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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>慶應義塾 (幕末維新期)</title>
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				<updated>2012-03-21T14:27:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Edo Atagoshita Shinzenza 1860.jpg|300px|right|thumb|図中央に有馬家控屋敷（[[有馬侶四郎]]）とあるのが慶應義塾にあたり、東には[[浜離宮恩賜庭園|浜御殿]]がある。[[江川英龍]]の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」が隣接しており、この江川家屋敷に「分塾」があった。&lt;br /&gt;
-----&lt;br /&gt;
&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller;&amp;quot;&amp;gt;尾張屋清七版芝愛宕下絵図&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
'''幕末維新期之慶應義塾'''（けいおうぎじゅく）は、[[安政]]5年（[[1858年]]）10月中旬[[江戸]][[築地]][[鉄砲州]]（現・東京都中央区明石町）[[中津藩]][[江戸藩邸]][[中屋敷]]内で、同藩士[[福沢諭吉]]による[[蘭学]]教授が開始されてから[[明治]]3年（[[1871年]]）[[芝]][[新銭座]]の校地を[[三田]]の[[島原藩]][[中屋敷]]跡地へ移転するまでの過程及び前史を扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
=== 慶應義塾の成立 ===&lt;br /&gt;
18世紀後半の中津藩江戸藩邸では、第3代藩主奥平昌鹿の下で本草学や蘭学研究が行われ、明和8年（1771年）には青木昆陽の門人である藩医・前野良沢が中川淳庵、杉田玄白と『解体新書』の底本となった解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解読を始めたのは、この中屋敷内であった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=飯田鼎|authorlink=飯田鼎|year=1984|month=3|title=福沢諭吉――国民国家論の創始者|publisher=中央公論社|series=中公新書722|isbn=4-12-100722-0}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。その同じ中屋敷内に80年余を隔て成立した蘭学塾が慶應義塾の原点である。その後藩主が変わり、中津藩では主に国学・漢学が重視されており、幕末の藩政改革では長崎の警備を任ぜられ、三重津海軍所を設置した[[鍋島閑叟]]侯の肥前藩や薩摩藩といった西南の雄藩からは立ち遅れた状況にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[幕末]]の[[中津藩]][[江戸藩邸]]では、当主・[[奥平昌服]]が[[江戸]][[汐留]]の[[上屋敷]]に居住し、祖父で[[薩摩藩]][[島津家]]より養子に入った[[奥平昌高]]が[[中屋敷]]に隠居所を構えていた。昌高は[[蘭癖大名]]と評されていたが、単なる物好き程度ではなく、日蘭辞書『蘭語訳撰』（『中津辞書』）の刊行に尽力するなど本格的な蘭学研究者であった。その影響があってか、のちに[[統計学者]]として有名になる[[杉亨二]]が中津藩に招かれ、[[中屋敷]]において藩士に蘭学教授を行っていた。ところが、[[1853年]]（嘉永6年）の[[マシュー・ペリー]][[黒船来航]]による[[米国]]の開国要求に対する幕府の諮問をめぐって、昌高が7月に[[開国]]論を、翌月当主の昌服が[[鎖国]]論を上申したことで、藩内における両派の対立が明らかになり、杉の辞任騒ぎを引き起こした。このとき、中津藩砲術師範を務めていた[[佐久間象山]]のもとで西洋[[砲術]]を学んだ中津藩士・[[岡見彦三]]は、[[蘭学]]教育の継続を強く望み、知人の[[薩摩藩]]蘭医・[[松木弘安]]（のち寺島宗則）に、安政2年の大地震（[[安政の大地震]]）で失った住居の代わりとして、岡見所有の築地[[小田原町]]の持ち屋を無償で貸すことを条件に、蘭学教授を依頼した。しかし、安政4年4月になると、松木は[[参勤交代]]による藩主の就国に[[侍医]]として随行することになり、教授を続けることが出来なくなった。そこで当時[[大坂]]の[[適塾]]で塾長を務めていた[[福澤諭吉]]に白羽の矢が立ち、福沢は藩から江戸での蘭学教授を命ぜられるに至ったのである。現在、開塾の地の近くには創立100年を記念して、『慶應義塾発祥の地記念碑』が建てられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 前期鉄砲州時代 ===&lt;br /&gt;
[[1858年]]（安政5年）、中津藩より江戸築地鉄砲州（現・東京都中央区明石町）にあった中津藩中屋敷内での蘭学教授を命ぜられた福澤諭吉は、塾長として蘭学を学んでいた適塾がある大坂から、早速中津に戻り母に報告、大坂に戻って助手を務める同行者を求め、[[岡本周吉]]（古川正雄）・[[足立寛]]・[[原田磊蔵]]らと共に同年10月中旬、江戸に到着した。福澤の書簡（安政5年11月23日付宛名未詳）によれば、当初は3、4年の任期と心得ていたようである。汐留の上屋敷に出向いた福沢は、江戸定府の藩士・岡見彦三の支持で中屋敷の[[長屋]]を与えられ、そこで蘭学を教えた。足立寛や[[今泉みね]]の回想によると、長屋は二階建てで一階は六畳一室と台所など、二階は15畳ほどであったという。開塾当初の協力者は、村田蔵六（大村益次郎）の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介、久留米藩医・松下元芳、中定勝（大阪府仮病院医員）、山口良蔵などやはり適塾に連なる人物が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福澤諭吉の渡航 ===&lt;br /&gt;
安政6年（1859年）の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号 で渡米することとなり、軍艦奉行木村摂津守の従者として、咸臨丸で渡米。二度目は竹内下野守を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日（1862年1月30日）、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には松木弘安・箕作秋坪。慶応3年（1867年）には使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米。この間、中津藩士・島津祐太郎宛の書簡で、大量に英書や物理書を塾に持ち帰ったため、塾生が同じ版本を持って授業が受けられるようになり、それまでの教授法にも新紀元を開くに至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 前期新銭座時代 ===&lt;br /&gt;
文久元年冬から同三年秋までは芝新銭座（現東京都港区浜松町）の借家に塾が置かれていた。この塾がいつ築地鉄砲州から移転したかについては足立寛の回想にもはっきりしない。福沢は既に江戸定府の中津藩士となり、幕府の外国方にも出仕しており、この時代は藩命による塾教師から本格的な学塾経営者への移行期と捉えられている。入門帳（入社張）の記録がはじまったのは、文久3年（1863年）の春からである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 後期鉄砲州時代 ===&lt;br /&gt;
文久3年秋から[[1867年]]（慶応3年）末まで中屋敷内旧藩主隠居所に塾が置かれていた時代をいう。文久3年9月23日に幕府より諸藩へ、出府藩士の江戸市中住居禁止命令が出され、これを受けて福沢も藩邸内に戻ったと推測される。この移転について『福翁自伝』には何も経緯が記されておらず、格式を重んずる中津藩としては幕府に出仕する身とはいえ、旧藩主の隠居所を許可するとは考えがたく、藩側に貸与を進める意図があった。この時代の学塾運営は、英国の公立学校を参考に、中津へ帰郷し小幡篤次郎、小幡甚三郎、服部浅之助、小幡貞次郎、浜野定四郎、三輪光五郎らを連れ、横浜の外字新聞の翻訳、諸藩から依頼の翻訳、仙台藩の大童信太夫を通じた奥羽越列藩同盟との関係などが見て取れる。また、幕府の開成所から移ってきた永田健助によるとこの頃の塾の蔵書は「経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/history/history.html それらの図書の内容は、経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった]&amp;lt;/ref&amp;gt;といい、幕府の学問所と同等の水準があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 紀州塾 ===&lt;br /&gt;
後期鉄砲州時代に、紀州藩から藩命を受けて同藩が建築費用を負担して設けた塾舎。藩の有力者[[岸嘉一郎]]が鉄砲州時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り&amp;lt;ref&amp;gt;[[石河幹明]]・前揚第一巻&amp;lt;/ref&amp;gt;、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称してゐた&amp;lt;ref&amp;gt;「慶應義塾七十五年史」210項&amp;lt;/ref&amp;gt;。和歌山藩の入塾生は[[元治]]元年九月入塾の[[臼杵鉄太郎]]を最初とし、慶応元年三名、慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも[[紀州徳川家]]第15代当主[[徳川頼倫]]は[[三宅米吉]]、英国人のアーサー・ロイド（慶應義塾教授）、米国人のウィリアム・S・リスカム（慶應義塾教授）らに師事して漢学と英語を修め、[[鎌田栄吉]]（のち塾長）からは精神的な薫陶を受けている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/bitstream/123456789/5839/4/HIT0600301.pdf 紀州塾]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、維新後の和歌山における慶應義塾を範にとった変則中学の展開や、中井芳楠&lt;br /&gt;
・長屋喜弥太が創設した私塾自修社（後の自修学校）、同地の義田結社「徳義社」の結成など、紀州藩との密なる関係がみてとれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 後期新銭座時代 ===&lt;br /&gt;
慶応4年1月から明治3年末までの再び芝新銭座に塾が置かれた時期をいう。塾舎は前期とは異なった場所で、新に越前丸岡藩有馬家の土地四百坪を購入した。慶応3年6月に鉄砲州一帯が外国人居留地に指定され、木村摂津守とその用人大橋栄二の世話で有馬屋敷を購入することができた。慶応4年には元号をとって『慶應義塾』と命名。同年四月頃までに奥平屋敷の長屋をもらい受け、約百五十坪の塾舎を四百両ほどの費用で完成した。授業は既に[[七曜制]]を用い、教科も（修心論・経済・歴史・地理・窮理・算術・文典）などを設置、「数理」を基本とした授業体系を確立した。[[1865年]]（慶応元年）頃の塾生数を示すものとしては、同年6月6日に入塾している[[立田革]]の懐旧談にて、『私の出府当時の江戸の洋学界は、芝新銭座江川塾（[[江川太郎左衛門]]）・下谷箕作塾（[[箕作家]]）其他二三あれど、生徒の数は大抵二三人多くも五六人、義塾は二十二三人の塾生あり、先づ江戸にて一等盛な洋學塾と評して差支ない。』とある。入塾生の傾向からみて、[[元治]]元年までの入塾生数がごく少なく、尚且つ[[九州]]出身者がその七割を占めるといった傾向を示していたのに比較して、この頃は入門者も月平均四・三八人となり、藩別にみても九州の比率が相当低くなってきている点などから推察すると、この頃から既に慶應義塾は江戸では最大の洋漢學塾の観を呈し始め、九州出身者中心の塾といった傾向から、全国的學塾に移行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三田移転 ===&lt;br /&gt;
福沢が発疹チフスに罹ったことから明治4年初頭から三田へ移転を開始。三田は島原藩邸のあった広壮な地域で、これまで新銭座を中心として奥平屋敷や[[吉田賢輔]]の上杉麻布邸、[[柏木忠俊]]の斡旋による[[江川太郎左衛門]]長屋や、その他寺院などに分散していた宿舎を一つに統合できた。在学生323名、東京府下における最大の私塾となった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/history/history.html 栗本の修業日誌]&amp;lt;/ref&amp;gt;。移転後芝新銭座の校地を[[近藤真琴]]の[[攻玉塾]]へ譲り、現在は『福沢近藤両翁学塾跡』（港区浜松町）の碑が立っている。明治6年5月、慶應義塾を訪れた福山藩の藩儒[[江木鰐水]]も「塾本、島原公邸、在三田、地勢高爽、前臨品川海、砲台在目前、右望品川後之山、左望江戸諸勝、皇居亦左近、（中略）而与諭吉氏登楼並講堂之楼、皆勝景、眺望雄豁美麗」と嗟嘆している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 医学教育 ===&lt;br /&gt;
新銭座時代から[[慶應義塾医務部]]が既に設けられており、薬品や医学者を揃えた。[[近藤良薫]]（のちの横浜十全病院長）・[[安藤正胤]]、[[印東玄得]]（のちの[[大学東校]]教授）・[[田代基徳]]（のちの軍医医監、[[陸軍軍医学校]]長）・[[栗本東明]]（長崎病院眼科医長兼内科医長）といった医学者を育てている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関係人物 ==&lt;br /&gt;
*[[佐久間象山]] - 中津藩砲術師範&lt;br /&gt;
*[[吉田賢輔]] - 教授&lt;br /&gt;
*[[坂田警軒]] - 漢学者、教授&lt;br /&gt;
*[[奥平昌邁]] - 中津藩第9代藩主&lt;br /&gt;
*[[大童信太夫]] - 仙台藩公儀使&lt;br /&gt;
*[[江木鰐水]] - 福山藩儒&lt;br /&gt;
*[[横尾東作]] - [[額兵隊]] &lt;br /&gt;
*[[甘糟継成]] - 米沢藩士 &lt;br /&gt;
*[[池田成章]] - 戊辰戦争後に出入り&lt;br /&gt;
*[[柏木忠俊]] - 韮山代官所、[[江川太郎左衛門]]屋敷を斡旋&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
*[[1796年]] - [[豊前国]][[中津藩]]第5代藩主、[[奥平昌高]]が[[藩校]]・「[[進脩館]]」を設置。&lt;br /&gt;
*[[1838年]] - [[足守藩]]士・[[緒方洪庵]]が[[大坂]][[船場]]で「適々斎塾（[[適塾]]）」を開く&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s0811_1.html 適塾と緒方洪庵]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*[[1839年]] - [[松代藩]]士・[[佐久間象山]]が[[神田 (千代田区)]]お玉ヶ池に「[[象山書院]]（五月塾）」を開く。&lt;br /&gt;
*[[1843年]] - 中津藩にて[[白石照山]]が私塾・晩香堂を開設。&lt;br /&gt;
*[[1853年]] - [[黒船来航]]&lt;br /&gt;
*[[1855年]] - 佐久間象山門弟の中津藩[[江戸]]留守居役・[[岡見清熙|岡見彦三清熙]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okami_h.html 岡見彦三]&amp;lt;/ref&amp;gt;が藩邸内に「蘭学所」を設置して、[[杉亨二]]、[[松木弘安]]（寺島宗則）らを招聘。&lt;br /&gt;
*[[1858年]] - [[安政の大獄]]。[[福澤諭吉]]が[[江戸]][[築地]]鉄砲洲の中津藩江戸藩邸「蘭学所（[[蘭学塾]]）」の講師として江戸出府（従者は[[吉川正雄]]、[[足立寛]]、[[原田磊蔵]]）。&lt;br /&gt;
*[[1860年]] - [[咸臨丸]]出帆。[[桜田門外の変]]。&lt;br /&gt;
*[[1863年]] - [[横浜市|横浜]]見物を機に英学塾へ改組。&lt;br /&gt;
*[[1864年]] - [[長州征伐]]が勃発。&lt;br /&gt;
*[[1866年]] - [[紀州藩]]より多数の入塾生を迎え、同藩の援助を受けて中津屋敷内に「[[紀州塾]]」建築。&lt;br /&gt;
*[[1868年]] - [[木村摂津守]]（木村芥舟）の世話により芝新銭座に移転、『'''慶應義塾'''』と改称。「[[適塾]]」が閉鎖。塾内に病室を設置（校医の起源）。&lt;br /&gt;
*[[1869年]] - [[汐留]]の中津藩[[上屋敷]]内に「汐留出張所」を設置。童子寮を設ける。&lt;br /&gt;
*[[1870年]] - [[弘前藩]]の招聘で英学教師二名派遣契約。三田島原藩邸借入につき[[大納言]][[岩倉具視]]を訪問して尽力を依頼、隣接地[[江川太郎左衛門]]屋敷の長屋を借り受けて「外塾」設置。汐留出張所を麻布[[龍源寺]]に移転。芝山内[[広度院]]に分塾設置。&lt;br /&gt;
*[[1871年]] - 芝新銭座の校地を[[近藤真琴]]の[[学校法人攻玉社学園|攻玉塾]]へ譲り、[[三田 (東京都港区)|三田]]の[[島原藩]]中屋敷跡地へ移転。学業勤惰表（[[成績表]]）の印行を開始&lt;br /&gt;
*[[1872年]] - [[藩校]][[進脩館]]が閉鎖。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[開成所]]&lt;br /&gt;
*[[昌平黌]]&lt;br /&gt;
*[[中津藩]]&lt;br /&gt;
*[[適塾]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor=慶應義塾史事典編集委員会編|year=2008|month=11|title=慶應義塾史事典|publisher=慶應義塾大学出版会|isbn=978-4-7664-1572-8|url=http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766415728/}}&lt;br /&gt;
*[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/history/history.html 慶應義塾図書館史]&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=慶應義塾|authorlink=慶應義塾|year=2004|month=4|title=福沢諭吉の手紙|publisher=岩波文庫|series=|isbn=4-00-331026-8}}&lt;br /&gt;
*[http://koara-a.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=Keio_mitalib_A_37728_K1_1-1 慶應義塾百年史]上巻&lt;br /&gt;
*『日本近代学校成立史の研究 - 廃藩置県前後における福沢諭吉をめぐる地方の教育動向』 [[多田建次]] [[1988年]][[1月1日]] 玉川大学出版部 ISBN 9784472078514&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/1997/207.html 義塾草創期にみる塾舎の移り変わり]&lt;br /&gt;
*[http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE_(%E5%B9%95%E6%9C%AB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E6%9C%9F) 慶應義塾 (幕末維新期)]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{慶應義塾大学}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:けいおうきしゆく はくまついしんき}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の教育]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の儒学]]&lt;br /&gt;
[[Category:学校法人慶應義塾]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学]]&lt;br /&gt;
[[Category:蘭学]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の高等教育の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:中津藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀州藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:藩校]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の医史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

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		<title>慶應義塾 (幕末維新期)</title>
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				<updated>2012-03-21T14:25:23Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: ページの作成：「図中央に有馬家控屋敷（[[有馬侶四郎）とあるのが慶應義塾にあたり、東に...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Edo Atagoshita Shinzenza 1860.jpg|300px|right|thumb|図中央に有馬家控屋敷（[[有馬侶四郎]]）とあるのが慶應義塾にあたり、東には[[浜離宮恩賜庭園|浜御殿]]がある。[[江川英龍]]の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」が隣接しており、この江川家屋敷に「分塾」があった。&lt;br /&gt;
-----&lt;br /&gt;
&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size: smaller;&amp;quot;&amp;gt;尾張屋清七版芝愛宕下絵図&amp;lt;/span&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
'''幕末維新期之慶應義塾'''（けいおうぎじゅく）は、[[安政]]5年（[[1858年]]）10月中旬[[江戸]][[築地]][[鉄砲州]]（現・東京都中央区明石町）[[中津藩]][[江戸藩邸]][[中屋敷]]内で、同藩士[[福沢諭吉]]による[[蘭学]]教授が開始されてから[[明治]]3年（[[1871年]]）[[芝]][[新銭座]]の校地を[[三田]]の[[島原藩]][[中屋敷]]跡地へ移転するまでの過程及び前史を扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
=== 慶應義塾の成立 ===&lt;br /&gt;
18世紀後半の中津藩江戸藩邸では、第3代藩主奥平昌鹿の下で本草学や蘭学研究が行われ、明和8年（1771年）には青木昆陽の門人である藩医・前野良沢が中川淳庵、杉田玄白と『解体新書』の底本となった解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解読を始めたのは、この中屋敷内であった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=飯田鼎|authorlink=飯田鼎|year=1984|month=3|title=福沢諭吉――国民国家論の創始者|publisher=中央公論社|series=中公新書722|isbn=4-12-100722-0}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。その同じ中屋敷内に80年余を隔て成立した蘭学塾が慶應義塾の原点である。その後藩主が変わり、中津藩では主に国学・漢学が重視されており、幕末の藩政改革では長崎の警備を任ぜられ、三重津海軍所を設置した[[鍋島閑叟]]侯の肥前藩や薩摩藩といった西南の雄藩からは立ち遅れた状況にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[幕末]]の[[中津藩]][[江戸藩邸]]では、当主・[[奥平昌服]]が[[江戸]][[汐留]]の[[上屋敷]]に居住し、祖父で[[薩摩藩]][[島津家]]より養子に入った[[奥平昌高]]が[[中屋敷]]に隠居所を構えていた。昌高は[[蘭癖大名]]と評されていたが、単なる物好き程度ではなく、日蘭辞書『蘭語訳撰』（『中津辞書』）の刊行に尽力するなど本格的な蘭学研究者であった。その影響があってか、のちに[[統計学者]]として有名になる[[杉亨二]]が中津藩に招かれ、[[中屋敷]]において藩士に蘭学教授を行っていた。ところが、[[1853年]]（嘉永6年）の[[マシュー・ペリー]][[黒船来航]]による[[米国]]の開国要求に対する幕府の諮問をめぐって、昌高が7月に[[開国]]論を、翌月当主の昌服が[[鎖国]]論を上申したことで、藩内における両派の対立が明らかになり、杉の辞任騒ぎを引き起こした。このとき、中津藩砲術師範を務めていた[[佐久間象山]]のもとで西洋[[砲術]]を学んだ中津藩士・[[岡見彦三]]は、[[蘭学]]教育の継続を強く望み、知人の[[薩摩藩]]蘭医・[[松木弘安]]（のち寺島宗則）に、安政2年の大地震（[[安政の大地震]]）で失った住居の代わりとして、岡見所有の築地[[小田原町]]の持ち屋を無償で貸すことを条件に、蘭学教授を依頼した。しかし、安政4年4月になると、松木は[[参勤交代]]による藩主の就国に[[侍医]]として随行することになり、教授を続けることが出来なくなった。そこで当時[[大坂]]の[[適塾]]で塾長を務めていた[[福澤諭吉]]に白羽の矢が立ち、福沢は藩から江戸での蘭学教授を命ぜられるに至ったのである。現在、開塾の地の近くには創立100年を記念して、『慶應義塾発祥の地記念碑』が建てられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 前期鉄砲州時代 ===&lt;br /&gt;
[[1858年]]（安政5年）、中津藩より江戸築地鉄砲州（現・東京都中央区明石町）にあった中津藩中屋敷内での蘭学教授を命ぜられた福澤諭吉は、塾長として蘭学を学んでいた適塾がある大坂から、早速中津に戻り母に報告、大坂に戻って助手を務める同行者を求め、[[岡本周吉]]（古川正雄）・[[足立寛]]・[[原田磊蔵]]らと共に同年10月中旬、江戸に到着した。福澤の書簡（安政5年11月23日付宛名未詳）によれば、当初は3、4年の任期と心得ていたようである。汐留の上屋敷に出向いた福沢は、江戸定府の藩士・岡見彦三の支持で中屋敷の[[長屋]]を与えられ、そこで蘭学を教えた。足立寛や[[今泉みね]]の回想によると、長屋は二階建てで一階は六畳一室と台所など、二階は15畳ほどであったという。開塾当初の協力者は、村田蔵六（大村益次郎）の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介、久留米藩医・松下元芳、中定勝（大阪府仮病院医員）、山口良蔵などやはり適塾に連なる人物が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福澤諭吉の渡航 ===&lt;br /&gt;
安政6年（1859年）の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号 で渡米することとなり、軍艦奉行木村摂津守の従者として、咸臨丸で渡米。二度目は竹内下野守を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日（1862年1月30日）、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には松木弘安・箕作秋坪。慶応3年（1867年）には使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米。この間、中津藩士・島津祐太郎宛の書簡で、大量に英書や物理書を塾に持ち帰ったため、塾生が同じ版本を持って授業が受けられるようになり、それまでの教授法にも新紀元を開くに至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 前期新銭座時代 ===&lt;br /&gt;
文久元年冬から同三年秋までは芝新銭座（現東京都港区浜松町）の借家に塾が置かれていた。この塾がいつ築地鉄砲州から移転したかについては足立寛の回想にもはっきりしない。福沢は既に江戸定府の中津藩士となり、幕府の外国方にも出仕しており、この時代は藩命による塾教師から本格的な学塾経営者への移行期と捉えられている。入門帳（入社張）の記録がはじまったのは、文久3年（1863年）の春からである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 後期鉄砲州時代 ===&lt;br /&gt;
文久3年秋から[[1867年]]（慶応3年）末まで中屋敷内旧藩主隠居所に塾が置かれていた時代をいう。文久3年9月23日に幕府より諸藩へ、出府藩士の江戸市中住居禁止命令が出され、これを受けて福沢も藩邸内に戻ったと推測される。この移転について『福翁自伝』には何も経緯が記されておらず、格式を重んずる中津藩としては幕府に出仕する身とはいえ、旧藩主の隠居所を許可するとは考えがたく、藩側に貸与を進める意図があった。この時代の学塾運営は、英国の公立学校を参考に、中津へ帰郷し小幡篤次郎、小幡甚三郎、服部浅之助、小幡貞次郎、浜野定四郎、三輪光五郎らを連れ、横浜の外字新聞の翻訳、諸藩から依頼の翻訳、仙台藩の大童信太夫を通じた奥羽越列藩同盟との関係などが見て取れる。また、幕府の開成所から移ってきた永田健助によるとこの頃の塾の蔵書は「経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/history/history.html それらの図書の内容は、経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった]&amp;lt;/ref&amp;gt;といい、幕府の学問所と同等の水準があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 紀州塾 ===&lt;br /&gt;
後期鉄砲州時代に、紀州藩から藩命を受けて同藩が建築費用を負担して設けた塾舎。藩の有力者[[岸嘉一郎]]が鉄砲州時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り&amp;lt;ref&amp;gt;[[石河幹明]]・前揚第一巻&amp;lt;/ref&amp;gt;、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称してゐた&amp;lt;ref&amp;gt;「慶應義塾七十五年史」210項&amp;lt;/ref&amp;gt;。和歌山藩の入塾生は[[元治]]元年九月入塾の[[臼杵鉄太郎]]を最初とし、慶応元年三名、慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも[[紀州徳川家]]第15代当主[[徳川頼倫]]は[[三宅米吉]]、英国人のアーサー・ロイド（慶應義塾教授）、米国人のウィリアム・S・リスカム（慶應義塾教授）らに師事して漢学と英語を修め、[[鎌田栄吉]]（のち塾長）からは精神的な薫陶を受けている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/bitstream/123456789/5839/4/HIT0600301.pdf 紀州塾]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、維新後の和歌山における慶應義塾を範にとった変則中学の展開や、中井芳楠&lt;br /&gt;
・長屋喜弥太が創設した私塾自修社（後の自修学校）、同地の義田結社「徳義社」の結成など、紀州藩との密なる関係がみてとれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 後期新銭座時代 ===&lt;br /&gt;
慶応4年1月から明治3年末までの再び芝新銭座に塾が置かれた時期をいう。塾舎は前期とは異なった場所で、新に越前丸岡藩有馬家の土地四百坪を購入した。慶応3年6月に鉄砲州一帯が外国人居留地に指定され、木村摂津守とその用人大橋栄二の世話で有馬屋敷を購入することができた。慶応4年には元号をとって『慶應義塾』と命名。同年四月頃までに奥平屋敷の長屋をもらい受け、約百五十坪の塾舎を四百両ほどの費用で完成した。授業は既に[[七曜制]]を用い、教科も（修心論・経済・歴史・地理・窮理・算術・文典）などを設置、「数理」を基本とした授業体系を確立した。[[1865年]]（慶応元年）頃の塾生数を示すものとしては、同年6月6日に入塾している[[立田革]]の懐旧談にて、『私の出府当時の江戸の洋学界は、芝新銭座江川塾（[[江川太郎左衛門]]）・下谷箕作塾（[[箕作家]]）其他二三あれど、生徒の数は大抵二三人多くも五六人、義塾は二十二三人の塾生あり、先づ江戸にて一等盛な洋學塾と評して差支ない。』とある。入塾生の傾向からみて、[[元治]]元年までの入塾生数がごく少なく、尚且つ[[九州]]出身者がその七割を占めるといった傾向を示していたのに比較して、この頃は入門者も月平均四・三八人となり、藩別にみても九州の比率が相当低くなってきている点などから推察すると、この頃から既に慶應義塾は江戸では最大の洋漢學塾の観を呈し始め、九州出身者中心の塾といった傾向から、全国的學塾に移行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三田移転 ===&lt;br /&gt;
福沢が発疹チフスに罹ったことから明治4年初頭から三田へ移転を開始。三田は島原藩邸のあった広壮な地域で、これまで新銭座を中心として奥平屋敷や[[吉田賢輔]]の上杉麻布邸、[[柏木忠俊]]の斡旋による[[江川太郎左衛門]]長屋や、その他寺院などに分散していた宿舎を一つに統合できた。在学生323名、東京府下における最大の私塾となった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/history/history.html 栗本の修業日誌]&amp;lt;/ref&amp;gt;。移転後芝新銭座の校地を[[近藤真琴]]の[[攻玉塾]]へ譲り、現在は『福沢近藤両翁学塾跡』（港区浜松町）の碑が立っている。明治6年5月、慶應義塾を訪れた福山藩の藩儒[[江木鰐水]]も「塾本、島原公邸、在三田、地勢高爽、前臨品川海、砲台在目前、右望品川後之山、左望江戸諸勝、皇居亦左近、（中略）而与諭吉氏登楼並講堂之楼、皆勝景、眺望雄豁美麗」と嗟嘆している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 医学教育 ===&lt;br /&gt;
新銭座時代から[[慶應義塾医務部]]が既に設けられており、薬品や医学者を揃えた。[[近藤良薫]]（のちの横浜十全病院長）・[[安藤正胤]]、[[印東玄得]]（のちの[[大学東校]]教授）・[[田代基徳]]（のちの軍医医監、[[陸軍軍医学校]]長）・[[栗本東明]]（長崎病院眼科医長兼内科医長）といった医学者を育てている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関係人物 ==&lt;br /&gt;
*[[佐久間象山]] - 中津藩砲術師範&lt;br /&gt;
*[[吉田賢輔]] - 教授&lt;br /&gt;
*[[坂田警軒]] - 漢学者、教授&lt;br /&gt;
*[[奥平昌邁]] - 中津藩第9代藩主&lt;br /&gt;
*[[大童信太夫]] - 仙台藩公儀使&lt;br /&gt;
*[[江木鰐水]] - 福山藩儒&lt;br /&gt;
*[[横尾東作]] - [[額兵隊]] &lt;br /&gt;
*[[甘糟継成]] - 米沢藩士 &lt;br /&gt;
*[[池田成章]] - 戊辰戦争後に出入り&lt;br /&gt;
*[[柏木忠俊]] - 韮山代官所、[[江川太郎左衛門]]屋敷を斡旋&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
*[[1796年]] - [[豊前国]][[中津藩]]第5代藩主、[[奥平昌高]]が[[藩校]]・「[[進脩館]]」を設置。&lt;br /&gt;
*[[1838年]] - [[足守藩]]士・[[緒方洪庵]]が[[大坂]][[船場]]で「適々斎塾（[[適塾]]）」を開く&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s0811_1.html 適塾と緒方洪庵]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*[[1839年]] - [[松代藩]]士・[[佐久間象山]]が[[神田 (千代田区)]]お玉ヶ池に「[[象山書院]]（五月塾）」を開く。&lt;br /&gt;
*[[1843年]] - 中津藩にて[[白石照山]]が私塾・晩香堂を開設。&lt;br /&gt;
*[[1853年]] - [[黒船来航]]&lt;br /&gt;
*[[1855年]] - 佐久間象山門弟の中津藩[[江戸]]留守居役・[[岡見清熙|岡見彦三清熙]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okami_h.html 岡見彦三]&amp;lt;/ref&amp;gt;が藩邸内に「蘭学所」を設置して、[[杉亨二]]、[[松木弘安]]（寺島宗則）らを招聘。&lt;br /&gt;
*[[1858年]] - [[安政の大獄]]。[[福澤諭吉]]が[[江戸]][[築地]]鉄砲洲の中津藩江戸藩邸「蘭学所（[[蘭学塾]]）」の講師として江戸出府（従者は[[吉川正雄]]、[[足立寛]]、[[原田磊蔵]]）。&lt;br /&gt;
*[[1860年]] - [[咸臨丸]]出帆。[[桜田門外の変]]。&lt;br /&gt;
*[[1863年]] - [[横浜市|横浜]]見物を機に英学塾へ改組。&lt;br /&gt;
*[[1864年]] - [[長州征伐]]が勃発。&lt;br /&gt;
*[[1866年]] - [[紀州藩]]より多数の入塾生を迎え、同藩の援助を受けて中津屋敷内に「[[紀州塾]]」建築。&lt;br /&gt;
*[[1868年]] - [[木村摂津守]]（木村芥舟）の世話により芝新銭座に移転、『'''慶應義塾'''』と改称。「[[適塾]]」が閉鎖。塾内に病室を設置（校医の起源）。&lt;br /&gt;
*[[1869年]] - [[汐留]]の中津藩[[上屋敷]]内に「汐留出張所」を設置。童子寮を設ける。&lt;br /&gt;
*[[1870年]] - [[弘前藩]]の招聘で英学教師二名派遣契約。三田島原藩邸借入につき[[大納言]][[岩倉具視]]を訪問して尽力を依頼、隣接地[[江川太郎左衛門]]屋敷の長屋を借り受けて「外塾」設置。汐留出張所を麻布[[龍源寺]]に移転。芝山内[[広度院]]に分塾設置。&lt;br /&gt;
*[[1871年]] - 芝新銭座の校地を[[近藤真琴]]の[[学校法人攻玉社学園|攻玉塾]]へ譲り、[[三田 (東京都港区)|三田]]の[[島原藩]]中屋敷跡地へ移転。学業勤惰表（[[成績表]]）の印行を開始&lt;br /&gt;
*[[1872年]] - [[藩校]][[進脩館]]が閉鎖。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[開成所]]&lt;br /&gt;
*[[昌平黌]]&lt;br /&gt;
*[[中津藩]]&lt;br /&gt;
*[[適塾]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor=慶應義塾史事典編集委員会編|year=2008|month=11|title=慶應義塾史事典|publisher=慶應義塾大学出版会|isbn=978-4-7664-1572-8|url=http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766415728/}}&lt;br /&gt;
*[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/history/history.html 慶應義塾図書館史]&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=慶應義塾|authorlink=慶應義塾|year=2004|month=4|title=福沢諭吉の手紙|publisher=岩波文庫|series=|isbn=4-00-331026-8}}&lt;br /&gt;
*[http://koara-a.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=Keio_mitalib_A_37728_K1_1-1 慶應義塾百年史]上巻&lt;br /&gt;
*『日本近代学校成立史の研究 - 廃藩置県前後における福沢諭吉をめぐる地方の教育動向』 [[多田建次]] [[1988年]][[1月1日]] 玉川大学出版部 ISBN 9784472078514&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/1997/207.html 義塾草創期にみる塾舎の移り変わり]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{慶應義塾大学}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:けいおうきしゆく はくまついしんき}}&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の教育]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の儒学]]&lt;br /&gt;
[[Category:学校法人慶應義塾]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学]]&lt;br /&gt;
[[Category:蘭学]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の高等教育の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:中津藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀州藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:藩校]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の医史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E7%80%A7%E5%A4%AA%E9%83%8E%E8%B3%9E&amp;diff=154517</id>
		<title>水上瀧太郎賞</title>
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				<updated>2012-03-15T02:57:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: ページの作成：「{{文学}} '''水上滝太郎賞'''（みなかみたきたろうしょう）は、銀座の交詢社で催された『三田文学』創刊五十周年記念...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{文学}}&lt;br /&gt;
'''水上滝太郎賞'''（みなかみたきたろうしょう）は、[[銀座]]の[[交詢社]]で催された『[[三田文学]]』創刊五十周年記念祝賀会にて[[丸岡明]]が計画し、[[慶應義塾大学]]の[[三田文学会]]が主催していた賞。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 受賞作 ==&lt;br /&gt;
* 第1回（[[1948年]]）- [[原民喜]]『[[夏の花]]』 / [[鈴木重雄]]『黒い小屋』 / [[加藤道夫]]『なよたけ』&lt;br /&gt;
* 第2回（[[1949年]]）- [[梅田晴夫]]『五月の花』&lt;br /&gt;
* 第3回 - （休止）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 選考委員 ==&lt;br /&gt;
* [[佐藤春夫]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*『文学賞受賞作品図書目録』 [[日外アソシエーツ]] 1994年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みなかみたきたろうしょう}}&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の詩歌の賞|終]]&lt;br /&gt;
[[Category:かつて存在した日本の文学賞]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

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		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA/%E9%95%B7%E6%9C%9F/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E3%81%9E%E3%82%81%E3%81%8D&amp;diff=154516</id>
		<title>Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/二階ぞめき</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA/%E9%95%B7%E6%9C%9F/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E3%81%9E%E3%82%81%E3%81%8D&amp;diff=154516"/>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox Baduser&lt;br /&gt;
|name = 二階ぞめき&lt;br /&gt;
|shortcut = [[LTA:NIKAI]]&lt;br /&gt;
|Originalname = [[利用者:二階ぞめき|二階ぞめき]]&lt;br /&gt;
|lifespan = 2010年3月11日 -&lt;br /&gt;
|ISP= vectant.ne.jp、[[OCN]]、mesh.ad.jp、asahi-net.or.jp（4つのISP会社と契約）&lt;br /&gt;
|IPs=&lt;br /&gt;
|hostmasks= &lt;br /&gt;
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|RFARs = &lt;br /&gt;
|location = 千葉県、東京都、proxy（Tor）&lt;br /&gt;
|severity = 極めて重大。（所属機関への連絡が必要）極めて反社会的であり、法的措置が必要になる可能性あり。&lt;br /&gt;
|Instructions = [[#編集傾向]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 編集傾向&lt;br /&gt;
1.1 記事の編集内容&lt;br /&gt;
1.2 荒らされた、荒らされている項目&lt;br /&gt;
2 進行中&lt;br /&gt;
3 ブロック済みアカウント&lt;br /&gt;
3.1 投稿記録のあるPROXY&lt;br /&gt;
3.2 投稿記録あり&lt;br /&gt;
[編集] 編集傾向&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[編集] 記事の編集内容&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自身の考えに都合の悪い記述の削除、または沿う形での編集や旧版へのリバートの強行を行う。&lt;br /&gt;
WP:SCRUTINYを目的とした？多数アカウントの作成。&lt;br /&gt;
幕末関連記事の荒らし行為。&lt;br /&gt;
アメリカ合衆国のproxy等でアカウントを大量作成している模様。&lt;br /&gt;
相当数のソックパペットアカウントが存在している模様。&lt;br /&gt;
Torを利用して編集を行う。&lt;br /&gt;
プロキシ以外の生IPのアドレスはIP:222.230.164.99（ノート / 履歴 / ログ / Whois）&lt;br /&gt;
小栗忠順関連の記事を特に重視し、大隈重信を信奉する。&lt;br /&gt;
特定の学校法人に異常に執着し、「学校法人慶應義塾」に関する記事を主に荒らす。&lt;br /&gt;
24時間365日ほぼ常駐している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[編集] 荒らされた、荒らされている項目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小栗忠順（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
福澤諭吉（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
早慶（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
時事新報（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
LTA:AJAX（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
立川談志（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
慶應義塾大学（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
池田長発（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
森田思軒（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
日野熊蔵（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
高取伊好（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
大隈重信（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
理化学研究所（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
[編集] 進行中&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。&lt;br /&gt;
[編集] ブロック済みアカウント&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時刻はUTC表記。&lt;br /&gt;
[編集] 投稿記録のあるPROXY&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利用者名	初出現日時	投稿記録&lt;br /&gt;
ソックパペット&lt;br /&gt;
IP:66.171.229.171（ノート / 履歴 / ログ / Whois）	2011年11月3日 (木) 03:33	&lt;br /&gt;
利用者:するってえとなにかい（ノート / 履歴 / ログ）	2010年8月4日 (水) 11:34	&lt;br /&gt;
IP:209.107.208.88（ノート / 履歴 / ログ / Whois）	&lt;br /&gt;
利用者:吉田光雄介（ノート / 履歴 / ログ）	2011年11月1日 (火) 04:08	&lt;br /&gt;
利用者名	初出現日時	投稿ブロック記録&lt;br /&gt;
本体&lt;br /&gt;
利用者:46.4.237.146（ノート / 履歴 / ログ）	2011年11月6日 (日) 00:28	2011年11月7日 (月) 01:10 無期限&lt;br /&gt;
[編集] 投稿記録あり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利用者名	初出現日時	投稿ブロック記録&lt;br /&gt;
本体&lt;br /&gt;
利用者:二階ぞめき（ノート / 履歴 / ログ）	2010年3月11日 (木) 09:18	2011年10月8日 (土) 12:16&lt;br /&gt;
