**[[横綱審議委員会]]&lt;br /&gt;
**[[蔵前国技館]]&lt;br /&gt;
**[[両国国技館]]&lt;br /&gt;
**[[大阪府立体育館]]&lt;br /&gt;
**[[愛知県体育館]]&lt;br /&gt;
**[[福岡国際センター]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.sumo.or.jp/ 日本相撲協会公式サイト]&lt;br /&gt;
*[http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/shis/ss00.html 日本相撲史概略]&lt;br /&gt;
*[http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm 大相撲 記録の玉手箱]&lt;br /&gt;
*[http://www.amy.hi-ho.ne.jp/fukunokami/sumou/sumou.htm 江戸時代のお相撲さん] - 開設者の先祖が「真力鉄蔵」という[[江戸時代]]の力士らしい。&lt;br /&gt;
*[http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html スポーツ文化情報館]&lt;br /&gt;
*[http://www.beemanet.com/essay/sumo/ 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―]&lt;br /&gt;
*[http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn086.html 社会的構築物としての相撲―報恩古式大相撲の事例を巡って]&lt;br /&gt;
*[http://www.takekaze.com 豪風 東京後援会] - 大相撲　豪風関の東京後援会WEBサイト。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書 ==&lt;br /&gt;
*風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:大相撲|*]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:sumo]]&lt;br /&gt;
[[zh:大相撲]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>男の娘</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%A5%90%E4%B9%9F&amp;diff=353227</id>
		<title>高橋祐也</title>
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				<updated>2018-04-05T06:02:56Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;男の娘: /* 三度目の覚せい剤 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''高橋 祐也'''（たかはし ゆうや、本名；'''髙橋 祐也'''、[[1979年]][[12月9日]] - ）は、[[日本]]の[[俳優]]、[[ミュージシャン]]。母は[[俳優|女優]]の[[三田佳子]]、父は元[[日本放送協会|NHK]][[プロデューサー]]の[[高橋康夫]]、兄は俳優の[[森宮隆]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==来歴==&lt;br /&gt;
===芸能活動前===&lt;br /&gt;
NHKプロデューサーの父と女優の母の次男として1979年に産まれる。幼少時代は、仕事に忙しい両親に代わり、同居していた祖父母や[[家政婦]]の手により育てられる。育児に構ってあげられない両親の、お金に物を言わせる[[過保護]]な養育方針がのちに明らかになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[学校法人森村学園|森村学園]]高等部在学中の1998年1月7日、18歳の時、[[覚せい剤取締法]]違反で逮捕される。初犯かつ未成年ということもあり、1998年2月9日には[[保護観察]]処分が下された。[[高等学校|高校]]は[[退学]]処分となった。この時、母、三田佳子が行なった記者会見において、「母が女優ということで未成年である息子の事件が報道されて可哀想」、「次男のこづかいは月50万円」などと、普通の高校生とはかけ離れた私生活が明らかになり、三田は世間から猛烈な批判を受けた。三田はこの後、7社あったCMをすべて降板し、女優活動を10ヶ月自粛した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その年の[[大学入学資格検定|大検]]受験を経て、[[1999年]]4月、[[東海大学]][[教養学部]]に入学。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その後もトラブルは絶えなかった。2000年5月17日に起こった、[[指定暴力団]]・[[住吉会]]系組員もからんだ[[暴走族]]同士の抗争に伴う一般人誤認集団暴行殺人事件においては、犯人の暴走族が犯行時に使用した犯行車両が三田佳子名義のもので、高橋祐也が犯人に貸したものだったことが発覚。三田は釈明会見で「逮捕されたほうの発言ですから」と関与を否定したが、事件から1年後、被害者遺族から責任逃れしていると高橋と三田を相手とする民事訴訟を起こされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
続けざまに、高橋が自宅の地下室で「覚せい剤パーティー」を行なっていたことが発覚し、2000年10月25日、再び覚せい剤取締法違反で、友人の17～20歳の男3人、女1人と一緒に逮捕される。このとき、三田邸の地下室では芸能人も招いての薬物乱交パーティーが開かれていたことも発覚。大学から[[退学]]処分を受け、三田佳子も再び、1年間女優活動を自粛した。裁判では起訴事実を全面的に認め、2001年4月25日、懲役2年執行猶予5年の有罪判決を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1回目の逮捕===&lt;br /&gt;
「高校生なのに女の子をナンパしては、クスリに明け暮れている男がいる」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元麻薬取締官の耳に入ってきた噂は、相当タチの悪いものだった。取締官たちはまず、証拠を集めるため自宅から朝に出されるゴミを一週間ぐらい集めて詳細に調べた。まだ高校生だった高橋は薬物の扱いがずさんだった為、ゴミの中に覚せい剤やマリファナのカスが交じっていた。この証拠を元に令状をとり、現場に踏み込むこととなった。正月明けの捜査で逮捕されたのは、家出中の女子中学生2名を含む10名。現場では、覚せい剤やマリファナが使用されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===芸能人として===&lt;br /&gt;
有罪判決を受けた後、[[演出家]]である[[唐十郎]]が身元引受人となり、彼の主宰する「劇団唐組」にて舞台俳優として芸能界デビュー。その後も数本の舞台に出演し、2003年、「劇団唐組」を退団。2004年、[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]に主演。[[2005年]]には'''YUYA'''として（[[インディーズ]]ではあるが）歌手デビューするなど、活躍する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===三度目の覚せい剤===&lt;br /&gt;
[[2007年]]11月15日、[[コンビニエンスストア]]のトイレで覚せい剤を吸引していたことが店員の通報により発覚し、かけつけた警察官が路上で職務質問したところ、覚せい剤約0.1グラムを所持していたため、三たび覚せい剤取締役法違反で現行犯逮捕される。三田佳子は記者会見において、「すべては私たち夫婦の教育の失敗」と全面的に謝罪した上で、2006年までは一人暮らしをするほど精神状態が安定したものの、2007年に入り[[鬱病]]にかかって入院。逮捕前には鬱病が再び悪化したため再度入院させようとしていたことを明らかにした。但し3度目の同じ犯行ということもあり、三田は女優活動の自粛はせず、「彼も少年ではないので親としてかかわれる限界はあります。心の中では放り出して当然という気持ちもある」と息子を突き放すとも受け取れる発言をした一方で、現在も月70万円のこづかいを渡していたことが発覚する。また、かつては身元引受人であった唐十郎は、3年以上会っていないことを明らかにした上で「自分で痛みを感じるしかないでしょう」とコメントを残している（事実上「破門」の烙印を押した）。さらに、逮捕前に、力士暴行死事件を起こし、逮捕された元時津風親方こと双津竜順一に覚醒剤を勧めた事実を梨元勝に暴露していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年1月28日、懲役1年6ヶ月の実刑判決を言い渡され、薬物依存治療に専念するために即日[[控訴]]したものの、治療の目途がたった4月に控訴を取り下げて実刑が確定。薬物依存治療の区切りを待って収監され、2009年6月25日、仮釈放。その後はアルコール・[[薬物依存症|薬物依存]]リハビリセンター「[[琉球ガイア]]」に入所して社会復帰を目指しているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===結婚===&lt;br /&gt;
[[2010年]][[2月2日]]、26歳の一般女性と結婚。3,4年前に知り合い、昨秋から交際を始め入籍。高橋の両親からの庇護の下、2人はすでに新しい生活を送っている。その後、9月30日に、第一子となる男児が誕生。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出演==&lt;br /&gt;
===舞台===&lt;br /&gt;
*2001年 - 「水中花」、「赤い靴」&lt;br /&gt;
*2002年 - 「糸女郎」、「虹屋敷」&lt;br /&gt;
*2003年 - 「泥人魚」&lt;br /&gt;
===映画===&lt;br /&gt;
*2003年 - 「ワル～序章～」&lt;br /&gt;
*2005年 - 「[[スペクター (映画)|スペクター]]」&lt;br /&gt;
*2005年 - 「渋谷物語」&lt;br /&gt;
==作品==&lt;br /&gt;
===著作===&lt;br /&gt;
*手記「YUYA」 (創出版、2001年12月）&lt;br /&gt;
===音楽アルバム===&lt;br /&gt;
*ミニアルバム「time goes by」 （ゲートレコーズ、2004年12月）&lt;br /&gt;
==受賞==&lt;br /&gt;
*DVシネマ大賞　最優秀新人賞（「ワル～序章～」主演）&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://ameblo.jp/yu-yat/ 高橋祐也の真実真正日記 ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[嘉門洋子]]、[[吉田里深]] - 嘉門洋子と吉田里深の2人は2000年10月に発覚した三田佳子邸地下室での薬物乱交パーティーに参加していた疑惑が持ち上がった。当初は、交友関係自体を否定していたが、警察の捜査が進展し、交友関係及び地下室に行ったことを認めるに至った。しかし、嘉門と吉田は口を揃えて、地下室に行ったことは認めたが普通のパーティーだったと違法行為を否認している。&lt;br /&gt;
*[[木村一八]] - 親が大物芸能人と言われており、また数度の逮捕歴があることなど高橋と似た境遇である。尚、二人は[[サイゾー]]誌上で対談している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たかはし ゆうや}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の俳優]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の歌手]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1979年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:転落人生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>男の娘</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2&amp;diff=353226</id>
		<title>大相撲</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2&amp;diff=353226"/>
				<updated>2018-04-05T05:56:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;男の娘: /* 伝統とそれによる問題点 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大相撲'''（おおずもう）は、[[日本相撲協会]]が主催する[[相撲]][[興行]]。主たる開催地である[[日本]]国内においても、その他の国においても一般に「相撲」と言えば大相撲を指すほど著名な競技興行である。東京での開催場所が'''[[両国国技館|国技館]]'''であるが、[[国技]]と言う[[法制度]]は日本にないため、特に国技と言うわけではない。詳しくは[[両国国技館|国技館]]や[[国技#日本の国技]]の項目でも述べているが、「自称・国技」のようなものである。ただし後述するように、相撲の歴史は非常に長く、天皇家との関わりも深いと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の[[江戸]]および[[大坂]]における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、[[大坂相撲]]の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の[[歴史]]について叙述する。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Somagahana Fuchiemon.jpg|right|thumb|280px|大小の[[刀]]を佩刀し[[武士]]と同じ待遇であった力士&amp;lt;ref&amp;gt;[[歌川国貞]]画：大判[[錦絵]]：杣ヶ花渕右エ門（そまがはな・ふちえもん）&amp;lt;/ref&amp;gt;]] &lt;br /&gt;
=== 江戸時代 ===&lt;br /&gt;
興行としての相撲が組織化されたのは、[[江戸時代]]の始め頃（17世紀）と言われている。しかし、浪人集団との結びつきが強いという理由で、[[1648年]]（[[正保]]4年）には幕府によって江戸における[[辻相撲禁止令]]が出された。その後、[[1684年]]（[[天和 (日本)|天和]]4年）、[[寺社奉行]]の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立が条件とされて、相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の[[雷 (相撲)|雷権太夫]]がいて、それが[[年寄名跡]]の創めともなった。この時の興行は江戸深川の[[富岡八幡宮]]境内で行われた。このとき、寺社奉行の管轄となったことで、江戸時代の間、興行は江戸市中の神社や寺院の境内で行われた。本所の[[回向院]]での開催が定着したのは、[[1833年]]（[[天保]]4年）のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『相撲傳書』によるとこの頃は[[土俵]]はなく「人方屋」という見物人が直径7～9[[メートル|m]]（4～5[[間]]）の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。[[寛文]]年間（17世紀半ば）には[[リング_(格闘技)|格闘技のリング]]のように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に[[延宝]]年間（1670年頃）に土俵の四隅に[[四神]]を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m（13[[尺]]）の丸い土俵が設けられた。[[享保]]年間（18世紀始め）に俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵（これは「蛇の目土俵」とも言う）となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は[[朝廷]]の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた[[番付]]も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では[[1757年]]（[[宝暦]]7年）のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。各地の相撲集団に所属する力士たちは薄給で酷使され、その実態は男の売春業だったとする説もある（[[日下公人]]「あと三年で、世界は江戸になる」ビジネス社、p.74）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし江戸相撲は、[[1789年]]（[[寛政]]元年11月）、司家の吉田追風から[[谷風梶之助_(2代)|二代目・谷風梶之助]]、[[小野川喜三郎]]への[[横綱]]免許を実現。さらに[[征夷大将軍]][[徳川家斉]]観戦の[[1791年]]（寛政3年[[6月11日_(旧暦)|6月11日]]）上覧相撲を成功させる&amp;lt;ref&amp;gt;*[http://ci.nii.ac.jp/naid/110001919260/ 「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[雷電爲右エ門|雷電爲右衞門]]の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行（大場所）も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1827年]]（[[文政]]10年）、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の[[吉田司家]]に認めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[幕末]]に「相撲VS[[レスリング]]」や「相撲VS[[ボクシング]]」の[[異種試合]]が行われた事がある。また、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海軍|海軍]]の[[マシュー・ペリー]]提督が[[黒船]]で来航した[[1853年]]（嘉永6年6月11日）に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1863年]]（[[文久]]3年[[6月3日_(旧暦)|6月3日]]）、大阪北新地で壬生浪士組（後の[[新選組]]）と死傷事件を起こしたのは大阪相撲の力士で死亡したのは中頭の[[熊川熊次郎]]（[[肥後国|肥後]]出身）であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の[[志士]]となったものもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