ソックパペット&lt;br /&gt;
利用者:通名ニダー（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:武藤伸一（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:海賊男（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:金平和（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:辻村庫太（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:ガンジー・キング・イケダ（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:丸楠正（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:オペラ座のかい人（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:片桐清二（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:雑民維新（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:スマタ三四郎（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:明日司農（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:電気いいぞう（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月30日 (日) 12:04	2011年10月30日 (日) 12:04無期限&lt;br /&gt;
利用者:磐田茶農（ノート / 履歴 / ログ）		2011年11月16日 (水) 13:28無期限&lt;br /&gt;
利用者:NNP296（ノート / 履歴 / ログ）		2011年11月16日 (水) 13:28無期限&lt;br /&gt;
利用者:山崎屋（ノート / 履歴 / ログ）		2011年11月16日 (水) 13:28無期限&lt;br /&gt;
利用者:吉田光雄介（ノート / 履歴 / ログ）		2011年11月16日 (水) 13:28無期限&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1326289453/ 【Wikipedia】史上最狂の荒らし利用者:上州力]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:にかいそめき}}&lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアの管理者]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA/%E9%95%B7%E6%9C%9F/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E3%81%9E%E3%82%81%E3%81%8D&amp;diff=154515</id>
		<title>Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/二階ぞめき</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA/%E9%95%B7%E6%9C%9F/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E3%81%9E%E3%82%81%E3%81%8D&amp;diff=154515"/>
				<updated>2012-03-15T02:38:21Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: ページの作成：「二階ぞめき SC: LTA:NIKAI オリジナル ネーム	二階ぞめき 活動期間	2010年3月11日 - ISP	vectant.ne.jp 物理的な位置	千葉県、東京都、proxy...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;二階ぞめき&lt;br /&gt;
SC: LTA:NIKAI&lt;br /&gt;
オリジナル&lt;br /&gt;
ネーム	二階ぞめき&lt;br /&gt;
活動期間	2010年3月11日 -&lt;br /&gt;
ISP	vectant.ne.jp&lt;br /&gt;
物理的な位置	千葉県、東京都、proxy（Tor）&lt;br /&gt;
重大度	重大&lt;br /&gt;
問題行為&lt;br /&gt;
および活動	#編集傾向&lt;br /&gt;
テンプレートを表示&lt;br /&gt;
現在、無期限ブロックを受けている二階ぞめき、およびそのソックパペットと強く疑われるアカウントによる荒らし行為などを報告するためのページです。&lt;br /&gt;
目次&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1 編集傾向&lt;br /&gt;
1.1 記事の編集内容&lt;br /&gt;
1.2 荒らされた、荒らされている項目&lt;br /&gt;
2 進行中&lt;br /&gt;
3 ブロック済みアカウント&lt;br /&gt;
3.1 投稿記録のあるPROXY&lt;br /&gt;
3.2 投稿記録あり&lt;br /&gt;
[編集] 編集傾向&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[編集] 記事の編集内容&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自身の考えに都合の悪い記述の削除、または沿う形での編集や旧版へのリバートの強行を行う。&lt;br /&gt;
WP:SCRUTINYを目的とした？多数アカウントの作成。&lt;br /&gt;
幕末関連記事の荒らし行為。&lt;br /&gt;
アメリカ合衆国のproxy等でアカウントを大量作成している模様。&lt;br /&gt;
相当数のソックパペットアカウントが存在している模様。&lt;br /&gt;
Torを利用して編集を行う。&lt;br /&gt;
プロキシ以外の生IPのアドレスはIP:222.230.164.99（ノート / 履歴 / ログ / Whois）&lt;br /&gt;
小栗忠順関連の記事を特に重視し、大隈重信を信奉する。&lt;br /&gt;
特定の学校法人に異常に執着し、「学校法人慶應義塾」に関する記事を主に荒らす。&lt;br /&gt;
24時間365日ほぼ常駐している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[編集] 荒らされた、荒らされている項目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小栗忠順（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
福澤諭吉（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
早慶（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
時事新報（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
LTA:AJAX（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
立川談志（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
慶應義塾大学（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
池田長発（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
森田思軒（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
日野熊蔵（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
高取伊好（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
大隈重信（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
理化学研究所（ノート / 履歴 / ログ / リンク元）&lt;br /&gt;
[編集] 進行中&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。&lt;br /&gt;
[編集] ブロック済みアカウント&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時刻はUTC表記。&lt;br /&gt;
[編集] 投稿記録のあるPROXY&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利用者名	初出現日時	投稿記録&lt;br /&gt;
ソックパペット&lt;br /&gt;
IP:66.171.229.171（ノート / 履歴 / ログ / Whois）	2011年11月3日 (木) 03:33	&lt;br /&gt;
利用者:するってえとなにかい（ノート / 履歴 / ログ）	2010年8月4日 (水) 11:34	&lt;br /&gt;
IP:209.107.208.88（ノート / 履歴 / ログ / Whois）	&lt;br /&gt;
利用者:吉田光雄介（ノート / 履歴 / ログ）	2011年11月1日 (火) 04:08	&lt;br /&gt;
利用者名	初出現日時	投稿ブロック記録&lt;br /&gt;
本体&lt;br /&gt;
利用者:46.4.237.146（ノート / 履歴 / ログ）	2011年11月6日 (日) 00:28	2011年11月7日 (月) 01:10 無期限&lt;br /&gt;
[編集] 投稿記録あり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利用者名	初出現日時	投稿ブロック記録&lt;br /&gt;
本体&lt;br /&gt;
利用者:二階ぞめき（ノート / 履歴 / ログ）	2010年3月11日 (木) 09:18	2011年10月8日 (土) 12:16&lt;br /&gt;
ソックパペット&lt;br /&gt;
利用者:通名ニダー（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:武藤伸一（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:海賊男（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:金平和（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:辻村庫太（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:ガンジー・キング・イケダ（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:丸楠正（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:オペラ座のかい人（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:片桐清二（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:雑民維新（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:スマタ三四郎（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:明日司農（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月8日 (土) 12:16	2011年10月8日 (土) 12:16 無期限&lt;br /&gt;
利用者:電気いいぞう（ノート / 履歴 / ログ）	2011年10月30日 (日) 12:04	2011年10月30日 (日) 12:04無期限&lt;br /&gt;
利用者:磐田茶農（ノート / 履歴 / ログ）		2011年11月16日 (水) 13:28無期限&lt;br /&gt;
利用者:NNP296（ノート / 履歴 / ログ）		2011年11月16日 (水) 13:28無期限&lt;br /&gt;
利用者:山崎屋（ノート / 履歴 / ログ）		2011年11月16日 (水) 13:28無期限&lt;br /&gt;
利用者:吉田光雄介（ノート / 履歴 / ログ）		2011年11月16日 (水) 13:28無期限&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1326289453/ 【Wikipedia】史上最狂の荒らし利用者:上州力]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:にかいそめき}}&lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアの管理者]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E9%9D%92%E5%B9%B4%E4%BC%9A&amp;diff=154429</id>
		<title>慶應義塾大学仏教青年会</title>
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				<updated>2012-03-13T15:50:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: ページの作成：「{{Buddhism}} '''慶應義塾大学佛教青年會'''（けいおうぎじゅくだいがく ぶっきょうせいねんかい）は、明治23年（1890年）[[10...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Buddhism}}&lt;br /&gt;
'''慶應義塾大学佛教青年會'''（けいおうぎじゅくだいがく ぶっきょうせいねんかい）は、[[明治]]23年（[[1890年]]）[[10月25日]]に創設された[[慶應義塾大学]]の[[仏教団体]]。慶應義塾大学の文化団体連盟諸団体の中でも長い歴史を持つ。発足当初は「'''土曜会'''」又は「'''三田仏教会'''」と称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 戦前 ===&lt;br /&gt;
主に、[[慶應義塾]]に学んだ[[僧侶]]の指導の下に発足。[[仏教]]保護論者でもあり、[[浄土真宗]]出身の[[福澤諭吉]]が福沢家で行っていた法話を基に&amp;lt;ref name=&amp;quot;Gaiyou&amp;quot;&amp;gt;『三田仏教の今昔』&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[明治維新]]以後の[[基督教]]（キリスト教）の輸入などから日本国の国体を護持するため、塾員（慶應義塾の出身者）らが立ち上げた。そこで、[[曹洞宗大学]]学長の[[丘宗潭]]と[[丸山孫蔵]]らによって協議され、創立された&amp;lt;ref name=&amp;quot;Gaiyou&amp;quot;/&amp;gt;。創立にあたり、三田北寺町壱番地[[西蓮寺]]にて内会を開き、幹事3名を選出し、[[牟田舗麿]]・[[西山是端]]・[[大久良俊]]・[[川瀬良丸]]・[[高木義菩]]・[[龍澤哲]]・[[南荘隆成]]・[[中山了運]]・[[梅原融]]・[[有川貞憲]]・[[斎藤教聞]]・[[能海寛]]・[[桑門環]]・[[菅学応]]・[[弓削俊證]]・[[阿部彗水]]・[[華園敷江]]・[[吉野精順]]・[[樹谷淳孝]]・[[石堂文英]]・[[佐藤俊龍]]・[[藤田順道]]・[[推尾朝麿]]・[[白川謙致]]が創立会員となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Gaiyou&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、[[浄土真宗]][[大谷派]]の僧侶で東京駒込の[[真浄寺]]の住職・[[寺田福寿]]を迎えて定例会は[[泉岳寺]]を利用した。明治25年（[[1892年]]）4月8日には、[[日蓮宗大学]]同窓会と合同して「釈尊降誕会」を慶應義塾演説館にて盛大に催し、[[小幡篤次郎]]、[[釈雲照]]、[[島地黙雷]]、[[山下利助]]らが出席して演説を行っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;Gaiyou&amp;quot;/&amp;gt;。これは明治32年（[[1899年]]）に「'''三田仏教会'''」と改称してからも続いた。他にも、聖誕記念宣伝協賛会、仏教文化三聖記念講演会を催している。仏教青年会は『宇宙の光』・『仏教』・『公孫樹』・『いづみ』等の月刊機関紙を発刊していて、慶應義塾の塾生のみならず、地方でもよく売れたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後も、[[安藤栄吉]]、[[川合貞一]]、[[富士川游]]、[[木村泰賢]]、[[加藤咄堂]]、[[河口慧海]]、[[岩谷耕二]]、[[丸山興憨]]ら慶應義塾大学の教授陣が支援して、[[太平洋戦争]]前には「汎太平洋仏教青年大会」に参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦後 ===&lt;br /&gt;
[[昭和]]30年（[[1955年]]）にかつての活況を取り戻し、[[朝比奈宗源]]、[[椎尾弁匡]]、[[増谷文雄]]、[[紀野一義]]らを講師として招いた。更に[[大正]]末期から顧問を務める[[友松円諦]]の指導の下、「世界仏教徒会議」に参会した。慶應義塾創立100周年を迎えた昭和33年（[[1958年]]）に[[武見太郎]]らOBの尽力により、[[日吉キャンパス]]グラウンド南側に[[坐禅]]堂を備えた「仏教青年会館」を竣工した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「仏教青年会館」落成後から始められた坐禅の実践は、現在にわたるまでの活動の機軸となっている。また定期的に仏教青年会のOB会の同窓会・親睦会が開かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴代幹部 ==&lt;br /&gt;
*顧問：[[友松円諦]]（[[全日本仏教会]]創立者）&lt;br /&gt;
*幹事：[[安藤栄吉]]&lt;br /&gt;
*顧問：[[武見太郎]]（[[世界医師会]]会長、[[国柱会]]顧問）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連人物・出身者 ==&lt;br /&gt;
*[[柴田一能]] - 教授&lt;br /&gt;
*[[白川謙致]] - 講師&lt;br /&gt;
*[[清水静文]] - 教授&lt;br /&gt;
*[[丸山興憨]] - 専務&lt;br /&gt;
*[[河口慧海]] - 講師&lt;br /&gt;
*[[安陪恵水]] - [[東本願寺]]総長&lt;br /&gt;
*[[河合了勝]] - 開教使&lt;br /&gt;
*[[伊藤園定]] - [[ハワイ]]開教使、第二代ハワイ開教総監&lt;br /&gt;
*[[中野三憲]] - OB・大阪府泉北郡南王子村長、青年同志会メンバー&lt;br /&gt;
*[[岡田幸三郎]] - OB・日本砂糖工業社長&lt;br /&gt;
*[[萩原吉太郎]] - OB・[[北海道炭礦汽船]]社長&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[三田密教研究会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://plaza.rakuten.co.jp/bussei/ 慶應義塾大学のサークル仏教青年会(通称:仏青)]&lt;br /&gt;
*[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/1999/221.html ステンドグラス 草創期の課外活動をみる　～高まる革新気運の中で～]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor=慶應義塾史事典編集委員会編|year=2008|month=11|title=慶應義塾史事典|publisher=慶應義塾大学出版会|isbn=978-4-7664-1572-8|url=http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766415728/}}&lt;br /&gt;
*『慶應義塾仏教青年会百年史』 [[1990年]]&lt;br /&gt;
*『三田仏教の福音』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{学校法人慶應義塾}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:けいおうきしゆくたいかく ふつきようせいねんかい}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;br /&gt;
[[Category:仏教文化]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学|ふつきようせいねんかい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>増田宋太郎</title>
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				<updated>2012-02-24T16:04:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox 革命家&lt;br /&gt;
|名前=増田 宗太郎&lt;br /&gt;
|画像=[[画像:Sotaro Masuda.jpg|200px|増田宗太郎]]&lt;br /&gt;
|説明=肖像&lt;br /&gt;
|通称=&lt;br /&gt;
|生年=[[嘉永]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]&lt;br /&gt;
|生地=[[豊前国]]&lt;br /&gt;
|没年=[[明治]]10年（[[1877年]]）9月&lt;br /&gt;
|没地=鹿児島&lt;br /&gt;
|活動=[[西南戦争]]&lt;br /&gt;
|組織=[[中津隊]]&lt;br /&gt;
|藩=[[中津藩]]&lt;br /&gt;
|廟=[[中津市]][[安全寺]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[南洲墓地]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''増田 宗太郎'''（ますだ そうたろう、[[嘉永]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]（[[1849年]][[3月17日]]） - [[明治]]10年（[[1877年]]）9月）は、[[中津藩]]下士増田久行の嫡男。母は九州[[国学]]の三大家の一人で、[[平田篤胤]]直系の弟子である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://rc.moralogy.jp/ronbun/6.html 平田篤胤－渡辺重石丸―増田宋太郎]&amp;lt;/ref&amp;gt;[[渡辺重名]]の娘。父は儒学者・[[福沢百助]]の妻のいとこ。[[福沢諭吉]]とは再従兄弟にあたり、家も近くである。幼名は'''久米丸'''。民権結社「共憂社」主宰、[[西南戦争]]における[[中津隊]]々長。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==略歴==&lt;br /&gt;
===生い立ち===&lt;br /&gt;
[[嘉永]]2年[[2月23日]]、[[中津藩]]下士・増田久行の嫡男として生まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{和暦|1857}}、[[渡辺重名]]の孫で、[[渡辺重石丸]]（鉄次郎）が始めた[[国学]]塾「道生館」に入門し、[[平田篤胤]]派国学を学び、[[尊王攘夷]]思想に開眼する。{{和暦|1863}}の[[第1次長州征伐]]の中津藩出兵では選考に洩れ、慶応2年（1866年）の[[第2次長州征伐]]に際しては、[[攘夷]]派長州を討つべきではないとして征長中止を建言しようとしたが、師・重石丸に諫止されて果たせなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.e-obs.com/heo/heodata/n686.htm 師重石丸に諫止されて果たせなかった。]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶応4年（[[1868年]]）に長州藩脱徒の兵と[[佐田秀]]らの草莽隊が、御許山に[[勤王義挙]]の旗を立て、[[花山院]]を擁して[[西国郡代]]を討ち、九州に維新回天の業を進めようとしたものである。[[中津城]]下は震動し、宋太郎またもや参加しようとしたが、重石丸に阻止される。直後に[[長州藩]]兵によって草莽隊は鎮圧された。[[明治新新府]]への恭順を決定した中津藩は出兵し、やがて[[戊辰戦争]]に従軍して[[奥羽]]にまで転戦したが、この時も宋太郎の従軍は[[京都]]までであり、帰郷を命じられた。そしてこの時に、宋太郎は[[維新政府]]の[[攘夷]]実行の意志に幻滅し、疑念を抱き始める&amp;lt;ref&amp;gt;家永三郎 『近代日本の争点』 每日新聞社 1967年 P389&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===維新後===&lt;br /&gt;
{{和暦|1869}}中津藩の尊王攘夷の国学の徒は、攘夷を捨てた[[薩長]]が[[明治天皇]]を奪うものとして憤慨して天皇奪還を目指して[[京都還幸]]の計を進めた。宋太郎もまた、[[岩田茂穂]]ら私塾・「道生館」一統をひきいて上京参加せんとしたが、今度は[[柳田清雄]]に諫止されて果たせず。明治3年（[[1870年]]）には上京して政府の[[文明開化]]・[[開国和親]]の方針を確認し、増田の幻滅と憎悪は深かったといい、時代の[[文明開化]]のリーダーで、いとこの[[福沢諭吉]]への不満を募らせた宋太郎は、同志・[[朝吹英二]]に福沢暗殺を依頼し、同年の明治3年（1870年）に福澤諭吉帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。しかし、福沢邸に乗り込むものの、福澤は来客した[[服部五郎兵衛]]と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗し、逆に朝吹・増田共に論吉に心服し、そのまま藩邸の[[慶應義塾]]に入学した&amp;lt;ref&amp;gt;『慶應義塾入社帳』第一巻&amp;lt;/ref&amp;gt;。明治4年（[[1871年]]）に郷里の中津に帰郷して「皇学校」を設立し、[[闇無浜神社]]の[[祀官]]となる。直後に[[小幡篤次郎]]と福澤諭吉の旧藩校・[[進脩館]]と統合&amp;lt;ref&amp;gt;第36番中学校&amp;lt;/ref&amp;gt;。次いで[[島津久光]]への討薩計画を立てて上京したが、明治6年（[[1873年]]）に同志と共に[[久留米]]で自首、藩主より半年間の蟄居を命じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===士族反乱===&lt;br /&gt;
許されて帰郷した明治7年（[[1874年]]）に[[佐賀の乱]]が勃発すると、宋太郎は中津士族を統合して数百名を集めて部隊の編成に成功し、[[江藤新平]]に合流しようと[[小倉県]]の命で佐賀に赴いたが、増田らが到着したとき乱はすでに鎮圧されていた。次いで[[征台の役]]が始まると、長崎、鹿児島に情勢をさぐり、帰郷して中津に[[自由民権運動]]の結社「共憂社」を設立した。[[板垣退助]]が[[林有造]]を送って祝したともいわれる。下級士族の没落が進行する中、明治9年（[[1876年]]）2月、宋太郎は[[福澤諭吉]]を慕って上京し、2度目の[[慶應義塾]]に入った。慶應義塾で学んだのち、[[村上田長]]によって、『[[田舎新聞]]』が創刊されると、編集長を務める&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.h4.dion.ne.jp/~yoshisan/page014.html 村上田長(1839～1906）]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[萩の乱]]、[[神風連の乱]]、[[秋月の乱]]の報を聞くと、明治10年（[[1877年]]）1月に、増田は鹿児島に[[桐野利秋]]を訪ね、京阪にある[[川村矯一郎]]ら同志からの土佐蹶起の報を待ち続けたが、ついに3月31日、同志らと共に 蜂起した。[[中津支庁]]襲撃、[[大分県庁]]襲撃、[[小国]]を通って熊本の[[西郷軍]]に合流、以後各地に転戦して[[鹿児島城]]山まで[[中津隊]]は勇名を謳われた。[[米蔵]]（現・[[鹿児島市役所]]付近）の銃撃戦で戦死した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://bakusiken.cool.ne.jp/siseki/kagosima/nansyu.html 明治10年９月４日米蔵（現鹿児島市役所付近）銃撃戦で戦死。]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[黒龍会]]編集の『西南記伝』は宋太郎の最後を戦死と伝え、『[[郵便報知新聞]]』記者・[[犬養毅]]は捕われて斬首されたと伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著書==&lt;br /&gt;
*『増田宋太郎遺稿集』（[[漢詩]]集、明治16年）&lt;br /&gt;
*『増田宋太郎歌集』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[中津市指定文化財一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==エピソード==&lt;br /&gt;
* [[司馬遼太郎]]も著書『[[翔ぶが如く]]』で引用した「'''1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある'''」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたともいう。&lt;br /&gt;
* [[太平洋戦争]]中には[[蘭学者]]の福沢の評価よりも暗殺しようとした増田の評価が高まり、一時は生家跡地に[[神社]]（増田神社）まで建立され、[[祭神]]となったという。戦後、評価は元に戻り、現在、増田の生家跡地は小さな公園になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* [[司馬遼太郎]] 『翔ぶが如く』 &lt;br /&gt;
* [[熊谷克己]] 『増田宋太郎伝』 二豐新聞社 1913年&lt;br /&gt;
* 丸山信編『人物書誌体系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843&lt;br /&gt;
* [[江藤淳]]『南洲残影』文藝春秋〈文春文庫〉、平成13年(2001年)、ISBN 4-16-353840-2&lt;br /&gt;
* [http://www.e-obs.com/heo/heodata/n686.htm 増田宋太郎(ますだそうたろう)] 世ヲ憤リ身ヲ憂イテ涙雨ノ如シ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/seinan_eki/ooita/masudasoutarou-seitannoti.html 増田宋太郎生誕の地]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/seinan_eki/ooita/masudasoutarou-bosho.html 増田宋太郎の墓]&lt;br /&gt;
*[http://www.keiten-aijin.com/masudasoutarou.htm 増田 宗太郎／敬天愛人フォーラム２１]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ますた そうたろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末中津藩の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:戊辰戦争の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:国学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:士族反乱]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾の塾生]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:西南戦争のジャーナリスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民権運動の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:西南戦争で戦死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:新聞編集者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の漢詩人]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺未遂犯]]&lt;br /&gt;
[[Category:1849年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1877年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E5%A2%97%E7%94%B0%E5%AE%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E&amp;diff=152044</id>
		<title>増田宋太郎</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: ページの作成：「{{Infobox 革命家 |名前=増田 宗太郎 |画像=増田宗太郎 |説明=肖像 |通称= |生年=嘉永2年[[2月23日 (旧暦)|...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox 革命家&lt;br /&gt;
|名前=増田 宗太郎&lt;br /&gt;
|画像=[[画像:Sotaro Masuda.jpg|200px|増田宗太郎]]&lt;br /&gt;
|説明=肖像&lt;br /&gt;
|通称=&lt;br /&gt;
|生年=[[嘉永]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]&lt;br /&gt;
|生地=[[豊前国]]&lt;br /&gt;
|没年=[[明治]]10年（[[1877年]]）9月&lt;br /&gt;
|没地=鹿児島&lt;br /&gt;
|活動=[[西南戦争]]&lt;br /&gt;
|組織=[[中津隊]]&lt;br /&gt;
|藩=[[中津藩]]&lt;br /&gt;
|廟=[[中津市]][[安全寺]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[南洲墓地]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''増田 宗太郎'''（ますだ そうたろう、[[嘉永]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]（[[1849年]][[3月17日]]） - [[明治]]10年（[[1877年]]）9月）は、[[中津藩]]下士増田久行の嫡男。母は九州[[国学]]の三大家の一人で、[[平田篤胤]]直系の弟子である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://rc.moralogy.jp/ronbun/6.html 平田篤胤－渡辺重石丸―増田宋太郎]&amp;lt;/ref&amp;gt;[[渡辺重名]]の娘。父は儒学者・[[福沢百助]]の妻のいとこ。[[福沢諭吉]]とは再従兄弟にあたり、家も近くである。幼名は'''久米丸'''。民権結社「共憂社」主宰、[[西南戦争]]における[[中津隊]]々長。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==略歴==&lt;br /&gt;
===生い立ち===&lt;br /&gt;
[[嘉永]]2年[[2月23日]]、[[中津藩]]下士・増田久行の嫡男として生まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{和暦|1857}}、[[渡辺重名]]の孫で、[[渡辺重石丸]]（鉄次郎）が始めた[[国学]]塾「道生館」に入門し、[[平田篤胤]]派国学を学び、[[尊王攘夷]]思想に開眼する。{{和暦|1863}}の[[第1次長州征伐]]の中津藩出兵では選考に洩れ、慶応2年（1866年）の[[第2次長州征伐]]に際しては、[[攘夷]]派長州を討つべきではないとして征長中止を建言しようとしたが、師・重石丸に諫止されて果たせなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.e-obs.com/heo/heodata/n686.htm 師重石丸に諫止されて果たせなかった。]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶応4年（[[1868年]]）に長州藩脱徒の兵と[[佐田秀]]らの草莽隊が、御許山に[[勤王義挙]]の旗を立て、[[花山院]]を擁して[[西国郡代]]を討ち、九州に維新回天の業を進めようとしたものである。[[中津城]]下は震動し、宋太郎またもや参加しようとしたが、重石丸に阻止される。直後に[[長州藩]]兵によって草莽隊は鎮圧された。[[明治新新府]]への恭順を決定した中津藩は出兵し、やがて[[戊辰戦争]]に従軍して[[奥羽]]にまで転戦したが、この時も宋太郎の従軍は[[京都]]までであり、帰郷を命じられた。そしてこの時に、宋太郎は[[維新政府]]の[[攘夷]]実行の意志に幻滅し、疑念を抱き始める&amp;lt;ref&amp;gt;家永三郎 『近代日本の争点』 每日新聞社 1967年 P389&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===維新後===&lt;br /&gt;
{{和暦|1869}}中津藩の尊王攘夷の国学の徒は、攘夷を捨てた[[薩長]]が[[明治天皇]]を奪うものとして憤慨して天皇奪還を目指して[[京都還幸]]の計を進めた。宋太郎もまた、[[岩田茂穂]]ら私塾・「道生館」一統をひきいて上京参加せんとしたが、今度は[[柳田清雄]]に諫止されて果たせず。明治3年（[[1870年]]）には上京して政府の[[文明開化]]・[[開国和親]]の方針を確認し、増田の幻滅と憎悪は深かったといい、時代の[[文明開化]]のリーダーで、いとこの[[福沢諭吉]]への不満を募らせた宋太郎は、同志・[[朝吹英二]]に福沢暗殺を依頼し、同年の明治3年（1870年）に福澤諭吉帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。しかし、福沢邸に乗り込むものの、福澤は来客した[[服部五郎兵衛]]と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗し、逆に朝吹・増田共に論吉に心服し、そのまま藩邸の[[慶應義塾]]に入学した&amp;lt;ref&amp;gt;『慶應義塾入社張』第一巻&amp;lt;/ref&amp;gt;。明治4年（[[1871年]]）に郷里の中津に帰郷して「皇学校」を設立し、[[闇無浜神社]]の[[祀官]]となる。直後に[[小幡篤次郎]]と福澤諭吉の旧藩校・[[進脩館]]と統合&amp;lt;ref&amp;gt;第36番中学校&amp;lt;/ref&amp;gt;。次いで[[島津久光]]への討薩計画を立てて上京したが、明治6年（[[1873年]]）に同志と共に[[久留米]]で自首、藩主より半年間の蟄居を命じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===士族反乱===&lt;br /&gt;
許されて帰郷した明治7年（[[1874年]]）に[[佐賀の乱]]が勃発すると、宋太郎は中津士族を統合して数百名を集めて部隊の編成に成功し、[[江藤新平]]に合流しようと[[小倉県]]の命で佐賀に赴いたが、増田らが到着したとき乱はすでに鎮圧されていた。次いで[[征台の役]]が始まると、長崎、鹿児島に情勢をさぐり、帰郷して中津に[[自由民権運動]]の結社「共憂社」を設立した。[[板垣退助]]が[[林有造]]を送って祝したともいわれる。下級士族の没落が進行する中、明治9年（[[1876年]]）2月、宋太郎は[[福澤諭吉]]を慕って上京し、2度目の[[慶應義塾]]に入った。慶應義塾で学んだのち、[[村上田長]]によって、『[[田舎新聞]]』が創刊されると、編集長を務める&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.h4.dion.ne.jp/~yoshisan/page014.html 村上田長(1839～1906）]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[萩の乱]]、[[神風連の乱]]、[[秋月の乱]]の報を聞くと、明治10年（[[1877年]]）1月に、増田は鹿児島に[[桐野利秋]]を訪ね、京阪にある[[川村矯一郎]]ら同志からの土佐蹶起の報を待ち続けたが、ついに3月31日、同志らと共に 蜂起した。[[中津支庁]]襲撃、[[大分県庁]]襲撃、[[小国]]を通って熊本の[[西郷軍]]に合流、以後各地に転戦して[[鹿児島城]]山まで[[中津隊]]は勇名を謳われた。[[米蔵]]（現・[[鹿児島市役所]]付近）の銃撃戦で戦死した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://bakusiken.cool.ne.jp/siseki/kagosima/nansyu.html 明治10年９月４日米蔵（現鹿児島市役所付近）銃撃戦で戦死。]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[黒龍会]]編集の『西南記伝』は宋太郎の最後を戦死と伝え、『[[郵便報知新聞]]』記者・[[犬養毅]]は捕われて斬首されたと伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著書==&lt;br /&gt;
*『増田宋太郎遺稿集』（[[漢詩]]集、明治16年）&lt;br /&gt;
*『増田宋太郎歌集』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[中津市指定文化財一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==エピソード==&lt;br /&gt;
* [[司馬遼太郎]]も著書『[[翔ぶが如く]]』で引用した「'''1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある'''」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたともいう。&lt;br /&gt;
* [[太平洋戦争]]中には[[蘭学者]]の福沢の評価よりも暗殺しようとした増田の評価が高まり、一時は生家跡地に[[神社]]（増田神社）まで建立され、[[祭神]]となったという。戦後、評価は元に戻り、現在、増田の生家跡地は小さな公園になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* [[司馬遼太郎]] 『翔ぶが如く』 &lt;br /&gt;
* [[熊谷克己]] 『増田宋太郎伝』 二豐新聞社 1913年&lt;br /&gt;
* 丸山信編『人物書誌体系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843&lt;br /&gt;
* [[江藤淳]]『南洲残影』文藝春秋〈文春文庫〉、平成13年(2001年)、ISBN 4-16-353840-2&lt;br /&gt;
* [http://www.e-obs.com/heo/heodata/n686.htm 増田宋太郎(ますだそうたろう)] 世ヲ憤リ身ヲ憂イテ涙雨ノ如シ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/seinan_eki/ooita/masudasoutarou-seitannoti.html 増田宋太郎生誕の地]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/seinan_eki/ooita/masudasoutarou-bosho.html 増田宋太郎の墓]&lt;br /&gt;
*[http://www.keiten-aijin.com/masudasoutarou.htm 増田 宗太郎／敬天愛人フォーラム２１]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ますた そうたろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末中津藩の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:戊辰戦争の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:国学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:士族反乱]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾の塾生]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:西南戦争のジャーナリスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民権運動の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:西南戦争で戦死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:新聞編集者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の漢詩人]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺未遂犯]]&lt;br /&gt;
[[Category:1849年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1877年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%85%8D%E5%B1%9E%E5%B0%86%E6%A0%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=152043</id>
		<title>慶應義塾大学配属将校一覧</title>
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				<updated>2012-02-24T11:53:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: ページの作成：「昭和12年([[1937年)、富士裾野における慶應義塾大学の軍事教練]] {{日...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:Military training courses at Keio University.jpg|thumb|300px|昭和12年([[1937年]])、[[富士]][[裾野]]における慶應義塾大学の軍事教練]]&lt;br /&gt;
{{日本陸軍}}&lt;br /&gt;
{{子記事|慶應義塾大学}}&lt;br /&gt;
'''慶應義塾大学配属将校一覧'''（けいおうぎじゅくだいがくのはいぞくしょうこういちらん）、[[大正]]14年（[[1925年]]）公布の[[陸軍現役将校学校配属令]]により、各[[旧制大学]]に配置された[[帝国陸軍]]の現役[[将校]]。[[慶應義塾大学]]では軍事教練を受け持った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴代配属将校 ==&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!代!!氏名!!在職期間!!在任時階級及び所属!!最終階級&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1||[[大浜石太郎]]||[[1925年]][[7月10日]] - [[1928年]][[8月10日]]||[[大佐]]||[[陸軍少将]]、第10師団参謀長&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2||[[服部保]]||1928年8月10日 - [[1930年]][[8月1日]]||大佐||陸軍少将、歩兵四旅団長、[[予備役]]、陸大25、陸士14&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3||[[伊藤義雄]]||1930年8月1日 - [[1932年]][[1月9日]]||大佐・[[第1師団司令部]]||[[陸軍中将]]、旅順要塞司令官、待命&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|4||[[石原常太郎]]||1932年1月9日 - [[1933年]][[8月1日]]||[[中佐]]・第1師団司令部||陸軍少将、鎮海湾要塞司令官、待命&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5||[[栗田小三郎]]||1933年8月1日 - [[1934年]][[8月1日]]||大佐・第1師団司令部||陸軍少将&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6||[[手塚省三]]||1934年8月1日 - [[1936年]][[3月7日]]||大佐・第1師団司令部||陸軍少将、戦傷&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7||[[青木敬一]]||1936年3月7日 - [[1937年]][[11月24日]]||歩兵大佐||陸軍少将、歩兵第一三六旅団旅団長&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|8||[[丸山定]]||1937年[[12月4日]] - [[1938年]][[12月10日]]||大佐・留守第1師団司令部||陸軍少将、独混十二旅団長&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9||[[寺田繁一]]||（不）||大佐||（不）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10||[[川生馨]]||（不）||大佐||（不）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11||[[永沢三郎]]||[[1941年]][[8月10日]] - [[1943年]][[3月1日]]||大佐・[[東部軍司令部]]||陸軍中将、[[豊橋予備士官学校]]校長、第221師団長&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|12||[[木原義雄]]||1943年3月1日 - [[1944年]][[12月16日]]||大佐・東部軍司令部||陸軍少将、独混67旅団長&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 特徴 ==&lt;br /&gt;
いわゆる上級学校の配属将校として配属され、日系2世の[[海軍予備学生]]に優遇措置があったとされる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://homepage3.nifty.com/hongo/newpage3.htm 3.日系2世の海軍予備学生とプロ野球]&amp;lt;/ref&amp;gt;。配属将校はいわゆる軍隊内での[[出世コース]]では無いが、全員が[[将官]]（[[勅任官]]）まで昇進している事は特筆に値する。少将昇進と同時に[[待命]]、[[予備役]]となっている者も何名か見受けられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