『日本の国技&amp;quot;相撲&amp;quot;の歴史と伝統』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校の時、ある授業で私が調べたものです。 &lt;br /&gt;
でもその時は授業時間が限られていたので満足に出来ませんでした。 &lt;br /&gt;
とりあえず調べていたものから載せていきます。 &lt;br /&gt;
そして時間をかけて満足出来るものを作ろうと思っています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
序章 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
相撲が日本の国技と言われるようになったのは、明治42年（1909）に国技館が完成した際に、作家の江見水陰が開館式の案内状に書いた、『相撲は日本の国技である』というのがきっかけであるといわれている。 &lt;br /&gt;
『国技館』という名もこの文章を見た年寄が考えつき、採用されたのである。 &lt;br /&gt;
この命名が及ぼした影響は決定的で、その後の相撲は日本の国技としての地位を固めていく事になるのである。 &lt;br /&gt;
相撲が国技と言われるに相応しいのは、長い歴史と伝統があり、それらを守りつづけてきたからであろう。 &lt;br /&gt;
私は、小学校4年生のときから祖父や両親がテレビで相撲を見ていた影響で、相撲に興味を持った。その当時の私にとって、回しを締めただけの裸でぶつかる力士、髷を結っているその姿、土俵etc…　すべてが不思議なものだった。いかにも、現在の日本には合わなさそうな古くさいものが、何故こんなに人気を呼ぶのだろう。それが当時の私にはわからなかった。 &lt;br /&gt;
しかし、その長い歴史の中で、相撲は、人々に娯楽として楽しまれたり、感動を与えたり、多くの影響を与えてきたのである。 &lt;br /&gt;
そんな相撲の歴史と文化を、この機会に今までよりも深く理解し、そして現在の相撲のあり方を考えたい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1章：　『神話時代から続く日本の相撲』 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●神話の中の相撲 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今や『日本の国技』と言われる相撲。その歴史は長い。それは神話時代にまで遡る。 &lt;br /&gt;
決して現実にあった訳ではない、古代の人々が作り出した神話にまで相撲が登場してくるのだ。 &lt;br /&gt;
『古事記』には、天孫降臨の際、大国主命（おおくにぬしのみこと）が天照大神（あまてらすおおみかみ）に対し、出雲国を譲る事を拒んだために、天照大神が建御雷神（たけみかづちのかみ）を派遣したところ、大国主命の御子、建御名方神（たけみなかたのかみ）との力くらべで解決しようと申し出た、とある。 &lt;br /&gt;
この力くらべの方法は、互いに手を取り合い、投げ合う形で競技をするものであったと言われている。そして力くらべの結果、建御雷神が建御名方神を投げ飛ばして勝ち、出雲国を手にする事が出来たのだ。 &lt;br /&gt;
勝った建御雷神は鹿島神宮の祭神となり、武神として武術家やスポーツマンの信仰を集めている。一方、敗れた建御名方神は、長野県の諏訪に逃れて諏訪大社の祭神となった。同じく武神として祭られている。 &lt;br /&gt;
しかし、これらの話が現実にあったかというと、あくまで文献としてあるだけで、神話であるから、歴史上の確かな証拠とは言えない。 &lt;br /&gt;
日本の相撲史の始まりといわれるのは、『日本書紀』に書かれている、野見宿禰（のみのすくね）と当麻蹶速（たいまのけはや）の力くらべである。 &lt;br /&gt;
これは、垂仁天皇7年7月7日に行われたと記されている。垂仁天皇7年7月7日というこの日付けは、元々日本書紀が書かれたあたりは、七夕の頃に相撲を行う慣習があったため、このような特異な日の事実として日本書紀に登載しただけで、実際この日に行われた訳ではない。 &lt;br /&gt;
この当時の相撲は、現在の相撲からは想像できないくらいはるかに荒っぽく、乱暴で、何でもありという感じであった。土俵も無く、相手を殺すか降参させるまで闘い続けた。 &lt;br /&gt;
彼らの勝負は、両者とも足を上げて蹴り合い、抱え上げて投げ飛ばすなど、死闘を繰り返した末、宿禰が蹶速の肋骨を蹴折り、腰骨をも踏み砕いて殺し、勝利を手にしたという。 &lt;br /&gt;
奈良県桜井市穴師にある大兵主神社の庭が、その死闘の地と言われていて、神社の入り口には、『宿禰蹶速角力之跡』という標柱が建っている。 &lt;br /&gt;
勝った宿禰は相撲の始祖としてまつられている。宿禰と蹶速は郷士の家柄だと言われている。彼らの力くらべのほかにも、この時代には当時の天皇が時折力の強い郷士たちを集め、天覧相撲が行われていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●神事相撲 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天覧相撲とはまた別に、庶民の間でも、農耕儀礼として相撲が行われていた。近隣の村と比べどちらが豊作になるかを占う為、それぞれの村の力自慢を代表選手として送り出し、勝負をさせて、その結果によって豊凶を占った。そして豊作となったときは、神様に感謝の気持ちをこめて奉納相撲を行った。 &lt;br /&gt;
史実としては、奈良時代、神亀2年（725）の全国的な凶作のとき、聖武天皇が21の大社に勅使を送り込んで神の加護を祈念したところ、その翌年大豊作となり、その感謝を表すために各社の神前で奉納相撲を行ったという記録が残っている。 &lt;br /&gt;
このように、神様に占問して結果を求めるために行われた相撲を神事相撲といい、現在でも日本の各地で盛んに行われている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●相撲節会（すまいのせちえ） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
相撲節会とは、節会相撲ともいい、天候の温順と豊作を神様に祈るために諸国から有力な相撲人を宮中に集めて定期的に開催された1つの儀式だった。 &lt;br /&gt;
奈良時代に入ると、天皇家や貴族たちにも相撲は愛好されるようになった。聖武天皇は、神亀5年（728）に、諸国の郡司たちに対し、相撲人を貢進する旨を命令した。 &lt;br /&gt;
『勅して曰く、諸国郡司達よ、部下に騎、射、相撲及び膂力の優れた者があれば、速やかに王、公卿や大臣に献上せよ。もしこの命に反すれば、国司ならば位記を追奪し免職、郡司ならば先ず罰を加えてから免職にする。（意訳）』 &lt;br /&gt;
驚いた事に、命令に反すれば罰則を加えられるのだ。ここまでして何故相撲人を集めようとしたか。その頃には相撲は単なる遊びでだけではなく、武芸や軍事的なものとして取り扱われていたのではないだろうか。 &lt;br /&gt;
現にこの相撲節会に召し出された相撲人は諸国の防人だった。 &lt;br /&gt;
天平6年（734）7月7日に、七夕祭りの余興として天覧相撲が行われた。このとき行われたものが、相撲節会の端緒となった。 &lt;br /&gt;
天平年間に入ると、相撲は全国的に盛んになり、天皇家の貴族たちが宮廷で催すようになった。そして天平10年の七夕にも再び天覧相撲が行われた。 &lt;br /&gt;
相撲節会がさらに発展したのは、平安時代に入ってからだ。規模も以前より大きくなり、単なる余興ではなくなった。制度諸式も整えられた。 &lt;br /&gt;
弘仁年間（810～824年）には、相撲節会は宮中儀式の独立した儀式として行われるようになった。 &lt;br /&gt;
中国の唐の儀式を真似た中に相撲を取り入れたもので、猿楽の一団である舞楽、曲芸師、相撲係員などが、左右（今でいう東西）の相撲人34人を囲んで、およそ300人が楽の音と共に入場するという大変豪華なもので、天覧のもと、白砂の上で相撲を取り、勝負が一番終わるごとに勝ち力士側の雅楽が奏され、勝負の数を明らかにするために籌刺（かずさし）という役人が地上に矢を立てた。取組が全部終わると、この矢の合計数で左右どちらが勝ったかを決めていた。 &lt;br /&gt;
運営進行は、皇族、貴族など5位以上の高官達によって行われ、観戦できるのもそれら高官達だけだった。総監督である相撲司には、多くの場合、親王が任命され、歌人として有名な在原業平も任命された事があった。彼は相撲もなかなか強かったようだ。 &lt;br /&gt;
やがて武士が政権を握り、皇室、朝廷の力が衰えてくると、相撲節会は中断される事が多くなり、ついに、承安四年（1174）、高倉天皇の儀式を最後に廃絶してしまった。 &lt;br /&gt;
それにしても、300数十年にわたり催された宮中相撲は、現代の相撲においても大きな意味を持っている。相手を死に至らしめるような乱暴な技は禁じられ、相撲そのものが洗練され、今日の相撲の基本的な形態がこの時期に形成されたのであった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●武士政権時代の相撲　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎌倉時代に入り、武士が政権を握っていたが、相撲は武士の間で、心身の鍛練や戦闘に役立つ武術として盛んに行われるようになった。 &lt;br /&gt;
節会相撲末期には半ば職業化していた相撲人達は、武士として武将に仕え身を立て始めていた。一方で、故郷に帰った農民出身の相撲人達は、宮中の洗練された相撲の技と作法を教え、土地相撲を盛んにしていった。 &lt;br /&gt;
武士たちは相撲を武術化した一方で、娯楽としても楽しんでいた。酒宴の余興などに、力自慢の者同士で相撲を取るのが流行った。 &lt;br /&gt;
安元2年（1176）、源頼朝の前で河津三郎と俣野五郎の相撲が行われた。当時頼朝は伊豆に流されていたため、その退屈を慰めるために部下たちは、天城山中で狩猟を行い、酒宴を催した。その余興で相撲が行われたわけである。 &lt;br /&gt;
俣野五郎は力自慢で知られ、あっという間に21人を投げ飛ばしてしまった。それに河津三郎が挑んだ。熱戦の末に河津三郎が俣野五郎を投げ飛ばし、勝利した。 &lt;br /&gt;
しかし俣野五郎が仕える武将、工藤祐経はこの相撲を恨みに思い、部下を使って河津を暗殺してしまう。これがきっかけで、能や狂言、歌舞伎で有名な『曽我兄弟の仇討ち』へと発展するのである。 &lt;br /&gt;
この勝負で、河津が用いた技として、『河津掛け』という技が今も残っている。しかし、これは、実は俣野が河津にかけた技であったというのだ。 &lt;br /&gt;
それでは、何故『俣野掛け』ではなく『河津掛け』になってしまったのか。それは、江戸時代中期に普及した相撲四十八手に『蛙掛け（かわずがけ）』という技があり、どうやら芝居好きの江戸っ子が語呂合わせで『河津掛け』としゃれたのが真相のようだ。 &lt;br /&gt;
源頼朝は相撲好きだったようで、文治5年（1189）に相撲節会を真似た上覧相撲を鎌倉の鶴岡八幡宮で催し、その後もしばしば行ったことが『吾妻鏡』に記されている。その後の将軍も相撲を好んで奨励し、武家の間に相撲は完全に定着した。 &lt;br /&gt;
しかし鎌倉時代末期には上覧相撲もすたれ、支配階級の人々よりも、庶民や地方大名の間で相撲熱が高まっていった。 &lt;br /&gt;
室町時代には、庶民が経済力を持つようになってきたため、それまで神事相撲として農村で行われていた相撲が、都市の庶民の間でも娯楽として行われるようになったのだ。 &lt;br /&gt;
一方地方大名は相変わらず武術としての相撲を高く評価し、これを奨励していた。室町時代末期になると、セミプロの相撲人が各地で出現し、諸国への巡業が始まった。これは江戸の勧進相撲に繋がっていると言って良いだろう。 &lt;br /&gt;
戦国時代になると、地方大名によって相撲は武術としてますます愛好され、織田信長は特に大の相撲好きとしても名を知られている。 &lt;br /&gt;
彼は元亀元年（1570）から天正9年（1581）まで、多数の力士を集め、安土城などでたびたび上覧相撲を行ったことが『信長公記』に詳しく記録されている。 &lt;br /&gt;
彼は相撲大会の開催に際して色々細かい規則を定めたりし、より勝負を明確なものにしようとしていた事がうかがえる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●江戸時代の勧進相撲 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて戦乱も収まり、徳川家康が天下をとって政権が江戸に移されると、職を失った浪人者を交えた職業的力士集団が各地に発生し、大坂、京都、江戸をはじめとする都市部の盛り場で勧進相撲が盛んとなる。 &lt;br /&gt;
勧進相撲とは、寺社の建立や改修、橋の掛け替えなどの寄付金集めのために催す相撲大会の事である。現在、番付の中央上には『蒙御免（ごめんこうむる）』という文字が見られるのだが、これは勧進相撲の名残で、寺社奉行や町奉行から相撲興行の許可を得たという意味である。 &lt;br /&gt;
勧進相撲の歴史は古く、室町時代に始まったと言われている。当時は勧進のための田楽や猿楽が頻繁に行われており、そこに相撲が加わったのも当然の事であった。 &lt;br /&gt;
初期の勧進相撲は大坂や京都が中心で、江戸での興行の際には京阪相撲が下ってきていた。江戸で最初の勧進相撲は寛永元年（1624）、横綱の始祖である明石志賀之助（第2章参照）が四谷塩町の笹寺で行った晴天6日間の興行というのが通説である。しかし、明石志賀之助はその実在すら疑われている伝説の人物のため、この勧進相撲についてもはっきりした事は分からない。 &lt;br /&gt;
初めは、勧進という名の通り、寄進を勧めるための相撲興行であったが、次第にそうした目的から離れ、力士たち自身の生活のための営利的執行へと変わっていった。しかし、寺社奉行の許可を求める必要から、勧進相撲という名はそのまま使用された。そして結局昭和19年まではその名を通した。 &lt;br /&gt;
勧進相撲のほかにも、都市の盛り場では投げ銭目当ての辻相撲というのも頻繁に行われていた。 &lt;br /&gt;
相撲興行は、しばしばけんか騒ぎを起こし、風紀を乱すという理由から、たびたび弾圧を受けた。 &lt;br /&gt;
慶安元年（1648）から享保5年（1720）の間、幕府は数回にわたって相撲禁止令を出し、勧進相撲などを厳重に取り締まった。しかし、それでも庶民の相撲熱は衰えることなく、取り締まりの目を盗んでは、辻相撲が行われていた。 &lt;br /&gt;
おおっぴらに相撲が取れなくなった力士たちは、大名屋敷などに招かれ、相撲を見せるなどしていたが、やはり生活に困窮するようになった。困り果てた相撲集団は、その打開策として、けんかの原因になりやすい勝敗の決着を明確にするため、相撲作法（規則）を作り、四十八手の決め手を制定し、土俵を現在の形にするなどして興業としての形態を整え、相撲興行の許可を願い出た。 &lt;br /&gt;
そしてようやく貞享元年（1684）相撲集団を取り締まる責任者が町奉行に願い出て、公許勧進相撲の許可が取れるようになった。責任者のことを京阪では頭取、江戸では年寄といった。 &lt;br /&gt;
元禄時代（1688～1704）に入ると、有力な力士が数多く集まる京阪を中心として、勧進相撲が盛大に復興する。そして、番付が制度として成立したのもこの頃である。 &lt;br /&gt;
当時の番付は板にかかれたもので、盛り場の辻などに立てられていた。紙に刷られた番付が発行されたのは享保2年（1717）、京阪相撲でのことである。 &lt;br /&gt;
最初の番付は、東西それぞれの力士が別々に書かれた2枚組の横番付であった。現在のように縦1枚で東西に分けた番付が出来たのは江戸で、宝暦7年（1757）10月の冬場所からである。新興の江戸相撲が、依然として相撲の中心であった京阪に対しての対抗意識から新しいデザインの番付を考案したという。 &lt;br /&gt;
京阪相撲には、後援者として大商人がついていて、各地から数多くの力士を集め、実力と人気を兼ね備えた相撲集団を形成していた。それに対し江戸相撲というのは、京阪相撲に迎えてさえもらえない2流どころの力士の集団であった。 &lt;br /&gt;
しかし、江戸が大都市へと成長していくにしたがって、江戸相撲は関東を中心に東北地方の力士をも吸収し、次第に力をつけていく。 &lt;br /&gt;
宝暦、明和の頃（1751～72）になると、現在の相撲協会にあたる相撲会所の制度が整ってくる。興行や巡業の運営は全国的に組織化され、年功者の力士は、年寄となって新たな力士を養成する相撲部屋を経営するようになり、相撲は新たな発展の時代を迎えるのである。 &lt;br /&gt;
天明、寛政の頃（1781～1801）になると、相撲界の中心は京阪から江戸に移る。その理由としては、 &lt;br /&gt;
#江戸が首都としての機能を高め、人や富が多く集まるようになり、都市としての力をつけたこと。江戸相撲にも京阪相撲に負けないほどの後援者がつくようになり、力のある力士が集まるようになった。 &lt;br /&gt;
#力士を抱える大名の多くが江戸詰めとなり、京阪の相撲部屋の所属でありながら、江戸の年寄に弟子入りして江戸相撲に参加する事が可能になったという事。 &lt;br /&gt;
大名は、各藩内で職業力士を養成し、力のあるものには扶持を与えて抱え力士としたり、他国の名のある力士をスカウトするようになり、相撲興行のたびにお抱え力士を貸すというシステムをとるようになった。大名にとって強豪力士を多く抱える事がステータスシンボルとなったのである。 &lt;br /&gt;
江戸が相撲の中心となると、その組織も全国的なものになってくる。東西の力士の交流が盛んとなり、三役、幕内、幕下上位は江戸で春冬の各2回、京都大坂でも各2回ずつ定場所の土俵に上がるようになった。 &lt;br /&gt;
そして寛政の江戸相撲は谷風、小野川という強豪力士（第2章参照）の登場で黄金時代を迎える。彼らは、今日のように横綱免許（第2章参照）をもらった初の力士たちである。そして、その後も、相撲史上最強の力士と言われる雷電他、横綱も含め多くの力士たちが活躍した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●近代の相撲 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ペリー来航によって長い間の鎖国がとかれ、日本は明治維新が起こる。しかし、これは、古くからの歴史と伝統を受け継いできた相撲界にとっては、大変厳しいものになった。 &lt;br /&gt;
廃藩置県による大名の消滅で、それまで大名のお抱えとして、その庇護のもとで生活していた力士たちは、経済的な独立を図らなければならなくなった。明治維新によって不安な生活を送っていた人々は、とても相撲見物どころではなかった。 &lt;br /&gt;
明治2年（1869）3月、明治天皇が京都から江戸に移られるのに際し、京都の力士に錦旗奉持の命があった。そして、東京の力士たちは、品川高輪の大木戸までお迎えに出て、錦旗を引き継いで皇居までのさきがけの光栄をになった。 &lt;br /&gt;
このように相撲界は新政府に協力的だったにもかかわらず、西洋文明に習って近代国家への道を歩もうとしていた政府は相撲界にとって冷酷ともいえる態度をとった。文明開化の波は、相撲を江戸時代の旧弊とし、『相撲のような野蛮なものは禁止すべき』という記事が新聞に載る有様だった。しかも、明治4年（1871）8月には断髪令がだされ、力士の髷は、格好の攻撃目標となってしまった。 &lt;br /&gt;
しかし、相撲に理解のある高官によって、辛くも髷の伝統は守られた。それと、明治の元老と呼ばれる伊藤博文、黒田清隆、後藤象二郎、板垣退助といった大物政治家たちが、いずれも大変な相撲好きだったために、新政府から相撲禁止論が出てきたときも、彼らの弁護によって、相撲は生き残れたのである。 &lt;br /&gt;
その後、辛うじて年2回の相撲興行は催されていたものの、相撲は徐々に衰退の一途をたどり、経済的な不安に悩まされるようになった。しかし、その状態を打破しようとした男がいた。高砂浦五郎という男である。 &lt;br /&gt;
明治22年（1889）に東京相撲会所が東京大角力協会と名を変えたとき、協会取締役に就任。勝ち星による給金の増額、番付の明確化など、相撲規則を細目にわたって制定し、組織、制度を整備して、相撲を近代化させたのである。 &lt;br /&gt;
そして、組織、制度が整った相撲界が次に着手したのは、興行場の近代化であった。当時の相撲興行は、江戸時代から変わらない、小屋掛けの天幕張りで行われている晴天10日興行で、雨や雪が降ったり、強風が吹いたりすれば順延され、それが長引くようだと途中で打ち切りになるような状況だった。明治35年頃から雨が降っても相撲の行える相撲常設館を建設すべきであるとの声が上がってきていた。39年1月場所後から具体化し、5月には起工式が行われた。日本銀行本店や、東京駅などを設計した有名建築家辰野金吾博士による設計による、日本最初のドーム式円形建築であった。明治42年（1909）5月、3年の月日をかけてついに完成。6月2日には、皇族方、東京市長、両院議長、外国大使といったそうそうたる人々を迎えて開館式が華々しく行われた。 &lt;br /&gt;
国技館の完成によって、それまで晴天興行に限られていた本場所は天候を問わず開催されるようになり、3、4000人ほどだった収容人数は、一挙に13000人以上にまで増え、相撲は大衆のものとして不動の位置を確保した。 &lt;br /&gt;
大正時代に入ると、町に失業者があふれ、米騒動などが起きるような不安な世の中になっていった。そして、明治維新の頃のように人々はもはや相撲どころではなくなってしまった。明治後半には活況を呈していた相撲界は、再び衰退期に入ってしまい、学生相撲に人気を奪われるという事態にまで達した。そして大正12年（1923）9月1日の関東大震災によって国技館は全焼してしまった。 &lt;br /&gt;
力士の方は、昔は四つ相撲が得意だった力士が多かったのだが、この時代、突っ張り一発で相手をふっ飛ばした太刀山を初めとする、個性的なスピードのある相撲をとる力士が増えてきた。大正時代は、相撲そのものの近代化が行われたといってよいだろう。 &lt;br /&gt;
大正12年（1923）9月1日の関東大震災によって東京相撲は経営難に苦しんでいた。そこで持ち上がってきたのが同じく経営難に悩む大阪相撲との合併話だった。明治の末頃からそのような話は何度かあったが、そのたびに立ち消えとなっていたのだ。表向きは組織の体質の相違を理由としていたが、実際は、明治末に黄金時代を迎えていた東京相撲にとって、格下の大坂相撲と合併するなどありえないというのが本音であった。 &lt;br /&gt;
しかし、どん底にある以上、そんな事も言っていられなくなった。関東大震災の痛手から立ち直るための最後の手段として、大阪との合併を真剣に考えた。 &lt;br /&gt;
大正14年（1925）4月、東京協会は摂政宮殿下（後の昭和天皇）から下賜された金一封をもとに大坂造幣局に依頼して純銀製の優勝賜杯を作成する。この光栄を東京だけで独占するわけにはいかない。これを機に東西合併するべきではないかと大阪協会を説得し、同年7月、大阪において合併の調印が行われた。さらに、11月には、大日本相撲連盟協会を発足させ、合併番付編成のための東西連盟相撲が京都、大阪で開かれた。そして、昭和2年（1927）1月、財団法人大日本相撲協会が設立され、大相撲は新たな時代へと突入していくのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●戦前の相撲界 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和の初期は、江戸時代から続いてきたさまざまな制度が大きく変化した時期であった。 &lt;br /&gt;
昭和3年、ラジオ放送が開始され、これに伴い、限られた放送時間内に収めるために、これまで無制限だった仕切りに制限時間を設けた。幕内10分、十両7分、幕下5分と、現在の制限時間の倍以上あった。また、この年には、仕切り線の設定も行われた。 &lt;br /&gt;
昭和6年には、それまでの二重土俵を一重土俵に改め、土俵の直径を13尺（約4m）を15尺（約4.6m）に拡大し、土俵上の屋根を破風造りから、伊勢神宮と同じ神明作りに変えた。 &lt;br /&gt;
そして名力士も数多く登場した。昭和になって初めての横綱玉錦、そして、未だ破られていない69連勝という大記録を持つ大横綱双葉山などである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●戦後の相撲界 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年に日本がポツダム宣言を受け入れ終止符を打った太平洋戦争。 &lt;br /&gt;
この史上最悪の戦争は、相撲界にも大きな傷跡を残した。昭和20年（1945）3月10日の東京大空襲で、両国国技館は被災し、周辺にあった相撲部屋もことごとく焼失した。焼け野原となった東京を襲ったのが深刻な食料不足で、みな空腹を抱え途方にくれていた。徴兵された力士たちも戦地から帰ってきたものの、明け荷は失われ、相撲部屋は壊滅状態、そして何より食べ物が無かった。相撲協会は真剣に解散を検討していた。 &lt;br /&gt;
しかし、関係者の情熱が実を結び、同年11月には応急処置を施した国技館で秋場所を行う事が出来た。ひどい雨漏りのする状態で、国技館でありながら晴天10日間興行であった。 &lt;br /&gt;
しかし、やがて国技館は占領軍に接収されてメモリアルホールと名を変えた。土俵は外に追い出され、明治神宮外苑相撲場の露天土俵で2年、トタン張りの浜町仮設国技館で1年を過ごす事になる。25年、東京浅草蔵前にバラックの仮設国技館が出来る。29年9月には蔵前国技館が落成し、60年に両国の新国技館が出来るまでの間、戦後の相撲史を刻む事になる。 &lt;br /&gt;
そして協会は、双葉山の引退、プロ野球の人気によって先行きに不安を感じていた。その為観客動員のために様々な改革をおこなっていった。 &lt;br /&gt;
昭和22年に、それまでの東西対抗戦の取組から一門系統別総当たり制の取組に変わった。殊勲・技能・敢闘の3賞もこの年に設けられた。25年には横綱審議委員会が設置された。27年には43年ぶりに力士のぼりが復活し、弓取り式が毎日行われるようになった。土俵の四本柱が取り除かれ、房に変わったのもこの年である。 &lt;br /&gt;
場所数も、昭和28年からは年4場所、そのうち3月は大阪場所となった。32年からは11月の九州場所を加え年5場所となり、33年には7月の名古屋場所を加えて年6場所とし、今に至る。 &lt;br /&gt;
戦後、横綱は29人誕生した。そのなかで、『栃若時代』『柏鵬時代』『北玉時代』『輪湖時代』『千代の富士時代』と、数々の名勝負を残した横綱の時代がいくつも起こった。彼らと、それを支えてきた名脇役達によって相撲人気は空前のものとなったのだった。&lt;br /&gt;
//--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明治・大正時代 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Wrestling at Tokyo 1890s.jpg|thumb|240px|明治中頃]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hitachiyama Chicago 1907.jpg|thumb|200px|訪米中の常陸山]]&lt;br /&gt;
*[[明治維新]]と[[文明開化]]に伴い、[[1871年]]（明治4年）東京府のいわゆる「[[裸体禁止令]]」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「[[相撲禁止論]]」が浮上した事もある。これは、自らも相撲をとることの多かった明治天皇と、その意を受けた伊藤博文たちの尽力により、[[1884年]]（明治17年）に[[天覧相撲]]が実現し、大相撲が社会的に公認されることで危機を乗り越えることができた。この[[天覧相撲]]の力士は58連勝（史上3位）を記録した15代横綱[[梅ヶ谷藤太郎_(初代)|初代・梅ヶ谷藤太郎]]。&lt;br /&gt;
*東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。&lt;br /&gt;
*[[1890年]]（明治23年）に入幕から39連勝で大関に駆け上がった[[小錦八十吉 (初代)|初代・小錦八十吉]]と横綱免許を受けた大関[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代・西ノ海嘉治郎]]のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。&lt;br /&gt;
*この頃から映像が映され出し、[[小錦八十吉 (初代)|小錦]]や[[大砲万右エ門|大砲]]が映された貴重な映像（1900年撮影）が現存している。&lt;br /&gt;
*20世紀の変わり目の頃には、横綱[[常陸山谷右エ門]]（明治29年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ）と[[梅ヶ谷藤太郎_(2代)|二代目・梅ヶ谷藤太郎]]の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。&lt;br /&gt;
*[[1907年]]（明治40年）常陸山が渡米。本格的な日本国外への相撲の紹介の最初であった。&lt;br /&gt;
*[[1909年]]（明治42年）[[6月2日]]、初の常設相撲場となる[[両国国技館]]の落成。相撲が[[国技]]とされた。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。&lt;br /&gt;
**この時、東西制（後述）と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与された。&lt;br /&gt;
**時事新報社（現在は[[毎日新聞社]]）の[[優勝額]]贈呈により、現在の優勝制度が始まる。&lt;br /&gt;
**この時から、今までは幕内力士の出場がなかった[[千秋楽]]にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、[[1923年]]（大正12年）5月から11日間に増加した。&lt;br /&gt;
*1910年（明治43年）5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの[[裃]]、[[袴]]から[[烏帽子]]、[[直垂]]となった。&lt;br /&gt;
*[[1917年]]（大正6年）11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期[[靖国神社]]境内で本場所が行われたこともあった。&lt;br /&gt;
*[[栃木山守也|栃木山]]が登場し、スピード感のある近代相撲の原型を作る。&lt;br /&gt;
*興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。&lt;br /&gt;
**大阪相撲においては、[[1922年]]（大正11年）竜神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。&lt;br /&gt;
**東京相撲でも、[[1923年]]（大正12年）に[[三河島事件]]と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱[[大錦卯一郎]]が廃業する事件が起こる。&lt;br /&gt;
**1923年（大正12年）9月1日の[[関東大震災]]により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。&lt;br /&gt;
**[[1924年]]（大正13年）1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった。&lt;br /&gt;
*[[1925年]]（大正14年）、[[皇太子]]（[[昭和天皇|裕仁親王・後の昭和天皇]]）の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の[[天皇賜杯]]が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、[[1926年]]（大正15年）1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 昭和時代 ===&lt;br /&gt;
*[[1927年]]（昭和2年）、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月（両国）、3月（関西）、5月（両国）、10月（関西）の計4回：11日間で開催（1929年（昭和4年）は10月でなく9月）されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。（この時期の番付編成については[[能代潟錦作]]の項目参照）&lt;br /&gt;
*この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。[[1928年]]（昭和3年）から[[ラジオ]]中継が始まったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]・不戦敗制度の全面施行、[[物言い]]のついた相撲での[[預り (相撲)|預かり]]の廃止と[[取り直し]]制度の導入、二番後取り直しによる[[引分 (相撲)|引き分け]]の縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。&lt;br /&gt;
*[[1931年]]（昭和6年）4月の[[天覧相撲]]の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m（15尺）の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた[[勝負審判|勝負検査役]]を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。&lt;br /&gt;
*[[1932年]]（昭和7年）1月に起こった[[春秋園事件]]で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催（1月、5月）となった。&lt;br /&gt;
*69連勝を記録した[[双葉山定次|双葉山]]の影響で興行日数は[[1937年]]（昭和12年）5月場所より13日間となり、[[1939年]]（昭和14年）5月場所より15日間と移り変わる。&lt;br /&gt;
*戦争の影響が次第に相撲界にも及び、[[1944年]]（昭和19年）に両国国技館が[[大日本帝国陸軍]]に接収され、5月場所から本場所開催地を[[後楽園球場|小石川後楽園球場]]に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。[[1945年]]5月場所は晴天7日間、[[明治神宮外苑|神宮外苑]]相撲場（現[[明治神宮野球場|明治神宮第二球場]]）で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で[[傷痍軍人|傷痍将兵]]のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は[[春日野部屋]]で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。&lt;br /&gt;
*[[東京大空襲]]で両国国技館や相撲部屋を焼失。&lt;br /&gt;
*戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して[[連合国軍最高司令官総司令部]]（GHQ）に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年（昭和20年）9月に[[土俵]]を4.84m（16尺）と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所（11月：10日間）が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m（15尺）に戻された。1946年（昭和21年）に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所（13日間）が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、[[1947年]]（昭和22年）には[[明治神宮]]外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は[[1948年]]（昭和23年）の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年（昭和23年）の秋場所（10月：11日間）には、戦後初の大阪場所が[[大阪市]]福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]や[[三賞]]制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。&lt;br /&gt;
*[[1949年]]（昭和24年）になり[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の浜町公園内に仮設国技館（木造）を建設し、ようやく1月場所（13日間）を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館（[[蔵前国技館]]）も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となった。その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。&lt;br /&gt;