配属将校が赴任してからは「野外演習」として、正課の授業の一つとして取り扱われるようになった。戦時下の[[慶應義塾大学]]は、最も自由な大学の一つで、学内では配属将校や[[特高警察]]がいても比較的自由であった事はよく知られている。慶應義塾内における軍部としては、当然大学にはそれにふさわしい軍人を送り込んでいるので特筆すべき問題はなかったようである。[[上智大学]]などでは、[[靖国神社]]に参拝することを配属将校が激しく迫るというような事があったが、慶應義塾大学ではそのような問題はまったく起こらなかった&amp;lt;ref&amp;gt;『現代日本の政治過程:日本型民主主義の計量分析』 [[小林良彰]] [[東京大学出版会]] 1997年 P.288&amp;lt;/ref&amp;gt;。逆に来るときは兎に角、去るときは、慶應義塾に好感を抱き、去っていく者ばかりであったという&amp;lt;ref&amp;gt;『[[小泉信三]]全集 第 11巻』 [[文藝春秋]] [[1972年]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教練関係のほかに軍人としては[[工学部]]長・[[谷村豊太郎]]がおり、彼は[[東京帝国大学]]の平賀総長の推薦によって[[藤原工業大学]]の初代学部長に就任している。[[大東亜戦争]]勃発後は、満20歳に達した男子は[[徴兵検査]]に合格すれば軍隊に入る義務があったが、学生は優遇されて卒業まで徴兵が延期された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出身人物 ==&lt;br /&gt;
*[[浜本正勝]]（慶應義塾大学聴講生、ラウレル・フイリピン大統領特別補佐官、東条英機首相秘書官、大東亜会議出席者）&lt;br /&gt;
*[[宅島徳光]]（海軍中尉、第13期飛行予備学生）&lt;br /&gt;
*[[安東清]]（軍医中尉）&lt;br /&gt;
*[[三井但夫]]（731部隊予研検定部長）&lt;br /&gt;
*[[小林六造]]（731部隊予研初代所長）&lt;br /&gt;
*[[井口昌夫]]（陸軍軍医学校嘱託）&lt;br /&gt;
*[[大林静男]]（帝国陸軍教授嘱託&lt;br /&gt;
*[[小林栄三]]（陸軍軍医学校嘱託）&lt;br /&gt;
*[[荒垣恒政]]（医学博士、中将、北支派遣）&lt;br /&gt;
*[[松崎陽]]（蒙古軍最高顧問、陸軍軍医少将、日本モンゴル協会会長）&lt;br /&gt;
*[[太田孝一]]（兵科4期出身、少尉）&lt;br /&gt;
*[[銭村健次]]（15期飛行5期兵科、2期予備生）&lt;br /&gt;
*[[松浦喜一]]（少尉、第144振武隊）&lt;br /&gt;
*[[吉岡良二]]（陸佐）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[慶應義塾大学の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[慶應義塾特設防護団]]&lt;br /&gt;
* [[慶應義塾報国隊]]&lt;br /&gt;
* [[学習院大学配属将校一覧]]&lt;br /&gt;
* [[東京帝国大学配属将校一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.koubunken.co.jp/0475/0464.html 本土決戦の虚像と実像] 日吉台地下壕保存の会&lt;br /&gt;
*[http://homepage3.nifty.com/hongo/newpage3.htm 桜会人名録にみる配属将校たち]&lt;br /&gt;
*[http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf/019/19-r-011.pdf 配属将校制度の成立過程について]&lt;br /&gt;
*[http://www.nhk.or.jp/nagoya/jyugosai/preparation/corner05.html 学校配属の現役将校と軍事教練予習コーナーNHKスペシャル]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[白井厚]] / [[浅羽久美子]] / [[翠川紀子]] 『証言太平洋戦争下の慶應義塾』 [[慶應義塾大学出版会]] [[2003年]]&lt;br /&gt;
* 『大東亜会議の真実 アジアの解放と独立を目指して』 [[PHP研究所]] ISBN 4569634958&lt;br /&gt;
* 『共同研究太平洋戦争と慶應義塾』 慶應義塾大学経済学部白井ゼミナール 白井厚 慶應義塾大学出版会 1999年&lt;br /&gt;
* 『アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿』 白井厚 慶應義塾福澤研究センター 2007年&lt;br /&gt;
* [[秦郁彦]] 『日本陸海軍総合事典』（東京大学出版会、1991年/第二版、2005年）&lt;br /&gt;
* 秦郁彦 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』（戦前期官僚制研究会編、東京大学出版会、1981年）&lt;br /&gt;
* 『軍[[ファシズム]]運動史――3月事件から2・26後まで』（[[河出書房新社]]、1962年/増訂版、1972年/新装版.原書房、1980年） - 桜会人名録&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{学校法人慶應義塾}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:けいおうきしゆくたいかくはいそくしようこういちらん}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学|はいそくしようこう]]&lt;br /&gt;
[[Category:教科]]&lt;br /&gt;
[[Category:訓練]]&lt;br /&gt;
[[Category:大日本帝国陸軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:大正時代の教育]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代戦前の教育]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の高等教育の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦時下の日本]]&lt;br /&gt;
[[Category:軍事教育と訓練]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=Los688&amp;diff=151058</id>
		<title>Los688</title>
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				<updated>2012-02-06T14:54:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: 船徳（トーク）による第151056版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''Los688'''（ロス688）は、[[ネットストーカー]]で[[基地外]]の[[ウィキペディア日本語版の管理者]]である。[[宮城県]]の[[被差別部落]]出身。[[ホーリーネーム]]・ヴァジラチッタ・ダーヴァ＝[[三浦明錫]]＝[[イギリス]]潜伏中＝[[杉浦明錫]]＝[[帰化名]]Tin Sampo＝[[民族名]]ポ・ミョンソク＝サマナ番号688[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;offset=20111023025424&amp;amp;target=Los688]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
投稿ブロックやリバートは迅速だが、それゆえにその乱発が目立つ。[[竹麦魚]]と同じくいつまで経っても会話ページの半保護を解除せず、何が良くて何が悪いのかの区別を付ける事の出来ない典型的チキン野郎。[[Wikimail]]経由で自身の行動に対する説明を求めても完全に黙殺する卑怯者。左翼的な思想があり、「南京事件」などの項目を不当に保護して自身のイデオロギーを垂れ流している。自分にとって都合の良い利用者であれば、荒らしであっても見逃し、数々の良質な歴史記事を破壊してきた。ブロックした利用者に対しては必ず会話ページもブロックするが、[[統合失調症]]＝精神分裂病を患っているため議論が出来ないからであると推測されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また軍事オタクながら歴史認識については無知で「大東亜戦争という名称は現在の政府は使用しない。」等と言っているものの、防衛省資料では現在も「大東亜戦争」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿記録を一見すると典型的な軍事オタクだが、実は某宗教信者でもあり、そのためか自民党政治家の批判を削除しまわっていたことがある。自分の信仰する宗教団体を擁護するRVを行ったことで有名。彼はCUでもないのに、利用者のアクセスログ及び書き込みログが照会できる地位にいる（cproもこれは同じ）。それをプロバイダに売るのが彼の仕事である。カルト宗教にはまるこの管理者は一味も二味も異なり、臭いさえも異なる事からハエがたかって来るのだが実はそれさえもブロックしてさえいる。Wikipediaメーリングリストでも[[海獺]]と並んで批判が集中しているキチガイ管理者である。また「管理者は自身が編集合戦に関わった項目を保護下に置くべきではない、第三者の判断に任せよ」という規定があるにも関わらず、自分から編集合戦を引き起こして3RRで保護・相手をブロックするというマッチポンプを再三やっている最低野郎。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ログインやログアウトのログも観察して、利用者を尾行するのが趣味というWikipedia上の生きたスパイウェア。悪戯を差し戻すのならともかく、普通の投稿も観察し「誰がどの項目を書いたか」を日誌につけて[[今泉誠]]や[[岩瀬透]]に報告する[[ストーカー]]並みの性格と言って差し支えない。[[麻原彰晃]]の如く念仏を唱えてブロックを行い、それを「仏罰」と称しているのではないかとも推測され、こういうのが仏教にハメられた典型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうしてストーカーの如き行為の下に得た個人情報、つまり「誰がどこを書いたか、どのような内容を書いたか」を[[闇業界]]に売り捌き、その利益を某宗教の他ウィキメディア財団に「お布施」する。これは日本語版のみならずどこの言語版でも行われている可能性が高い。その寄付金の額で「年単位靴下が買える」システムが機能していれば、正常な書き込みが即座にRVされても全くおかしくはない。本人には気の毒だと思うが、某宗教団体の宣伝をするような管理者はここまでスッパ抜かれて然るべき。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
31歳で結婚するも程なく[[離婚]]。破局の原因は言うまでもなく創価、法の華、幸福の科学、真光、サイババ等、複数のカルトへの同時傾倒とパチンコ依存により自滅し、さらに[[消費者金融]]からの[[借金]]、そして[[破産]]、自殺未遂だった。加えて生来による軽度の[[知的障害]]があるため一般の利用者とのコミュニケーション能力に欠けトラブルが多く、全く[[迷惑]]な管理者としてその誉れは高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお彼は[[アダルトビデオ]]マニアである事が判明しており、[[AV女優]]の項目にある[[公式サイト]]を削除した[[良識派利用者]]に投稿ブロックをかけている。彼は「他を押しのけAV女優を独占しつつ[[性行為|SEX]]したい」と妄想している警察にマークされた変態エロジジイである。このことからLos688本人は[[天海麗]]や[[吉沢明歩]]（ともに[[ウィキペディア日本語版]]の彼女らの項目において良識派利用者が除去した外部リンクをLos688によって復活させられた）を[[おかず]]にして[[オナニー]]している事が立証され、公安当局が彼を第三[[小平事件]]を起こしかねない危険因子として即座に射殺しない事実に我々は眼を覆わずにはいられない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 写真撮影行為 ==&lt;br /&gt;
[[陸上自衛隊]]関連の写真を撮影し続け、公開している。[http://commons.wikimedia.org/wiki/Special:Contributions/Los688 Wikimedia Commons User contributions]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[東北大学]]の敷地内で勝手に写真を撮影するなどの行為も行っている。[http://en.wikipedia.org/wiki/File:Tohoku_University(Faculty_of_Science).JPG]、[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tohoku_University(Katahira_north_gate)_cropped.jpg]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ウィキペディア日本語版の管理者]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [[wiki:利用者:Los688]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{オウム真理教}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろす688}}&lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアの管理者]]&lt;br /&gt;
[[Category:宮城県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:オウム真理教]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:独裁者]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]]&lt;br /&gt;
[[Category:アンサイクロペディアで新規作成を禁止された記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: /* 人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''Los688'''（ロス688）は、[[ネットストーカー]]で[[基地外]]の[[ウィキペディア日本語版の管理者]]である。[[宮城県]]の[[被差別部落]]出身。[[ホーリーネーム]]・ヴァジラチッタ・ダーヴァ＝[[三浦明錫]]＝[[イギリス]]潜伏中＝[[杉浦明錫]]＝[[帰化名]]Tin Sampo＝[[民族名]]ポ・ミョンソク＝サマナ番号688[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;offset=20111023025424&amp;amp;target=Los688]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
投稿ブロックやリバートは迅速だが、それゆえにその乱発が目立つ。[[竹麦魚]]と同じくいつまで経っても会話ページの半保護を解除せず、何が良くて何が悪いのかの区別を付ける事の出来ない典型的チキン野郎。[[Wikimail]]経由で自身の行動に対する説明を求めても完全に黙殺する卑怯者。左翼的な思想があり、「南京事件」などの項目を不当に保護して自身のイデオロギーを垂れ流している。自分にとって都合の良い利用者であれば、荒らしであっても見逃し、数々の良質な歴史記事を破壊してきた。ブロックした利用者に対しては必ず会話ページもブロックするが、[[統合失調症]]＝精神分裂病を患っているため議論が出来ないからであると推測されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また軍事オタクながら歴史認識については無知で「大東亜戦争という名称は現在の政府は使用しない。」等と言っているものの、防衛省資料では現在も「大東亜戦争」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿記録を一見すると典型的な軍事オタクだが、実は某宗教信者でもあり、そのためか自民党政治家の批判や学校法人慶應義塾関連の記事を削除しまわっていたことがある。自分の信仰する宗教団体を擁護するRVを行ったことで有名。彼はCUでもないのに、利用者のアクセスログ及び書き込みログが照会できる地位にいる（cproもこれは同じ）。それをプロバイダに売るのが彼の仕事である。カルト宗教にはまるこの管理者は一味も二味も異なり、臭いさえも異なる事からハエがたかって来るのだが実はそれさえもブロックしてさえいる。Wikipediaメーリングリストでも[[海獺]]と並んで批判が集中しているキチガイ管理者である。また「管理者は自身が編集合戦に関わった項目を保護下に置くべきではない、第三者の判断に任せよ」という規定があるにも関わらず、自分から編集合戦を引き起こして3RRで保護・相手をブロックするというマッチポンプを再三やっている最低野郎。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ログインやログアウトのログも観察して、利用者を尾行するのが趣味というWikipedia上の生きたスパイウェア。悪戯を差し戻すのならともかく、普通の投稿も観察し「誰がどの項目を書いたか」を日誌につけて[[今泉誠]]や[[岩瀬透]]に報告する[[ストーカー]]並みの性格と言って差し支えない。[[麻原彰晃]]の如く念仏を唱えてブロックを行い、それを「仏罰」と称しているのではないかとも推測され、こういうのが仏教にハメられた典型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうしてストーカーの如き行為の下に得た個人情報、つまり「誰がどこを書いたか、どのような内容を書いたか」を[[闇業界]]に売り捌き、その利益を某宗教の他ウィキメディア財団に「お布施」する。これは日本語版のみならずどこの言語版でも行われている可能性が高い。その寄付金の額で「年単位靴下が買える」システムが機能していれば、正常な書き込みが即座にRVされても全くおかしくはない。本人には気の毒だと思うが、某宗教団体の宣伝をするような管理者はここまでスッパ抜かれて然るべき。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
31歳で結婚するも程なく[[離婚]]。破局の原因は言うまでもなく創価、法の華、幸福の科学、真光、サイババ等、複数のカルトへの同時傾倒とパチンコ依存により自滅し、さらに[[消費者金融]]からの[[借金]]、そして[[破産]]、自殺未遂だった。加えて生来による軽度の[[知的障害]]があるため一般の利用者とのコミュニケーション能力に欠けトラブルが多く、全く[[迷惑]]な管理者としてその誉れは高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお彼は[[アダルトビデオ]]マニアである事が判明しており、[[AV女優]]の項目にある[[公式サイト]]を削除した[[良識派利用者]]に投稿ブロックをかけている。彼は「他を押しのけAV女優を独占しつつ[[性行為|SEX]]したい」と妄想している警察にマークされた変態エロジジイである。このことからLos688本人は[[天海麗]]や[[吉沢明歩]]（ともに[[ウィキペディア日本語版]]の彼女らの項目において良識派利用者が除去した外部リンクをLos688によって復活させられた）を[[おかず]]にして[[オナニー]]している事が立証され、公安当局が彼を第三[[小平事件]]を起こしかねない危険因子として即座に射殺しない事実に我々は眼を覆わずにはいられない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 写真撮影行為 ==&lt;br /&gt;
[[陸上自衛隊]]関連の写真を撮影し続け、公開している。[http://commons.wikimedia.org/wiki/Special:Contributions/Los688 Wikimedia Commons User contributions]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[東北大学]]の敷地内で勝手に写真を撮影するなどの行為も行っている。[http://en.wikipedia.org/wiki/File:Tohoku_University(Faculty_of_Science).JPG]、[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tohoku_University(Katahira_north_gate)_cropped.jpg]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ウィキペディア日本語版の管理者]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [[wiki:利用者:Los688]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{オウム真理教}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろす688}}&lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアの管理者]]&lt;br /&gt;
[[Category:宮城県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:オウム真理教]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:独裁者]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]]&lt;br /&gt;
[[Category:アンサイクロペディアで新規作成を禁止された記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89&amp;diff=150652</id>
		<title>福澤諭吉</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89&amp;diff=150652"/>
				<updated>2012-02-03T08:57:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: /* 影響を与えた人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox Scientist&lt;br /&gt;
| name = 福澤諭吉&lt;br /&gt;
| image = Yukichi Fukuzawa Berlin2.jpg&lt;br /&gt;
| image_size = 200px&lt;br /&gt;
| caption = （[[文久]]2年([[1862年]])[[江戸幕府]]使節として欧州歴訪の際[[ベルリン]]にて）&lt;br /&gt;
| birth_date = [[1835年]][[1月10日]]&lt;br /&gt;
| birth_place = [[摂津国]][[大阪市|大坂]][[堂島浜]]&lt;br /&gt;
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1835|01|10|1901|02|03}}&lt;br /&gt;
| death_place = [[東京府]][[三田 (東京都港区)|三田]]&lt;br /&gt;
| residence = &lt;br /&gt;
| nationality = {{JPN}}&lt;br /&gt;
| field = &lt;br /&gt;
| work_institution = [[中津藩]]・[[晩香堂]]・[[光永寺]]・[[適塾]]・[[江戸幕府]]外国方翻訳局・[[外国奉行]]・[[慶應義塾]]・[[明六社]]・[[興亜会]]・[[東京学士会院]]・[[時事新報]]&lt;br /&gt;
| alma_mater = &lt;br /&gt;
| doctoral_advisor = &lt;br /&gt;
| doctoral_students =&lt;br /&gt;
| notable_students = &lt;br /&gt;
| known_for = &lt;br /&gt;
| prizes = &lt;br /&gt;
| religion =&lt;br /&gt;
| footnotes ='''廟'''：麻布山[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[File:福澤諭吉像2.jpg|250px|right|thumb|福澤先生像 (三田)]]&lt;br /&gt;
[[File:福澤諭吉先生像慶応日吉.jpg|250px|right|thumb|福澤先生像 (日吉)]]&lt;br /&gt;
'''福澤 諭吉'''（ふくざわ ゆきち、[[天保]]5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]（[[1835年]][[1月10日]]）- [[1901年]]（[[明治]]34年）[[2月3日]]）は、[[日本]]の[[武士]]（[[中津藩]]士のち[[旗本]]）、[[19世紀]]後期の学者、[[蘭学者]]、[[著述家]]、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]、教育者、新聞『[[時事新報]]』の創刊・発行者。[[慶應義塾]]の創設者であり、[[専修学校 (旧制)|専修学校]]（後の[[専修大学]]）、[[商法講習所]]（後の[[一橋大学]]）、[[伝染病研究所]]、[[土筆ヶ岡養生園]]の創設にも尽力した。他に[[東京学士会院]]（現在の[[日本学士院]]）初代会長を務めた。[[雅号]]は、'''三十一谷人'''（さんじゅういっこくじん）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=114&amp;amp;PAGE=20&amp;amp;KEY= 余が印章に三十一谷人の五字を刻]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代では「福沢諭吉」と記載される事が一般的である&amp;lt;ref&amp;gt;学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書など。一方、[[慶應義塾大学]]をはじめとする[[学校法人慶應義塾]]の公式ホームページでは「福澤諭吉」と表記されている。例えば、[http://www.keio.ac.jp/ja/about_keio/history/index.html 理念と歴史]を参照。なお、学術書でも「福澤諭吉」の表記を用いるものも近年、出現している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。[[諱]]は範（はん）。[[字]]は子囲（しい）。関防印は「'''無我他彼此'''（がたぴしなし）」、[[揮毫]]の落款印は「'''明治卅弐季後之福翁'''」。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、[[明治維新]]以後は「ふくざわ」と発音するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=北康利|authorlink=北康利|year=2007|month=3|title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-213884-0}}（21頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hotarumachi-Nakatsuhan-Monument.jpg|thumb|200px|生誕の地と中津藩蔵屋敷跡の記念碑（大阪府大阪市）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出生から中津帰藩、長崎遊学 ===&lt;br /&gt;
[[天保]]5年12月12日（[[1835年]][[1月10日]]）、[[大坂]][[堂島浜]]（現・[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]1丁目、通称[[ほたるまち]]）にあった[[豊前国]][[中津藩]]の[[蔵屋敷]]&amp;lt;ref&amp;gt;この場所には、のち大阪医科大学附属医院（のち大阪帝国大学医学部附属医院を経て[[大阪大学医学部附属病院]]）が設置され、現在は[[朝日放送]]の新社屋（[[2008年]][[5月]]稼働開始）が建つ。&amp;lt;/ref&amp;gt;で下級藩士福澤百助・於順の次男（末っ子）として生まれる。諭吉という名の由来は、[[儒学]]者でもあった父が『[[上諭条例]]』（[[清]]の[[乾隆帝]]治世下の法令を記録した書）を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父は、[[鴻池家|鴻池]]や[[加島屋]]などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあり、藩儒・[[野本雪巌]]や[[帆足万里]]に学び、[[菅茶山]]・[[伊藤東涯]]などの[[儒教]]に通じた学者でもあった&amp;lt;ref&amp;gt;百助が所持していた[[伊藤東涯]]の『易経集注』という書は福澤家に残され、現在は慶應義塾大学に寄託されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
百助の後輩には江州[[水口藩]]・藩儒の[[中村栗園]]がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。[[中小姓格]]（[[厩方]]）の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵（かたき）で御座る」（『[[福翁自伝]]』）とすら述べており、自身も[[封建制|封建制度]]には疑問を感じていた。世間の仕来りや信仰・迷信にも無頓着で、「子供ながらも精神はまことにカラリとしたものでした。」（『福翁自伝』）と述べる。兄・三之助は父に似た純粋な[[漢学者]]で、「死に至るまで[[孝悌忠信]]」の一言であったという。なお、母兄姉と一緒に暮してはいたが、幼時から叔父[[中村術平]]の養子になり中村姓を名乗っていた。後、福澤の実家に復する。体格が良く、当時の日本人としてはかなり大柄な人物となる&amp;lt;ref&amp;gt;明治14年（[[1881年]）7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ。[[明治生命]]による。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保6年（[[1836年]]）、1歳6か月のとき父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、豊前国中津（現・[[大分県]][[中津市]]）で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、[[孝悌忠信]]や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。[[お札]]を踏んでみたり、[[神社]]で悪戯をしてみたりと、悪童まがいの溌剌とした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表変え、障子の貼り変えをこなすなど内職に長けた子供であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5歳頃から藩士・[[服部五郎兵衛]]に[[漢学]]と[[一刀流]]の手解きを受けはじめる。初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読みあさり、[[漢籍]]を修める。8歳になると、兄・三之助も師事した[[野本真城]]、[[白石照山]]の塾（[[晩香堂]]）へ通い始める。『[[論語]]』『[[孟子]]』『[[詩経]]』『[[書経]]』はもちろん、『[[史記]]』『[[左伝]]』『[[老子]]』『[[荘子]]』に及び、特に『左伝』は得意で十五巻を十一度も読み返して面白いところは暗記したという。この頃には先輩を凌いで「'''[[漢学者]]の前座ぐらい'''（自伝）」は勤まるようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福澤の学問的・思想的源流に当たるのは、[[亀井南冥]]や[[荻生徂徠]]であり、諭吉の師・白石照山は[[陽明学]]や[[朱子学]]も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ci.nii.ac.jp/naid/120000800655/en 福沢諭吉と亀井学の思想:福沢における「縦に慣れたる資力」とは何か]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
したがって、福澤の学問の基本には[[儒学]]が根ざしており、その学統は白石照山・[[野本百厳]]・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた[[三浦梅園]]にまで遡ることが出来る。のちに[[蘭学]]の道を経て[[思想家]]となる過程の中にも、この学統が原点にある。傍ら[[立身新流]]の[[居合]]術を習得し、[[免許皆伝]]となる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://tatsumi-ryu.com/ 福澤先生と立身新流抜合]「三田評論」No.1123(2009年5月号),pp.5--7&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Koyeiji_Temple_Nagasaki.jpg|thumb|200px|長崎光永寺（大正）、手彩色絵葉書]]&lt;br /&gt;
[[黒船]]が来襲したことにより中津藩でも[[西洋砲術]]を学ぶ必要が起きたことで、[[安政]]元年（[[1854年]]）、19歳で[[長崎市|長崎]]へ遊学して蘭学を学ぶ。[[黒船来航]]により砲術の需要が高まり、[[オランダ]]流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないかと兄から誘われたのがきっかけであった。長崎市の[[光永寺]]に寄宿し、現在は石碑が残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[長崎奉行]]配下の役人で[[砲術家]]の[[山本物次郎]]宅に居候し、オランダ通詞（通訳などを仕事とする長崎の役人）のもとへ通ってオランダ語を学んだ。山本家には[[蛮社の獄]]の際に[[高島秋帆]]が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝礼金をもらっており、福澤は[[鉄砲]]の設計図を引くことさえできるようになった。同時期に長崎遊学していた[[薩摩藩]]の[[松崎鼎甫]]には[[アルファベット]]を教えてもらっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その時分の諸藩の西洋家、例えば[[宇和島藩]]（[[大村益次郎]]）、[[五島藩]]、[[佐賀藩]]（[[本島藤太夫]]）、[[水戸藩]]（[[菊池富太郎]]）などの人々が来て、出島のオランダ屋敷に行ってみたいとか、大砲を鋳るから図をみせてくれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな福澤の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、福澤はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。山本自身は蘭書が読めなかったため、実際に蘭学を習ったのは[[楢林健吉]]（[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]の弟子の[[楢林栄建]]の子孫）という通詞の家であった。その傍ら[[石川桜所]]の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 適塾時代（大坂） ===&lt;br /&gt;
安政2年（[[1855年]]）、その山本家を紹介した[[奥平壱岐]]や、その実家である[[奥平氏|奥平家]]（中津藩[[家老]]の家柄）と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし福澤本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から江戸へは行くなと引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた[[足守藩]]下士で[[蘭学者]]の[[緒方洪庵]]の[[適塾]]（適々斎塾）で学ぶこととなった。ところが[[腸チフス]]を患い、緒方から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」（自伝）と告げられ、緒方の朋友、[[内藤数馬]]から処置を施され、体力が回復し一時中津へ帰国する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政3年（[[1856年]]）、再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の[[家督]]を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書（C.M.H.Pel,''Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst'',Hertogenbosch 1852年）を翻訳するという名目で適塾の食客（住み込み学生）として学ぶこととなる。この時、丹後[[宮津藩]]士・[[高橋順益]]から[[酒]]と[[煙草]]を勧められ、これを覚えた。先輩の一人、村田蔵六（大村益次郎）は人一倍暗い性格で、殴り合いになっても怒らず、抓る程度だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政4年（[[1857年]]）には最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に[[長与専斎]]を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って[[化学]]実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため[[瀉血]]や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、福澤は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また[[工芸技術]]にも熱心になり、化学の道具を使って[[硫酸]]を製造し、頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、筑前の国主[[黒田長溥]]が金80両を投じて購入したワンダーベルツと題する物理書を写本して、[[元素]]を配列してそこに積極消極（プラスマイナス）の順を定めることやファラデーの電気説（[[ファラデーの法則]]）を始めて知ることになる。こういった[[電気]]の新説などを知り、[[発電]]を試みたりもしたようである。他にも[[昆布]]や[[荒布]]からのヨジュウムの製造、[[淀川]]に浮かべた小舟の上での[[アンモニア]]製造などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
適塾時代のエピソードには「[[熊]]の[[解剖]]」、「[[豚]]の頭を貰ってきて、解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食った話」などが自伝で語られており、他にも[[大坂]]の[[町人]]と[[江戸]]の[[町人]]の対比&amp;lt;ref&amp;gt;大阪の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出て来ない。夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂りとなる。&amp;lt;/ref&amp;gt;や「[[鯛]]の味噌漬と欺して[[河豚]]を食わせる」、「[[禁酒]]から[[煙草]]」、など自伝には福澤の人物像を表すエピソードが多数記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の時から酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、「書生の生活酒の悪弊」「血に交わりて赤くならず」「書生を懲らしめる」（自伝）には、恐ろしく飲んで緒方夫妻を驚かせる、[[囲碁]]の話、茶屋の話などが記されている。塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独り飲むということであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江戸に出る ===&lt;br /&gt;
安政5年（[[1858年]]）、中津藩から江戸出府を命じられる（差出人は江戸居留守役の[[岡見清熙]]）。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾&amp;lt;ref&amp;gt;それまで、中津藩邸に近い[[木挽町]]にあった[[佐久間象山]]の塾には多くの中津藩士が通っており、象山は中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し[[上総国]]の[[姉ヶ崎]]で試射したりしている。象山に学んだ岡見彦三清熙は江戸藩邸内に蘭学塾を設けていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;の講師となるために吉川正雄（当時の名は岡本周吉、後に[[古川節蔵]]）、[[原田磊蔵]]を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく[[足立寛]]、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた[[佐倉藩]]の[[沼崎巳之介]]、[[沼崎済介]]が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」が後の[[学校法人慶應義塾]]の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元来、この蘭学塾は[[佐久間象山]]の塾（[[象山書院]]）から受けた影響が大きく、[[マシュー・ペリー]]の渡来に先んじて[[嘉永]]3年（1850年）ごろから既に藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5～6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、[[島津文三郎]]のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は[[杉亨二]]（杉はのちに勝海舟にも通じて[[氷解塾]]の塾頭も務める）、薩摩藩士の[[松木弘安]]を招聘していた。諭吉が蘭学塾の講師に就任してからは、[[藤本元岱]]・[[神尾格]]・[[藤野貞司]]・[[前野良伯]]らが適塾から移ってきた他、諭吉の前の適塾塾頭・[[松下元芳]]が入門するなどしている。岡見清熙は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、福澤は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持（地方勤務手当）として6人扶持が別途支給されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[島村鼎甫]]を尋ねたのち、中津屋敷からは、当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた[[桂川家]]が500m以内の場所であったため、[[桂川甫周]]・[[神田孝平]]・[[箕作秋坪]]・[[柳川春三]]・[[大槻磐渓]]・[[宇都宮三郎]]、村田蔵六らと共に出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の[[高橋順益]]が近くに住みたいと言って、浜御殿（現在の[[浜離宮]]）の西に位置する源助町に転居してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政6年（[[1859年]]）、[[日米修好通商条約]]により[[外国人居留地]]となった[[横浜市|横浜]]の見物に出かける。しかしそこでは専ら[[英語]]が用いられており、自身が学んできた[[オランダ語]]が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などをたよりにほぼ独学で英語の勉強を始める。世界の覇権は[[大英帝国]]が握っており、すでにオランダに昔日の面影が無いことは当時の[[蘭学者]]の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語や[[ドイツ語]]を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが[[鎖国]]の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
横浜を見物して以来、オランダ語が通じないと分かった諭吉は、幕府通辞の[[森山栄之助]]を訪問して英学を学んだ後、[[蕃書調所]]へ入所したが英蘭辞書が持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが村田は[[ジェームス・カーティス・ヘボン]]に手ほどきを受けようとしていた。ようやく蕃書調所の[[原田敬策]]と一緒に英書を読もうということになり蘭学だけではなく英学も習得していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 渡米 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:KanrinMaru.jpg|thumb|right|300px|[[咸臨丸]]難航の図（[[鈴藤勇次郎]]画）]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Fukuzawa Yukichi with the girl of the photo studio.jpg|thumb|200px|福澤諭吉とアメリカの少女テオドーラ・アリス。1860年、サンフランシスコにて。（慶應義塾福澤研究センター所蔵）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政6年（[[1859年]]）の冬、日米修好通商条約の批准交換のために[[万延元年遣米使節|使節団]]が米軍艦[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]] で渡米することとなり、その護衛として[[咸臨丸]]を[[アメリカ合衆国]]に派遣することが[[岩瀬忠震]]の建言で決定した。[[万延]]元年1月19日（1860年2月10日）、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行[[木村芥舟|木村摂津守]]の従者として、アメリカへ発つ。翻訳途中だった『[[万国政表]]』（統計表）は留守中に門下生が完成させている。5月5日帰国。なお咸臨丸の指揮官は[[勝海舟]]であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に福澤は、[[蒸気船]]を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて[[太平洋]]を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂 『新訂　福翁自伝』、[[岩波書店]]〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「日本国人の大胆」（111頁）を参照。[[近代デジタルライブラリー]]収録『[[福翁自伝]]』の「[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018839&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=97&amp;amp;ITYPE=0 始めて亜米利加に渡る]」の章を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=198 福翁自傳 - 198 ページ]を参照。&amp;lt;blockquote&amp;gt;併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお当時、福澤と勝はあまり仲が良くなかった様子で、晩年までぎこちない関係が続いた&amp;lt;ref&amp;gt;『[[福翁自伝]]』に航海中の勝の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂　『新訂　福翁自伝』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」（112頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=200 福翁自傳 - 200 ページ]を参照。&amp;lt;blockquote&amp;gt;勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
一方、木村摂津守とは明治維新によって木村が役職を退いた後は、晩年に至るまで親密な交際を続けており、帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方（現在の[[外務省]]）に出仕することになった。その他、[[戊辰戦争]]後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行が日本を離れているうちに、日本では幕府の開国政策に反対する志士たちの[[攘夷論]]がますます高まっていた。その状況を察していた諭吉は、日本への上陸第一歩の海辺で出迎えに来た木村摂津守の家来に、「何か日本に変わったことは無いか」と尋ねた。その家来は顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことがあった」と言う。諭吉はそれを押し止めて「言うてくれるな、私が当てて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様（大老[[井伊直弼]]）の邸に暴れこんだというようなことではないか」（自伝）と、[[3月3日]]の[[桜田門外の変]]を正確に言い当て、家来を驚かせたことがある。もっとも、[[徳川斉昭]]の反目や[[安政の大獄]]による弾圧などで、このような事態は幕府の有識者の間では前もって分かっていたことだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては様々に衝撃を受けた。たとえば、日本では[[徳川家康]]など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が[[ジョージ・ワシントン]]の子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している（ちなみに、ワシントンに子孫はいない）。福澤は、通訳として随行していた中浜万次郎（[[ジョン万次郎]]）とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰国し、アメリカで購入してきた[[広東語]]・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語にカタカナで読みを付け、広東語の[[漢字]]の横には日本語の訳語を付記した『[http://opac.kufs.ac.jp/kufs/detail/0002_A/detail_0002_A-1.html 増訂華英通語]』を出版する。これは福澤が初めて出版した書物である。この書の中で福澤は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「[[ヴ]]」や「ワ」に濁点をつけた文字「[[ワ゛|ヷ]]」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。再び鉄砲洲で講義も行うが、その内容は従来のような[[オランダ語]]ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳をおこなった。これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強をおこなったりもした。この頃にはかなり英語も読めるようになっていたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 渡欧（幕臣時代） ===&lt;br /&gt;
[[File:First Japanese Embassy to Europe Fukuzawa.jpg|200px|thumb|文久2年（1862年）オランダにて。右から[[柴田貞太郎]]、[[福澤諭吉]]、[[太田源三郎]]、[[福田作太郎]]]]&lt;br /&gt;
[[File:FukuzawaYukichi.jpg|200px|thumb|文久2年（1862年）、パリの[[国立自然史博物館 (フランス)|国立自然史博物館]]にて撮影）東京大学史料編纂所蔵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文久元年（[[1861年]]）に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。その年の冬、[[竹内保徳|竹内下野守]]を正使とする[[文久遣欧使節]]を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日（1862年1月30日）、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には[[松木弘安]]・箕作秋坪がおり、行動を共にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行は[[香港]]、[[シンガポール]]、インド洋、紅海、スエズの地峡を汽車で越え、地中海を渡り[[マルセイユ]]に上陸。[[リヨン]]、[[パリ]]、[[ロンドン]]、[[ロッテルダム]]、[[デン・ハーグ|ハーグ]]、[[アムステルダム]]、[[ベルリン]]、ペテルブルク（[[サンクトペテルブルク]]）、[[リスボン]]などを見物し12月11日帰国した。ロンドンでは、ちょうど開かれていた[[万国博覧会]]を視察し、[[蒸気機関車]]・[[電気機器]]・[[タイプライター|植字機]]に触れる。[[樺太]]国境問題を討議するために訪れたサンクトペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。なお、オランダの[[ユトレヒト]]を訪問した際にドイツ系写真家によって撮影されたと見られる写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/190004/ 「福澤諭吉の新たな写真発見　オランダで」話題！‐話のタネニュース:イザ！]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この旅で福澤は幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰っている。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。たとえば[[病院]]や[[銀行]]、[[郵便法]]、[[徴兵令]]、[[選挙制度]]、[[議会制度]]などについてである。これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。また、[[香港]]で[[植民地主義]]・[[帝国主義]]を目の当たりにし、[[イギリス人]]が[[中国人]]を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。また、フランスの青年[[レオン・ド・ロニー]]と友好を結び、「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となり、外国の学会の正会員に最も早い時期で就任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰国後、『[[西洋事情]]』([[慶応]]2年[[1866年]]～）などの著書を通じて啓蒙活動を開始。幕府機構の改革を唱えた。また[[アメリカ独立宣言]]の全文を翻訳して『西洋事情』（初編 巻之二）中に「[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=56000690&amp;amp;VOL_NUM=00002&amp;amp;KOMA=6&amp;amp;ITYPE=0 千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文]」として掲載して日本に伝えた。『西洋事情』は「[[理化学]]、[[器械学]]」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵制の制度や設備について言及してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文久3年（[[1863年]]）7月、[[薩英戦争]]が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、[[外国奉行]]・[[松平康英|松平石見守]]の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
品川に到着した翌日の12月12日には品川御殿山に建設中の[[イギリス公使館]]に[[高杉晋作]]ら[[英国公使館焼き討ち事件|長州藩士による焼打事件]]が起こり、文久3年3月に入ると天皇の[[賀茂神社|賀茂両社]]への攘夷祈願、4月には[[石清水八幡宮]]への行幸をうけて、[[長州藩]]が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つようになった。同僚の[[手塚律蔵]]や[[東条礼蔵]]が切られそうになるという事件も起こり、この頃には既に江戸では「福澤」の名は洋学者の間では知れ渡っていたため、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・[[藤沢志摩守]]の家で会合した後に帰宅する途中、[[浪人]]と鉢合わせ、居合で切り抜けなければと考えながら、すれ違いざまに互いに駆け抜けたことがある。この文久2年頃～明治6年頃までが江戸が一番物騒な世の中であったと回想している。7月に[[禁門の変]]が起こると、長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった[[仙台藩]]の[[大童信太夫]]を通じて、文久3年秋頃に塾で諭吉に師事していた[[横尾東作]]を派遣して新聞『ジャパン＝ヘラルド』を翻訳して諸藩の援助をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元治元年（1864年）には、福澤は郷里である中津に赴き、[[小幡篤次郎]]や[[三輪光五郎]]ら6名を連れて来た。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用（[[幕臣]]）として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて、[[御目見]]以上となり、[[旗本]]となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[勝部真長]] [[PHP研究所]] ISBN 4569771882 『勝海舟』 (終章)P333&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ocw.dmc.keio.ac.jp/j/economics/02A-007_j/lecture_contents/theme031.html 福澤:元治元年/1846～外国奉行支配調訳次席翻訳御用]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶応元年（[[1865年]]）に始まる幕府の[[長州征伐]]の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『[[長州再征に関する建白書]]』では、[[大名同盟]]論の採用に反対し、[[徳川幕府]]の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。この見通しによって、維新後の新政権のために何の貢献もなしえないことが当然となり、この時期の徳川家への愛惜の情をうかがうことが出来る。[[長州征伐]]で幕府軍が長州藩に敗北したと聞き、イギリスの鉄砲を取り寄せて分解し、初の西洋兵学書の翻訳『[[雷銃操法]]』を訳し始める。続いて、[[戊辰戦争]]に際し[[仙台藩]]が福澤に翻訳せしめた『[[兵士懐中便覧]]』は[[奥羽越列藩同盟]]藩士の多くが読んだとされる。明治2年には、[[熊本藩]]の依頼で本格的な西洋戦術書『[[洋兵明鑑]]』を小幡篤次郎・[[小幡甚三郎]]と共訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明治維新 ===&lt;br /&gt;
[[File:Yukichi Fukuzawa Wayland 1868.jpg|200px|thumb|明治元年5月15日（1868年7月4日）、[[上野の戦い]]をよそに、[[中屋敷]]内で経済書の講義を続ける。（[[安田靫彦]]画）]]&lt;br /&gt;
慶応3年（[[1867年]]）には使節主席・[[小野友五郎]]と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米し、[[ニューヨーク]]、[[フィラデルフィア]]、[[ワシントンD.C.]]を訪れた。[[津田仙]]、[[尺振八]]が同乗していた。現地で小野と揉めたため帰国後はしばらく謹慎することとなったが、[[中島三郎助]]の働きかけですぐに解けた。[[紀州藩]]や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や[[物理書]]・[[地図帳]]を買い込み、帰国後、『[[西洋旅案内]]』を書き上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶応4年（[[1868年]]）には蘭学塾を'''慶應義塾'''と名付け、教育活動に専念する。[[三田藩]]・仙台藩・紀州藩・中津藩・[[越後長岡藩]]と懇意になり、藩士を大量に受け入れる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/bitstream/123456789/5839/4/HIT0600301.pdf 上田貞次郎の伝記]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
特に紀州藩とは懇意になり、慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた[[三島億二郎]]が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、[[笠原文平]]らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の[[高島嘉右衛門]]の[[藍謝塾]]とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と[[彰義隊]]の合戦が起こる中でもF・ウェイランド『経済学原論』（The Elements of Political Economy , 1866）の講義を続けた（なお[[経世済民|漢語]]に由来する「[[経済学]]」の語は福澤や[[神田孝平]]らにより[[:en:political economy|political economy]]もしくは[[:en:economics|economics]]の訳語として定着した）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外国奉行の[[川路聖謨]]は病床で『西洋事情』を読んで大きな衝撃を受けたといい、老中・[[稲葉正邦|稲葉美濃守]]から千俵取りの[[御使番]]として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。自身も徳川将軍家を中心とする封建政治の再編成と幕府の延命策（[[公武合体論]]）を考えていたようであるが、維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嫁・お錦の実家である[[土岐家]]と[[榎本武揚]]の母方の実家・[[林家]]が親戚であったことから、[[榎本武揚]]助命のため[[寺島宗則]]（以前の松木弘安）の紹介で官軍参謀長・[[黒田清隆]]と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも[[山縣有朋]]・[[松本良順]]等から出仕の勧めが来たがこれを断り、[[九鬼隆一]]や[[白根専一]]、[[濱尾新]]、[[渡辺洪基]]らを新政府の[[文部]][[官吏]]として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新銭座の土地を攻玉社の塾長・[[近藤真琴]]に300円で譲り渡し、[[三田]]に移動して『帳合之法（現在の[[簿記]]）』などの講義を始めた。また[[明六社]]に参加。当時の文部官吏には九鬼や[[田中不二麿]]・[[森有礼]]ら福沢派官吏が多かったため、明治6年（[[1873年]]）に慶應義塾と[[東京英語学校]]（かつての[[開成学校]]でのち[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|大学予備門]]さらに[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]に再編され、現・[[東京大学]][[教養学部]]）は、例外的に[[徴兵令]]免除の待遇を受けることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[廃藩置県]]を歓迎し、「政権」（軍事や外交）と「治権」（地方の治安維持や教育）の全てを政府が握るのでは無く「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『[[分権論]]』には、これを成立させた[[西郷隆盛]]への感謝と共に、[[地方分権]]が[[士族]]の不満を救うと論じ、続く『[[丁丑公論]]』では政府が掌を返して[[西南戦争]]で西郷を追い込むのはおかしいと主張した（『丁丑公論』は内容が過激だった為、発表は福沢諭吉没後となった。また、[[佐賀の乱]]で敗走した[[江藤新平]]の裁判が公正に行われなかったことに疑問を呈している）。『[[通俗民権論]]』『[[通俗国権論]]』『[[民間経済禄]]』なども官民調和の主張ないしは初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、[[自由主義]]を紹介する際には「'''自由在不自由中（自由は不自由の中にあり）'''」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年（1873年）[[9月4日]]の午後には[[岩倉使節団]]に随行していた[[長与専斎]]の紹介で[[木戸孝允]]と会談。木戸が[[文部卿]]だった期間は4か月に過ぎなかったが、「[[学制]]」を制定し、「文部省は[[竹橋]]にあり、文部卿は[[三田]]にあり」の声があるほど、明治初期までは福沢の思い描く国家の構想が反映されるかのように見えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 薩長藩閥との対立 ===&lt;br /&gt;
明治8年（[[1875年]]）、福澤は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて[[大久保利通]]と会談した。大久保は福澤のことを民権論者の首魁のように思っていたのでそれを否定し会談を終えた（「面白」（流石有名に恥じず。大久保の日記。）による。）が、大久保は出版検閲の権限を[[文部省]]から[[内務省]]に移管したことで、[[秋山恒太郎]]が官吏を移動するという災難に遭った。これを見た福澤は、『[[民間雑誌]]』に「内務卿の凶聞」という社説を大久保暗殺後に掲載。これが問題となり、編集長の[[加藤政之助]]が内務省警視局に呼び出され、『民間雑誌』は廃刊となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで目を付けたのが、[[薩長]][[藩閥]]では無い、[[大隈重信]]の存在だった。福澤は大隈を頼りに[[統計院]]（後の内閣統計局）を設立させる。統計院にはある秘密があり、設立直後から「'''憲法の調査立案'''」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに[[矢野文雄]]・[[犬養毅]]・[[尾崎行雄]]といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。明治7年（[[1874年]]）には[[板垣退助]]、[[後藤象二郎]]、[[江藤新平]]が野に下るや、高知の[[立志学舎]]に門下生を教師として派遣した他、後藤象二郎の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って[[郵便報知新聞]]に「[[国会論]]」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、[[岩崎弥太郎]]と面会し、岩崎が[[山師]]では無いと評価した福沢は、[[三菱商会]]にも[[荘田平五郎]]や[[豊川良平]]といった門下を投入した他、後藤の経営する[[高島炭鉱]]を岩崎に買い取らせた。他、[[愛国社]]から頼まれて『[[国会を開設するの允可を上願する書]]』の起草に助力。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入念に門下らと憲法を思案し、大隈重信が提出していた早期国会開設論の背後に福澤の影があると、放った[[密偵]]によって察知した[[伊藤博文]]は、対処をプロシア流憲法の草案者で、明治政府一番の能吏・[[井上毅]]に一任することになる。丁度、[[開拓使官有物払下げ事件|北海道開拓使官有物払い下げ問題]]で[[本山彦一]]、[[箕浦勝人]]、[[門田三郎兵衛]]らが『[[大阪新報]]』を通じて問題を糾弾。薩摩閥の怒りはピークに達し、[[岩倉具視]]・九鬼隆一らも加わって大隈一派を政府内から一掃するクーデター（[[明治十四年の政変]]）が起こる事となった。福澤は、この事件に際して2,500字に及ぶ、人生で最も長い手紙を伊藤と[[井上馨]]に送ったが、聞き入れては貰えず、さらに井上毅が『[[大日本帝国憲法]]』、『[[旧皇室典範|皇室典範]]』、『[[教育勅語]]』、『[[軍人勅諭]]』の起草全てに参加したため、福澤は明治政府とこれ以後一切の付き合いを辞めることとなった。その他にも、[[東京府会議員]]副議長の辞職、[[東京学士会院]]も小幡篤次郎・[[栗本鋤雲]]ら福沢派学者と共に脱会するに至った&amp;lt;ref&amp;gt;「教育勅語への道」 ISBN 4883030016&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政変の後の福澤への明治政府の仕打ちは厳しく、政府主導で設立する予定だった『[[時事新報]]』も自らの手で創刊することになったが、明治15年（[[1882年]]）3月1日に創刊されるや否や1,500部全てを売る結果となり、この後、時事新報は一定の成功を収めることとなった。結局、明治31年（[[1898年]]）5月16日に[[広尾]]の別邸で行われた[[鎌田栄吉]]塾長就任披露の園遊会で[[伊藤博文]]が出席するまで伊藤との関係は修復されなかった。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には「'''唯大に求る所は国権皇張の一点に在るのみ'''」が掲げられ、福澤諭吉は明治10年（1877年）前後から自由民権運動を批判し始め、「国権論」を強調し始めた。明治15年3月28日の『[[圧制も亦愉快なる哉]]』や『[[時事小言]]』でも国権皇張を目的とすることが説かれ、国家の独立と富国強兵、官民調和を積極的に主張した。この国権論に、福澤の師・白石照山は激励の手紙を送っている。やはり『時事新報』の論調は著しく「[[国民主義]]」（ナショナリズム）に傾いているものが多く、明治初年には自由主義を標榜としてきたかのように思われた福沢の論調は、欧米列強のアジア侵略が刻々と迫ってくる時局認識もあってか、「'''国権皇張'''」を特に強調し始め、自由主義の楽観的な見解を警戒し始めた。このいわば明治の新しいナショナリズムは、のちに[[陸羯南]]や[[徳富猪一郎]]らによって模倣されていくこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その典型例は明治7年12月の『[[明六雑誌]]』第26号で、「外国人の内地雑居許す可からざるの論」で、我が国民利益を守るために外国人の[[内地雑居]]を許してはならないと主張。外国人の内地旅行を認めるべきであるという[[西周]]および[[津田真道]]に反論。攘夷論（[[外国]]の力を取り入れ、日本が[[植民地]]になること防ぐという概念）を唱え、[[不平等条約]]の結果、我が国貿易がこうむる不利益を警戒していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝鮮独立運動支援 ===&lt;br /&gt;
福澤は、朝鮮人愛国者・[[金玉均]]との出会いをきっかけにして、朝鮮の独立運動にも加担することになる。当時の朝鮮は日本の[[明治維新]]前夜の状況と酷似しており、小規模な武力闘争も起きていた（[[江華島事件]]）。福澤が日本の文明開化の立役者であるということは朝鮮にも知れ渡っており、明治14年（1881年）3月6日、金玉均は福澤と面会を果たし、朝鮮独立への協力を依頼した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治15年（1882年）7月23日、[[壬午事変]]が勃発すると、福沢は[[横浜正金銀行]]から17万円の借款を得、賠償金の一部に充当することができた。また、井上馨から国王の委任状があれば、さらに300万円の借款を供与するという提案を貰う。この時、金を支援するべく[[牛場卓蔵]]と[[井上角五郎]]を派遣。『[[漢城旬報]]』という朝鮮最初の新聞を発行する。井上は諭吉の助言に従い、朝鮮式かな混じり文を考案するべく朝鮮の文法学者と共に[[李朝]]第四代の王・[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]によって公布された[[訓民正音]]の研究を開始。国王・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の内諾を取り、新字体で紙面を構成し始める。これが今日の朝鮮文体『[[ハングル]]』である。朝鮮では大正9年（[[1920年]]）頃から呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後藤象二郎も協力し、フランス公使に艦隊を借りて、[[自由党]]の荘士で民兵を組織し、朝鮮半島に送り込む計画を立て始めたが、伊藤博文によって却下される。明治17年（[[1884年]]）12月4日、[[甲申事変]]が起こるも失敗。この直後の明治18年（1885年）3月16日、福沢は『時事新報』に『[[脱亜論]]』を発表し、その5か月後には社説『[[朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す]]』を発表する。内容は、「人民の生命も財産も独立国民の誇りも守ってやれないような国は、むしろ滅びてしまった方が人民のためだ。」という強烈なものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、金玉均は福沢邸にしばらく潜伏していたが、清の最高実力者・[[李鴻章]]の引渡しに応じ、[[日本郵船]]の[[西京丸]]で上海へ向かわせたが、無残にも暗殺されることとなった。その後、明治政府は[[日清戦争]]への道を歩み、福沢も開戦はやむなしとして[[南方熊楠]]から頼まれて、共に軍資金を寄附した。なお、上海で暗殺された金の供養のために法名をつけることを[[真浄寺]]住職[[寺田福寿]]に依頼し、寺田はただちに福沢の要請に応え、「'''古筠院釈温香'''」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官[[山崎英夫]]や[[朴泳孝]]などを福沢邸に招いて営んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら一連のアジア解放運動は、[[アジア主義]]団体として知られる[[黒龍会]]が、昭和8年（1933年）から同11年（1936年）にかけて編纂・刊行した『東亜先覚志士記伝』にも取り上げられている。また、紀州出身の[[大陸浪人]]・[[岡本柳之助]]とは面識があり（書簡）、同じく紀州出身の[[鎌田栄吉]]に岡本の活動を援助するように伝えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 教育支援 ===&lt;br /&gt;
[[教育令]]が思った通りにならず、福沢考案の田中不二麿や[[土佐藩]]出身の[[中島信行]]（後の自由党副総裁）の建言が、[[佐野常民]]と[[元田永孚]]、更には薩長派[[文部卿]]に転じた九鬼隆一によって潰され、教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、[[東京大学]]に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに福澤は勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、勝からは「そんな教育機関はさっさと止めて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、[[島津家]]に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は[[大学南校]]や[[大学東校]]、[[東京師範学校]]の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治13年（[[1880年]]）、伊藤博文から、西郷隆盛や板垣退助等と同じく政府に反発する者・[[自由民権運動]]の火付け役として睨まれていた福澤の立場は益々厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、[[渡部久馬八]]・[[門野幾之進]]・[[浜野定四郎]]の3人に経営を任せることにした。この頃から[[平民]]の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、私立の総合大学が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を[[大阪商業講習所]]や[[商法講習所]]で活躍させる一方、[[専修学校 (旧制)|専修学校]]や[[東京専門学校]]、[[英吉利法律学校]]の設立を支援し、開校式にも出席した。しかし東京専門学校などはあからさまに大隈重信嫌いの山縣有朋など薩長参議が潰そうとしてきた為、設立は困難を極め、開校式に大隈が15年間出席せず、「学問の独立」という取って付けた宣言を[[小野梓]]が発表するに留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治25年（[[1892年]]）には、長与専斎の紹介で[[北里柴三郎]]を迎えて、[[伝染病研究所]]や[[土筆ヶ岡養生園]]を[[森村市左衛門]]と共に設立していく。丁度帝国大学の構想が持ち上がっている頃だったが、慶應義塾に大学部を設置し[[小泉信吉]]を招聘して、一貫教育の体制を確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩年・年譜 ===&lt;br /&gt;
[[File:福澤公園1-慶應三田.jpg|200px|thumb|福澤邸の跡地にある福澤公園&amp;lt;BR/&amp;gt;明治時代にはこの場所から東京湾が一望出来た。]]&lt;br /&gt;
[[File:福澤公園2.jpg|200px|right|thumb|福澤の邸宅が存在した台地&amp;lt;BR/&amp;gt;([[慶應義塾大学]]三田キャンパス内)]]&lt;br /&gt;
[[File:馬留石.jpg|200px|right|thumb|福澤が馬を繋いだと伝えられる馬留石]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年は旅行や著作に多くの時間を費やし、旅行に出かける時は常に[[居合刀]]を携帯して、健康のために振った。自叙伝『福翁自伝』を記し始め、『時事新報』掲載の社説には[[明治政府]]の[[国家社会主義]]的な[[西洋化]]・[[近代化]]への批判（『[[民情一新]]』や明治維新以降のエセ文明より旧幕府のほうが良かったのではないかと言い切る等）、[[キリスト教]]を始めとした[[宗教]]批評&amp;lt;ref&amp;gt;「宗教の中には色々な宗派があるが、その違いは普通の茶と紅茶の違いぐらいであって、どちらを飲んでも大した違いはない」（1897年（明治30年）9月4日付「時事新報」社説）&amp;lt;/ref&amp;gt;など多岐に及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親友の木村芥舟と交遊しながら要人との会談も積極的に行い、[[木村浩吉 (海軍軍人)|木村浩吉]]（芥舟の息子）の推薦で[[山本権兵衛]]・[[後藤新平]]等、見込みのある人物との交流を行っている。また、旧幕人懇親会で福沢と同じく明治政府に出仕していなかった友人の栗本鋤雲が勝海舟に向かって「腰抜けは下がれ！」と大渇し、また『[[瘠我慢の説]]』の草稿をいち早く栗本に見せたため、内容が外部に漏れてしまうこととなったが、明治34年（[[1901年]]）[[1月1日]]から時事新報に連載が開始された。晩年までに出版された著作は、現在の『[[学問]]』『[[科学]]』領域にある分野についてほとんどが言及されており、そのほとんどが日本で始めて著されているもので、出版されていない作品も多く、また当時の時勢・文化・歴史上の人物評等が得られる貴重な歴史資料ともなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1879年（明治12年）：[[東京学士会院]]（現・[[日本学士院]]）初代会長就任。[[東京府会]]副議長に選出されるが辞退。『[[民情一新]]』刊。&lt;br /&gt;
*1880年（明治13年）：専修学校（現・[[専修大学]]）の創設に協力し、京橋区の福澤の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。11月、慶應義塾が塾生の激減により財政難に陥ったため、福澤は廃塾を決意するが、広く寄付を求める「慶應義塾維持法案」を発表して、門下生たちが奔走した結果、危機を乗り切る&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/39.html 「應義塾豆百科」No.39　慶應義塾維持法案]、慶應義塾。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*1881年（明治14年）：[[1月23日]]、「慶應義塾仮憲法」を制定、引き続き福澤が社頭となる。8月、[[明治十四年の政変]]が起き、政府要人と絶交する。[[上野]] - [[青森]]間の[[日本鉄道会社]]設立に助力。&lt;br /&gt;
*1882年（明治15年）：日刊新聞『[[時事新報]]』を創刊し、不偏不党・国権皇張の理念のもと、世論を先導した。『[[帝室論]]』刊。&lt;br /&gt;
*1887年（明治20年）：[[伊藤博文]]首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。&lt;br /&gt;
*1889年（明治22年）：8月、「慶應義塾規約」を制定。&lt;br /&gt;
*1890年（明治23年）：1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。&lt;br /&gt;
*1892年（明治25年）：[[伝染病研究所]]の設立に尽力（[[北里柴三郎]]が初代所長となる）。&lt;br /&gt;
*1893年（明治26年）：[[土筆ヶ岡養生園]]開設&lt;br /&gt;
*1894年（明治27年）：郷里、[[中津市|中津]]の景勝・競秀峰を自然保護のため買い取る。&lt;br /&gt;
*1895年（明治28年） - 1897年（明治30年）：[[箱根]]、[[京都]]、[[大阪]]、[[広島]]、[[伊勢神宮]]、[[山陽]]方面へ旅行に出る。&lt;br /&gt;
*1898年（明治31年）：5月、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立、政治科を増設。[[9月26日]]、[[脳出血]]で倒れ、いったん回復。&lt;br /&gt;
*1900年（明治32年）：[[1月21日]]、[[勝海舟]]没。多年に亘る著訳教育の功労により、[[皇室]]から金5万円を下賜される。[[8月8日]]、再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復。『[[修身要領]]』完成。[[12月31日]]、翌年の幕明けにかけて[[慶應義塾]]生らと[[19世紀]]と[[20世紀]]の「[[学校法人慶應義塾#世紀送迎会|世紀送迎会]]」を開催。[[日本]]では[[元号]]と[[神武天皇即位紀元]]が主流で、[[西暦]]・[[世紀]]の概念が普及していないなかの新しい試みであった。&lt;br /&gt;
*1901年（明治34年）：[[1月25日]]、再び脳出血で倒れる。[[2月3日]]、再出血し、午後10時50分死去。葬儀の際、遺族は福澤の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である[[大隈重信]]が涙ながらにもってきた花を、福沢家は黙って受け取った。また、死によせて[[福地源一郎]]が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。[[爵位]]を断る。[[2月7日]]、[[衆議院]]において満場一致で哀悼を決議&amp;lt;ref&amp;gt;決議文の内容は次の通り。「衆議院ハ夙ニ開国ノ説ヲ唱ヘ力ヲ教育ニ致シタル福澤諭吉君ノ訃音ニ接シ茲ニ哀悼ノ意ヲ表ス」（[[片岡健吉]]ほか6名提出）。[[井上角五郎]]が提出者を代表して、説明のため登壇した。明治34年2月8日付「官報」号外、衆議院議事録（「第15回帝国議会・衆議院議事録・明治33.12.25 - 明治34.3.24」、国立公文書館（ref:A07050006700）。）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。2月8日、葬儀が執り行われる。生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/62.html 「慶應義塾豆百科」No.62　塾葬」]、慶應義塾&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓 ===&lt;br /&gt;
[[File:福澤諭吉終焉之地.jpg|250px|thumb|福澤諭吉終焉之地]]&lt;br /&gt;
福澤は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されている（旧居の基壇の一部が今も残る）。[[戒名]]は「'''大観院独立自尊居士'''」で、麻布山[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]にその墓がある。命日の2月3日は[[雪池忌]]（ゆきちき）と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和52年（[[1977年]]）、最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、遺体が[[ミイラ]]（[[死蝋]]）化して残っているのが発見された。外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま[[荼毘]]にふされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・思想 ==&lt;br /&gt;
[[File:天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず.jpg|250px|thumb|「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」&amp;lt;BR/&amp;gt;[[慶應義塾大学]][[慶應義塾の建造物#三田キャンパス|東館]]に刻まれている[[ラテン語]]で書かれた言葉]]&lt;br /&gt;
[[File:Tsukuniya.jpg|250px|thumb|福澤馴染みの酒屋｢[[津國屋]]｣&amp;lt;BR/&amp;gt;[[三田 (東京都港区)|三田]]に現存]]&lt;br /&gt;
* 『福翁自伝』には万延元年（[[1860年]]）5月から文久元年（[[1861年]]）12月までと、元治元年（[[1864年]]）10月から慶応3年（[[1867年]]）1月までの二つの重要な幕末の時期について、言及がない。どうやら元治年間以降については、[[徳川慶喜]]を頂点としつつ[[大鳥圭介]]・[[小栗忠順]]・[[太田黒伴雄]]らを与党とする実学派（[[公武合体]]派）の人々と連携して、長州の[[久坂玄瑞]]や[[高杉晋作]]を始め、[[尊王攘夷]]派に対抗する活動に従事していたと分析されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h78/ 『福澤諭吉』あとがき全文] [[平山洋]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この他にも、自伝には意図的に書かれていない活動が多く存在する。&lt;br /&gt;
* 同世代の思想家を挙げると、[[橋本左内]]とは同年代、[[坂本龍馬]]は一つ年下、高杉晋作は五つ年下、[[吉田松陰]]で四つ年上。これら[[幕末]]の人物と同世代であるというイメージが世間一般ではすらりと出にくいとされる&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（上）第一講&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 同時代の思想家で、最も共通しているといわれているのは[[横井小楠]]で、小楠が唱えた天意自然の理に従うという理神論「天の思想」と福沢の人生観が合致するとされている&amp;lt;ref&amp;gt;『横井小楠とその弟子たち』 評論社 ASIN B000J8E88I&amp;lt;/ref&amp;gt; 。&lt;br /&gt;
* 文久3年（1863年）春頃から『姓名録』（『慶應義塾入社帳』29冊現存）を付け始め、入塾者を記録し始めた。これ以前およびのちの数年の正確な入塾者については明らかになっていない。&lt;br /&gt;
* [[第二次長州征伐]]では、徹底的に[[長州藩]]を討つべしと幕府に建言し、「尊王攘夷などというものは長州のいい加減な口実で、世を乱すものにすぎない」と進言した&amp;lt;ref&amp;gt;『長州再征に関する建白書』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 福澤の著書には、しばしば儒学者の[[荻生徂徠]]が出てくるが、思想には影響を受けた大儒であってもやはり[[漢学者]]には心酔者が多いのでだめである。と論じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（上）第一講&amp;lt;/ref&amp;gt; &lt;br /&gt;
* 文明の本質を「'''人間交際'''」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた&amp;lt;ref&amp;gt;『民情一新』&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* [[孔子]]と[[孟子]]を「古来稀有の思想家」としたうえで、儒教的な「[[政教一致]]」の欠点を指摘した&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（中）第八講&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* 期待していた[[水戸藩]]が維新前に[[水戸学]]の[[立原翠軒]]派と[[藤田幽谷]]派の[[内ゲバ]]や[[天狗党の乱]]で分裂してしまったことを例に挙げ、学問や政治の宗教化を厳しく批判し、その他[[宗教]]的なものは一切認めないと論じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（上）第十一講&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* [[徳川家康]]を「'''奸計の甚しきものを云ふ可し'''」としてやや批判的に論じ、[[豊臣秀吉]]を非常に高く評価した&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（中）第十一講&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* 「'''古来唯一の忠臣義士'''」として[[佐倉惣五郎]]を挙げた&amp;lt;ref&amp;gt;『学問のすすめ』第七編&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 明治15年3月13日の時事新報にて『[[僧侶論]]』と題する社説を掲載。[[仏教]]界の保護を訴え、[[キリスト教]]排撃論を説いた（しかしのちに容認の態度も取った）。&lt;br /&gt;
* [[大久保利通]]から[[政体取調掛]]を命じられ、[[細川潤次郎]]が邸宅に赴いたとき「'''学者を誉めるなら 豆腐屋も誉めろ'''」といって明治政府の招聘を断った&amp;lt;ref&amp;gt;[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=349 福翁自傳-349 ページ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* 明治政府内では[[大鳥圭介]]と[[後藤象二郎]]びいきで、「相撲や役者のように政治家にも贔屓というものがありますが、私は後藤さんが大の贔屓なのです。」と語り、福沢邸から歩いて20分ほどの距離にあった後藤の屋敷（現在の[[高輪プリンスホテル]]周辺）には頻繁に行き来していた。大鳥に関しては適塾時代からの友人で、『[[痩我慢の説]]』でも大鳥は批判されていなかった。  &lt;br /&gt;
* 特に後藤象二郎との交遊は深く、明治30年（1897年）に後藤が亡くなると、時事新報に『後藤伯』と題する社説を掲載。「風雷一発、天地を振るい動かして、積り積もった諸悪をはらい除いて清めることは、非常大胆の豪傑でなければ出来ない。後藤伯のごときは、この一点において、満天下唯一の人物である。」と後藤の死を惜しんだ。&lt;br /&gt;
* [[立憲改進党]]が結党式を挙げる際に[[京橋]]の[[明治会堂]]を[[大隈重信]]に貸し出してやったことがある。このように、後輩思いで頼まれると中々断れないという[[お人好し]]な面が強かったようである&amp;lt;ref&amp;gt;[[会田倉吉]] 人物叢書 日本歴史学会編 第198項&amp;lt;/ref&amp;gt; &lt;br /&gt;
* 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は福沢の言と誤解されることが多いが、[[学問のすゝめ|学問のスゝメ]]冒頭には「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず'''と言えり'''」と書かれており、正しくは福沢の言ではない。出典元は諸説あるが、[[トーマス・ジェファーソン]]によって起草されたといわれるアメリカの独立宣言の一節を意訳したものというのが有力説である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/22.html 慶應義塾豆百科]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[緒方洪庵]]の他に自伝でも触れられている英雄の一人が[[江川英龍]]で、寒中袷一枚で過ごしているのを聞いて自分も真似たという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/egawa/egawa10.htm 江川太郎左衛門(１)]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『時事新報』は、1888（明治21）年3月23日、日本で初めて新聞紙上に[[天気予報]]を掲載した。晴れや雨を表すイラストは現在の天気予報で使用されているお天気マークの元祖である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html 日本で初めて新聞に 天気予報 を掲載]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『西洋旅案内』は外国為替や近代的な保険制度について書かれた日本最初の文献である。&lt;br /&gt;
* 明治3年（1870年）5月中旬、発疹チフスを患うと、元福井藩主・[[松平春嶽]]が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用。大学東校の宇都宮三郎のもとで、わが国で初めて機械によって氷を製造した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html 福澤先生の大病が絡んだ製氷器事始め]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『[[文明論之概略]]』は[[新井白石]]の『[[読史余論]]』から影響を受けており、維新の動乱の最中、程度の高い成人向けに「なかんずく儒教流の故老に訴えてその賛成をうる」ことを目的とし、故[[西郷隆盛|西郷南州]]なども通読したることになった&amp;lt;ref&amp;gt;小泉信三 『福沢諭吉』 岩波新書&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 福澤の代表的な[[言葉]]で[[戒名]]にも用いられた言葉が「'''[[独立自尊]]'''」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」（『[[修身要領]]』第二条）。&lt;br /&gt;
* 晩年の自伝である『[[福翁自伝]]』において、適塾の有様について「塾風は不規則と云（い）わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉（ろうぜき）、丸で物事に無頓着（むとんじやく）。その無頓着の極（きよく）は世間で云（い）うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止（と）めない。」と記している&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「不潔に頓着せず」（65頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=118 福翁自傳 - 118 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* ベストセラーになった『[[西洋事情]]』や『文明論之概略』などの著作を発表し、[[明治維新]]後の日本が[[中華思想]]、[[儒教]]精神から脱却して[[西洋文明]]をより積極的に受け入れる流れを作った（[[脱亜思想]]）。&lt;br /&gt;
* 『時事新報』に『兵論』という社説を寄稿し、官民調和の基で増税による軍備拡張論を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/15.html 時事新報史 第15回：朝鮮問題①　壬午事変の出兵論] 都倉武之 慶應義塾大学出版会&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵（かたき）」と激しく嫌悪した。その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として[[中華思想]]からなる[[冊封体制]]を維持していた[[清]]や[[李氏朝鮮]]の支配層にも向けられた。一方で、[[榎本武揚]]や[[勝海舟]]のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「[[オポチュニスト]]」と徹底的に批判する一面もある（『[[瘠我慢の説]]』）。&lt;br /&gt;
* 幼少期より[[酒]]を嗜み、[[月代]]を剃るのを嫌がるのを母親が酒を飲ますことを条件に我慢させたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「大阪修行」の章にある「書生の生活酒の悪癖」（57頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=103 福翁自傳 - 103 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。後年、禁酒する代わりに[[喫煙]]の習慣を持ったが、結局、両方とも嗜むことになってしまった&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「禁酒から烟草」（76-77頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=137 福翁自傳 - 137 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。三田の酒屋[[津國屋]]を贔屓との店とし、自ら赴き酒を購入することもあった。&lt;br /&gt;
* 適塾時代に覚えた[[煙草]]を晩年まで好み、太い[[キセル]]で煙草をふかしたことから、塾生からは「[[海賊]]の親分」との愛称を貰っていたようである&amp;lt;ref&amp;gt;北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』P156、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 宗教については淡白で、『[[福翁自伝]]』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有（ありがた）いだのということは一寸（ちよい）ともない。卜筮呪詛（うらないまじない）一切不信仰で、狐狸（きつねたぬき）が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂 『新訂　福翁自伝』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「幼少の時」の章にある「稲荷様の神体を見る」（23頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=44 福翁自傳 - 44 ページ ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。&lt;br /&gt;
* [[会計学]]の基礎となる[[複式簿記]]を日本に紹介した人物でもある。[[借方]][[貸方]]という語は福澤の訳によるもの。&lt;br /&gt;
* 日本に近代[[保険]]制度を紹介した。福澤は『[[西洋旅案内]]』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合（生命保険）、火災請合（火災保険）、海上請合（海上保険）の三種の災難請合について説いている。&lt;br /&gt;
* 昭和59年（[[1984年]]） - 平成16年（[[2004年]]）発行の[[日本銀行券]]D号1万円札、現行のE号1万円札の肖像にも使用されている。そのせいか、「ユキチ」が一万円札の代名詞として使われることもある。このことから派生して、一万円札の枚数を言う時に1人、2人などのように人数を数えるように言うことがあり、一万円札の代名詞でもある。&lt;br /&gt;
* 現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、[[昭和]]59年（[[1984年]]）[[11月1日]]の新紙幣発行に際して、最初の[[大蔵省]]理財局の案では、十万円札が[[聖徳太子]]、五万円札が[[野口英世]]、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった&amp;lt;ref&amp;gt;北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』（7-9頁）、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福澤諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記される&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アジア近隣諸国に対して ===&lt;br /&gt;
福澤は、アジアの「改革勢力」の支援を通じて近隣諸国の「[[近代化]]」に力を注いでいる。[[李氏朝鮮]]の[[金玉均]]などを支援しているし、漢文とハングルの混合文を発案するとともに、朝鮮で初めての[[ハングル]]交じりの[[新聞]]『[[漢城周報]]』へと発展する『[[漢城旬報]]』（漢字表記）の創刊にも私財を投じて関わっている。また朝鮮からの留学生も1881年（明治14年）6月から慶應義塾に受け入れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日清戦争に関して ===&lt;br /&gt;
[[日清戦争]]は、[[1894年]]（明治27年）7月から[[1895年]]（明治28年）4月にかけておこなわれた。福澤は『時事新報』1894年（明治27年）8月14日号に署名入りの「私金義捐に就いて」を掲載し、開戦となった以上、戦勝のために義捐金を寄せて欲しいと訴えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年の自伝『[[福翁自伝]]』の「老余の半生」では、&lt;br /&gt;
{{Quotation|顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有（ありがた）いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました。}}&lt;br /&gt;