*[[1950年]]（昭和25年）から[[1952年]]（昭和27年）は、本場所（1月、5月、9月）各15日間行われた（ただし1952年（昭和27年）には大阪場所が行われず、全て東京での開催であった）。大阪場所は、1950年（昭和25年）の秋場所より開催地を[[阿倍野区]]に、[[1951年]]（昭和26年）の秋場所からは[[大阪市]]難波（現在の[[大阪府立体育会館]]のある場所）にそれぞれ変更し、仮設国技館が建築されたが、最終的には1953年（昭和28年）に仮設国技館を立替て、大阪灘波府立体育会館（旧大阪府立体育館：現在の府立体育館と同じ場所）を完成させた。同年3月に大阪場所を行い、以後3月場所は大阪場所を行うようになる。&lt;br /&gt;
*横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる[[横綱審議委員会]]が発足した。1957年には理事長に重要事項の建議を行える「運営審議会」も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。&lt;br /&gt;
*[[栃錦清隆|栃錦]]と[[若乃花幹士 (初代)|初代・若乃花]]の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。[[1957年]]（昭和32年）には11月場所（九州場所、[[福岡スポーツセンター]]）、[[1958年]]（昭和33年）には7月場所（名古屋場所、[[名古屋市金山体育館]]）を行うようになり、現在のような6場所（1月、3月、5月、7月、9月、11月）、15日間という体系になった。また、[[1965年]]（昭和40年）1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ{{CURRENTYEAR}}年現在に至っている。&lt;br /&gt;
*[[国会 (日本) |国会]]で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと（1957年4月、[[衆議院]][[文部科学委員会|文教委員会]]）を受けて、[[相撲茶屋]]制度の改革、月給制の導入、[[相撲教習所]]の設立などの改革がこの当時行われた。[[横綱審議委員会]]の内規もこの時期に充実した。また、1961年には[[年寄]]の停年制が実施された（「停年」の表記については後述）。1968年には役員選挙の制度を導入、また前頭・十両の枚数削減も実施した。&lt;br /&gt;
*全国的に[[テレビ]]が普及するに従い、[[日本放送協会|NHK]]の相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。&lt;br /&gt;
*[[1971年]]（昭和46年）に中学在学中の入門が禁止され、当時在籍していた中学生力士は、卒業まで東京場所の日曜日のみの出場となった。&lt;br /&gt;
*[[1972年]]（昭和47年）1月場所からは、[[公傷制度]]が導入された（[[2003年]]11月場所まで）。&lt;br /&gt;
*[[吉田司家]]が二度の[[不渡り]]を出したために、日本相撲協会と不仲になる。&lt;br /&gt;
*1965年（昭和40年）にはソ連、[[1973年]]（昭和48年）には中国、[[1981年]]（昭和56年）にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。&lt;br /&gt;
*[[1985年]]（昭和60年）1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 平成時代 ===&lt;br /&gt;
*若貴兄弟（[[貴乃花光司]]・[[花田勝|若乃花勝]]）の活躍により、一時相撲ブームが起こった（二人の名を取って'''若貴ブーム'''とも呼ばれた）。伯父が名横綱・[[若乃花幹士 (初代)|初代若乃花]]、父が名大関・[[貴ノ花健士|初代貴ノ花]]という血統が、オールドファンを呼び戻すとともに、貴乃花の精悍な風貌、若乃花の人好きのする童顔は、それまで相撲に興味のなかった層の女性ファンも獲得した。&lt;br /&gt;
*平成の大相撲の最大の特徴は、外国出身力士の活躍である。横綱[[千代の富士貢]]の引退が呼び水になったように生じた横綱不在、群雄割拠の中、まず[[KONISHIKI|小錦]]が抜け出した。彼は膝の故障をついに克服しきれず、史上初の外国出身横綱を逸したが、ハワイ出身の後輩、[[曙太郎|曙]]（現：[[プロレスラー]]）、[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]が共にこれを果たし、優勝も二桁10回以上を重ねた。平成1ケタ代後期から10年代初期にかけては、若貴兄弟らの[[二子山部屋]]勢対曙・武蔵丸のハワイ勢の様相を呈した。&lt;br /&gt;
*貴乃花は曙らを抑えて優勝22回を数え日本人力士の体面を保ったが、その引退と入れ違いのように外国出身力士の主流はモンゴル勢に移った。[[2006年]]（平成18年）3月場所では、優勝と三賞をすべてモンゴル勢で占めることになった。[[ブルガリア]]出身の[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]]や[[エストニア]]出身の[[把瑠都凱斗|把瑠都]]が大関に昇進するなど、旧東欧圏出身力士も目立ち始めた。2006年1月場所の[[栃東大裕|栃東]]を最後に、日本人力士による幕内最高優勝は達成されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Dohyo.png|200px|thumb|土俵と各配置（行司・力士・勝負審判・控え力士・力水・塩）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本場所と地方巡業==&lt;br /&gt;
プロ興行としての大相撲では、公式戦（技量を査定し、待遇（地位と給与）を決める性質がある）である[[本場所]]は年間6回行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本場所のない時期には、地方巡業を行う。本場所の回数の少なかった時代には、各部屋や[[一門 (相撲)|一門]]別に巡業をしていたが、年間6場所制が確立した以後は、協会が管理して行われるようになった。この巡業での収入が、協会や各部屋にとっても大きな位置を占めていたので、明治から大正・昭和初期にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分の明朗化がスローガンとして掲げられることが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地方巡業は、各地の興行を希望する〈勧進元〉と呼ばれる人たちが協会に巡業開催の契約金を支払い、興行権を譲り受ける形（売り興行）で長年行われてきた。しかし1995年の巡業改革により、当時の[[佐田の山晋松|境川理事長]]の下で勧進元主催から協会の自主興行に変更された。ところが地方巡業は1992年の年間94日間をピークに減少を続け、ついに2005年には1958年（昭和33年）以降最小の15日間までに落ち込んだ。そのため、[[北の湖敏満|北の湖理事長]]の下で再び勧進元形態に戻すことになった。2006年に再開された海外巡業についても、地方巡業の増加対策と並ぶ巡業改革の一環となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地方巡業における各地の相撲ファンとの接触は、相撲の全国の普及に力を発揮している。かつては巡業で現地の有望な青年を入門させ、そのまま巡業に帯同させて、帰京して初土俵をふませたケースも多くあり、夏休み終了後の9月場所の初土俵力士にはそういうケースが目立っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本場所一覧 ===&lt;br /&gt;
{{main|本場所}}&lt;br /&gt;
{{CURRENTYEAR}}年現在&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!開催月!!正式名称!!通称!!開催場所&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1月||一月場所||初場所||[[両国国技館]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3月||三月場所||春場所||[[大阪府立体育会館]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5月||五月場所||夏場所||両国国技館&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月||七月場所||名古屋場所||[[愛知県体育館]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9月||九月場所||秋場所||両国国技館&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11月||十一月場所||九州場所||[[福岡国際センター]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 花相撲 ===&lt;br /&gt;
{{main|花相撲}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 海外公演 ===&lt;br /&gt;
海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!回数!!開催年月!!名　称!!都　市!!備　考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第1回||1965年7月-8月||{{flagicon|URS}}[[ソビエト連邦|ソ連]]公演||[[モスクワ]]、[[ハバロフスク]]||日ソ復交調印10周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第2回||1973年4月||{{flagicon|CHN}}[[中国]]公演||[[北京市|北京]]、[[上海市|上海]]||[[日中国交正常化]]記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第3回||1981年6月||{{flagicon|MEX}}[[メキシコ]]公演||[[メキシコシティ]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第4回||1985年6月||{{flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国|アメリカ]]公演||[[ニューヨーク]]||東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第5回||1986年10月||{{flagicon|FRA}} [[パリ]]公演||パリ||東京パリ友好都市提携5周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第6回||1990年6月||{{flagicon|BRA}}[[ブラジル]]公演||[[サンパウロ市|サンパウロ]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第7回||1991年10月||{{flagicon|UK}} [[ロンドン]]公演||ロンドン||日英協会設立100周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第8回||1995年10月||{{flagicon|AUT}} {{flagicon|FRA}} ヨーロッパ公演||[[ウィーン]]、パリ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第9回||1997年6月||{{flagicon|AUS}}[[オーストラリア]]公演||[[メルボルン]]、[[シドニー]]||日豪外交100周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第10回||1998年6月||{{flagicon|CAN}}[[カナダ]]公演||[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第11回||2004年2月||{{flagicon|KOR}}[[韓国]]公演||[[ソウル特別市|ソウル]]、[[釜山広域市|釜山]]||日韓共同未来プロジェクト&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第12回||2004年6月||{{flagicon|CHN}}中国公演||北京、上海||日中定期航空路線開設30周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第13回||2005年10月||{{flagicon|USA}} [[ラスベガス]]公演||ラスベガス||ラスベガス市制100周年記念&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第14回||2009年10月(中止)||{{flagicon|UK}} ロンドン公演||ロンドン||世界的な不況により中止&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===海外巡業===&lt;br /&gt;
協会とは別に主催者となる地元の興行主（勧進元）がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、[[満州]]をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、[[国際連盟]]の[[委任統治]]領であった[[南洋群島]]に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後は[[ハワイ]]巡業がしばしば行われ、そこでスカウトされたジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルア青年が[[高見山大五郎]]の四股名で関脇にまで昇進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!回数!!開催年月!!名称!!都市!!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第1回||1962年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||[[ホノルル]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第2回||1964年2月||{{flagicon|USA}} ハワイ、ロサンゼルス巡業||ホノルル、[[ロサンゼルス]]||[[角界拳銃密輸事件]]が起こる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第3回||1966年||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第4回||1970年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第5回||1972年2月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第6回||1974年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第7回||1976年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ、ロサンゼルス巡業||ホノルル、ロサンゼルス||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第8回||1981年6月||{{flagicon|USA}} アメリカ巡業||[[サンノゼ]]、ロサンゼルス||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第9回||1992年6月||{{flagicon|ESP}} [[スペイン]]、{{flagicon|GER}} [[ドイツ]]巡業||[[マドリード]]、[[デュッセルドルフ]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第10回||1993年2月||{{flagicon|HKG}} 香港巡業||[[香港]]||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第11回||1993年6月||{{flagicon|USA}} アメリカ巡業||ホノルル、サンノゼ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第12回||2006年8月||{{flagicon|Taiwan}} [[台湾]]巡業||[[台北市|台北]]||13年ぶりに海外巡業が復活&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第13回||2007年6月||{{flagicon|USA}} ハワイ巡業||ホノルル||14年ぶりのハワイ巡業&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第14回||2008年6月||{{flagicon|USA}} ロサンゼルス巡業||ロサンゼルス||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第15回||2008年8月||{{flagicon|Mongolia}} [[モンゴル]]巡業||[[ウランバートル]]||&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 番付と取組 ==&lt;br /&gt;
大相撲では、成績などを考慮して大きく2つ、小さくは6つのクラスに分けられ、このクラス内で対戦をするのが基本である。クラス内の地位は「[[番付]]」と呼ばれる順位表で示される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上位リーグは[[幕内]]と[[十両]]（十枚目）からなり、いわゆる[[関取]]と呼ばれるクラスの力士で構成される。その中でも最上位リーグに位置するのが'''幕内'''であり、番付上位から[[横綱]]・[[大関]]・[[関脇]]・[[小結]]・[[前頭]]の順位となる。[[三役]]とは小結以上を指し、前頭は「平幕」と呼ぶことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[本場所]]の[[取組]]は、日曜日から翌々週の日曜日までの1場所15日間で行われる。最初の日を「[[初日]]（しょにち）」、8日目を「[[中日]]（なかび）」、最終日を「[[千秋楽]]（せんしゅうらく）」と呼ぶ。幕内の取組は、幕内力士[[土俵入り]]、[[横綱土俵入り]]の後、16:15頃（以下[[日本標準時|日本時間]]）から行われ、千秋楽を除き大体18:00前後に全取組が終了する（[[大相撲中継]]に合わせるため）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一日の取組のうち、幕内以後を「[[中入]]」と呼び（ニュースのスポーツコーナーで報じられる結果は全てここから）、最後の取組を「結び（の一番）」と呼ぶ。また、全取組終了後に[[弓取式]]が行われ、これが終わった時点で「打出し」としてその日の日程は終了する。また、千秋楽に限り、残り3番となったところで、取組を控えた6人の力士が東西それぞれ3人ずつ土俵に上がり揃い踏みを行う。これを「[[これより三役]]」と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕内に続く上位リーグが'''十両'''で、15:00頃から15:50頃にかけて取組が行われる。下位リーグは、上位から[[幕下]]、[[三段目]]、[[序二段]]、[[序ノ口]]となっており、序ノ口には新規入門力士が多く登場する。関取を目指そうと、9:00頃から始まり15:00頃まで取組が行われる。さらに序ノ口の取組前には、番付にも載らない入門したての力士たちによる[[前相撲]]が行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 部屋別総当たり制 ===&lt;br /&gt;