と述べている。&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「老余の半生」の章にある「行路変化多し」（316頁）を参照。[[近代デジタルライブラリー]]収録の『[[福翁自伝]]』では[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018839&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=280&amp;amp;ITYPE=0 547] - [http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018839&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=281&amp;amp;ITYPE=0 548頁]を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=565 福翁自傳 - 565 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福澤の男女同等論 === &lt;br /&gt;
福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、「人倫の大本は夫婦なり」として[[一夫多妻制|一夫多妻]]や[[妾]]をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;[[青空文庫]]の『[http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card46890.html 中津留別の書]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、[[ハインリッヒ・フォン・シーボルト]]夫人に芸事の指導を頼んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治7年（1874年）に発足した慶應義塾幼稚舎が、明治10年（1877年）以降しばらくの間、男女を共に教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、福澤の男女同等論に近いものであったり彼もそれを支持したが、士族系の反対があったため父家長制のものに書き換えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 私生活 ===&lt;br /&gt;
文久元年（[[1861年]]）、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女錦と結婚し、四男五女の9人の子供をもうけた。松山棟庵によると、福澤は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという&amp;lt;ref&amp;gt;松山棟庵「故福澤翁」（慶應義塾学報 臨時増刊39号『福澤先生哀悼録』[[みすず書房]]、1987年3月、ISBN 4-622-02671-6、193-194頁）[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h30/02/#id_2_0_3 伝記作家石河幹明の策略―その2― 2.0.3項]参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
或時先生にお話すると「左樣か、性來の健康の外に別段人と異つた所もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前にも後にも、未だ嘗て一度も婦人に接した事がない、隨分方々を流浪して居るし、緒方塾に居た時は放蕩者等を、引ずつて來るために不潔な所に行つた事もあるが、金玉の身体をむざ／＼汚す様な機會をつくらぬのだ」と先生は嘘をつく方ではない、先生の御夫婦ほど純潔な結合が、今の世界に幾人あるだらう&lt;br /&gt;
&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 居合の達人 ===&lt;br /&gt;
福澤は、若年の頃より立見新流[[居合]]の修練を積み、成人の頃に[[免許皆伝]]を許された居合の達人であった。ただし、福澤は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、剣を持って戦った事はなく逃げている。無論、逃げる事は最も安全な護身術であるが、福澤自身、居合はあくまでも求道の手段であり殺人術でないと考えていたと思われ、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことが無かった勝海舟・[[山岡鉄舟]]の思想と似ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。医学者の[[土屋雅春]]は福澤の死因の一つに居合のやりすぎを挙げている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000348758 『医者のみた福澤諭吉』]&amp;lt;/ref&amp;gt;。晩年まで一日千本以上行っていた居合日記を付けており、これでは逆に健康を害すると分析されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治中期より武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「再度米国行」の章にある「刀剣を売り払う」（162頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=285 福翁自傳 - 285 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。はやりものに対して[[シニカル]]な一面もうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福澤と勝海舟 ===&lt;br /&gt;
福澤諭吉は、[[勝海舟]]の批判者であり続けた。[[戊辰戦争]]の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である[[咸臨丸]]の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件（[[清水次郎長]]が埋葬し男を上げた意味でも有名）で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の[[清見寺]]内に立てられるが、福澤は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が[[榎本武揚]]と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事（人の食（禄）を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味）」を見ると激怒したという&amp;lt;ref&amp;gt;次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲という[[アウトロー]]が尊ぶ精神構造と似ていたせいか福澤と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[瘠我慢の説]]』という公開書簡によって、海舟と[[榎本武揚]]（共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた）を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家の名誉回復と存続に大変な労力を裂いており、現在では大局として[[徳川家]]という狭い枠にとどまらず、日本の為に尽くしたと評価されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現に明治維新という急激な改革に諸藩の不平[[士族]]たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついに背くことがなかった。これは勝や[[大久保一翁]]、[[山岡鉄舟]]らの尽力によるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお福澤は勝に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある&amp;lt;ref&amp;gt;1878年（明治11年）4月11日の日記に記載。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
当時慶應義塾の経営は薩摩藩学生の退学等もあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた勝に援助を求めた。だが勝は福澤が政府から払い下げられた1万4千坪に及ぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていた為、土地を売却しても尚（慶應義塾の経営に）足りなかったら相談に乗ると答えたが、福澤は三田の土地を非常に気に入っていた為、遂に売却していない。瘠我慢の説発表はこの後のことである。また、『[[福翁自伝]]』で福澤は借金について以下のように語っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「一身一家経済の由来」の章にある「仮初にも愚痴を云わず」（270-271頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=482&amp;amp;KEY=%E6%B5%81%E5%84%80 福翁自傳 - 482 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗（かつ）て人に相談しようとも思わなければ、人に喙（くちばし）を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝海舟も福沢と同様に身なりにはあまり気を遣わない方であったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日、上野精養軒の明六社へ尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた勝が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか？日本が貧乏になってきたからシナに強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかましく言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福沢さん、儲けたらちっとあげます。」と言ってからかったという&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=北康利|authorlink=北康利|year=2007|month=3|title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-213884-0}}（226頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、勝は福澤のことを学者として一目置いており、自分が学んだ[[佐久間象山]]の息子の[[佐久間恪二郎]]や、[[徳川慶喜]]の十男で養子の、[[勝精]]を慶應義塾に入学させる等面倒見のよい一面もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝は晩年、福沢に自身の『[[海軍歴史]]』という書を贈っているが、内容は木村喜毅の功績を始めとする他人の功績を全て勝が横取りした内容となっており、これを見た福沢はますます勝と疎遠となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小泉信三はその著『福沢諭吉』の中で「咸臨丸がたまたま日本の近世史上に大きな役目を勤めた、勝海舟と福沢諭吉という両人物を同乗させたことは一つの奇縁」としながらも、明治以後疎遠となった2人は本来気質的に合わなかったと分析した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 西洋医学 ===&lt;br /&gt;
[[土屋雅春]]の『医者のみた福澤諭吉』（[[中央公論社]]、中公新書）や[[桜井邦朋]]の『福沢諭吉の「科學のススメ」』（[[祥伝社]]）によれば、福澤と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。&lt;br /&gt;
; 『蘭学事始』の出版 &lt;br /&gt;
: [[杉田玄白]]が記した『[[蘭学事始#経緯|蘭東事始]]』の写本を、福澤の友人[[神田孝平]]が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である[[杉田廉卿]]の許可を得て、福澤の序文を附して、[[明治]]2年（[[1869年]]）に『[[蘭学事始]]』として出版した。さらに、[[1890年]]（明治23年）[[4月1日]]には、再版を「蘭学事始再版序」を附して[[日本医学会]]総会の機会に出版している。&lt;br /&gt;
[[ファイル:The Institute of Medical Science Tokyo Japan Medical Science Museum 20070127 0076.jpg|250px|right|thumb|「[[伝染病研究所]]｣の外観を再現した「[[近代医科学記念館]]｣&amp;lt;BR/&amp;gt;([[東京大学医科学研究所]]内)]]&lt;br /&gt;
; 北里柴三郎への支援&lt;br /&gt;
: [[1892年]]（明治25年）にドイツ留学から帰国した[[北里柴三郎]]のために、東京柴山内に[[大日本私立衛生会]][[伝染病研究所]]（伝研）を設立して、北里を所長に迎えた。[[1894年]]（明治27年）には、伝研は芝愛宕町に移転した。移転の際に住民から反対運動が起こったので、福澤は次男[[福澤捨次郎|捨次郎]]の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。[[1899年]]（明治32年）に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、福澤と[[長与専斎]]と[[森村市左衛門]]とが創設した[[土筆ヶ岡養生園]]に移った。&lt;br /&gt;
; 慶應義塾医学所の創設&lt;br /&gt;
: 明治3年（[[1870年]]）、慶應義塾の塾生[[前田政四郎]]のために、福澤が英国式の医学所の開設を決定した。そして[[1873年]]（明治6年）、慶應義塾内に医学所を開設した。所長は慶應義塾出身の医師[[松山棟庵]]が就任した。また、[[杉田玄端]]を呼んで[[尊王舎]]を医学訓練の場所とした。なお、[[1880年]]（明治13年）6月、医学所は閉鎖されることになった。&lt;br /&gt;
: しかし、福澤の死後15年たった[[1916年]]（[[大正]]5年）[[12月27日]]、慶應義塾に医学部の創設が許可され、[[1917年]]（大正6年）3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 研究・評価史 ==&lt;br /&gt;
=== 日本における福沢研究をめぐる論争 ===&lt;br /&gt;
{{main|脱亜論|安川・平山論争}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「脱亜論」再発見から ====&lt;br /&gt;
[[太平洋戦争]]後、歴史学者[[服部之総]]や[[遠山茂樹]]らによって福沢の「脱亜論」が再発見され、福澤は[[アジア]]諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者であると批判された&amp;lt;ref&amp;gt;服部之総論文「東洋における日本の位置」、遠山茂樹論文「日清戦争と福沢諭吉」(1951)（遠山茂樹著作集第5巻所収、岩波書店,1992&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[丸山真男]]は[[服部之総]]の福沢解釈を「論敵」としていたといわれる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h07/#id_2_1 東谷暁インタビュー 平山洋]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年（平成13年）、[[朝日新聞]]に掲載された[[安川寿之輔]]の論説「福沢諭吉　アジア蔑視広めた思想家&amp;lt;ref&amp;gt;2001年（平成13年）4月21日付「[[朝日新聞]]」に掲載&amp;lt;/ref&amp;gt;」に、[[平山洋]]が反論「福沢諭吉　アジアを蔑視していたか」&amp;lt;ref&amp;gt;同年[[5月12日]]付同紙）&amp;lt;/ref&amp;gt;を掲載したことで、いわゆる「[[安川・平山論争]]」が始まった。&amp;lt;ref name=&amp;quot;hirayama_shinjitsu&amp;quot;&amp;gt;平山洋『福沢諭吉の真実』[[文藝春秋]]〈文春新書394〉、2004年、ISBN 4-16-660394-9&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 安川・平山論争 ====&lt;br /&gt;
平山は、[[井田進也]]の文献分析を基礎に&amp;lt;ref&amp;gt;「歴史とテクスト　西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年&amp;lt;/ref&amp;gt;、福沢のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で、『時事新報』の主筆を務め、『[[福澤全集]]』を編纂した[[石河幹明]]の作為にみる&amp;lt;ref&amp;gt;前掲書&amp;lt;/ref&amp;gt;。平山によれば、福澤は[[支那]]（[[中国]]）や[[朝鮮]][[政府]]を批判しても、[[民族]]そのものをおとしめたことはなかった。だが、たとえば[[清]]の兵士を[[ブタ|豚]]になぞらえた論説など、[[差別]]主義的内容のものは、石河の論説であり、全集編纂時に、福澤のものと偽って収録したのだという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながらこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を[[文献学]]（テキストクリティーク）的に確定しないことには決着がつかない&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h07/#id_2_1 東谷暁インタビュー 平山洋]また[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/9.html 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1)　〜論説執筆者認定論争〜]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[井田進也]]は無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「[[時事新報]]論説」執筆者再認定作業を開始している&amp;lt;ref&amp;gt;「歴史とテクスト　西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年&amp;lt;/ref&amp;gt;。今後の研究がまたれるところである&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/9.html 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1)　〜論説執筆者認定論争〜]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「時事新報」無署名論説 ====&lt;br /&gt;
[[平山洋]]は、井田の分析を基に、現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の「時事新報論集」はその大部分が無署名であることを指摘したうえで、大正時代の『福沢全集』（1925～26）と昭和時代の『続福沢全集』（1933～34）の編纂者であった弟子の[[石河幹明]]が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録している、とした。さらに現行版『全集』（1958～64）の第一六巻には福沢の没後数ヵ月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している&amp;lt;ref&amp;gt;平山洋、2004、『福沢諭吉の真実』、文藝春秋〈文春新書394〉&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気度 ===&lt;br /&gt;
2000年3月12日付で[[朝日新聞]]が企画した「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7863票のうち、第6位の豊臣秀吉（382票）に次ぐ第7位（330票）にランクインするなど、国民的な人気がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[朝日新聞]]2000年3月12日、1位・[[坂本龍馬]]、2位・[[徳川家康]]、3位・[[織田信長]]、4位・[[田中角栄]]、5位・[[吉田茂]]、6位・[[豊臣秀吉]]、7位・[[福澤諭吉]]、8位・[[西郷隆盛]]、9位・[[市川房枝]]、10位・[[伊藤博文]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アメリカ合衆国における評価 ===&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 台湾における評価 ===&lt;br /&gt;
元[[中華民国総統]][[李登輝]]は、講演『学問のすゝめと日本文化の特徴』で、福澤について、欧米を日本に紹介するだけではなく、[[学問のすゝめ]]を著わすことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/world/china/080923/chn0809232017002-n1.htm 李登輝元総統が「学問のすゝめと日本文化の特徴」をテーマに講演] 産経ニュース 2008.9.23&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 韓国における評価 ===&lt;br /&gt;
[[朝日新聞]]によれば、[[大韓民国]]において、脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは、[[1970年]]以降であり&amp;lt;ref&amp;gt;ソウル大国際問題研究所の姜相圭による&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[1980年代]]に日本で[[歴史教科書問題]]が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っているという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html  朝日新聞〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福澤が援助した[[李氏朝鮮]]の[[開化派]]は、その中心にいた[[朴泳孝]]が[[日本統治時代の朝鮮]]において[[爵位]]を得るなどの厚遇を得て、[[金玉均]]は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では[[親日派]]と見なされ、福澤への関心もほとんど無かったものと推測される。[[金玉均]]に対する評価は[[北朝鮮]]の方が高く&amp;lt;ref&amp;gt;[[1960年代]]にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。&amp;lt;/ref&amp;gt;、それを受けた形で、[[在日韓国・朝鮮人|在日]]歴史研究家の[[姜在彦]]が[[1974年]]（昭和49年）に「金玉均の日本亡命」を発表し&amp;lt;ref&amp;gt;『歴史と人物』誌上&amp;lt;/ref&amp;gt;、福澤に触れていて、「最近の研究で明らかにされてきているように、福沢の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、福沢を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は福沢に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている&amp;lt;ref&amp;gt;姜在彦『朝鮮の攘夷と開化　近代朝鮮にとっての日本』平凡社、1987年。ISBN 4-582-82251-7&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の韓国におけるごく一般的な福沢像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている&amp;lt;ref&amp;gt;その典型的な例を挙げれば、[[2001年]]の[[中央日報]]、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18616&amp;amp;servcode=100&amp;amp;sectcode=100 【噴水台】ユーロ貨の橋]の次のような文言：「日本の１万円札には19世紀末、'''韓国を征伐するよう主張した'''福沢諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」&amp;lt;/ref&amp;gt;。一般的に、韓国における福澤は、往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、福澤の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、[[神功皇后]]伝説や[[豊臣秀吉]]にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捕らえられている。[[1990年代]]あたりから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、[[1996年]]（平成8年）の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』&amp;lt;ref&amp;gt;韓桂玉『「征韓論」の系譜』三一書房、1996年。ISBN 4-380-96291-1&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[2006年]]の琴秉洞&amp;lt;ref&amp;gt;[[在日本朝鮮人総聯合会|総連]]系の学者で金玉均の研究家&amp;lt;/ref&amp;gt;『日本人の朝鮮観　その光と影』&amp;lt;ref&amp;gt;琴秉洞著『日本人の朝鮮観　その光と影』明石書店、2006年。ISBN 4-7503-2415-9&amp;lt;/ref&amp;gt;を挙げることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年代におけるこういった韓国の状況が、福澤に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、[[安川寿之輔]]が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。[[高嶋伸欣]]が[[1992年]]（平成4年）に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ、訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、福澤を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに福澤研究に取り組んだという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『福沢諭吉と朝鮮』の著者・杵淵信雄は、安川とはちがい、「脱亜論の宣言を注視するあまり、（福澤は）アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、福澤の侵略性を強調する立場ではないが、[[1997年]]（平成9年）の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ福沢の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している&amp;lt;ref&amp;gt;杵淵信雄『福沢諭吉と朝鮮　時事新報社説を中心に』彩流社、1997年。ISBN 4-88202-560-4&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、1990年代の韓国において、福澤研究に取り組む研究者が複数現れたことを、林宗元は述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10005325-20080000-0259 韓国における福沢諭吉: 一九九〇年代における福沢諭吉の研究状況を中心に　林, 宗元(Lim, Jong-won)韓国関東大学校教授　慶應義塾大学学術情報リポジトリ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。林宗元の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と福澤を比較するもの、福澤と朝鮮開化派との関係を追求するもの、福澤の反儒教論を批判分析するものなど、多岐にわたっていて、否定的なものばかりではないことが注目される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2000年代に入り、こういった学問的取り組みと平行して、近代化の旗手としての福澤への一定の理解が、新聞論調にも見えはじめる&amp;lt;ref&amp;gt;中央日報、[[2002年]]の[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=24262&amp;amp;servcode=100&amp;amp;sectcode=100 【噴水台】ブッシュと福沢]においては、「多様な翻訳・著述を通じて西洋学術・科学用語を日本語に移すことによって、日本はもちろん韓国・中国にまで大きな影響を及ぼした」という率直な評価が述べられている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[2004年]]（平成16年）前後に登場した[[ニューライト]]は、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、[[日本統治時代の朝鮮]]における近代化も認める立場をとっていて、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど、新しい風を巻き起こした。そんな中で同年、林宗元によって、[[福翁自伝]]が韓国語に訳され、出版されたことも、韓国における福澤像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙は軒並み好意的な書評をよせ、[[ハンギョレ]]は「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、韓国において福澤に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい&amp;lt;ref&amp;gt;[[朝日新聞]]、[http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html  〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2005年]]、[[ニューヨークタイムズ]]の東京支局長[[ノリミツ・オオニシ]]は「日本人の嫌韓感情の根底には福澤の脱亜論がある」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=950CE0D91E3EF93AA25752C1A9639C8B63 Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japan] &amp;lt;/ref&amp;gt;とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び、福澤を「アジアを見下して侵略を肯定した[[嫌韓]]の父であり[[右翼]]の元祖」と評してもいる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=119108&amp;amp;servcode=A00&amp;amp;sectcode=A00 【その時の今日】福沢諭吉…侵略戦争正当化した日本右翼の元祖] 中央日報 2009.08.12&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=69808&amp;amp;servcode=700&amp;amp;sectcode=700 「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」NYT紙] 中央日報 2005.11.20&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[筑波大学]]の稲葉継雄は、韓国で福澤の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hdl.handle.net/2241/13533 井上角五朗と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に]筑波大学 稲葉継雄&amp;lt;/ref&amp;gt;、韓国における福澤像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作等 ==&lt;br /&gt;
=== 主な著書 ===&lt;br /&gt;
{{col-begin}}&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* 『[[増訂華英通語]]』&lt;br /&gt;
* 『[[西洋事情]]』&lt;br /&gt;
* 『[[雷銃操法]]』&lt;br /&gt;
* 『[[西洋旅案内]]』&lt;br /&gt;
* 『[[条約十一国記]]』&lt;br /&gt;
* 『[[西洋衣食住]]』&lt;br /&gt;
* 『[[兵士懐中便覧]]』&lt;br /&gt;
* 『[[訓蒙窮理図解]]』&lt;br /&gt;
* 『[[洋兵明鑑]]』&lt;br /&gt;
* 『[[掌中万国一覧]]』&lt;br /&gt;
* 『[[英国議事院談]]』&lt;br /&gt;
* 『[[清英交際始末]]』&lt;br /&gt;
* 『[[世界国尽]]』&lt;br /&gt;
* 『[[啓蒙手習之文]]』&lt;br /&gt;
* 『[[学問のすゝめ]]』&lt;br /&gt;
* 『[[ひびのおしえ]]』&lt;br /&gt;
* 『[[童蒙教草]]』&lt;br /&gt;
* 『[[かたわ娘]]』&lt;br /&gt;
* 『[[改暦弁]]』&lt;br /&gt;
* 『[[帳合之法]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本地図草紙]]』&lt;br /&gt;
* 『[[文字之教]]』&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* 『[[会議弁]]』&lt;br /&gt;
* 『[[文明論之概略]]』&lt;br /&gt;
* 『[[学者安心論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[分権論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[民間経済録]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤文集]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通貨論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通俗民権論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通俗国権論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[民情一新]]』&lt;br /&gt;
* 『[[国会論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[時事小言]]』&lt;br /&gt;
* 『[[時事大勢論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[帝室論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[兵論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[徳育如何]]』&lt;br /&gt;
* 『[[学問之独立]]』&lt;br /&gt;
* 『[[全国徴兵論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通俗外交論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本婦人論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本婦人論後編]]』&lt;br /&gt;
* 『[[士人処世論]]』&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* 『[[品行論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[男女交際論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本男子論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[尊王論 (書名)|尊王論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[国会の前途]]』&lt;br /&gt;
* 『[[国会難局の由来]]』&lt;br /&gt;
* 『[[治安小言]]』&lt;br /&gt;
* 『[[地租論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[実業論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤全集緒言]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤全集]]』&lt;br /&gt;
* 『[[修業立志編]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福翁百話]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福翁百余話]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤先生浮世談]]』&lt;br /&gt;
* 『[[女大学評論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[新女大学]]』&lt;br /&gt;
* 『[[明治十年丁丑公論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[瘠我慢の説]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福翁自伝]]』&lt;br /&gt;
* 『[[旧藩情]]』&lt;br /&gt;
* 『[[唐人往来]]』&lt;br /&gt;
{{col-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著作集 ===&lt;br /&gt;
『[http://www.keio-up.co.jp/yukichi/ 福澤諭吉著作集] （全12巻）』が、2002～03年に[[慶應義塾大学出版会]]で刊行。&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408772 西洋事情]』※、ISBN 4-7664-0877-2&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408780 世界国尽　窮理図解]』、ISBN 4-7664-0878-0&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408799 学問のすゝめ]』※、ISBN 4-7664-0879-9&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408810 文明論之概略]』※、ISBN 4-7664-0880-2&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408810 学問之独立　慶應義塾之記]』、ISBN 4-7664-0881-0&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408829 民間経済録　実業論]』、ISBN 4-7664-0882-9&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408837 通俗民権論　通俗国権論]』、ISBN 4-7664-0883-7&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408845 時事小言　通俗外交論]』、ISBN 4-7664-0884-5&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408853 丁丑公論　瘠我慢の説]』、ISBN 4-7664-0885-3&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408861 日本婦人論　日本男子論]』、ISBN 4-7664-0886-1&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/476640887X 福翁百話]』※、ISBN 4-7664-0887-X&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408888 福翁自伝　福澤全集緒言]』※、ISBN 4-7664-0888-8&lt;br /&gt;
:※は、2009年にコンパクト版（選書版）が刊行&amp;lt;br&amp;gt;別巻に『福澤諭吉事典』　同編集委員会編／慶應義塾発行、2010年12月、 ISBN 4-7664-1800-X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著書翻訳 ===&lt;br /&gt;
* 『An Outline of a Theory of Civilization　（福澤諭吉、文明論之概略）』&lt;br /&gt;
: [[慶應義塾大学出版会]]、2008年11月。ISBN 4-7664-1560-4、『福翁自伝』も数か国語に訳された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
=== 系図 ===&lt;br /&gt;
; '''福澤家&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　中上川才蔵&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┣━━━━━━━━━━━中上川彦次郎━━藤原あき&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃緒方洪庵━━━━━━━緒方収二郎━━━淑子&lt;br /&gt;
　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　┏━美和&lt;br /&gt;
　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━━━┫&lt;br /&gt;
　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　┗━福澤範一郎&lt;br /&gt;
　┏婉　　　　　　　　　　　糸　　　　　┏━福澤八十吉&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　　　　　┣━━━━━╋━遊喜&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┏━━━━━福澤一太郎　┗━八重&lt;br /&gt;
　┗福澤諭吉　　┃　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━房　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━━福澤駒吉&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　福澤桃介&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　松方正義━━松方五郎━━━松方正信　　┏━松方正隆&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━┻━松方正範&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━里　　　　　　　　┏てる子　　　　　紀久子　　　┏━いく子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━中村愛作━━╋中村仙一郎　　　┣━━━━━╋━ともの&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　中村貞吉　　　　　┗武子　　　　┏━渡辺紀久男　┗━純子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━╋━渡辺晴男&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　渡辺良吉　　┗━岩崎正男&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━俊　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━━清岡暎一　　　　　　┣━━━━━━━雅美&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　清岡邦之介　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┏━━━寛子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━滝　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━━多代　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　志立鉄次郎　　　┃　　　　　┃　┏━木内宏&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━＝━┫&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃　┗━木内孝&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　木内重四郎　　┏木内信胤　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━┫　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┏━━━磯路　　　　　┗木内良胤━━＝━━━木内昭胤━━━━木内孝胤&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┣━━━━╋━＝━━━福澤三八　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　┣━━━━━━━浦子　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　清　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　福澤億之助　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━＝━━━福澤大四郎　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　┣━━━━━━━福澤進太郎　┃　┏━福澤幸雄&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　益子　　　　　　┣━━━━━＝━┫&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　アクリヴィ　┃　┗━エミ&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━＝━━━光　　　　　┏━潮田江次　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　┣━━━━━┫　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　潮田伝五郎　┗━潮田勢吉　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　錦　　　　┃　┃　┏━林雅之助━┳━━ラク　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　┃　┃　┃　　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　須賀川誠&lt;br /&gt;
　　林董━━━━＝━＝━┫　　　　　　┗━━岩崎忠雄　　┃　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　┃　┃　┃　　　　　　　　　┣━━━━━┻━━━和子&lt;br /&gt;
　┏岩崎弥之助━＝━＝━＝━岩崎俊弥━━━━淑子&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┃　┃　┃&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┃　┃　┗━菊　　　　　┏━福澤時太郎&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┃　┃　　　┣━━━━━┫&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┗━＝━━━福澤捨次郎　┗━福澤堅次　　┏━━━福澤雄吉&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　　　　┣━━━━━┫&lt;br /&gt;
　┗岩崎弥太郎━━━┻━━━岩崎久弥━━━━綾子　　　　┗━━━初子&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 親類縁者 ===&lt;br /&gt;
; '''子'''&lt;br /&gt;
* [[福澤一太郎]] - 長男、慶應義塾塾長。文久3年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]（[[1863年]][[11月22日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤捨次郎]] - 次男、時事新報社長。慶應元年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]（[[1865年]][[11月9日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤里]]（阿三（後に通称をお里））- 長女、[[中村貞吉]]に嫁す。慶應4年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]（[[1868年]][[4月23日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤房]]（阿房）- 次女、諭吉の婿養子・桃介の妻。明治3年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]（[[1870年]][[8月22日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤俊]]（阿俊）- 三女、[[清岡邦之介]]に嫁す。[[1873年]]（明治6年）[[8月4日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤滝]]（阿滝）- 四女、[[志立鉄次郎]]に嫁す。[[1876年]]（明治9年）[[3月2日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤光]]（阿光）- 五女、[[潮田伝五郎]]に嫁す。[[1879年]]（明治12年）[[3月27日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤三八]] - 三男。[[1881年]]（明治14年）[[7月14日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤大四郎]] - 四男、実業家。[[1883年]]（明治16年）[[7月24日]]生まれ。&lt;br /&gt;
; '''孫'''&lt;br /&gt;
* 福澤進太郎 - 大四郎の長男、[[フランス文学]]者・慶應義塾大学[[教授]]&lt;br /&gt;
; '''曾孫'''&lt;br /&gt;
* [[福澤幸雄]] - 進太郎の長男、レーサー&lt;br /&gt;
* [[福澤武]]- 三菱地所会長&lt;br /&gt;
; '''玄孫'''&lt;br /&gt;
* [[福澤克雄]] - （[[TBSテレビ]]/ [[映画監督]]/ [[演出家]] /  [[テレビディレクター]] ）&lt;br /&gt;
* [[片山千恵子]] -（[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー）福澤諭吉は大曾祖父&lt;br /&gt;
; '''その他'''&lt;br /&gt;
* [[福澤桃介]] - 女婿（次女・房の夫）、実業家&lt;br /&gt;
* [[中上川彦次郎]] - 甥（姉・婉の長男）&lt;br /&gt;
* [[高谷龍洲]] - 母の[[再従兄弟]]、[[儒学者]]&lt;br /&gt;
* [[藤原あき]] - 甥の三女&lt;br /&gt;
* [[フランキー堺]] - 次男が諭吉の曾孫の娘と結婚&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場作品 ==&lt;br /&gt;
* [[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]（1974年、NHK大河ドラマ、演：[[青山良彦]]）&lt;br /&gt;
* [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]（1977年、NHK大河ドラマ、演：[[入川保則]]）&lt;br /&gt;
* [[陽だまりの樹]]（1981年、[[手塚治虫]]）&lt;br /&gt;
* [[春の波涛]]（1985年、NHK大河ドラマ、演：[[小林桂樹]]）&lt;br /&gt;
* [[幕末青春グラフィティ　福沢諭吉]]（1985年、TBSドラマ、演：[[中村勘九郎 (5代目) ]]・現[[中村勘三郎 (18代目) ]]）&lt;br /&gt;
* [[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]]（1988年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演：[[中村雅俊]]）&lt;br /&gt;
* [[勝海舟 (テレビドラマ)|勝海舟]]（1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演：[[石原良純]]）　&lt;br /&gt;
* [[福沢諭吉 (映画)|福沢諭吉]]（1991年、映画、演：[[柴田恭兵]]）&lt;br /&gt;
* [[EAST MEETS WEST]]（1995年、松竹、演：[[橋爪淳]]）&lt;br /&gt;
* [[西部邁]]・[[佐高信]]の学問のすゝめ（2008年、[[朝日ニュースター]]）&lt;br /&gt;
* [[ETV特集 シリーズ「日本と朝鮮半島2千年」]]第10回“脱亜”への道～江華島事件から日清戦争へ～（2010年、[[日本放送協会|NHK]][[ETV特集]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記念行事 ==&lt;br /&gt;
* 2009年（平成21年）、慶應義塾創立150年記念「'''未来をひらく福沢諭吉展'''」が[[東京国立博物館]]、[[福岡市美術館]]、[[大阪市立美術館]]において、また「'''福沢諭吉と神奈川展'''」が[[神奈川県立歴史博物館]]において、順次開催された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.fukuzawa2009.jp 慶應義塾　創立150年記念　未来をひらく　福沢諭吉展]。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Fukuzawa Yukichi}}&lt;br /&gt;
{{Wikiquote|福沢諭吉}}&lt;br /&gt;
=== 関連事項 ===&lt;br /&gt;
{{col-begin}}&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* [[儒学]] - [[国学]] - [[蘭学]]&lt;br /&gt;
* [[武士]] - [[居合]] - [[立身新流]]&lt;br /&gt;
* [[進脩館]] - [[適塾]]&lt;br /&gt;
* [[慶應義塾]] - [[専修学校 (旧制)]]&lt;br /&gt;
* [[明六社]] - [[明六雑誌]]&lt;br /&gt;
* [[日本学士院]] - [[東京地学協会]]&lt;br /&gt;
* [[興亜会]]&lt;br /&gt;
* [[交詢社]]&lt;br /&gt;
* [[三菱商業学校]]（[[明治義塾]]）&lt;br /&gt;
* [[大坂]]&lt;br /&gt;
* [[中津市]]&lt;br /&gt;
* [[福澤諭吉旧居]]&lt;br /&gt;
* [[幕末の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[明治の人物一覧]]&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* [[京都集書院]]&lt;br /&gt;
* [[明治時代]]&lt;br /&gt;
* [[文明政治の六条件]]&lt;br /&gt;
* [[皇室制度]]&lt;br /&gt;
* [[科学]]&lt;br /&gt;
* [[経済]]&lt;br /&gt;
* [[数学]]&lt;br /&gt;
* [[演説]]&lt;br /&gt;
* [[簿記]]&lt;br /&gt;
* [[脱亜論]]&lt;br /&gt;
* [[脱亜思想]]&lt;br /&gt;
* [[亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説]]&lt;br /&gt;
* [[土地は併呑す可らず国事は改革す可し]]&lt;br /&gt;
* [[支那人親しむ可し]]&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* [[修身要領]]&lt;br /&gt;
* [[福澤心訓]]&lt;br /&gt;
* [[高尚]]&lt;br /&gt;
* [[文銭堂本舗]]&lt;br /&gt;
* [[経世済民]]&lt;br /&gt;
* [[アジア主義]]&lt;br /&gt;
* [[甲申事変]] - [[開化派]]&lt;br /&gt;
* [[長沼事件]]&lt;br /&gt;
* [[思想史]] - [[近代日本思想大系]] - [[現代日本思想大系]]&lt;br /&gt;
* [[仮名垣魯文]]&lt;br /&gt;
* [[志摩三商会]]&lt;br /&gt;
* [[ニカラグア運河]]&lt;br /&gt;
* [[ハングル]]&lt;br /&gt;
* [[日本の海洋国家論]]&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
{{col-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 親交が深かった人物・同門の人物 ===&lt;br /&gt;
* [[高畠五郎]]&lt;br /&gt;
* [[肥田浜五郎]]&lt;br /&gt;
* [[芳蓮院]]&lt;br /&gt;
* [[木村芥舟]]&lt;br /&gt;
* [[中島三郎助]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリッヒ・フォン・シーボルト]]&lt;br /&gt;
* [[楠本イネ]]&lt;br /&gt;
* [[大村益次郎]]&lt;br /&gt;
* [[大鳥圭介]]&lt;br /&gt;
* [[九鬼隆義]]&lt;br /&gt;
* [[川本幸民]]&lt;br /&gt;
* [[尺振八]]&lt;br /&gt;
* [[森村市左衛門]]&lt;br /&gt;
* [[長与専斎]]&lt;br /&gt;
* [[後藤象二郎]]&lt;br /&gt;
* [[北里柴三郎]]&lt;br /&gt;
* [[森山栄之助]]&lt;br /&gt;
* [[栗本鋤雲]]&lt;br /&gt;
* [[桂川甫周]]&lt;br /&gt;
* [[箕作秋坪]]&lt;br /&gt;
* [[大槻磐渓]]&lt;br /&gt;
* [[林金兵衛]]&lt;br /&gt;
* [[宇都宮三郎]]&lt;br /&gt;
* [[高島嘉右衛門]]&lt;br /&gt;
* [[渡辺重石丸]]&lt;br /&gt;
* [[山口良蔵]]&lt;br /&gt;
* [[デュアン・シモンズ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 影響を受けた人物 ===&lt;br /&gt;
* [[荻生徂徠]]&lt;br /&gt;
* [[佐倉惣五郎]]&lt;br /&gt;
* [[中村栗園]]&lt;br /&gt;
* [[白石照山]]&lt;br /&gt;
* [[帆足万里]]&lt;br /&gt;
* [[緒方洪庵]]&lt;br /&gt;
* [[江川英龍]]&lt;br /&gt;
* [[新井白石]]&lt;br /&gt;
* [[石川桜所]]&lt;br /&gt;
* [[西郷隆盛]]&lt;br /&gt;
* [[アレクシス・ド・トクヴィル]]&lt;br /&gt;
* [[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]&lt;br /&gt;
* [[ジョン・スチュアート・ミル]]&lt;br /&gt;
* [[ウォルター・バジョット]]&lt;br /&gt;
* [[ヘンリー・バックル]]&lt;br /&gt;
* [[ウィリアム・ブラックストン]]&lt;br /&gt;
* [[ハーバート・スペンサー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 影響を与えた人物 ===&lt;br /&gt;
;明治以後、福澤の思想に影響を受けた、または論評の手法を真似た人物（慶應義塾関係者を除く）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766416541/ 明治人の観た福澤諭吉]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[梁啓超]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000294691 福沢諭吉と中国啓蒙思想 : 梁啓超との思想的関連を中心に]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[南方熊楠]]&lt;br /&gt;
* [[陸羯南]]&lt;br /&gt;
* [[徳富蘇峰]]（猪一郎）&lt;br /&gt;
* [[中江篤介]]（兆民）&lt;br /&gt;
* [[福地桜痴]]（源一郎）&lt;br /&gt;
* [[田口卯吉]]（鼎軒）&lt;br /&gt;
* [[山路愛山]]&lt;br /&gt;
* [[幸徳秋水]]&lt;br /&gt;
* [[内村鑑三]]&lt;br /&gt;
* [[三宅雪嶺]]&lt;br /&gt;
* [[植村正久]]&lt;br /&gt;
* [[朝比奈知泉]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連人物脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.city-nakatsu.jp/docs/2011083001134/ 独立自尊の人「福澤諭吉」 | 中津市]&lt;br /&gt;
* [http://www.keio.ac.jp/ja/contents/fukuzawa_history/index.html 慶應義塾：福澤諭吉年譜]&lt;br /&gt;
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* [http://www.fukuzawa2009.jp 未来をひらく福澤諭吉展（福沢諭吉展） −慶應義塾創立150年記念−]&lt;br /&gt;
* [http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h17/ 「大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説一覧及び起筆者推定」]&lt;br /&gt;
* [http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h22/ 「福沢諭吉演説一覧」]&lt;br /&gt;
* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person296.html 福沢 諭吉：作家別作品リスト]（[[青空文庫]]）&lt;br /&gt;
* デジタルで読む福澤諭吉：[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_tbl.php eBOOK版]・[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_search.php テキスト版]（[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/ 慶應義塾図書館]）&lt;br /&gt;
* [http://www.mint.go.jp/coin/coin_topics/20101022.html 肖像メダル「福澤諭吉」] [[造幣局 (日本)|造幣局]]&lt;br /&gt;
* [http://www.city-nakatsu.jp/modules/honyaba/index.php?id=10 青の洞門と福澤諭吉] [[中津市]]&lt;br /&gt;
* [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/185.html 福沢諭吉] | [http://www.ndl.go.jp/portrait/index.html 近代日本人の肖像]（[[国立国会図書館]]）&lt;br /&gt;
* [http://kindai.ndl.go.jp/BIBibList.php?tpl_wid=WBPL110&amp;amp;tpl_wish_page_no=1&amp;amp;tpl_select_row_no=&amp;amp;tpl_hit_num=14&amp;amp;tpl_bef_keyword=&amp;amp;tpl_action=&amp;amp;tpl_search_kind=1&amp;amp;tpl_keyword=&amp;amp;tpl_s_title=&amp;amp;tpl_s_title_mode=BI&amp;amp;tpl_s_title_oper=AND&amp;amp;tpl_s_author=%e7%a6%8f%e6%b2%a2%e8%ab%ad%e5%90%89&amp;amp;tpl_s_author_mode=BI&amp;amp;tpl_s_author_oper=AND&amp;amp;tpl_s_published_place=&amp;amp;tpl_s_published_place_mode=ZI&amp;amp;tpl_s_published_place_oper=AND&amp;amp;tpl_s_publisher=&amp;amp;tpl_s_publisher_mode=ZI&amp;amp;tpl_s_publisher_oper=AND&amp;amp;tpl_s_nengou=AD&amp;amp;tpl_s_published_year_from=&amp;amp;tpl_s_published_year_to=&amp;amp;tpl_s_ndc=&amp;amp;tpl_s_ndc_mode=ZI&amp;amp;tpl_s_heading=&amp;amp;tpl_s_heading_mode=ZI&amp;amp;tpl_s_heading_oper=AND&amp;amp;tpl_s_jp_num=&amp;amp;tpl_s_toc=&amp;amp;tpl_s_toc_oper=AND&amp;amp;tpl_item_oper=AND&amp;amp;tpl_sort_key=PUB_YEAR&amp;amp;tpl_sort_order=ASC&amp;amp;tpl_list_num=200&amp;amp;tpl_end_of_data= 著者＝“福沢諭吉”で検索]（[[近代デジタルライブラリー]]）&lt;br /&gt;
** {{近代デジタルライブラリー書誌情報|41017575|福沢全集/福沢諭吉著、時事新報社、明31}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{東京学士会院会長}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふくさわ ゆきち}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで保護された記事]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:摂津国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末中津藩の人物]]&lt;br /&gt;
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[[Category:万延元年遣米使節の人物]]&lt;br /&gt;
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[[Category:19世紀の学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の文人]]&lt;br /&gt;
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[[Category:自然保護活動家]]&lt;br /&gt;
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[[Category:居合]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の啓蒙思想家]]&lt;br /&gt;
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[[Category:日本の貿易立国論者]]&lt;br /&gt;
[[Category:明六社の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京学士会院の人物]]&lt;br /&gt;
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[[Category:興亜会の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学の教員|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:時事新報の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:福澤諭吉|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の紙幣の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1835年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1901年没]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E8%88%B9%E5%BE%B3&amp;diff=150651</id>
		<title>利用者:船徳</title>
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				<updated>2012-02-03T08:51:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: ページの作成：「ネット界のはぐれ者。」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;ネット界のはぐれ者。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

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		<title>福沢諭吉</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: 福澤諭吉へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[福澤諭吉]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89&amp;diff=150649</id>
		<title>福澤諭吉</title>
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				<updated>2012-02-03T08:49:17Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: 記事保存&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox Scientist&lt;br /&gt;
| name = 福澤諭吉&lt;br /&gt;
| image = Yukichi Fukuzawa Berlin2.jpg&lt;br /&gt;
| image_size = 200px&lt;br /&gt;
| caption = （[[文久]]2年([[1862年]])[[江戸幕府]]使節として欧州歴訪の際[[ベルリン]]にて）&lt;br /&gt;
| birth_date = [[1835年]][[1月10日]]&lt;br /&gt;
| birth_place = [[摂津国]][[大阪市|大坂]][[堂島浜]]&lt;br /&gt;
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1835|01|10|1901|02|03}}&lt;br /&gt;
| death_place = [[東京府]][[三田 (東京都港区)|三田]]&lt;br /&gt;
| residence = &lt;br /&gt;
| nationality = {{JPN}}&lt;br /&gt;
| field = &lt;br /&gt;
| work_institution = [[中津藩]]・[[晩香堂]]・[[光永寺]]・[[適塾]]・[[江戸幕府]]外国方翻訳局・[[外国奉行]]・[[慶應義塾]]・[[明六社]]・[[興亜会]]・[[東京学士会院]]・[[時事新報]]&lt;br /&gt;
| alma_mater = &lt;br /&gt;
| doctoral_advisor = &lt;br /&gt;
| doctoral_students =&lt;br /&gt;
| notable_students = &lt;br /&gt;
| known_for = &lt;br /&gt;
| prizes = &lt;br /&gt;
| religion =&lt;br /&gt;
| footnotes ='''廟'''：麻布山[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[File:福澤諭吉像2.jpg|250px|right|thumb|福澤先生像 (三田)]]&lt;br /&gt;
[[File:福澤諭吉先生像慶応日吉.jpg|250px|right|thumb|福澤先生像 (日吉)]]&lt;br /&gt;
'''福澤 諭吉'''（ふくざわ ゆきち、[[天保]]5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]（[[1835年]][[1月10日]]）- [[1901年]]（[[明治]]34年）[[2月3日]]）は、[[日本]]の[[武士]]（[[中津藩]]士のち[[旗本]]）、[[19世紀]]後期の学者、[[蘭学者]]、[[著述家]]、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]、教育者、新聞『[[時事新報]]』の創刊・発行者。[[慶應義塾]]の創設者であり、[[専修学校 (旧制)|専修学校]]（後の[[専修大学]]）、[[商法講習所]]（後の[[一橋大学]]）、[[伝染病研究所]]、[[土筆ヶ岡養生園]]の創設にも尽力した。他に[[東京学士会院]]（現在の[[日本学士院]]）初代会長を務めた。[[雅号]]は、'''三十一谷人'''（さんじゅういっこくじん）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=114&amp;amp;PAGE=20&amp;amp;KEY= 余が印章に三十一谷人の五字を刻]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代では「福沢諭吉」と記載される事が一般的である&amp;lt;ref&amp;gt;学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書など。一方、[[慶應義塾大学]]をはじめとする[[学校法人慶應義塾]]の公式ホームページでは「福澤諭吉」と表記されている。例えば、[http://www.keio.ac.jp/ja/about_keio/history/index.html 理念と歴史]を参照。なお、学術書でも「福澤諭吉」の表記を用いるものも近年、出現している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。[[諱]]は範（はん）。[[字]]は子囲（しい）。関防印は「'''無我他彼此'''（がたぴしなし）」、[[揮毫]]の落款印は「'''明治卅弐季後之福翁'''」。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、[[明治維新]]以後は「ふくざわ」と発音するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=北康利|authorlink=北康利|year=2007|month=3|title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-213884-0}}（21頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hotarumachi-Nakatsuhan-Monument.jpg|thumb|200px|生誕の地と中津藩蔵屋敷跡の記念碑（大阪府大阪市）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出生から中津帰藩、長崎遊学 ===&lt;br /&gt;
[[天保]]5年12月12日（[[1835年]][[1月10日]]）、[[大坂]][[堂島浜]]（現・[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]1丁目、通称[[ほたるまち]]）にあった[[豊前国]][[中津藩]]の[[蔵屋敷]]&amp;lt;ref&amp;gt;この場所には、のち大阪医科大学附属医院（のち大阪帝国大学医学部附属医院を経て[[大阪大学医学部附属病院]]）が設置され、現在は[[朝日放送]]の新社屋（[[2008年]][[5月]]稼働開始）が建つ。&amp;lt;/ref&amp;gt;で下級藩士福澤百助・於順の次男（末っ子）として生まれる。諭吉という名の由来は、[[儒学]]者でもあった父が『[[上諭条例]]』（[[清]]の[[乾隆帝]]治世下の法令を記録した書）を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父は、[[鴻池家|鴻池]]や[[加島屋]]などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあり、藩儒・[[野本雪巌]]や[[帆足万里]]に学び、[[菅茶山]]・[[伊藤東涯]]などの[[儒教]]に通じた学者でもあった&amp;lt;ref&amp;gt;百助が所持していた[[伊藤東涯]]の『易経集注』という書は福澤家に残され、現在は慶應義塾大学に寄託されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
百助の後輩には江州[[水口藩]]・藩儒の[[中村栗園]]がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。[[中小姓格]]（[[厩方]]）の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵（かたき）で御座る」（『[[福翁自伝]]』）とすら述べており、自身も[[封建制|封建制度]]には疑問を感じていた。世間の仕来りや信仰・迷信にも無頓着で、「子供ながらも精神はまことにカラリとしたものでした。」（『福翁自伝』）と述べる。兄・三之助は父に似た純粋な[[漢学者]]で、「死に至るまで[[孝悌忠信]]」の一言であったという。なお、母兄姉と一緒に暮してはいたが、幼時から叔父[[中村術平]]の養子になり中村姓を名乗っていた。後、福澤の実家に復する。体格が良く、当時の日本人としてはかなり大柄な人物となる&amp;lt;ref&amp;gt;明治14年（[[1881年]）7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ。[[明治生命]]による。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保6年（[[1836年]]）、1歳6か月のとき父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、豊前国中津（現・[[大分県]][[中津市]]）で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、[[孝悌忠信]]や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。[[お札]]を踏んでみたり、[[神社]]で悪戯をしてみたりと、悪童まがいの溌剌とした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表変え、障子の貼り変えをこなすなど内職に長けた子供であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5歳頃から藩士・[[服部五郎兵衛]]に[[漢学]]と[[一刀流]]の手解きを受けはじめる。初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読みあさり、[[漢籍]]を修める。8歳になると、兄・三之助も師事した[[野本真城]]、[[白石照山]]の塾（[[晩香堂]]）へ通い始める。『[[論語]]』『[[孟子]]』『[[詩経]]』『[[書経]]』はもちろん、『[[史記]]』『[[左伝]]』『[[老子]]』『[[荘子]]』に及び、特に『左伝』は得意で十五巻を十一度も読み返して面白いところは暗記したという。この頃には先輩を凌いで「'''[[漢学者]]の前座ぐらい'''（自伝）」は勤まるようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福澤の学問的・思想的源流に当たるのは、[[亀井南冥]]や[[荻生徂徠]]であり、諭吉の師・白石照山は[[陽明学]]や[[朱子学]]も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ci.nii.ac.jp/naid/120000800655/en 福沢諭吉と亀井学の思想:福沢における「縦に慣れたる資力」とは何か]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
したがって、福澤の学問の基本には[[儒学]]が根ざしており、その学統は白石照山・[[野本百厳]]・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた[[三浦梅園]]にまで遡ることが出来る。のちに[[蘭学]]の道を経て[[思想家]]となる過程の中にも、この学統が原点にある。傍ら[[立身新流]]の[[居合]]術を習得し、[[免許皆伝]]となる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://tatsumi-ryu.com/ 福澤先生と立身新流抜合]「三田評論」No.1123(2009年5月号),pp.5--7&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Koyeiji_Temple_Nagasaki.jpg|thumb|200px|長崎光永寺（大正）、手彩色絵葉書]]&lt;br /&gt;
[[黒船]]が来襲したことにより中津藩でも[[西洋砲術]]を学ぶ必要が起きたことで、[[安政]]元年（[[1854年]]）、19歳で[[長崎市|長崎]]へ遊学して蘭学を学ぶ。[[黒船来航]]により砲術の需要が高まり、[[オランダ]]流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないかと兄から誘われたのがきっかけであった。長崎市の[[光永寺]]に寄宿し、現在は石碑が残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[長崎奉行]]配下の役人で[[砲術家]]の[[山本物次郎]]宅に居候し、オランダ通詞（通訳などを仕事とする長崎の役人）のもとへ通ってオランダ語を学んだ。山本家には[[蛮社の獄]]の際に[[高島秋帆]]が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝礼金をもらっており、福澤は[[鉄砲]]の設計図を引くことさえできるようになった。同時期に長崎遊学していた[[薩摩藩]]の[[松崎鼎甫]]には[[アルファベット]]を教えてもらっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その時分の諸藩の西洋家、例えば[[宇和島藩]]（[[大村益次郎]]）、[[五島藩]]、[[佐賀藩]]（[[本島藤太夫]]）、[[水戸藩]]（[[菊池富太郎]]）などの人々が来て、出島のオランダ屋敷に行ってみたいとか、大砲を鋳るから図をみせてくれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな福澤の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、福澤はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。山本自身は蘭書が読めなかったため、実際に蘭学を習ったのは[[楢林健吉]]（[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]の弟子の[[楢林栄建]]の子孫）という通詞の家であった。その傍ら[[石川桜所]]の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 適塾時代（大坂） ===&lt;br /&gt;
安政2年（[[1855年]]）、その山本家を紹介した[[奥平壱岐]]や、その実家である[[奥平氏|奥平家]]（中津藩[[家老]]の家柄）と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし福澤本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から江戸へは行くなと引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた[[足守藩]]下士で[[蘭学者]]の[[緒方洪庵]]の[[適塾]]（適々斎塾）で学ぶこととなった。ところが[[腸チフス]]を患い、緒方から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」（自伝）と告げられ、緒方の朋友、[[内藤数馬]]から処置を施され、体力が回復し一時中津へ帰国する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政3年（[[1856年]]）、再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の[[家督]]を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書（C.M.H.Pel,''Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst'',Hertogenbosch 1852年）を翻訳するという名目で適塾の食客（住み込み学生）として学ぶこととなる。この時、丹後[[宮津藩]]士・[[高橋順益]]から[[酒]]と[[煙草]]を勧められ、これを覚えた。先輩の一人、村田蔵六（大村益次郎）は人一倍暗い性格で、殴り合いになっても怒らず、抓る程度だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政4年（[[1857年]]）には最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に[[長与専斎]]を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って[[化学]]実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため[[瀉血]]や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、福澤は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また[[工芸技術]]にも熱心になり、化学の道具を使って[[硫酸]]を製造し、頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、筑前の国主[[黒田長溥]]が金80両を投じて購入したワンダーベルツと題する物理書を写本して、[[元素]]を配列してそこに積極消極（プラスマイナス）の順を定めることやファラデーの電気説（[[ファラデーの法則]]）を始めて知ることになる。こういった[[電気]]の新説などを知り、[[発電]]を試みたりもしたようである。他にも[[昆布]]や[[荒布]]からのヨジュウムの製造、[[淀川]]に浮かべた小舟の上での[[アンモニア]]製造などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
適塾時代のエピソードには「[[熊]]の[[解剖]]」、「[[豚]]の頭を貰ってきて、解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食った話」などが自伝で語られており、他にも[[大坂]]の[[町人]]と[[江戸]]の[[町人]]の対比&amp;lt;ref&amp;gt;大阪の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出て来ない。夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂りとなる。&amp;lt;/ref&amp;gt;や「[[鯛]]の味噌漬と欺して[[河豚]]を食わせる」、「[[禁酒]]から[[煙草]]」、など自伝には福澤の人物像を表すエピソードが多数記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の時から酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、「書生の生活酒の悪弊」「血に交わりて赤くならず」「書生を懲らしめる」（自伝）には、恐ろしく飲んで緒方夫妻を驚かせる、[[囲碁]]の話、茶屋の話などが記されている。塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独り飲むということであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江戸に出る ===&lt;br /&gt;
安政5年（[[1858年]]）、中津藩から江戸出府を命じられる（差出人は江戸居留守役の[[岡見清熙]]）。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾&amp;lt;ref&amp;gt;それまで、中津藩邸に近い[[木挽町]]にあった[[佐久間象山]]の塾には多くの中津藩士が通っており、象山は中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し[[上総国]]の[[姉ヶ崎]]で試射したりしている。象山に学んだ岡見彦三清熙は江戸藩邸内に蘭学塾を設けていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;の講師となるために吉川正雄（当時の名は岡本周吉、後に[[古川節蔵]]）、[[原田磊蔵]]を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく[[足立寛]]、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた[[佐倉藩]]の[[沼崎巳之介]]、[[沼崎済介]]が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」が後の[[学校法人慶應義塾]]の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元来、この蘭学塾は[[佐久間象山]]の塾（[[象山書院]]）から受けた影響が大きく、[[マシュー・ペリー]]の渡来に先んじて[[嘉永]]3年（1850年）ごろから既に藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5～6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、[[島津文三郎]]のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は[[杉亨二]]（杉はのちに勝海舟にも通じて[[氷解塾]]の塾頭も務める）、薩摩藩士の[[松木弘安]]を招聘していた。諭吉が蘭学塾の講師に就任してからは、[[藤本元岱]]・[[神尾格]]・[[藤野貞司]]・[[前野良伯]]らが適塾から移ってきた他、諭吉の前の適塾塾頭・[[松下元芳]]が入門するなどしている。岡見清熙は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、福澤は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持（地方勤務手当）として6人扶持が別途支給されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[島村鼎甫]]を尋ねたのち、中津屋敷からは、当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた[[桂川家]]が500m以内の場所であったため、[[桂川甫周]]・[[神田孝平]]・[[箕作秋坪]]・[[柳川春三]]・[[大槻磐渓]]・[[宇都宮三郎]]、村田蔵六らと共に出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の[[高橋順益]]が近くに住みたいと言って、浜御殿（現在の[[浜離宮]]）の西に位置する源助町に転居してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政6年（[[1859年]]）、[[日米修好通商条約]]により[[外国人居留地]]となった[[横浜市|横浜]]の見物に出かける。しかしそこでは専ら[[英語]]が用いられており、自身が学んできた[[オランダ語]]が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などをたよりにほぼ独学で英語の勉強を始める。世界の覇権は[[大英帝国]]が握っており、すでにオランダに昔日の面影が無いことは当時の[[蘭学者]]の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語や[[ドイツ語]]を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが[[鎖国]]の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
横浜を見物して以来、オランダ語が通じないと分かった諭吉は、幕府通辞の[[森山栄之助]]を訪問して英学を学んだ後、[[蕃書調所]]へ入所したが英蘭辞書が持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが村田は[[ジェームス・カーティス・ヘボン]]に手ほどきを受けようとしていた。ようやく蕃書調所の[[原田敬策]]と一緒に英書を読もうということになり蘭学だけではなく英学も習得していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 渡米 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:KanrinMaru.jpg|thumb|right|300px|[[咸臨丸]]難航の図（[[鈴藤勇次郎]]画）]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Fukuzawa Yukichi with the girl of the photo studio.jpg|thumb|200px|福澤諭吉とアメリカの少女テオドーラ・アリス。1860年、サンフランシスコにて。（慶應義塾福澤研究センター所蔵）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政6年（[[1859年]]）の冬、日米修好通商条約の批准交換のために[[万延元年遣米使節|使節団]]が米軍艦[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]] で渡米することとなり、その護衛として[[咸臨丸]]を[[アメリカ合衆国]]に派遣することが[[岩瀬忠震]]の建言で決定した。[[万延]]元年1月19日（1860年2月10日）、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行[[木村芥舟|木村摂津守]]の従者として、アメリカへ発つ。翻訳途中だった『[[万国政表]]』（統計表）は留守中に門下生が完成させている。5月5日帰国。なお咸臨丸の指揮官は[[勝海舟]]であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に福澤は、[[蒸気船]]を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて[[太平洋]]を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂 『新訂　福翁自伝』、[[岩波書店]]〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「日本国人の大胆」（111頁）を参照。[[近代デジタルライブラリー]]収録『[[福翁自伝]]』の「[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018839&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=97&amp;amp;ITYPE=0 始めて亜米利加に渡る]」の章を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=198 福翁自傳 - 198 ページ]を参照。&amp;lt;blockquote&amp;gt;併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお当時、福澤と勝はあまり仲が良くなかった様子で、晩年までぎこちない関係が続いた&amp;lt;ref&amp;gt;『[[福翁自伝]]』に航海中の勝の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂　『新訂　福翁自伝』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」（112頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=200 福翁自傳 - 200 ページ]を参照。&amp;lt;blockquote&amp;gt;勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
一方、木村摂津守とは明治維新によって木村が役職を退いた後は、晩年に至るまで親密な交際を続けており、帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方（現在の[[外務省]]）に出仕することになった。その他、[[戊辰戦争]]後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行が日本を離れているうちに、日本では幕府の開国政策に反対する志士たちの[[攘夷論]]がますます高まっていた。その状況を察していた諭吉は、日本への上陸第一歩の海辺で出迎えに来た木村摂津守の家来に、「何か日本に変わったことは無いか」と尋ねた。その家来は顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことがあった」と言う。諭吉はそれを押し止めて「言うてくれるな、私が当てて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様（大老[[井伊直弼]]）の邸に暴れこんだというようなことではないか」（自伝）と、[[3月3日]]の[[桜田門外の変]]を正確に言い当て、家来を驚かせたことがある。もっとも、[[徳川斉昭]]の反目や[[安政の大獄]]による弾圧などで、このような事態は幕府の有識者の間では前もって分かっていたことだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては様々に衝撃を受けた。たとえば、日本では[[徳川家康]]など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が[[ジョージ・ワシントン]]の子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している（ちなみに、ワシントンに子孫はいない）。福澤は、通訳として随行していた中浜万次郎（[[ジョン万次郎]]）とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰国し、アメリカで購入してきた[[広東語]]・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語にカタカナで読みを付け、広東語の[[漢字]]の横には日本語の訳語を付記した『[http://opac.kufs.ac.jp/kufs/detail/0002_A/detail_0002_A-1.html 増訂華英通語]』を出版する。これは福澤が初めて出版した書物である。この書の中で福澤は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「[[ヴ]]」や「ワ」に濁点をつけた文字「[[ワ゛|ヷ]]」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。再び鉄砲洲で講義も行うが、その内容は従来のような[[オランダ語]]ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳をおこなった。これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強をおこなったりもした。この頃にはかなり英語も読めるようになっていたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 渡欧（幕臣時代） ===&lt;br /&gt;
[[File:First Japanese Embassy to Europe Fukuzawa.jpg|200px|thumb|文久2年（1862年）オランダにて。右から[[柴田貞太郎]]、[[福澤諭吉]]、[[太田源三郎]]、[[福田作太郎]]]]&lt;br /&gt;