幕内と十両では1場所で1人15番、幕下以下は1人7番の[[取組]]を行い、勝利数で優勝者を決める。勝利数が同じ場合は[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を行う。リーグは総当たり制ではなく、本割（ほんわり、正規の対戦）では同じ部屋に所属する力士同士は対戦しない。これは'''部屋別総当たり制'''と呼ばれる。部屋が違っても実の兄弟同士のおよび実の叔父甥の関係の取組は組まれないのが不文律であったが、[[2009年]]（[[平成]]21年）1月29日の理事会において4[[親等]]以内の力士同士での本割取組を行わないことを決定し、取組編成要領に明文化されることになった。なお優勝決定戦においては現行通り、4親等以内でも対戦させる。場所中の取組で白星（勝利）を多く重ねてくると、下位であっても終盤の対戦相手に上位の力士を割り当てられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
力士が本場所の取組で過半数（十両以上は8日、幕下以下は4日）勝つことを「[[勝ち越し]]」、これに満たないことを「[[負け越し]]」という。次の場所では勝ち越した力士の番付が上がり、負け越した力士の番付が下がる。ただし、横綱・大関は最上位の番付であるため昇進には厳しい条件がつけられているほか、横綱に降格はなく、大関の降格も2場所連続負け越しの場合に限られる（大関が負け越して翌場所陥落の可能性があることを[[角番]]という）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十両と幕下以下では[[#力士の待遇|力士の待遇]]で示すとおり大きく待遇が異なるため、幕下上位の取組や十両下位力士と幕下との取組では熾烈なものとなる。好角家にはこれらの取組を楽しみにしているものも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===東西制と系統別総当たり制===&lt;br /&gt;
番付には、東と西という区別がある。江戸時代から明治時代にかけては、東と西に分けられており、番付の昇降も東西それぞれで行われ、東西の同じ側同士の対戦はなかった。また、東と西との2枚の番付を作っていた大坂相撲とは違って、東西を1枚にまとめた江戸相撲では、東が右側に配置されていたが、最初は東西の間に優劣はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1890年]]（明治23年）5月に、横綱免許を受けていた大関・[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代西ノ海嘉治郎]]が[[張出]]大関にさせられることに抗議した結果、番付上に初めて〈横綱〉が明記されたとき、東に張り出されたことから、横綱を東方におくようになったことで、東が優位という印象が明確になっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1909年]]（明治42年）の夏場所に、国技館が開館したときに、幕内に団体優勝制度ができた。番付の東と西とで対抗戦をして、勝ち星の多いほうに優勝旗を授与し、翌場所の番付を東に配置することにしたのである。これを'''[[東西制]]'''と呼んだ。優勝旗は勝った側の関脇以下の幕内力士のうち最優秀の成績をあげた者が[[優勝旗手]]の栄誉を得ることと決められた。これは好評を呼び、当時の好角家の間でも、〈出羽海びいき〉〈連合（非出羽方）びいき〉という区別もできた。ただし、東西の戦力バランスの関係や、横綱が片方に偏らないように、ときどき東西の組み替えも行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、このシステムは幕内だけで、十両以下に関しては系統別総当たり制で東西の区別もなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1932年]]（昭和7年）の[[春秋園事件]]の結果、脱退者が多く、幕内力士の人数が少なくなったために、春場所から東西制を中止し、[[一門 (相撲)|一門]]による'''[[系統別総当たり制]]'''を幕内でも実施するようになった。しかし、[[出羽海部屋]]の幕内力士が増加し、公平な取組をつくることが難しくなったので、1940年（昭和15年）1月場所から、ふたたび東西制にもどし、団体優勝と旗手の制度を復活させた。しかし、それでも東西のバランスをとることはむずかしく、配置換えも何度もおこなわれ、[[伊勢ヶ濱部屋]]や[[朝日山部屋]]の力士が東西に振り分けられることさえあった。（もちろん同部屋の力士同士の対戦はなかった）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、大相撲の人気回復のために、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]や[[三賞]]制度を導入すると同時に、取組の多様化を進めるために、[[1947年]]（昭和22年）11月場所から、系統別総当たり制に戻した。しかし、[[立浪部屋]]と[[時津風部屋]]が一門としては別なのに、師匠同士が兄弟弟子（[[羽黒山政司]]と[[双葉山]]）というだけの関係で対戦がないことや、[[二所ノ関部屋|二所ノ関]]一門が次々と分離独立していったことから、再び取組が硬直化して不公平感が生じてきたので、[[1965年]]（昭和40年）1月場所から、完全な'''部屋別総当たり制'''を実施し、現在に至っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成時代初期に、[[二子山部屋]]や[[武蔵川部屋]]の幕内力士が上位に集中したことから、個人別総当たり制が話題になったこともあったが、養成員（幕下以下の力士）時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりから考えると、個人別総当たり制の実現は今後もまず不可能であると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 力士の条件と待遇 ==&lt;br /&gt;
=== 力士の条件 ===&lt;br /&gt;
{{main|新弟子検査}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 力士の報酬 ===&lt;br /&gt;
大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する[[力士褒賞金]]（給金）と、いわゆる2階建てになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
!項目!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|月額給与||282万0,000||234万7,000||169万0,000||130万9,000||103万6,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|年額給与||3,384万0,000||2,816万4,000||2,028万0,000||1,570万8,000||1,243万2,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|年額賞与||564万0,000||469万4,000||338万0,000||261万8,000||207万2,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|特別手当||120万0,000||90万0,000||30万0,000||　||　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|出張手当||115万5,000||99万7,000||85万0,000||74万5,000||68万2,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|力士補助金||7万5,000||7万5,000||7万5,000||7万5,000||7万5,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|力士褒賞金||60万0,000||40万0,000||24万0,000||24万0,000||16万0,000&lt;br /&gt;
|- bgcolor=&amp;quot;yellow&amp;quot;&lt;br /&gt;
|align=center|年額報酬||4,551万0,000||3,723万0,000||2,632万5,000||2,058万6,000||1,622万1,000&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
*力士褒賞金は、本場所ごとの最低支給金額（年額報酬では6場所分で計算）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 給与 ====&lt;br /&gt;
十両以上の力士には、次の通りの金額が月額給与として支給される。支給単位は本場所ごとになっているため、11月場所で十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。このため、幕下陥落が確実になり引退の意思を表明した力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付発表後まで遅らせ、番付に名を残すケースも多い。&lt;br /&gt;
*横綱：282万0000円&lt;br /&gt;
*大関：234万7000円&lt;br /&gt;
*三役：169万3000円&lt;br /&gt;
*平幕：130万9000円&lt;br /&gt;
*&amp;lt;!--十枚目（--&amp;gt;十両&amp;lt;!--）--&amp;gt;：103万6000円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 賞与 ====&lt;br /&gt;
賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本場所特別手当 ====&lt;br /&gt;
本場所特別手当は、三役以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日～10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休（不戦敗も含む）の場合は支給されない。&lt;br /&gt;
*横綱：20万0000円&lt;br /&gt;
*大関：15万0000円&lt;br /&gt;
*三役：  5万0000円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 出張手当 ====&lt;br /&gt;
出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分支給される。&lt;br /&gt;
*横綱：宿泊費8000円、日当3000円&lt;br /&gt;
*大関：宿泊費7500円、日当2000円&lt;br /&gt;
*三役：宿泊費6500円、日当1600円&lt;br /&gt;
*平幕：宿泊費5700円、日当1400円&lt;br /&gt;
*&amp;lt;!--十枚目（--&amp;gt;十両&amp;lt;!--）--&amp;gt;：宿泊費5300円、日当1200円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 力士補助金 ====&lt;br /&gt;
力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。&lt;br /&gt;
*横綱から十枚目（十両）まで：一律2万5000円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 力士褒賞金 ====&lt;br /&gt;
{{main|力士褒賞金}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 力士養成員の報酬 ===&lt;br /&gt;
幕下以下は「[[力士養成員]]」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されない。次の通りの金額が場所手当として本場所ごとに年6回支給される。&lt;br /&gt;
*幕下：15万円&lt;br /&gt;
*三段目：10万円&lt;br /&gt;
*序二段：8万円&lt;br /&gt;
*序ノ口：7万円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
!項目!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|場所手当||150,000||100,000|| 80,000|| 70,000&lt;br /&gt;
|- bgcolor=&amp;quot;yellow&amp;quot;&lt;br /&gt;
|align=center|年額報酬||900,000||600,000||480,000||420,000&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また本場所の成績により、次の通りの奨励金が支給される。&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
!項目!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|勝星奨励金||2,500||2,000||1,500||1,500&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|勝越金||6,000||4,500||3,500||3,500&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋で出来る（費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている）うえに、共同の食事である「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 懸賞金 ===&lt;br /&gt;
[[懸賞 (相撲)]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 力士の退職金 ===&lt;br /&gt;
十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金（いわゆる一般功労金）が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 養老金 ====&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|資格者||15,000,000||10,000,000||7,630,000||7,630,000||4,750,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|非資格者||--||--||7,630,000||4,750,000+（勤続場所数-1）×120,000||1,150,000+（勤続場所数-1）×150,000&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 勤続加算金 ====&lt;br /&gt;
番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の（　）内の数字は、非資格者。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（2006年1月現在、単位：円）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!!!横綱!!大関!!三役!!平幕!!十両&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|横綱||500,000||400,000||250,000||200,000||150,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|大関||--||400,000||250,000||200,000||150,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|三役||--||--||250,000||200,000 (150,000)||150,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|平幕||--||--||--||200,000 (150,000)||150,000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|十両||--||--||--||--||150,000&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====特別功労金====&lt;br /&gt;
[[横綱]]･[[大関]]には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から[[個人情報保護法]]が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては'''[[公益法人]]'''たる財団法人[[日本相撲協会]]の方針として不適切であるとの意見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 力士の待遇 ===&lt;br /&gt;
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!地位!!幕内!!十両!!幕下!!三段目!!序二段!!序ノ口&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 髷&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[大銀杏]]&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|[[丁髷]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 服&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|紋付羽織袴&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|着物・羽織（外套・襟巻も着用可）&lt;br /&gt;