[[File:FukuzawaYukichi.jpg|200px|thumb|文久2年（1862年）、パリの[[国立自然史博物館 (フランス)|国立自然史博物館]]にて撮影）東京大学史料編纂所蔵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文久元年（[[1861年]]）に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。その年の冬、[[竹内保徳|竹内下野守]]を正使とする[[文久遣欧使節]]を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日（1862年1月30日）、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には[[松木弘安]]・箕作秋坪がおり、行動を共にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行は[[香港]]、[[シンガポール]]、インド洋、紅海、スエズの地峡を汽車で越え、地中海を渡り[[マルセイユ]]に上陸。[[リヨン]]、[[パリ]]、[[ロンドン]]、[[ロッテルダム]]、[[デン・ハーグ|ハーグ]]、[[アムステルダム]]、[[ベルリン]]、ペテルブルク（[[サンクトペテルブルク]]）、[[リスボン]]などを見物し12月11日帰国した。ロンドンでは、ちょうど開かれていた[[万国博覧会]]を視察し、[[蒸気機関車]]・[[電気機器]]・[[タイプライター|植字機]]に触れる。[[樺太]]国境問題を討議するために訪れたサンクトペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。なお、オランダの[[ユトレヒト]]を訪問した際にドイツ系写真家によって撮影されたと見られる写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/190004/ 「福澤諭吉の新たな写真発見　オランダで」話題！‐話のタネニュース:イザ！]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この旅で福澤は幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰っている。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。たとえば[[病院]]や[[銀行]]、[[郵便法]]、[[徴兵令]]、[[選挙制度]]、[[議会制度]]などについてである。これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。また、[[香港]]で[[植民地主義]]・[[帝国主義]]を目の当たりにし、[[イギリス人]]が[[中国人]]を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。また、フランスの青年[[レオン・ド・ロニー]]と友好を結び、「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となり、外国の学会の正会員に最も早い時期で就任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰国後、『[[西洋事情]]』([[慶応]]2年[[1866年]]～）などの著書を通じて啓蒙活動を開始。幕府機構の改革を唱えた。また[[アメリカ独立宣言]]の全文を翻訳して『西洋事情』（初編 巻之二）中に「[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=56000690&amp;amp;VOL_NUM=00002&amp;amp;KOMA=6&amp;amp;ITYPE=0 千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文]」として掲載して日本に伝えた。『西洋事情』は「[[理化学]]、[[器械学]]」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵制の制度や設備について言及してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文久3年（[[1863年]]）7月、[[薩英戦争]]が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、[[外国奉行]]・[[松平康英|松平石見守]]の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
品川に到着した翌日の12月12日には品川御殿山に建設中の[[イギリス公使館]]に[[高杉晋作]]ら[[英国公使館焼き討ち事件|長州藩士による焼打事件]]が起こり、文久3年3月に入ると天皇の[[賀茂神社|賀茂両社]]への攘夷祈願、4月には[[石清水八幡宮]]への行幸をうけて、[[長州藩]]が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つようになった。同僚の[[手塚律蔵]]や[[東条礼蔵]]が切られそうになるという事件も起こり、この頃には既に江戸では「福澤」の名は洋学者の間では知れ渡っていたため、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・[[藤沢志摩守]]の家で会合した後に帰宅する途中、[[浪人]]と鉢合わせ、居合で切り抜けなければと考えながら、すれ違いざまに互いに駆け抜けたことがある。この文久2年頃～明治6年頃までが江戸が一番物騒な世の中であったと回想している。7月に[[禁門の変]]が起こると、長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった[[仙台藩]]の[[大童信太夫]]を通じて、文久3年秋頃に塾で諭吉に師事していた[[横尾東作]]を派遣して新聞『ジャパン＝ヘラルド』を翻訳して諸藩の援助をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元治元年（1864年）には、福澤は郷里である中津に赴き、[[小幡篤次郎]]や[[三輪光五郎]]ら6名を連れて来た。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用（[[幕臣]]）として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて、[[御目見]]以上となり、[[旗本]]となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[勝部真長]] [[PHP研究所]] ISBN 4569771882 『勝海舟』 (終章)P333&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ocw.dmc.keio.ac.jp/j/economics/02A-007_j/lecture_contents/theme031.html 福澤:元治元年/1846～外国奉行支配調訳次席翻訳御用]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶応元年（[[1865年]]）に始まる幕府の[[長州征伐]]の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『[[長州再征に関する建白書]]』では、[[大名同盟]]論の採用に反対し、[[徳川幕府]]の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。この見通しによって、維新後の新政権のために何の貢献もなしえないことが当然となり、この時期の徳川家への愛惜の情をうかがうことが出来る。[[長州征伐]]で幕府軍が長州藩に敗北したと聞き、イギリスの鉄砲を取り寄せて分解し、初の西洋兵学書の翻訳『[[雷銃操法]]』を訳し始める。続いて、[[戊辰戦争]]に際し[[仙台藩]]が福澤に翻訳せしめた『[[兵士懐中便覧]]』は[[奥羽越列藩同盟]]藩士の多くが読んだとされる。明治2年には、[[熊本藩]]の依頼で本格的な西洋戦術書『[[洋兵明鑑]]』を小幡篤次郎・[[小幡甚三郎]]と共訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明治維新 ===&lt;br /&gt;
[[File:Yukichi Fukuzawa Wayland 1868.jpg|200px|thumb|明治元年5月15日（1868年7月4日）、[[上野の戦い]]をよそに、[[中屋敷]]内で経済書の講義を続ける。（[[安田靫彦]]画）]]&lt;br /&gt;
慶応3年（[[1867年]]）には使節主席・[[小野友五郎]]と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米し、[[ニューヨーク]]、[[フィラデルフィア]]、[[ワシントンD.C.]]を訪れた。[[津田仙]]、[[尺振八]]が同乗していた。現地で小野と揉めたため帰国後はしばらく謹慎することとなったが、[[中島三郎助]]の働きかけですぐに解けた。[[紀州藩]]や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や[[物理書]]・[[地図帳]]を買い込み、帰国後、『[[西洋旅案内]]』を書き上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶応4年（[[1868年]]）には蘭学塾を'''慶應義塾'''と名付け、教育活動に専念する。[[三田藩]]・仙台藩・紀州藩・中津藩・[[越後長岡藩]]と懇意になり、藩士を大量に受け入れる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/bitstream/123456789/5839/4/HIT0600301.pdf 上田貞次郎の伝記]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
特に紀州藩とは懇意になり、慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた[[三島億二郎]]が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、[[笠原文平]]らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の[[高島嘉右衛門]]の[[藍謝塾]]とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と[[彰義隊]]の合戦が起こる中でもF・ウェイランド『経済学原論』（The Elements of Political Economy , 1866）の講義を続けた（なお[[経世済民|漢語]]に由来する「[[経済学]]」の語は福澤や[[神田孝平]]らにより[[:en:political economy|political economy]]もしくは[[:en:economics|economics]]の訳語として定着した）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外国奉行の[[川路聖謨]]は病床で『西洋事情』を読んで大きな衝撃を受けたといい、老中・[[稲葉正邦|稲葉美濃守]]から千俵取りの[[御使番]]として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。自身も徳川将軍家を中心とする封建政治の再編成と幕府の延命策（[[公武合体論]]）を考えていたようであるが、維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嫁・お錦の実家である[[土岐家]]と[[榎本武揚]]の母方の実家・[[林家]]が親戚であったことから、[[榎本武揚]]助命のため[[寺島宗則]]（以前の松木弘安）の紹介で官軍参謀長・[[黒田清隆]]と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも[[山縣有朋]]・[[松本良順]]等から出仕の勧めが来たがこれを断り、[[九鬼隆一]]や[[白根専一]]、[[濱尾新]]、[[渡辺洪基]]らを新政府の[[文部]][[官吏]]として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新銭座の土地を攻玉社の塾長・[[近藤真琴]]に300円で譲り渡し、[[三田]]に移動して『帳合之法（現在の[[簿記]]）』などの講義を始めた。また[[明六社]]に参加。当時の文部官吏には九鬼や[[田中不二麿]]・[[森有礼]]ら福沢派官吏が多かったため、明治6年（[[1873年]]）に慶應義塾と[[東京英語学校]]（かつての[[開成学校]]でのち[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|大学予備門]]さらに[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]に再編され、現・[[東京大学]][[教養学部]]）は、例外的に[[徴兵令]]免除の待遇を受けることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[廃藩置県]]を歓迎し、「政権」（軍事や外交）と「治権」（地方の治安維持や教育）の全てを政府が握るのでは無く「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『[[分権論]]』には、これを成立させた[[西郷隆盛]]への感謝と共に、[[地方分権]]が[[士族]]の不満を救うと論じ、続く『[[丁丑公論]]』では政府が掌を返して[[西南戦争]]で西郷を追い込むのはおかしいと主張した（『丁丑公論』は内容が過激だった為、発表は福沢諭吉没後となった。また、[[佐賀の乱]]で敗走した[[江藤新平]]の裁判が公正に行われなかったことに疑問を呈している）。『[[通俗民権論]]』『[[通俗国権論]]』『[[民間経済禄]]』なども官民調和の主張ないしは初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、[[自由主義]]を紹介する際には「'''自由在不自由中（自由は不自由の中にあり）'''」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年（1873年）[[9月4日]]の午後には[[岩倉使節団]]に随行していた[[長与専斎]]の紹介で[[木戸孝允]]と会談。木戸が[[文部卿]]だった期間は4か月に過ぎなかったが、「[[学制]]」を制定し、「文部省は[[竹橋]]にあり、文部卿は[[三田]]にあり」の声があるほど、明治初期までは福沢の思い描く国家の構想が反映されるかのように見えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 薩長藩閥との対立 ===&lt;br /&gt;
明治8年（[[1875年]]）、福澤は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて[[大久保利通]]と会談した。大久保は福澤のことを民権論者の首魁のように思っていたのでそれを否定し会談を終えた（「面白」（流石有名に恥じず。大久保の日記。）による。）が、大久保は出版検閲の権限を[[文部省]]から[[内務省]]に移管したことで、[[秋山恒太郎]]が官吏を移動するという災難に遭った。これを見た福澤は、『[[民間雑誌]]』に「内務卿の凶聞」という社説を大久保暗殺後に掲載。これが問題となり、編集長の[[加藤政之助]]が内務省警視局に呼び出され、『民間雑誌』は廃刊となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで目を付けたのが、[[薩長]][[藩閥]]では無い、[[大隈重信]]の存在だった。福澤は大隈を頼りに[[統計院]]（後の内閣統計局）を設立させる。統計院にはある秘密があり、設立直後から「'''憲法の調査立案'''」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに[[矢野文雄]]・[[犬養毅]]・[[尾崎行雄]]といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。明治7年（[[1874年]]）には[[板垣退助]]、[[後藤象二郎]]、[[江藤新平]]が野に下るや、高知の[[立志学舎]]に門下生を教師として派遣した他、後藤象二郎の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って[[郵便報知新聞]]に「[[国会論]]」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、[[岩崎弥太郎]]と面会し、岩崎が[[山師]]では無いと評価した福沢は、[[三菱商会]]にも[[荘田平五郎]]や[[豊川良平]]といった門下を投入した他、後藤の経営する[[高島炭鉱]]を岩崎に買い取らせた。他、[[愛国社]]から頼まれて『[[国会を開設するの允可を上願する書]]』の起草に助力。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入念に門下らと憲法を思案し、大隈重信が提出していた早期国会開設論の背後に福澤の影があると、放った[[密偵]]によって察知した[[伊藤博文]]は、対処をプロシア流憲法の草案者で、明治政府一番の能吏・[[井上毅]]に一任することになる。丁度、[[開拓使官有物払下げ事件|北海道開拓使官有物払い下げ問題]]で[[本山彦一]]、[[箕浦勝人]]、[[門田三郎兵衛]]らが『[[大阪新報]]』を通じて問題を糾弾。薩摩閥の怒りはピークに達し、[[岩倉具視]]・九鬼隆一らも加わって大隈一派を政府内から一掃するクーデター（[[明治十四年の政変]]）が起こる事となった。福澤は、この事件に際して2,500字に及ぶ、人生で最も長い手紙を伊藤と[[井上馨]]に送ったが、聞き入れては貰えず、さらに井上毅が『[[大日本帝国憲法]]』、『[[旧皇室典範|皇室典範]]』、『[[教育勅語]]』、『[[軍人勅諭]]』の起草全てに参加したため、福澤は明治政府とこれ以後一切の付き合いを辞めることとなった。その他にも、[[東京府会議員]]副議長の辞職、[[東京学士会院]]も小幡篤次郎・[[栗本鋤雲]]ら福沢派学者と共に脱会するに至った&amp;lt;ref&amp;gt;「教育勅語への道」 ISBN 4883030016&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政変の後の福澤への明治政府の仕打ちは厳しく、政府主導で設立する予定だった『[[時事新報]]』も自らの手で創刊することになったが、明治15年（[[1882年]]）3月1日に創刊されるや否や1,500部全てを売る結果となり、この後、時事新報は一定の成功を収めることとなった。結局、明治31年（[[1898年]]）5月16日に[[広尾]]の別邸で行われた[[鎌田栄吉]]塾長就任披露の園遊会で[[伊藤博文]]が出席するまで伊藤との関係は修復されなかった。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には「'''唯大に求る所は国権皇張の一点に在るのみ'''」が掲げられ、福澤諭吉は明治10年（1877年）前後から自由民権運動を批判し始め、「国権論」を強調し始めた。明治15年3月28日の『[[圧制も亦愉快なる哉]]』や『[[時事小言]]』でも国権皇張を目的とすることが説かれ、国家の独立と富国強兵、官民調和を積極的に主張した。この国権論に、福澤の師・白石照山は激励の手紙を送っている。やはり『時事新報』の論調は著しく「[[国民主義]]」（ナショナリズム）に傾いているものが多く、明治初年には自由主義を標榜としてきたかのように思われた福沢の論調は、欧米列強のアジア侵略が刻々と迫ってくる時局認識もあってか、「'''国権皇張'''」を特に強調し始め、自由主義の楽観的な見解を警戒し始めた。このいわば明治の新しいナショナリズムは、のちに[[陸羯南]]や[[徳富猪一郎]]らによって模倣されていくこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その典型例は明治7年12月の『[[明六雑誌]]』第26号で、「外国人の内地雑居許す可からざるの論」で、我が国民利益を守るために外国人の[[内地雑居]]を許してはならないと主張。外国人の内地旅行を認めるべきであるという[[西周]]および[[津田真道]]に反論。攘夷論（[[外国]]の力を取り入れ、日本が[[植民地]]になること防ぐという概念）を唱え、[[不平等条約]]の結果、我が国貿易がこうむる不利益を警戒していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝鮮独立運動支援 ===&lt;br /&gt;
福澤は、朝鮮人愛国者・[[金玉均]]との出会いをきっかけにして、朝鮮の独立運動にも加担することになる。当時の朝鮮は日本の[[明治維新]]前夜の状況と酷似しており、小規模な武力闘争も起きていた（[[江華島事件]]）。福澤が日本の文明開化の立役者であるということは朝鮮にも知れ渡っており、明治14年（1881年）3月6日、金玉均は福澤と面会を果たし、朝鮮独立への協力を依頼した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治15年（1882年）7月23日、[[壬午事変]]が勃発すると、福沢は[[横浜正金銀行]]から17万円の借款を得、賠償金の一部に充当することができた。また、井上馨から国王の委任状があれば、さらに300万円の借款を供与するという提案を貰う。この時、金を支援するべく[[牛場卓蔵]]と[[井上角五郎]]を派遣。『[[漢城旬報]]』という朝鮮最初の新聞を発行する。井上は諭吉の助言に従い、朝鮮式かな混じり文を考案するべく朝鮮の文法学者と共に[[李朝]]第四代の王・[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]によって公布された[[訓民正音]]の研究を開始。国王・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の内諾を取り、新字体で紙面を構成し始める。これが今日の朝鮮文体『[[ハングル]]』である。朝鮮では大正9年（[[1920年]]）頃から呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後藤象二郎も協力し、フランス公使に艦隊を借りて、[[自由党]]の荘士で民兵を組織し、朝鮮半島に送り込む計画を立て始めたが、伊藤博文によって却下される。明治17年（[[1884年]]）12月4日、[[甲申事変]]が起こるも失敗。この直後の明治18年（1885年）3月16日、福沢は『時事新報』に『[[脱亜論]]』を発表し、その5か月後には社説『[[朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す]]』を発表する。内容は、「人民の生命も財産も独立国民の誇りも守ってやれないような国は、むしろ滅びてしまった方が人民のためだ。」という強烈なものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、金玉均は福沢邸にしばらく潜伏していたが、清の最高実力者・[[李鴻章]]の引渡しに応じ、[[日本郵船]]の[[西京丸]]で上海へ向かわせたが、無残にも暗殺されることとなった。その後、明治政府は[[日清戦争]]への道を歩み、福沢も開戦はやむなしとして[[南方熊楠]]から頼まれて、共に軍資金を寄附した。なお、上海で暗殺された金の供養のために法名をつけることを[[真浄寺]]住職[[寺田福寿]]に依頼し、寺田はただちに福沢の要請に応え、「'''古筠院釈温香'''」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官[[山崎英夫]]や[[朴泳孝]]などを福沢邸に招いて営んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら一連のアジア解放運動は、[[アジア主義]]団体として知られる[[黒龍会]]が、昭和8年（1933年）から同11年（1936年）にかけて編纂・刊行した『東亜先覚志士記伝』にも取り上げられている。また、紀州出身の[[大陸浪人]]・[[岡本柳之助]]とは面識があり（書簡）、同じく紀州出身の[[鎌田栄吉]]に岡本の活動を援助するように伝えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 教育支援 ===&lt;br /&gt;
[[教育令]]が思った通りにならず、福沢考案の田中不二麿や[[土佐藩]]出身の[[中島信行]]（後の自由党副総裁）の建言が、[[佐野常民]]と[[元田永孚]]、更には薩長派[[文部卿]]に転じた九鬼隆一によって潰され、教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、[[東京大学]]に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに福澤は勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、勝からは「そんな教育機関はさっさと止めて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、[[島津家]]に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は[[大学南校]]や[[大学東校]]、[[東京師範学校]]の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治13年（[[1880年]]）、伊藤博文から、西郷隆盛や板垣退助等と同じく政府に反発する者・[[自由民権運動]]の火付け役として睨まれていた福澤の立場は益々厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、[[渡部久馬八]]・[[門野幾之進]]・[[浜野定四郎]]の3人に経営を任せることにした。この頃から[[平民]]の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、私立の総合大学が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を[[大阪商業講習所]]や[[商法講習所]]で活躍させる一方、[[専修学校 (旧制)|専修学校]]や[[東京専門学校]]、[[英吉利法律学校]]の設立を支援し、開校式にも出席した。しかし東京専門学校などはあからさまに大隈重信嫌いの山縣有朋など薩長参議が潰そうとしてきた為、設立は困難を極め、開校式に大隈が15年間出席せず、「学問の独立」という取って付けた宣言を[[小野梓]]が発表するに留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治25年（[[1892年]]）には、長与専斎の紹介で[[北里柴三郎]]を迎えて、[[伝染病研究所]]や[[土筆ヶ岡養生園]]を[[森村市左衛門]]と共に設立していく。丁度帝国大学の構想が持ち上がっている頃だったが、慶應義塾に大学部を設置し[[小泉信吉]]を招聘して、一貫教育の体制を確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩年・年譜 ===&lt;br /&gt;
[[File:福澤公園1-慶應三田.jpg|200px|thumb|福澤邸の跡地にある福澤公園&amp;lt;BR/&amp;gt;明治時代にはこの場所から東京湾が一望出来た。]]&lt;br /&gt;
[[File:福澤公園2.jpg|200px|right|thumb|福澤の邸宅が存在した台地&amp;lt;BR/&amp;gt;([[慶應義塾大学]]三田キャンパス内)]]&lt;br /&gt;
[[File:馬留石.jpg|200px|right|thumb|福澤が馬を繋いだと伝えられる馬留石]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年は旅行や著作に多くの時間を費やし、旅行に出かける時は常に[[居合刀]]を携帯して、健康のために振った。自叙伝『福翁自伝』を記し始め、『時事新報』掲載の社説には[[明治政府]]の[[国家社会主義]]的な[[西洋化]]・[[近代化]]への批判（『[[民情一新]]』や明治維新以降のエセ文明より旧幕府のほうが良かったのではないかと言い切る等）、[[キリスト教]]を始めとした[[宗教]]批評&amp;lt;ref&amp;gt;「宗教の中には色々な宗派があるが、その違いは普通の茶と紅茶の違いぐらいであって、どちらを飲んでも大した違いはない」（1897年（明治30年）9月4日付「時事新報」社説）&amp;lt;/ref&amp;gt;など多岐に及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親友の木村芥舟と交遊しながら要人との会談も積極的に行い、[[木村浩吉 (海軍軍人)|木村浩吉]]（芥舟の息子）の推薦で[[山本権兵衛]]・[[後藤新平]]等、見込みのある人物との交流を行っている。また、旧幕人懇親会で福沢と同じく明治政府に出仕していなかった友人の栗本鋤雲が勝海舟に向かって「腰抜けは下がれ！」と大渇し、また『[[瘠我慢の説]]』の草稿をいち早く栗本に見せたため、内容が外部に漏れてしまうこととなったが、明治34年（[[1901年]]）[[1月1日]]から時事新報に連載が開始された。晩年までに出版された著作は、現在の『[[学問]]』『[[科学]]』領域にある分野についてほとんどが言及されており、そのほとんどが日本で始めて著されているもので、出版されていない作品も多く、また当時の時勢・文化・歴史上の人物評等が得られる貴重な歴史資料ともなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1879年（明治12年）：[[東京学士会院]]（現・[[日本学士院]]）初代会長就任。[[東京府会]]副議長に選出されるが辞退。『[[民情一新]]』刊。&lt;br /&gt;
*1880年（明治13年）：専修学校（現・[[専修大学]]）の創設に協力し、京橋区の福澤の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。11月、慶應義塾が塾生の激減により財政難に陥ったため、福澤は廃塾を決意するが、広く寄付を求める「慶應義塾維持法案」を発表して、門下生たちが奔走した結果、危機を乗り切る&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/39.html 「應義塾豆百科」No.39　慶應義塾維持法案]、慶應義塾。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*1881年（明治14年）：[[1月23日]]、「慶應義塾仮憲法」を制定、引き続き福澤が社頭となる。8月、[[明治十四年の政変]]が起き、政府要人と絶交する。[[上野]] - [[青森]]間の[[日本鉄道会社]]設立に助力。&lt;br /&gt;
*1882年（明治15年）：日刊新聞『[[時事新報]]』を創刊し、不偏不党・国権皇張の理念のもと、世論を先導した。『[[帝室論]]』刊。&lt;br /&gt;
*1887年（明治20年）：[[伊藤博文]]首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。&lt;br /&gt;
*1889年（明治22年）：8月、「慶應義塾規約」を制定。&lt;br /&gt;
*1890年（明治23年）：1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。&lt;br /&gt;
*1892年（明治25年）：[[伝染病研究所]]の設立に尽力（[[北里柴三郎]]が初代所長となる）。&lt;br /&gt;
*1893年（明治26年）：[[土筆ヶ岡養生園]]開設&lt;br /&gt;
*1894年（明治27年）：郷里、[[中津市|中津]]の景勝・競秀峰を自然保護のため買い取る。&lt;br /&gt;
*1895年（明治28年） - 1897年（明治30年）：[[箱根]]、[[京都]]、[[大阪]]、[[広島]]、[[伊勢神宮]]、[[山陽]]方面へ旅行に出る。&lt;br /&gt;
*1898年（明治31年）：5月、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立、政治科を増設。[[9月26日]]、[[脳出血]]で倒れ、いったん回復。&lt;br /&gt;
*1900年（明治32年）：[[1月21日]]、[[勝海舟]]没。多年に亘る著訳教育の功労により、[[皇室]]から金5万円を下賜される。[[8月8日]]、再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復。『[[修身要領]]』完成。[[12月31日]]、翌年の幕明けにかけて[[慶應義塾]]生らと[[19世紀]]と[[20世紀]]の「[[学校法人慶應義塾#世紀送迎会|世紀送迎会]]」を開催。[[日本]]では[[元号]]と[[神武天皇即位紀元]]が主流で、[[西暦]]・[[世紀]]の概念が普及していないなかの新しい試みであった。&lt;br /&gt;
*1901年（明治34年）：[[1月25日]]、再び脳出血で倒れる。[[2月3日]]、再出血し、午後10時50分死去。葬儀の際、遺族は福澤の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である[[大隈重信]]が涙ながらにもってきた花を、福沢家は黙って受け取った。また、死によせて[[福地源一郎]]が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。[[爵位]]を断る。[[2月7日]]、[[衆議院]]において満場一致で哀悼を決議&amp;lt;ref&amp;gt;決議文の内容は次の通り。「衆議院ハ夙ニ開国ノ説ヲ唱ヘ力ヲ教育ニ致シタル福澤諭吉君ノ訃音ニ接シ茲ニ哀悼ノ意ヲ表ス」（[[片岡健吉]]ほか6名提出）。[[井上角五郎]]が提出者を代表して、説明のため登壇した。明治34年2月8日付「官報」号外、衆議院議事録（「第15回帝国議会・衆議院議事録・明治33.12.25 - 明治34.3.24」、国立公文書館（ref:A07050006700）。）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。2月8日、葬儀が執り行われる。生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/62.html 「慶應義塾豆百科」No.62　塾葬」]、慶應義塾&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓 ===&lt;br /&gt;
[[File:福澤諭吉終焉之地.jpg|250px|thumb|福澤諭吉終焉之地]]&lt;br /&gt;
福澤は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されている（旧居の基壇の一部が今も残る）。[[戒名]]は「'''大観院独立自尊居士'''」で、麻布山[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]にその墓がある。命日の2月3日は[[雪池忌]]（ゆきちき）と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和52年（[[1977年]]）、最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、遺体が[[ミイラ]]（[[死蝋]]）化して残っているのが発見された。外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま[[荼毘]]にふされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・思想 ==&lt;br /&gt;
[[File:天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず.jpg|250px|thumb|「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」&amp;lt;BR/&amp;gt;[[慶應義塾大学]][[慶應義塾の建造物#三田キャンパス|東館]]に刻まれている[[ラテン語]]で書かれた言葉]]&lt;br /&gt;
[[File:Tsukuniya.jpg|250px|thumb|福澤馴染みの酒屋｢[[津國屋]]｣&amp;lt;BR/&amp;gt;[[三田 (東京都港区)|三田]]に現存]]&lt;br /&gt;
* 『福翁自伝』には万延元年（[[1860年]]）5月から文久元年（[[1861年]]）12月までと、元治元年（[[1864年]]）10月から慶応3年（[[1867年]]）1月までの二つの重要な幕末の時期について、言及がない。どうやら元治年間以降については、[[徳川慶喜]]を頂点としつつ[[大鳥圭介]]・[[小栗忠順]]・[[太田黒伴雄]]らを与党とする実学派（[[公武合体]]派）の人々と連携して、長州の[[久坂玄瑞]]や[[高杉晋作]]を始め、[[尊王攘夷]]派に対抗する活動に従事していたと分析されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h78/ 『福澤諭吉』あとがき全文] [[平山洋]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この他にも、自伝には意図的に書かれていない活動が多く存在する。&lt;br /&gt;
* 同世代の思想家を挙げると、[[橋本左内]]とは同年代、[[坂本龍馬]]は一つ年下、高杉晋作は五つ年下、[[吉田松陰]]で四つ年上。これら[[幕末]]の人物と同世代であるというイメージが世間一般ではすらりと出にくいとされる&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（上）第一講&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 同時代の思想家で、最も共通しているといわれているのは[[横井小楠]]で、小楠が唱えた天意自然の理に従うという理神論「天の思想」と福沢の人生観が合致するとされている&amp;lt;ref&amp;gt;『横井小楠とその弟子たち』 評論社 ASIN B000J8E88I&amp;lt;/ref&amp;gt; 。&lt;br /&gt;
* 文久3年（1863年）春頃から『姓名録』（『慶應義塾入社帳』29冊現存）を付け始め、入塾者を記録し始めた。これ以前およびのちの数年の正確な入塾者については明らかになっていない。&lt;br /&gt;
* [[第二次長州征伐]]では、徹底的に[[長州藩]]を討つべしと幕府に建言し、「尊王攘夷などというものは長州のいい加減な口実で、世を乱すものにすぎない」と進言した&amp;lt;ref&amp;gt;『長州再征に関する建白書』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 福澤の著書には、しばしば儒学者の[[荻生徂徠]]が出てくるが、思想には影響を受けた大儒であってもやはり[[漢学者]]には心酔者が多いのでだめである。と論じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（上）第一講&amp;lt;/ref&amp;gt; &lt;br /&gt;
* 文明の本質を「'''人間交際'''」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた&amp;lt;ref&amp;gt;『民情一新』&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* [[孔子]]と[[孟子]]を「古来稀有の思想家」としたうえで、儒教的な「[[政教一致]]」の欠点を指摘した&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（中）第八講&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* 期待していた[[水戸藩]]が維新前に[[水戸学]]の[[立原翠軒]]派と[[藤田幽谷]]派の[[内ゲバ]]や[[天狗党の乱]]で分裂してしまったことを例に挙げ、学問や政治の宗教化を厳しく批判し、その他[[宗教]]的なものは一切認めないと論じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（上）第十一講&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* [[徳川家康]]を「'''奸計の甚しきものを云ふ可し'''」としてやや批判的に論じ、[[豊臣秀吉]]を非常に高く評価した&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（中）第十一講&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* 「'''古来唯一の忠臣義士'''」として[[佐倉惣五郎]]を挙げた&amp;lt;ref&amp;gt;『学問のすすめ』第七編&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 明治15年3月13日の時事新報にて『[[僧侶論]]』と題する社説を掲載。[[仏教]]界の保護を訴え、[[キリスト教]]排撃論を説いた（しかしのちに容認の態度も取った）。&lt;br /&gt;
* [[大久保利通]]から[[政体取調掛]]を命じられ、[[細川潤次郎]]が邸宅に赴いたとき「'''学者を誉めるなら 豆腐屋も誉めろ'''」といって明治政府の招聘を断った&amp;lt;ref&amp;gt;[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=349 福翁自傳-349 ページ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* 明治政府内では[[大鳥圭介]]と[[後藤象二郎]]びいきで、「相撲や役者のように政治家にも贔屓というものがありますが、私は後藤さんが大の贔屓なのです。」と語り、福沢邸から歩いて20分ほどの距離にあった後藤の屋敷（現在の[[高輪プリンスホテル]]周辺）には頻繁に行き来していた。大鳥に関しては適塾時代からの友人で、『[[痩我慢の説]]』でも大鳥は批判されていなかった。  &lt;br /&gt;
* 特に後藤象二郎との交遊は深く、明治30年（1897年）に後藤が亡くなると、時事新報に『後藤伯』と題する社説を掲載。「風雷一発、天地を振るい動かして、積り積もった諸悪をはらい除いて清めることは、非常大胆の豪傑でなければ出来ない。後藤伯のごときは、この一点において、満天下唯一の人物である。」と後藤の死を惜しんだ。&lt;br /&gt;
* [[立憲改進党]]が結党式を挙げる際に[[京橋]]の[[明治会堂]]を[[大隈重信]]に貸し出してやったことがある。このように、後輩思いで頼まれると中々断れないという[[お人好し]]な面が強かったようである&amp;lt;ref&amp;gt;[[会田倉吉]] 人物叢書 日本歴史学会編 第198項&amp;lt;/ref&amp;gt; &lt;br /&gt;
* 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は福沢の言と誤解されることが多いが、[[学問のすゝめ|学問のスゝメ]]冒頭には「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず'''と言えり'''」と書かれており、正しくは福沢の言ではない。出典元は諸説あるが、[[トーマス・ジェファーソン]]によって起草されたといわれるアメリカの独立宣言の一節を意訳したものというのが有力説である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/22.html 慶應義塾豆百科]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[緒方洪庵]]の他に自伝でも触れられている英雄の一人が[[江川英龍]]で、寒中袷一枚で過ごしているのを聞いて自分も真似たという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/egawa/egawa10.htm 江川太郎左衛門(１)]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『時事新報』は、1888（明治21）年3月23日、日本で初めて新聞紙上に[[天気予報]]を掲載した。晴れや雨を表すイラストは現在の天気予報で使用されているお天気マークの元祖である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html 日本で初めて新聞に 天気予報 を掲載]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『西洋旅案内』は外国為替や近代的な保険制度について書かれた日本最初の文献である。&lt;br /&gt;
* 明治3年（1870年）5月中旬、発疹チフスを患うと、元福井藩主・[[松平春嶽]]が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用。大学東校の宇都宮三郎のもとで、わが国で初めて機械によって氷を製造した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html 福澤先生の大病が絡んだ製氷器事始め]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『[[文明論之概略]]』は[[新井白石]]の『[[読史余論]]』から影響を受けており、維新の動乱の最中、程度の高い成人向けに「なかんずく儒教流の故老に訴えてその賛成をうる」ことを目的とし、故[[西郷隆盛|西郷南州]]なども通読したることになった&amp;lt;ref&amp;gt;小泉信三 『福沢諭吉』 岩波新書&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 福澤の代表的な[[言葉]]で[[戒名]]にも用いられた言葉が「'''[[独立自尊]]'''」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」（『[[修身要領]]』第二条）。&lt;br /&gt;
* 晩年の自伝である『[[福翁自伝]]』において、適塾の有様について「塾風は不規則と云（い）わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉（ろうぜき）、丸で物事に無頓着（むとんじやく）。その無頓着の極（きよく）は世間で云（い）うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止（と）めない。」と記している&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「不潔に頓着せず」（65頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=118 福翁自傳 - 118 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* ベストセラーになった『[[西洋事情]]』や『文明論之概略』などの著作を発表し、[[明治維新]]後の日本が[[中華思想]]、[[儒教]]精神から脱却して[[西洋文明]]をより積極的に受け入れる流れを作った（[[脱亜思想]]）。&lt;br /&gt;
* 『時事新報』に『兵論』という社説を寄稿し、官民調和の基で増税による軍備拡張論を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/15.html 時事新報史 第15回：朝鮮問題①　壬午事変の出兵論] 都倉武之 慶應義塾大学出版会&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵（かたき）」と激しく嫌悪した。その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として[[中華思想]]からなる[[冊封体制]]を維持していた[[清]]や[[李氏朝鮮]]の支配層にも向けられた。一方で、[[榎本武揚]]や[[勝海舟]]のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「[[オポチュニスト]]」と徹底的に批判する一面もある（『[[瘠我慢の説]]』）。&lt;br /&gt;
* 幼少期より[[酒]]を嗜み、[[月代]]を剃るのを嫌がるのを母親が酒を飲ますことを条件に我慢させたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「大阪修行」の章にある「書生の生活酒の悪癖」（57頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=103 福翁自傳 - 103 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。後年、禁酒する代わりに[[喫煙]]の習慣を持ったが、結局、両方とも嗜むことになってしまった&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「禁酒から烟草」（76-77頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=137 福翁自傳 - 137 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。三田の酒屋[[津國屋]]を贔屓との店とし、自ら赴き酒を購入することもあった。&lt;br /&gt;
* 適塾時代に覚えた[[煙草]]を晩年まで好み、太い[[キセル]]で煙草をふかしたことから、塾生からは「[[海賊]]の親分」との愛称を貰っていたようである&amp;lt;ref&amp;gt;北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』P156、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 宗教については淡白で、『[[福翁自伝]]』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有（ありがた）いだのということは一寸（ちよい）ともない。卜筮呪詛（うらないまじない）一切不信仰で、狐狸（きつねたぬき）が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂 『新訂　福翁自伝』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「幼少の時」の章にある「稲荷様の神体を見る」（23頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=44 福翁自傳 - 44 ページ ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。&lt;br /&gt;
* [[会計学]]の基礎となる[[複式簿記]]を日本に紹介した人物でもある。[[借方]][[貸方]]という語は福澤の訳によるもの。&lt;br /&gt;
* 日本に近代[[保険]]制度を紹介した。福澤は『[[西洋旅案内]]』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合（生命保険）、火災請合（火災保険）、海上請合（海上保険）の三種の災難請合について説いている。&lt;br /&gt;
* 昭和59年（[[1984年]]） - 平成16年（[[2004年]]）発行の[[日本銀行券]]D号1万円札、現行のE号1万円札の肖像にも使用されている。そのせいか、「ユキチ」が一万円札の代名詞として使われることもある。このことから派生して、一万円札の枚数を言う時に1人、2人などのように人数を数えるように言うことがあり、一万円札の代名詞でもある。&lt;br /&gt;
* 現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、[[昭和]]59年（[[1984年]]）[[11月1日]]の新紙幣発行に際して、最初の[[大蔵省]]理財局の案では、十万円札が[[聖徳太子]]、五万円札が[[野口英世]]、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった&amp;lt;ref&amp;gt;北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』（7-9頁）、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福澤諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記される&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アジア近隣諸国に対して ===&lt;br /&gt;
福澤は、アジアの「改革勢力」の支援を通じて近隣諸国の「[[近代化]]」に力を注いでいる。[[李氏朝鮮]]の[[金玉均]]などを支援しているし、漢文とハングルの混合文を発案するとともに、朝鮮で初めての[[ハングル]]交じりの[[新聞]]『[[漢城周報]]』へと発展する『[[漢城旬報]]』（漢字表記）の創刊にも私財を投じて関わっている。また朝鮮からの留学生も1881年（明治14年）6月から慶應義塾に受け入れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日清戦争に関して ===&lt;br /&gt;
[[日清戦争]]は、[[1894年]]（明治27年）7月から[[1895年]]（明治28年）4月にかけておこなわれた。福澤は『時事新報』1894年（明治27年）8月14日号に署名入りの「私金義捐に就いて」を掲載し、開戦となった以上、戦勝のために義捐金を寄せて欲しいと訴えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年の自伝『[[福翁自伝]]』の「老余の半生」では、&lt;br /&gt;
{{Quotation|顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有（ありがた）いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました。}}&lt;br /&gt;
と述べている。&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「老余の半生」の章にある「行路変化多し」（316頁）を参照。[[近代デジタルライブラリー]]収録の『[[福翁自伝]]』では[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018839&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=280&amp;amp;ITYPE=0 547] - [http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018839&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=281&amp;amp;ITYPE=0 548頁]を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=565 福翁自傳 - 565 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福澤の男女同等論 === &lt;br /&gt;