| 着物・羽織&lt;br /&gt;
| 着物（浴衣もしくはウール）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 帯&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;3&amp;quot;|[[博多織|博多帯]]&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;3&amp;quot;|[[銅アンモニアレーヨン|ベンベルグ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 履物&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|足袋に雪駄&lt;br /&gt;
| 足袋に雪駄（エナメル製）&lt;br /&gt;
| 素足に雪駄（エナメル製）&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|素足に下駄&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 稽古廻し&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|白色・木綿&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|黒色・木綿&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 取り廻し&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[博多織]]繻子&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|黒色・木綿&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 下がり&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|取り廻しの共布&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|紐&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 足袋の色&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|白&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|黒&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! &amp;lt;span style=&amp;quot;white-space:nowrap;&amp;quot;&amp;gt;控えの敷物&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 私物の座布団（色は自由）&lt;br /&gt;
| 共用の座布団（紫）&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|共用（畳）&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
このほかにも以下のような違いがある。&lt;br /&gt;
;三役以上の力士&lt;br /&gt;
*初日と千秋楽に行われる協会挨拶で理事長と共に土俵に上がる。&lt;br /&gt;
;幕内以上の力士&lt;br /&gt;
*横綱土俵入りで露払いや太刀持ちを務めることができる。&lt;br /&gt;
;十両以上の力士&lt;br /&gt;
*[[力士会]]に参加できる。&lt;br /&gt;
*幕下以下の力士が付け人として付く（地位が上がるほど人数も増える）。ちゃんこ作り、掃除、買出しなどの部屋の雑用も原則免除。&lt;br /&gt;
*相撲部屋において個室が与えられるか、別居が許される（幕下以下の力士は、共同の部屋で寝起きする）。&lt;br /&gt;
*起床時間など生活の自由度が飛躍的に増す。&lt;br /&gt;
*巡業・本場所などの興行で自分の名前が入った[[幟]]を立てることができる（一般に後援会から寄贈される事が多い）。&lt;br /&gt;
*化粧回しを締めて[[土俵入り]]を行う（十両と幕内は別に行われる）。&lt;br /&gt;
*支度部屋に[[明け荷]]を持ち込むことができる（横綱は3個、横綱以外は1個）。&lt;br /&gt;
*取組では、力水、力紙、塩を使用する（幕下上位の取組の場合で、進行が早い場合は塩を使用することがある）。&lt;br /&gt;
*一人前の力士の敬称である「関取」「＊＊関」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
*優勝力士に頼まれて優勝旗を持ち、優勝力士と一緒にオープンカーに乗って優勝行進できる。&lt;br /&gt;
なお、幕下以下の力士養成員でも本場所で十両力士と対する場合や弓取り式を行う者、[[初っ切り]]、甚句、断髪式の時は大銀杏が結える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 待遇の歴史 ===&lt;br /&gt;
歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。[[江戸時代]]には本場所の興行収入は一部の[[年寄]]たち（江戸相撲会所。現在の[[日本相撲協会]]の先祖）によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三役力士ともなれば、大名家から[[抱え (相撲)|お抱え]]とされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主（勧進元）から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていたが、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。もちろん、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うにこまるまで困窮する力士も少なかったが、本場所で「星を売る」、いわゆる[[八百長]]行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている（名指しされた者が認めるわけもないので事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、真相解明は尻すぼみに終わる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治]]に入って以降も、大名家が[[藩閥政治]]の有力者となった以外、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、[[昭和]]における[[春秋園事件]]はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1958年（昭和33年）、こうした相撲界の体質が[[国会]]でも問題視されて以降、月給制など力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所と相撲協会主導の地方巡業によって、一年のほとんどを拘束される力士たちに対して、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」などの声もある。一方で、税金対策や引退時の退職金制度など、表面に表れにくい部分で他のプロスポーツよりむしろ充実しているという見方もある。たとえば、国技館内には力士のみならず一般の診察も受け付ける[[相撲診療所]]があったり、[[社会保険組合]]を独自に運営していたりする点、また[[厚生年金]]制度を導入していることなど、福利厚生についてはむしろ一般企業に近いとも言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金銭の面に関しては、角界というのは、とにかく後援者（[[タニマチ]]）からの祝儀が大きな収入源のひとつになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへかなり有力な人物がタニマチとしてバックに付くと、優勝すれば1,000万以上の祝儀が集められるという。とくに千代の富士全盛時は一晩で5,000万集まったという。横綱の月給が282万であり、他のプロスポーツのトップクラスに比べて相当に安いのだが、これは角界ではこういった後援者からの祝儀が表面の給与に比べて大きな比重を占めているという現実がある。とくに年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金など、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝統とそれによる問題点 ==&lt;br /&gt;
大相撲は、力士が[[大銀杏]]などまげ（髷）を結うなどの[[日本]]の[[伝統]]的・古風な文化の他、[[土俵]]上への[[女性]]の立ち入りを認めない（春場所は[[2000年]]以降、時の[[大阪府]][[都道府県知事|知事]]・[[太田房江]]による知事賞の直接授与が認められなかった）など、[[男尊女卑]]の「伝統」も強く保たれている。その為、一部のフェミニストからは異論の声があがっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[横綱審議委員会]]と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士（[[年寄]]）によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、[[年寄名跡|年寄株]]もむしろ余り気味なのが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き、1998年5月には「[[準年寄]]」制度の導入などで対応したが（[[2006年]]末廃止）、それでも数々のトラブルが発生している。[[KONISHIKI|小錦]]、若乃花（[[花田勝]]）、[[曙太郎|曙]]といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、[[芸能界]]や[[格闘技]]、[[プロレス]]など他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。なお、年寄になるためには、[[日本国籍]]が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が[[文部科学省]]所管の[[財団法人]]であることが大きい。現実に外国出身で三役、横綱まで務める者が現れているが、彼らの中には協会に残るために日本国籍を取得（[[帰化]]）している（前述の元関脇・高見山、先代・東関親方など）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[力士養成員]]への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大相撲の公演中、升席では[[喫煙]]が認められていたが、[[健康増進法]]の施行に伴い、{{和暦|2005}}1月場所から全館禁煙となった（室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えたのが大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である）。そのため、升席で使用していた灰皿が[[相撲博物館]]に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一部の部屋では、俗に「かわいがり」と言われる（稽古名目での）[[私刑]]が横行している状況であり、下位力士に対し[[竹刀]]を用いて身体を叩くなどの厳しい指導を行うことに対する批判がある。[[2007年]]には[[時津風部屋力士暴行死事件]]が発覚。[[愛知県警察|愛知県警]]が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会[[北の湖敏満]]理事長が[[文部科学省]]より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。さらに、双津竜順一は、三田佳子の次男である高橋祐也から、[[覚醒剤]]を譲り受け、常習していることも明らかになっている。このことは、高橋祐也自身が梨元勝に暴露したことから、3度めの逮捕となったとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[2010年]]2月には第68代横綱・[[朝青龍明徳|朝青龍]]が度重なる[[トラブル]]に対し、横綱審議委員会から初の「引退勧告書」が提出された事も有り、朝青龍自ら責任を取る形で引退に追い込まれる。さらに同年5月には[[大相撲野球賭博問題]]が発生、大関・[[琴光喜啓司|琴光喜]]を筆頭に数十名の力士や親方らなどが関与したと報道、既に多くの相撲関係者が野球賭博などの違法賭博への関与を認めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした問題点を反映してか、近年の日本では力士になりたいと思う少年が大幅に減少し、2007年の名古屋場所では新弟子検査の受検者が0人であった。さらに大学相撲出身者と外国人力士の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」というよりも「一般スポーツ競技の一種」としか捉えていない力士が殆どで有る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
*1961年（昭和36年）から1991年（平成3年）まで、[[パンアメリカン航空]]賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人の[[デビッド・ジョーンズ (パンアメリカン航空)|デビッド・ジョーンズ]]が、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年（平成3年）5月場所を最後に同賞は廃され（パンナム自体その約半年後に倒産）、ジョーンズも2005年（平成17年）[[2月2日]]に逝去している。&lt;br /&gt;
*NHKがテレビ中継する際、懸賞の垂れ幕はCMになるため、文字が見えない程度まで広角に撮影し、会場の音声も出来るだけ絞って放送している（[[懸賞 (相撲)|懸賞]]を参照）。&lt;br /&gt;
*力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった[[旭道山和泰]]が[[衆議院議員選挙]]に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年（平成8年）11月17日から次のように表現を改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!区分!!改称前!!改称後&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|力士&lt;br /&gt;
||廃業||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; |引退&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|引退&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|年寄&lt;br /&gt;
||廃業||退職&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot;| 停年&amp;lt;ref&amp;gt;「定年」ではない。[[相撲界|角界]]特有の表現。&amp;lt;/ref&amp;gt;、退職　&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*満65歳（誕生日の前日）を以って年寄は[[定年退職]]となるが、日本相撲協会では'''停年'''の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。&lt;br /&gt;
*かつては大相撲の力士がテレビの[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に出演することを全面禁止していた時代があった。これは大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという日本相撲協会の方針に沿ったものであった。ただCM禁止中の時代に特例で[[貴乃花光司|貴乃花]]、[[花田勝|若乃花]]兄弟が[[国民年金]]のCMに出演した例はある。現在､CM出演は再解禁されている。&lt;br /&gt;
*[[金星 (相撲)|金星]]などの番狂わせがあったとき、観客が[[座布団の舞|座布団を投げる光景]]が見られることがある。一方で、行司が務めている場内アナウンスでは「危険ですから座布団を投げないよう願います」と注意をしている。明治時代には、[[贔屓|ひいき]]の力士にご祝儀を与えるために、あえて個人を特定できるものを土俵に向かって投げるという習慣もあったというが、現在のいわゆる「座布団の舞」はそうした伝統に連なるものではない。&amp;lt;!--を知らずにやっている場合が多いといわれている。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用（縦1メートル25、横50センチ）の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた。--&amp;gt; '' → 詳細は「[[座布団の舞]]」の項を参照。''&lt;br /&gt;
*「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンを自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・[[ジャック・シラク]]が設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月に[[ニコラ・サルコジ]]が第六代大統領に就任すると、これをさっさと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったのとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大相撲を主題とした作品 ==&lt;br /&gt;
=== テレビゲーム ===&lt;br /&gt;
*大相撲（[[データイースト]]、1984年）&lt;br /&gt;
*出世大相撲（テクノスジャパン、1984年）&lt;br /&gt;
*[[つっぱり大相撲]]（[[テクモ]]、1987年）&lt;br /&gt;
*[[寺尾常史|寺尾]]のどすこい大相撲（[[ジャレコ]]、1989年）&lt;br /&gt;
*SDバトル大相撲　平成ヒーロー場所（[[バンプレスト]]、1990年）&lt;br /&gt;
*千代の富士の大銀杏（[[FACE]]、1990年）&lt;br /&gt;
*スーパー大相撲熱戦大一番（[[ナムコ]]、1992年）&lt;br /&gt;
*大相撲魂（[[タカラ_(玩具)|タカラ]]、1992年）&lt;br /&gt;
*つっぱり大相撲 立身出世編（テクモ、1993年）&lt;br /&gt;
*若貴大相撲 夢の兄弟対決（イマジニア、1993年）&lt;br /&gt;
*横綱物語（KSS、1994年）&lt;br /&gt;
*64大相撲（ボトムアップ、1997年）&lt;br /&gt;
*64大相撲2（ボトムアップ、1998年）&lt;br /&gt;
*日本相撲協會公認 日本大相撲（[[コナミ]]、2000年）&lt;br /&gt;
*日本相撲協會公認 日本大相撲 格闘編（コナミ、2001年）&lt;br /&gt;
*日本相撲協會公認 日本大相撲 激闘本場所編（コナミ、2002年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 落語 ===&lt;br /&gt;
*[[花筏]]&lt;br /&gt;
*[[阿武松_(落語)|阿武松]]&lt;br /&gt;
*[[大安売り]]&lt;br /&gt;
佐ノ山&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 雑誌 ===&lt;br /&gt;
以下の[[雑誌]]が定期的に刊行されている。&lt;br /&gt;
*[[大相撲 (雑誌)|大相撲]]（[[読売新聞|読売新聞社]]）&lt;br /&gt;
*[[相撲 (雑誌)|相撲]]（[[ベースボール・マガジン社]]）＝日本相撲協会[[機関誌]]扱い&lt;br /&gt;
*VANVAN相撲界（同上）&lt;br /&gt;
*別冊グラフNHK大相撲特集号→[[大相撲中継|NHK大相撲中継]]（[[NHKサービスセンター]]）&lt;br /&gt;
※NHK大相撲中継のみ隔月刊=場所前に発行、他は月刊誌。VANVAN相撲界は1998年終刊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漫画作品 ===&lt;br /&gt;
*[[ああ播磨灘]]（[[さだやす圭]]）&lt;br /&gt;
*[[両国花錦闘士]]（[[岡野玲子]]）&lt;br /&gt;
*[[のたり松太郎]]（[[ちばてつや]]）&lt;br /&gt;
*[[おかみさん]]（[[一丸]]）&lt;br /&gt;
*[[やぐら嵐]]（[[ビッグ錠]]）&lt;br /&gt;
*[[やぐら太鼓の詩]]（[[琴剣]]）&lt;br /&gt;
*[[ちゃんこ屋虎太郎]]（琴剣）&lt;br /&gt;
*[[はっけよい]]（[[前川たけし]]）&lt;br /&gt;
*[[巴戦、待ったなし]]（[[岸本景子]]）&lt;br /&gt;
*[[おっとと、お相撲くん]]（[[コンタロウ]]）&lt;br /&gt;
*[[どす恋ジゴロ]]（[[平松伸二]]）&lt;br /&gt;
*[[嗚呼どす恋ジゴロ]]（平松伸二）&lt;br /&gt;
*[[よりきり君]]（平ひさし）&lt;br /&gt;
*[[大相撲刑事]]（[[ガチョン太朗]]）&lt;br /&gt;
*[[力人伝説 -鬼を継ぐもの-]]（原作：[[宮崎まさる]]、作画：[[小畑健]]）&lt;br /&gt;
*[[ももたろう]]（[[小山ゆう]]）&lt;br /&gt;
*[[バチバチ]]（[[佐藤タカヒロ]]）&lt;br /&gt;
*[[達磨(漫画)|達磨]]（[[木村えいじ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画作品 ===&lt;br /&gt;
*[[名寄岩 涙の敢闘賞]]（[[小杉勇]]監督、[[1956年]]）&lt;br /&gt;
*[[若ノ花物語 土俵の鬼]]（[[森永健次郎]]監督、1956年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[千代の富士物語]]（[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、1991年）&lt;br /&gt;
* [[まったナシ!]]（[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1992年）&lt;br /&gt;
* [[ひらり (朝ドラ)|ひらり]]（[[日本放送協会|NHK]]、1992年）&lt;br /&gt;
* [[おかみさんドスコイ!!]]（[[毎日放送]]、2002年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==大相撲ファンの著名人==&lt;br /&gt;
*[[好角家]]を参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Wikinewscat}}&lt;br /&gt;
*用語･名鑑&lt;br /&gt;
**[[相撲用語一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲の決まり手一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲隠語一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲力士一覧]]&lt;br /&gt;
**[[現役中に死亡した力士一覧]]&lt;br /&gt;
**[[横綱一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大関一覧]]&lt;br /&gt;
**[[関脇一覧]]&lt;br /&gt;
**[[小結一覧]]&lt;br /&gt;
**[[現役年寄一覧]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲優勝力士一覧]]&lt;br /&gt;
**[[幕内最高優勝の記録]]&lt;br /&gt;
***[[勝利#大相撲|勝利数]]&lt;br /&gt;
*概論･制度･伝統&lt;br /&gt;
**[[相撲]]&lt;br /&gt;
**[[相撲界]]&lt;br /&gt;
**[[年寄]]&lt;br /&gt;
**[[年寄名跡]]&lt;br /&gt;
**[[行司]]&lt;br /&gt;
**[[横綱土俵入り]]&lt;br /&gt;
**[[大相撲中継]]&lt;br /&gt;
**[[座布団の舞]]&lt;br /&gt;
**[[水入り]]&lt;br /&gt;
**[[日本大相撲トーナメント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*団体･施設&lt;br /&gt;
**[[日本相撲協会]]&lt;br /&gt;
**[[横綱審議委員会]]&lt;br /&gt;
**[[蔵前国技館]]&lt;br /&gt;
**[[両国国技館]]&lt;br /&gt;
**[[大阪府立体育館]]&lt;br /&gt;
**[[愛知県体育館]]&lt;br /&gt;
**[[福岡国際センター]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.sumo.or.jp/ 日本相撲協会公式サイト]&lt;br /&gt;
*[http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/shis/ss00.html 日本相撲史概略]&lt;br /&gt;
*[http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm 大相撲 記録の玉手箱]&lt;br /&gt;
*[http://www.amy.hi-ho.ne.jp/fukunokami/sumou/sumou.htm 江戸時代のお相撲さん] - 開設者の先祖が「真力鉄蔵」という[[江戸時代]]の力士らしい。&lt;br /&gt;
*[http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html スポーツ文化情報館]&lt;br /&gt;
*[http://www.beemanet.com/essay/sumo/ 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―]&lt;br /&gt;
*[http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn086.html 社会的構築物としての相撲―報恩古式大相撲の事例を巡って]&lt;br /&gt;
*[http://www.takekaze.com 豪風 東京後援会] - 大相撲　豪風関の東京後援会WEBサイト。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書 ==&lt;br /&gt;
*風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:大相撲|*]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:sumo]]&lt;br /&gt;
[[zh:大相撲]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>男の娘</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>三田のクソババア</title>
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				<updated>2018-04-05T05:45:59Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;男の娘: /* 人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''三田のクソババア'''（みたのくそばばあ、[[1941年]][[10月8日]] - ）は、[[大阪府]][[大阪市]]出身の[[女優]]、[[蛆虫]]。夫は[[高橋康夫]]。長男は[[森宮隆]]、次男は[[高橋祐也]]。[[女子美術大学付属高等学校・中学校|女子美術大学付属高校]]卒業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本名、'''高橋 嘉子'''（たかはし よしこ、旧姓：'''石黒'''）。芸名、'''[[三田佳子|三田 佳子]]'''（みた よしこ）。[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
芸名である三田佳子の「三田」は、[[慶應義塾大学]]の所在地からとったものとされる。テレビ出演後、その演技力を買われ、[[1960年]]、[[東映]]に入社する。同年、『殺られてたまるか』で女優デビュー。最初から主役級で起用され、以降、'''東映の看板女優'''として活躍した。[[東映]]時代は[[佐久間良子]]と常にライバル視された。その一方で[[児玉誉士夫]]やその盟友の[[町井久之]]とも親しく、ダーティーな噂が絶えなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]]フリーになり、映画のみならず、テレビ・舞台で幅広く活躍。特に[[1984年]]の映画『Wの悲劇』での演技は絶賛を浴び、各映画賞を総なめして三田の評価を高めた。この頃より、同年代の女優の中で頭一つ飛び抜けた存在となって、大女優としての風格を身につけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1989～90年には連続し、[[NHK紅白歌合戦]]の紅組司会を務めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
納税者番付では俳優・タレント部門で[[1991年]]から[[1994年]]まで4年間連続トップとなり、良妻賢母のイメージで好感度が高くCMにも引っ張りだこであった。その一方で[[泉ピン子]]も真っ青になるほどの若手女優イビリが実話誌で暴かれ、人間性においても「[[佐藤孝行]]や[[西村眞悟]]、[[荘田悦宏]]にも劣る人間のカス」と呼ばれた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若手女優をいびる卑劣な人間性は家庭でも発揮され、1998年と2000年の2度にわたり次男の[[高橋祐也]]が[[覚せい剤取締法]]違反で逮捕されるという不祥事が発生し、マスコミ各方面から厳しく叩かれたが、原因は三田の育児放棄によるもので自業自得であるといえる。記者会見では「母が女優ということで未成年である息子の事件が報道されてかわいそう」「（高校生の）次男のこづかいは月50万円」とも話し、世間から猛烈な批判を浴びることとなった。なおこの時三田は「原因は私が人生をかけて究明いたします」と話したが、この発言は嘘八百の妄言であることは火を見るより明らかである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、当時出演していたCM8本すべて降板、一旦は女優業を控えざるをえなくなったが、[[2003年]]に[[水野晴郎]]の怪作『[[シベリア超特急|シベリア超特急3]]』に出演し復帰への足がかりとし、その後は映画『海猫』、テレビドラマ『[[いま、会いにゆきます]]』など仕事を再開し、[[2007年]]9月16日放送の『[[ひまわり〜夏目雅子27年の生涯と母の愛〜]]』では、事実上仲間由紀恵とのダブル主演という形であり、女優として完全復活を遂げたと思われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[2007年]]11月15日、祐也がまたしても[[覚醒剤]]所持の現行犯で逮捕された（3回目。この頃の祐也は歌手活動も行っていた）。また、逮捕前に、力士暴行死事件を起こし、逮捕された元時津風親方こと双津竜順一に覚醒剤を勧めた事実を[[梨元勝]]に暴露していた。これが逮捕のきっかけとなったこととされている。翌日の会見の中で「すべては私たち夫婦の教育の失敗」と全面的に謝罪、「引退も考えた」と心境を語った。三田は同年12月1日からの舞台『[[エドの舞踏会]]』については降板しないことを表明した。また、裁判中に芸能活動がほぼ停止中であったために月20万円の小遣いを渡していたことも明らかになり、この事件でまたも三田のイメージは失墜、今後の芸能生活に大きく影を落とすこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== おもな出演作品 ==&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
*[[乾杯!ごきげん野郎]]（1961年）　‐　明石まゆみ　役&lt;br /&gt;
*[[人妻椿]]（1967年）　‐　矢野嘉子　役&lt;br /&gt;
*[[座頭市]]（1968年）&lt;br /&gt;
*燃える秋（1978年）&lt;br /&gt;
*[[赤穂城断絶]]（1978年）　‐　[[瑤泉院]]　役&lt;br /&gt;
*[[黄金の犬]]（1979年）&lt;br /&gt;
*[[未完の対局]]（1982年）　‐　恩田忍（松波の妹）　役&lt;br /&gt;
*[[Wの悲劇]]（1984年）　‐　羽鳥翔　役&lt;br /&gt;
*[[漂流教室#映画|漂流教室]]（1987年）　‐　高松恵美子　役&lt;br /&gt;
*[[敦煌 (映画)]]（1988年）　‐　西夏の女　役&lt;br /&gt;
*[[男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日]]（1988年）　‐　原田真知子　役&lt;br /&gt;
*[[極道の妻たち]]　「三代目姐」（1989年）&lt;br /&gt;
*利休（1989年）&lt;br /&gt;
*[[遠き落日]]（1992年）　‐　野口シカ　役&lt;br /&gt;
*[[シベリア超特急|シベリア超特急3]]（2003年）　‐　森裕美　役&lt;br /&gt;
*[[バトル・ロワイアルII 鎮魂歌]]（2003年）　‐　青井拓馬の母　役&lt;br /&gt;
*[[ドラッグストア・ガール]]（2004年）　‐　ハッスルドラッグ社長　役&lt;br /&gt;
*[[海猫]]（2004年）　‐　野田タミ　役&lt;br /&gt;
*[[魂萌え!]]（2007年）　‐　伊藤昭子　役&lt;br /&gt;
ポケモン(2014年)ゼルネアス役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
'''[[日本放送協会|NHK]]'''&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]（1965年）　‐　淀殿　役&lt;br /&gt;
*[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]（1968年）　‐　お田鶴　役&lt;br /&gt;
*[[男は度胸]]（1970年）　‐　多藻　役&lt;br /&gt;
*[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]（1973年）　‐　深芳野　役&lt;br /&gt;
*冬の桃（1977年）&lt;br /&gt;
*[[いのち (NHK大河ドラマ)|いのち]]（1986年）　‐　岩田（旧姓；高原）未希　役&lt;br /&gt;
*[[花の乱]]（1994年）　‐　[[日野富子]]　役&lt;br /&gt;
*[[鏡は眠らない]]（1997年）　‐　林基子　役&lt;br /&gt;
'''[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]'''&lt;br /&gt;
*祇園物語（1965年）&lt;br /&gt;
*[[不信のとき]]（1968年）&lt;br /&gt;
*[[ぼてじゃこ物語]]（1971年）&lt;br /&gt;
*[[女系家族]]（1984年）　‐　浜田文乃　役&lt;br /&gt;
*[[外科医・有森冴子]]（1990～2000年）　‐　有森冴子　役&lt;br /&gt;
*[[好きやねん]]（1995年）　‐　三廻千春　役&lt;br /&gt;
*[[明日を抱きしめて]]（2000年）　‐　高宮洋子　役&lt;br /&gt;
*[[火曜サスペンス劇場]]&lt;br /&gt;
**「[[取調室 (テレビドラマ)]]」（2002年）&lt;br /&gt;
'''[[東京放送|TBS]]'''&lt;br /&gt;
*[[高原へいらっしゃい]]（1976年）　‐　面川優子　役&lt;br /&gt;
*[[風が燃えた]]（1978年）　‐　伊藤梅子　役&lt;br /&gt;
*[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]（1981年）　‐　[[淀殿]]　役&lt;br /&gt;
*もういちど結婚（1983年）&lt;br /&gt;
*[[私はニュースキャスター 迷惑でしょうが]]（1995年）&lt;br /&gt;
*[[いま、会いにゆきます]]（2005年）　‐　榎田涼子　役&lt;br /&gt;
*[[ひまわり～夏目雅子27年の生涯と母の愛～]]（2007年）　‐　小達スエ　役 &lt;br /&gt;
'''[[フジテレビジョン|フジテレビ]]'''&lt;br /&gt;
*[[大奥 (テレビドラマ)]]（1968年）　‐　[[天璋院]]　役&lt;br /&gt;
*[[徳川おんな絵巻 (テレビドラマ)]]（1970年）　‐　珠　役&lt;br /&gt;
*[[犬神家の一族]]（2004年）　‐　犬神松子　役&lt;br /&gt;
*[[金曜プレステージ]]&lt;br /&gt;
**「[[日向夢子調停委員事件簿]]」（2003年～）　‐　日向夢子　役&lt;br /&gt;
テレビ朝日&lt;br /&gt;
相棒10。下夏。(2011年)設定上後半は回想のみ出演。2014年6月3日にBSで再放送が放送された。8月1日に地上で放送された&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バラエティー番組 ===&lt;br /&gt;
*[[SMAP×SMAP]] &lt;br /&gt;
*[[さんまのまんま]]&lt;br /&gt;
*[[ダウンタウンDX]]&lt;br /&gt;
*[[トリビアの泉]]&lt;br /&gt;
超報道(2014年7月28日。フジテレビ)&lt;br /&gt;
ごきげんよう(2015年2月18日。フジテレビ)&lt;br /&gt;
2015年2月24日及び翌日のスッキリエンタメとPON以外のワイドショー&lt;br /&gt;
プレバド。（2016年7月7日。MBS )&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舞台 ===&lt;br /&gt;
*命燃えて&lt;br /&gt;
*化粧&lt;br /&gt;
*夢千代日記&lt;br /&gt;
*雪国&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== レコード ===&lt;br /&gt;
*「[[白い橋]]」（作詞：佐伯孝夫、作曲：吉田正、編曲：吉田正）&lt;br /&gt;
*「[[白い大理石]]／[[幸福よここまでおいで]]」&lt;br /&gt;
*「[[幸せですのよあたくし]]／[[忘却の日記]]」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== CM ===&lt;br /&gt;
*[[エステー]]（旧[[エステー化学]]）&lt;br /&gt;
*[[大正製薬]]（[[パブロン]]）&lt;br /&gt;
*[[三田工業]]&lt;br /&gt;
*[[味の素]]（[[ほんだし]]）&lt;br /&gt;
*[[松下電器産業|松下電器]]&lt;br /&gt;
*[[西濃運輸]]&lt;br /&gt;
*[[ライオン (企業)|LION]] （[[トップ (洗剤)]]）&lt;br /&gt;
*[[土佐鶴酒造]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[大川博]]（東映社長）&lt;br /&gt;
*[[沢尻のクソガキ]]&lt;br /&gt;
*[[酒井のクソババア]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[第40回NHK紅白歌合戦|第40回]]・[[第41回NHK紅白歌合戦|第41回]]&amp;lt;br &amp;gt;[[NHK紅白歌合戦]]&amp;lt;br &amp;gt;紅組司会|1989,1990|[[和田アキ子]]|[[浅野ゆう子]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みたのくそははあ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の俳優]]&lt;br /&gt;
[[Category:大阪市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1941年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:ババア]]&lt;br /&gt;
[[Category:クソババア]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日韓国・朝鮮人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Yoshiko Mita]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>男の娘</name></author>	</entry>

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		<title>三田のクソババア</title>
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				<updated>2018-04-05T05:42:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;男の娘: /* 人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''三田のクソババア'''（みたのくそばばあ、[[1941年]][[10月8日]] - ）は、[[大阪府]][[大阪市]]出身の[[女優]]、[[蛆虫]]。夫は[[高橋康夫]]。長男は[[森宮隆]]、次男は[[高橋祐也]]。[[女子美術大学付属高等学校・中学校|女子美術大学付属高校]]卒業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本名、'''高橋 嘉子'''（たかはし よしこ、旧姓：'''石黒'''）。芸名、'''[[三田佳子|三田 佳子]]'''（みた よしこ）。[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
芸名である三田佳子の「三田」は、[[慶應義塾大学]]の所在地からとったものとされる。テレビ出演後、その演技力を買われ、[[1960年]]、[[東映]]に入社する。同年、『殺られてたまるか』で女優デビュー。最初から主役級で起用され、以降、'''東映の看板女優'''として活躍した。[[東映]]時代は[[佐久間良子]]と常にライバル視された。その一方で[[児玉誉士夫]]やその盟友の[[町井久之]]とも親しく、ダーティーな噂が絶えなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]]フリーになり、映画のみならず、テレビ・舞台で幅広く活躍。特に[[1984年]]の映画『Wの悲劇』での演技は絶賛を浴び、各映画賞を総なめして三田の評価を高めた。この頃より、同年代の女優の中で頭一つ飛び抜けた存在となって、大女優としての風格を身につけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1989～90年には連続し、[[NHK紅白歌合戦]]の紅組司会を務めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
納税者番付では俳優・タレント部門で[[1991年]]から[[1994年]]まで4年間連続トップとなり、良妻賢母のイメージで好感度が高くCMにも引っ張りだこであった。その一方で[[泉ピン子]]も真っ青になるほどの若手女優イビリが実話誌で暴かれ、人間性においても「[[佐藤孝行]]や[[西村眞悟]]、[[荘田悦宏]]にも劣る人間のカス」と呼ばれた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若手女優をいびる卑劣な人間性は家庭でも発揮され、1998年と2000年の2度にわたり次男の[[高橋祐也]]が[[覚せい剤取締法]]違反で逮捕されるという不祥事が発生し、マスコミ各方面から厳しく叩かれたが、原因は三田の育児放棄によるもので自業自得であるといえる。記者会見では「母が女優ということで未成年である息子の事件が報道されてかわいそう」「（高校生の）次男のこづかいは月50万円」とも話し、世間から猛烈な批判を浴びることとなった。なおこの時三田は「原因は私が人生をかけて究明いたします」と話したが、この発言は嘘八百の妄言であることは火を見るより明らかである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、当時出演していたCM8本すべて降板、一旦は女優業を控えざるをえなくなったが、[[2003年]]に[[水野晴郎]]の怪作『[[シベリア超特急|シベリア超特急3]]』に出演し復帰への足がかりとし、その後は映画『海猫』、テレビドラマ『[[いま、会いにゆきます]]』など仕事を再開し、[[2007年]]9月16日放送の『[[ひまわり〜夏目雅子27年の生涯と母の愛〜]]』では、事実上仲間由紀恵とのダブル主演という形であり、女優として完全復活を遂げたと思われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[2007年]]11月15日、祐也がまたしても[[覚醒剤]]所持の現行犯で逮捕された（3回目。この頃の祐也は歌手活動も行っていた）。また、逮捕前に、力士暴行死事件を起こし、逮捕された元時津風親方に覚醒剤を勧めた事実を[[梨元勝]]に暴露していた。これが逮捕のきっかけとなったこととされている。翌日の会見の中で「すべては私たち夫婦の教育の失敗」と全面的に謝罪、「引退も考えた」と心境を語った。三田は同年12月1日からの舞台『[[エドの舞踏会]]』については降板しないことを表明した。また、裁判中に芸能活動がほぼ停止中であったために月20万円の小遣いを渡していたことも明らかになり、この事件でまたも三田のイメージは失墜、今後の芸能生活に大きく影を落とすこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== おもな出演作品 ==&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
*[[乾杯!ごきげん野郎]]（1961年）　‐　明石まゆみ　役&lt;br /&gt;
*[[人妻椿]]（1967年）　‐　矢野嘉子　役&lt;br /&gt;
*[[座頭市]]（1968年）&lt;br /&gt;
*燃える秋（1978年）&lt;br /&gt;
*[[赤穂城断絶]]（1978年）　‐　[[瑤泉院]]　役&lt;br /&gt;
*[[黄金の犬]]（1979年）&lt;br /&gt;
*[[未完の対局]]（1982年）　‐　恩田忍（松波の妹）　役&lt;br /&gt;
*[[Wの悲劇]]（1984年）　‐　羽鳥翔　役&lt;br /&gt;
*[[漂流教室#映画|漂流教室]]（1987年）　‐　高松恵美子　役&lt;br /&gt;
*[[敦煌 (映画)]]（1988年）　‐　西夏の女　役&lt;br /&gt;
*[[男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日]]（1988年）　‐　原田真知子　役&lt;br /&gt;
*[[極道の妻たち]]　「三代目姐」（1989年）&lt;br /&gt;
*利休（1989年）&lt;br /&gt;
*[[遠き落日]]（1992年）　‐　野口シカ　役&lt;br /&gt;
*[[シベリア超特急|シベリア超特急3]]（2003年）　‐　森裕美　役&lt;br /&gt;
*[[バトル・ロワイアルII 鎮魂歌]]（2003年）　‐　青井拓馬の母　役&lt;br /&gt;
*[[ドラッグストア・ガール]]（2004年）　‐　ハッスルドラッグ社長　役&lt;br /&gt;
*[[海猫]]（2004年）　‐　野田タミ　役&lt;br /&gt;
*[[魂萌え!]]（2007年）　‐　伊藤昭子　役&lt;br /&gt;
ポケモン(2014年)ゼルネアス役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
'''[[日本放送協会|NHK]]'''&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]（1965年）　‐　淀殿　役&lt;br /&gt;
*[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]（1968年）　‐　お田鶴　役&lt;br /&gt;
*[[男は度胸]]（1970年）　‐　多藻　役&lt;br /&gt;
*[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]（1973年）　‐　深芳野　役&lt;br /&gt;
*冬の桃（1977年）&lt;br /&gt;
*[[いのち (NHK大河ドラマ)|いのち]]（1986年）　‐　岩田（旧姓；高原）未希　役&lt;br /&gt;
*[[花の乱]]（1994年）　‐　[[日野富子]]　役&lt;br /&gt;
*[[鏡は眠らない]]（1997年）　‐　林基子　役&lt;br /&gt;
'''[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]'''&lt;br /&gt;
*祇園物語（1965年）&lt;br /&gt;
*[[不信のとき]]（1968年）&lt;br /&gt;
*[[ぼてじゃこ物語]]（1971年）&lt;br /&gt;
*[[女系家族]]（1984年）　‐　浜田文乃　役&lt;br /&gt;
*[[外科医・有森冴子]]（1990～2000年）　‐　有森冴子　役&lt;br /&gt;
*[[好きやねん]]（1995年）　‐　三廻千春　役&lt;br /&gt;
*[[明日を抱きしめて]]（2000年）　‐　高宮洋子　役&lt;br /&gt;
*[[火曜サスペンス劇場]]&lt;br /&gt;
**「[[取調室 (テレビドラマ)]]」（2002年）&lt;br /&gt;
'''[[東京放送|TBS]]'''&lt;br /&gt;
*[[高原へいらっしゃい]]（1976年）　‐　面川優子　役&lt;br /&gt;
*[[風が燃えた]]（1978年）　‐　伊藤梅子　役&lt;br /&gt;
*[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]（1981年）　‐　[[淀殿]]　役&lt;br /&gt;
*もういちど結婚（1983年）&lt;br /&gt;
*[[私はニュースキャスター 迷惑でしょうが]]（1995年）&lt;br /&gt;
*[[いま、会いにゆきます]]（2005年）　‐　榎田涼子　役&lt;br /&gt;
*[[ひまわり～夏目雅子27年の生涯と母の愛～]]（2007年）　‐　小達スエ　役 &lt;br /&gt;
'''[[フジテレビジョン|フジテレビ]]'''&lt;br /&gt;
*[[大奥 (テレビドラマ)]]（1968年）　‐　[[天璋院]]　役&lt;br /&gt;
*[[徳川おんな絵巻 (テレビドラマ)]]（1970年）　‐　珠　役&lt;br /&gt;
*[[犬神家の一族]]（2004年）　‐　犬神松子　役&lt;br /&gt;
*[[金曜プレステージ]]&lt;br /&gt;
**「[[日向夢子調停委員事件簿]]」（2003年～）　‐　日向夢子　役&lt;br /&gt;
テレビ朝日&lt;br /&gt;
相棒10。下夏。(2011年)設定上後半は回想のみ出演。2014年6月3日にBSで再放送が放送された。8月1日に地上で放送された&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バラエティー番組 ===&lt;br /&gt;
*[[SMAP×SMAP]] &lt;br /&gt;
*[[さんまのまんま]]&lt;br /&gt;
*[[ダウンタウンDX]]&lt;br /&gt;
*[[トリビアの泉]]&lt;br /&gt;
超報道(2014年7月28日。フジテレビ)&lt;br /&gt;
ごきげんよう(2015年2月18日。フジテレビ)&lt;br /&gt;
2015年2月24日及び翌日のスッキリエンタメとPON以外のワイドショー&lt;br /&gt;
プレバド。（2016年7月7日。MBS )&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舞台 ===&lt;br /&gt;
*命燃えて&lt;br /&gt;
*化粧&lt;br /&gt;
*夢千代日記&lt;br /&gt;
*雪国&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== レコード ===&lt;br /&gt;
*「[[白い橋]]」（作詞：佐伯孝夫、作曲：吉田正、編曲：吉田正）&lt;br /&gt;
*「[[白い大理石]]／[[幸福よここまでおいで]]」&lt;br /&gt;
*「[[幸せですのよあたくし]]／[[忘却の日記]]」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== CM ===&lt;br /&gt;
*[[エステー]]（旧[[エステー化学]]）&lt;br /&gt;
*[[大正製薬]]（[[パブロン]]）&lt;br /&gt;
*[[三田工業]]&lt;br /&gt;
*[[味の素]]（[[ほんだし]]）&lt;br /&gt;
*[[松下電器産業|松下電器]]&lt;br /&gt;
*[[西濃運輸]]&lt;br /&gt;
*[[ライオン (企業)|LION]] （[[トップ (洗剤)]]）&lt;br /&gt;
*[[土佐鶴酒造]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[大川博]]（東映社長）&lt;br /&gt;
*[[沢尻のクソガキ]]&lt;br /&gt;
*[[酒井のクソババア]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[第40回NHK紅白歌合戦|第40回]]・[[第41回NHK紅白歌合戦|第41回]]&amp;lt;br &amp;gt;[[NHK紅白歌合戦]]&amp;lt;br &amp;gt;紅組司会|1989,1990|[[和田アキ子]]|[[浅野ゆう子]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みたのくそははあ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の俳優]]&lt;br /&gt;
[[Category:大阪市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1941年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:ババア]]&lt;br /&gt;
[[Category:クソババア]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日韓国・朝鮮人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Yoshiko Mita]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>男の娘</name></author>	</entry>

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