福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、「人倫の大本は夫婦なり」として[[一夫多妻制|一夫多妻]]や[[妾]]をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;[[青空文庫]]の『[http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card46890.html 中津留別の書]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、[[ハインリッヒ・フォン・シーボルト]]夫人に芸事の指導を頼んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治7年（1874年）に発足した慶應義塾幼稚舎が、明治10年（1877年）以降しばらくの間、男女を共に教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、福澤の男女同等論に近いものであったり彼もそれを支持したが、士族系の反対があったため父家長制のものに書き換えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 私生活 ===&lt;br /&gt;
文久元年（[[1861年]]）、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女錦と結婚し、四男五女の9人の子供をもうけた。松山棟庵によると、福澤は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという&amp;lt;ref&amp;gt;松山棟庵「故福澤翁」（慶應義塾学報 臨時増刊39号『福澤先生哀悼録』[[みすず書房]]、1987年3月、ISBN 4-622-02671-6、193-194頁）[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h30/02/#id_2_0_3 伝記作家石河幹明の策略―その2― 2.0.3項]参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
或時先生にお話すると「左樣か、性來の健康の外に別段人と異つた所もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前にも後にも、未だ嘗て一度も婦人に接した事がない、隨分方々を流浪して居るし、緒方塾に居た時は放蕩者等を、引ずつて來るために不潔な所に行つた事もあるが、金玉の身体をむざ／＼汚す様な機會をつくらぬのだ」と先生は嘘をつく方ではない、先生の御夫婦ほど純潔な結合が、今の世界に幾人あるだらう&lt;br /&gt;
&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 居合の達人 ===&lt;br /&gt;
福澤は、若年の頃より立見新流[[居合]]の修練を積み、成人の頃に[[免許皆伝]]を許された居合の達人であった。ただし、福澤は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、剣を持って戦った事はなく逃げている。無論、逃げる事は最も安全な護身術であるが、福澤自身、居合はあくまでも求道の手段であり殺人術でないと考えていたと思われ、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことが無かった勝海舟・[[山岡鉄舟]]の思想と似ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。医学者の[[土屋雅春]]は福澤の死因の一つに居合のやりすぎを挙げている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000348758 『医者のみた福澤諭吉』]&amp;lt;/ref&amp;gt;。晩年まで一日千本以上行っていた居合日記を付けており、これでは逆に健康を害すると分析されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治中期より武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「再度米国行」の章にある「刀剣を売り払う」（162頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=285 福翁自傳 - 285 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。はやりものに対して[[シニカル]]な一面もうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福澤と勝海舟 ===&lt;br /&gt;
福澤諭吉は、[[勝海舟]]の批判者であり続けた。[[戊辰戦争]]の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である[[咸臨丸]]の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件（[[清水次郎長]]が埋葬し男を上げた意味でも有名）で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の[[清見寺]]内に立てられるが、福澤は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が[[榎本武揚]]と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事（人の食（禄）を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味）」を見ると激怒したという&amp;lt;ref&amp;gt;次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲という[[アウトロー]]が尊ぶ精神構造と似ていたせいか福澤と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[瘠我慢の説]]』という公開書簡によって、海舟と[[榎本武揚]]（共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた）を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家の名誉回復と存続に大変な労力を裂いており、現在では大局として[[徳川家]]という狭い枠にとどまらず、日本の為に尽くしたと評価されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現に明治維新という急激な改革に諸藩の不平[[士族]]たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついに背くことがなかった。これは勝や[[大久保一翁]]、[[山岡鉄舟]]らの尽力によるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお福澤は勝に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある&amp;lt;ref&amp;gt;1878年（明治11年）4月11日の日記に記載。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
当時慶應義塾の経営は薩摩藩学生の退学等もあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた勝に援助を求めた。だが勝は福澤が政府から払い下げられた1万4千坪に及ぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていた為、土地を売却しても尚（慶應義塾の経営に）足りなかったら相談に乗ると答えたが、福澤は三田の土地を非常に気に入っていた為、遂に売却していない。瘠我慢の説発表はこの後のことである。また、『[[福翁自伝]]』で福澤は借金について以下のように語っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「一身一家経済の由来」の章にある「仮初にも愚痴を云わず」（270-271頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=482&amp;amp;KEY=%E6%B5%81%E5%84%80 福翁自傳 - 482 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗（かつ）て人に相談しようとも思わなければ、人に喙（くちばし）を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝海舟も福沢と同様に身なりにはあまり気を遣わない方であったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日、上野精養軒の明六社へ尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた勝が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか？日本が貧乏になってきたからシナに強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかましく言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福沢さん、儲けたらちっとあげます。」と言ってからかったという&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=北康利|authorlink=北康利|year=2007|month=3|title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-213884-0}}（226頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、勝は福澤のことを学者として一目置いており、自分が学んだ[[佐久間象山]]の息子の[[佐久間恪二郎]]や、[[徳川慶喜]]の十男で養子の、[[勝精]]を慶應義塾に入学させる等面倒見のよい一面もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝は晩年、福沢に自身の『[[海軍歴史]]』という書を贈っているが、内容は木村喜毅の功績を始めとする他人の功績を全て勝が横取りした内容となっており、これを見た福沢はますます勝と疎遠となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小泉信三はその著『福沢諭吉』の中で「咸臨丸がたまたま日本の近世史上に大きな役目を勤めた、勝海舟と福沢諭吉という両人物を同乗させたことは一つの奇縁」としながらも、明治以後疎遠となった2人は本来気質的に合わなかったと分析した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 西洋医学 ===&lt;br /&gt;
[[土屋雅春]]の『医者のみた福澤諭吉』（[[中央公論社]]、中公新書）や[[桜井邦朋]]の『福沢諭吉の「科學のススメ」』（[[祥伝社]]）によれば、福澤と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。&lt;br /&gt;
; 『蘭学事始』の出版 &lt;br /&gt;
: [[杉田玄白]]が記した『[[蘭学事始#経緯|蘭東事始]]』の写本を、福澤の友人[[神田孝平]]が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である[[杉田廉卿]]の許可を得て、福澤の序文を附して、[[明治]]2年（[[1869年]]）に『[[蘭学事始]]』として出版した。さらに、[[1890年]]（明治23年）[[4月1日]]には、再版を「蘭学事始再版序」を附して[[日本医学会]]総会の機会に出版している。&lt;br /&gt;
[[ファイル:The Institute of Medical Science Tokyo Japan Medical Science Museum 20070127 0076.jpg|250px|right|thumb|「[[伝染病研究所]]｣の外観を再現した「[[近代医科学記念館]]｣&amp;lt;BR/&amp;gt;([[東京大学医科学研究所]]内)]]&lt;br /&gt;
; 北里柴三郎への支援&lt;br /&gt;
: [[1892年]]（明治25年）にドイツ留学から帰国した[[北里柴三郎]]のために、東京柴山内に[[大日本私立衛生会]][[伝染病研究所]]（伝研）を設立して、北里を所長に迎えた。[[1894年]]（明治27年）には、伝研は芝愛宕町に移転した。移転の際に住民から反対運動が起こったので、福澤は次男[[福澤捨次郎|捨次郎]]の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。[[1899年]]（明治32年）に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、福澤と[[長与専斎]]と[[森村市左衛門]]とが創設した[[土筆ヶ岡養生園]]に移った。&lt;br /&gt;
; 慶應義塾医学所の創設&lt;br /&gt;
: 明治3年（[[1870年]]）、慶應義塾の塾生[[前田政四郎]]のために、福澤が英国式の医学所の開設を決定した。そして[[1873年]]（明治6年）、慶應義塾内に医学所を開設した。所長は慶應義塾出身の医師[[松山棟庵]]が就任した。また、[[杉田玄端]]を呼んで[[尊王舎]]を医学訓練の場所とした。なお、[[1880年]]（明治13年）6月、医学所は閉鎖されることになった。&lt;br /&gt;
: しかし、福澤の死後15年たった[[1916年]]（[[大正]]5年）[[12月27日]]、慶應義塾に医学部の創設が許可され、[[1917年]]（大正6年）3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 研究・評価史 ==&lt;br /&gt;
=== 日本における福沢研究をめぐる論争 ===&lt;br /&gt;
{{main|脱亜論|安川・平山論争}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「脱亜論」再発見から ====&lt;br /&gt;
[[太平洋戦争]]後、歴史学者[[服部之総]]や[[遠山茂樹]]らによって福沢の「脱亜論」が再発見され、福澤は[[アジア]]諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者であると批判された&amp;lt;ref&amp;gt;服部之総論文「東洋における日本の位置」、遠山茂樹論文「日清戦争と福沢諭吉」(1951)（遠山茂樹著作集第5巻所収、岩波書店,1992&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[丸山真男]]は[[服部之総]]の福沢解釈を「論敵」としていたといわれる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h07/#id_2_1 東谷暁インタビュー 平山洋]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年（平成13年）、[[朝日新聞]]に掲載された[[安川寿之輔]]の論説「福沢諭吉　アジア蔑視広めた思想家&amp;lt;ref&amp;gt;2001年（平成13年）4月21日付「[[朝日新聞]]」に掲載&amp;lt;/ref&amp;gt;」に、[[平山洋]]が反論「福沢諭吉　アジアを蔑視していたか」&amp;lt;ref&amp;gt;同年[[5月12日]]付同紙）&amp;lt;/ref&amp;gt;を掲載したことで、いわゆる「[[安川・平山論争]]」が始まった。&amp;lt;ref name=&amp;quot;hirayama_shinjitsu&amp;quot;&amp;gt;平山洋『福沢諭吉の真実』[[文藝春秋]]〈文春新書394〉、2004年、ISBN 4-16-660394-9&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 安川・平山論争 ====&lt;br /&gt;
平山は、[[井田進也]]の文献分析を基礎に&amp;lt;ref&amp;gt;「歴史とテクスト　西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年&amp;lt;/ref&amp;gt;、福沢のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で、『時事新報』の主筆を務め、『[[福澤全集]]』を編纂した[[石河幹明]]の作為にみる&amp;lt;ref&amp;gt;前掲書&amp;lt;/ref&amp;gt;。平山によれば、福澤は[[支那]]（[[中国]]）や[[朝鮮]][[政府]]を批判しても、[[民族]]そのものをおとしめたことはなかった。だが、たとえば[[清]]の兵士を[[ブタ|豚]]になぞらえた論説など、[[差別]]主義的内容のものは、石河の論説であり、全集編纂時に、福澤のものと偽って収録したのだという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながらこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を[[文献学]]（テキストクリティーク）的に確定しないことには決着がつかない&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h07/#id_2_1 東谷暁インタビュー 平山洋]また[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/9.html 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1)　〜論説執筆者認定論争〜]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[井田進也]]は無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「[[時事新報]]論説」執筆者再認定作業を開始している&amp;lt;ref&amp;gt;「歴史とテクスト　西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年&amp;lt;/ref&amp;gt;。今後の研究がまたれるところである&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/9.html 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1)　〜論説執筆者認定論争〜]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「時事新報」無署名論説 ====&lt;br /&gt;
[[平山洋]]は、井田の分析を基に、現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の「時事新報論集」はその大部分が無署名であることを指摘したうえで、大正時代の『福沢全集』（1925～26）と昭和時代の『続福沢全集』（1933～34）の編纂者であった弟子の[[石河幹明]]が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録している、とした。さらに現行版『全集』（1958～64）の第一六巻には福沢の没後数ヵ月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している&amp;lt;ref&amp;gt;平山洋、2004、『福沢諭吉の真実』、文藝春秋〈文春新書394〉&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気度 ===&lt;br /&gt;
2000年3月12日付で[[朝日新聞]]が企画した「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7863票のうち、第6位の豊臣秀吉（382票）に次ぐ第7位（330票）にランクインするなど、国民的な人気がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[朝日新聞]]2000年3月12日、1位・[[坂本龍馬]]、2位・[[徳川家康]]、3位・[[織田信長]]、4位・[[田中角栄]]、5位・[[吉田茂]]、6位・[[豊臣秀吉]]、7位・[[福澤諭吉]]、8位・[[西郷隆盛]]、9位・[[市川房枝]]、10位・[[伊藤博文]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アメリカ合衆国における評価 ===&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 台湾における評価 ===&lt;br /&gt;
元[[中華民国総統]][[李登輝]]は、講演『学問のすゝめと日本文化の特徴』で、福澤について、欧米を日本に紹介するだけではなく、[[学問のすゝめ]]を著わすことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/world/china/080923/chn0809232017002-n1.htm 李登輝元総統が「学問のすゝめと日本文化の特徴」をテーマに講演] 産経ニュース 2008.9.23&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 韓国における評価 ===&lt;br /&gt;
[[朝日新聞]]によれば、[[大韓民国]]において、脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは、[[1970年]]以降であり&amp;lt;ref&amp;gt;ソウル大国際問題研究所の姜相圭による&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[1980年代]]に日本で[[歴史教科書問題]]が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っているという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html  朝日新聞〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福澤が援助した[[李氏朝鮮]]の[[開化派]]は、その中心にいた[[朴泳孝]]が[[日本統治時代の朝鮮]]において[[爵位]]を得るなどの厚遇を得て、[[金玉均]]は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では[[親日派]]と見なされ、福澤への関心もほとんど無かったものと推測される。[[金玉均]]に対する評価は[[北朝鮮]]の方が高く&amp;lt;ref&amp;gt;[[1960年代]]にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。&amp;lt;/ref&amp;gt;、それを受けた形で、[[在日韓国・朝鮮人|在日]]歴史研究家の[[姜在彦]]が[[1974年]]（昭和49年）に「金玉均の日本亡命」を発表し&amp;lt;ref&amp;gt;『歴史と人物』誌上&amp;lt;/ref&amp;gt;、福澤に触れていて、「最近の研究で明らかにされてきているように、福沢の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、福沢を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は福沢に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている&amp;lt;ref&amp;gt;姜在彦『朝鮮の攘夷と開化　近代朝鮮にとっての日本』平凡社、1987年。ISBN 4-582-82251-7&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の韓国におけるごく一般的な福沢像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている&amp;lt;ref&amp;gt;その典型的な例を挙げれば、[[2001年]]の[[中央日報]]、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18616&amp;amp;servcode=100&amp;amp;sectcode=100 【噴水台】ユーロ貨の橋]の次のような文言：「日本の１万円札には19世紀末、'''韓国を征伐するよう主張した'''福沢諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」&amp;lt;/ref&amp;gt;。一般的に、韓国における福澤は、往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、福澤の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、[[神功皇后]]伝説や[[豊臣秀吉]]にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捕らえられている。[[1990年代]]あたりから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、[[1996年]]（平成8年）の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』&amp;lt;ref&amp;gt;韓桂玉『「征韓論」の系譜』三一書房、1996年。ISBN 4-380-96291-1&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[2006年]]の琴秉洞&amp;lt;ref&amp;gt;[[在日本朝鮮人総聯合会|総連]]系の学者で金玉均の研究家&amp;lt;/ref&amp;gt;『日本人の朝鮮観　その光と影』&amp;lt;ref&amp;gt;琴秉洞著『日本人の朝鮮観　その光と影』明石書店、2006年。ISBN 4-7503-2415-9&amp;lt;/ref&amp;gt;を挙げることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年代におけるこういった韓国の状況が、福澤に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、[[安川寿之輔]]が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。[[高嶋伸欣]]が[[1992年]]（平成4年）に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ、訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、福澤を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに福澤研究に取り組んだという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『福沢諭吉と朝鮮』の著者・杵淵信雄は、安川とはちがい、「脱亜論の宣言を注視するあまり、（福澤は）アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、福澤の侵略性を強調する立場ではないが、[[1997年]]（平成9年）の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ福沢の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している&amp;lt;ref&amp;gt;杵淵信雄『福沢諭吉と朝鮮　時事新報社説を中心に』彩流社、1997年。ISBN 4-88202-560-4&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、1990年代の韓国において、福澤研究に取り組む研究者が複数現れたことを、林宗元は述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10005325-20080000-0259 韓国における福沢諭吉: 一九九〇年代における福沢諭吉の研究状況を中心に　林, 宗元(Lim, Jong-won)韓国関東大学校教授　慶應義塾大学学術情報リポジトリ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。林宗元の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と福澤を比較するもの、福澤と朝鮮開化派との関係を追求するもの、福澤の反儒教論を批判分析するものなど、多岐にわたっていて、否定的なものばかりではないことが注目される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2000年代に入り、こういった学問的取り組みと平行して、近代化の旗手としての福澤への一定の理解が、新聞論調にも見えはじめる&amp;lt;ref&amp;gt;中央日報、[[2002年]]の[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=24262&amp;amp;servcode=100&amp;amp;sectcode=100 【噴水台】ブッシュと福沢]においては、「多様な翻訳・著述を通じて西洋学術・科学用語を日本語に移すことによって、日本はもちろん韓国・中国にまで大きな影響を及ぼした」という率直な評価が述べられている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[2004年]]（平成16年）前後に登場した[[ニューライト]]は、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、[[日本統治時代の朝鮮]]における近代化も認める立場をとっていて、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど、新しい風を巻き起こした。そんな中で同年、林宗元によって、[[福翁自伝]]が韓国語に訳され、出版されたことも、韓国における福澤像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙は軒並み好意的な書評をよせ、[[ハンギョレ]]は「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、韓国において福澤に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい&amp;lt;ref&amp;gt;[[朝日新聞]]、[http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html  〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2005年]]、[[ニューヨークタイムズ]]の東京支局長[[ノリミツ・オオニシ]]は「日本人の嫌韓感情の根底には福澤の脱亜論がある」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=950CE0D91E3EF93AA25752C1A9639C8B63 Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japan] &amp;lt;/ref&amp;gt;とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び、福澤を「アジアを見下して侵略を肯定した[[嫌韓]]の父であり[[右翼]]の元祖」と評してもいる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=119108&amp;amp;servcode=A00&amp;amp;sectcode=A00 【その時の今日】福沢諭吉…侵略戦争正当化した日本右翼の元祖] 中央日報 2009.08.12&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=69808&amp;amp;servcode=700&amp;amp;sectcode=700 「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」NYT紙] 中央日報 2005.11.20&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[筑波大学]]の稲葉継雄は、韓国で福澤の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hdl.handle.net/2241/13533 井上角五朗と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に]筑波大学 稲葉継雄&amp;lt;/ref&amp;gt;、韓国における福澤像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作等 ==&lt;br /&gt;
=== 主な著書 ===&lt;br /&gt;
{{col-begin}}&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* 『[[増訂華英通語]]』&lt;br /&gt;
* 『[[西洋事情]]』&lt;br /&gt;
* 『[[雷銃操法]]』&lt;br /&gt;
* 『[[西洋旅案内]]』&lt;br /&gt;
* 『[[条約十一国記]]』&lt;br /&gt;
* 『[[西洋衣食住]]』&lt;br /&gt;
* 『[[兵士懐中便覧]]』&lt;br /&gt;
* 『[[訓蒙窮理図解]]』&lt;br /&gt;
* 『[[洋兵明鑑]]』&lt;br /&gt;
* 『[[掌中万国一覧]]』&lt;br /&gt;
* 『[[英国議事院談]]』&lt;br /&gt;
* 『[[清英交際始末]]』&lt;br /&gt;
* 『[[世界国尽]]』&lt;br /&gt;
* 『[[啓蒙手習之文]]』&lt;br /&gt;
* 『[[学問のすゝめ]]』&lt;br /&gt;
* 『[[ひびのおしえ]]』&lt;br /&gt;
* 『[[童蒙教草]]』&lt;br /&gt;
* 『[[かたわ娘]]』&lt;br /&gt;
* 『[[改暦弁]]』&lt;br /&gt;
* 『[[帳合之法]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本地図草紙]]』&lt;br /&gt;
* 『[[文字之教]]』&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* 『[[会議弁]]』&lt;br /&gt;
* 『[[文明論之概略]]』&lt;br /&gt;
* 『[[学者安心論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[分権論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[民間経済録]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤文集]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通貨論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通俗民権論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通俗国権論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[民情一新]]』&lt;br /&gt;
* 『[[国会論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[時事小言]]』&lt;br /&gt;
* 『[[時事大勢論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[帝室論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[兵論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[徳育如何]]』&lt;br /&gt;
* 『[[学問之独立]]』&lt;br /&gt;
* 『[[全国徴兵論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通俗外交論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本婦人論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本婦人論後編]]』&lt;br /&gt;
* 『[[士人処世論]]』&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* 『[[品行論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[男女交際論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本男子論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[尊王論 (書名)|尊王論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[国会の前途]]』&lt;br /&gt;
* 『[[国会難局の由来]]』&lt;br /&gt;
* 『[[治安小言]]』&lt;br /&gt;
* 『[[地租論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[実業論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤全集緒言]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤全集]]』&lt;br /&gt;
* 『[[修業立志編]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福翁百話]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福翁百余話]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤先生浮世談]]』&lt;br /&gt;
* 『[[女大学評論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[新女大学]]』&lt;br /&gt;
* 『[[明治十年丁丑公論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[瘠我慢の説]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福翁自伝]]』&lt;br /&gt;
* 『[[旧藩情]]』&lt;br /&gt;
* 『[[唐人往来]]』&lt;br /&gt;
{{col-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著作集 ===&lt;br /&gt;
『[http://www.keio-up.co.jp/yukichi/ 福澤諭吉著作集] （全12巻）』が、2002～03年に[[慶應義塾大学出版会]]で刊行。&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408772 西洋事情]』※、ISBN 4-7664-0877-2&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408780 世界国尽　窮理図解]』、ISBN 4-7664-0878-0&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408799 学問のすゝめ]』※、ISBN 4-7664-0879-9&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408810 文明論之概略]』※、ISBN 4-7664-0880-2&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408810 学問之独立　慶應義塾之記]』、ISBN 4-7664-0881-0&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408829 民間経済録　実業論]』、ISBN 4-7664-0882-9&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408837 通俗民権論　通俗国権論]』、ISBN 4-7664-0883-7&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408845 時事小言　通俗外交論]』、ISBN 4-7664-0884-5&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408853 丁丑公論　瘠我慢の説]』、ISBN 4-7664-0885-3&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408861 日本婦人論　日本男子論]』、ISBN 4-7664-0886-1&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/476640887X 福翁百話]』※、ISBN 4-7664-0887-X&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408888 福翁自伝　福澤全集緒言]』※、ISBN 4-7664-0888-8&lt;br /&gt;
:※は、2009年にコンパクト版（選書版）が刊行&amp;lt;br&amp;gt;別巻に『福澤諭吉事典』　同編集委員会編／慶應義塾発行、2010年12月、 ISBN 4-7664-1800-X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著書翻訳 ===&lt;br /&gt;
* 『An Outline of a Theory of Civilization　（福澤諭吉、文明論之概略）』&lt;br /&gt;
: [[慶應義塾大学出版会]]、2008年11月。ISBN 4-7664-1560-4、『福翁自伝』も数か国語に訳された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
=== 系図 ===&lt;br /&gt;
; '''福澤家&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　中上川才蔵&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┣━━━━━━━━━━━中上川彦次郎━━藤原あき&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃緒方洪庵━━━━━━━緒方収二郎━━━淑子&lt;br /&gt;
　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　┏━美和&lt;br /&gt;
　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━━━┫&lt;br /&gt;
　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　┗━福澤範一郎&lt;br /&gt;
　┏婉　　　　　　　　　　　糸　　　　　┏━福澤八十吉&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　　　　　┣━━━━━╋━遊喜&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┏━━━━━福澤一太郎　┗━八重&lt;br /&gt;
　┗福澤諭吉　　┃　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━房　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━━福澤駒吉&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　福澤桃介&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　松方正義━━松方五郎━━━松方正信　　┏━松方正隆&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━┻━松方正範&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━里　　　　　　　　┏てる子　　　　　紀久子　　　┏━いく子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━中村愛作━━╋中村仙一郎　　　┣━━━━━╋━ともの&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　中村貞吉　　　　　┗武子　　　　┏━渡辺紀久男　┗━純子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━╋━渡辺晴男&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　渡辺良吉　　┗━岩崎正男&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━俊　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━━清岡暎一　　　　　　┣━━━━━━━雅美&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　清岡邦之介　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┏━━━寛子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━滝　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━━多代　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　志立鉄次郎　　　┃　　　　　┃　┏━木内宏&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━＝━┫&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃　┗━木内孝&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　木内重四郎　　┏木内信胤　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━┫　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┏━━━磯路　　　　　┗木内良胤━━＝━━━木内昭胤━━━━木内孝胤&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┣━━━━╋━＝━━━福澤三八　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　┣━━━━━━━浦子　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　清　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　福澤億之助　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━＝━━━福澤大四郎　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　┣━━━━━━━福澤進太郎　┃　┏━福澤幸雄&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　益子　　　　　　┣━━━━━＝━┫&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　アクリヴィ　┃　┗━エミ&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━＝━━━光　　　　　┏━潮田江次　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　┣━━━━━┫　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　潮田伝五郎　┗━潮田勢吉　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　錦　　　　┃　┃　┏━林雅之助━┳━━ラク　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　┃　┃　┃　　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　須賀川誠&lt;br /&gt;
　　林董━━━━＝━＝━┫　　　　　　┗━━岩崎忠雄　　┃　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　┃　┃　┃　　　　　　　　　┣━━━━━┻━━━和子&lt;br /&gt;
　┏岩崎弥之助━＝━＝━＝━岩崎俊弥━━━━淑子&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┃　┃　┃&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┃　┃　┗━菊　　　　　┏━福澤時太郎&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┃　┃　　　┣━━━━━┫&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┗━＝━━━福澤捨次郎　┗━福澤堅次　　┏━━━福澤雄吉&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　　　　┣━━━━━┫&lt;br /&gt;
　┗岩崎弥太郎━━━┻━━━岩崎久弥━━━━綾子　　　　┗━━━初子&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 親類縁者 ===&lt;br /&gt;
; '''子'''&lt;br /&gt;
* [[福澤一太郎]] - 長男、慶應義塾塾長。文久3年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]（[[1863年]][[11月22日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤捨次郎]] - 次男、時事新報社長。慶應元年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]（[[1865年]][[11月9日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤里]]（阿三（後に通称をお里））- 長女、[[中村貞吉]]に嫁す。慶應4年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]（[[1868年]][[4月23日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤房]]（阿房）- 次女、諭吉の婿養子・桃介の妻。明治3年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]（[[1870年]][[8月22日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤俊]]（阿俊）- 三女、[[清岡邦之介]]に嫁す。[[1873年]]（明治6年）[[8月4日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤滝]]（阿滝）- 四女、[[志立鉄次郎]]に嫁す。[[1876年]]（明治9年）[[3月2日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤光]]（阿光）- 五女、[[潮田伝五郎]]に嫁す。[[1879年]]（明治12年）[[3月27日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤三八]] - 三男。[[1881年]]（明治14年）[[7月14日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤大四郎]] - 四男、実業家。[[1883年]]（明治16年）[[7月24日]]生まれ。&lt;br /&gt;
; '''孫'''&lt;br /&gt;
* 福澤進太郎 - 大四郎の長男、[[フランス文学]]者・慶應義塾大学[[教授]]&lt;br /&gt;
; '''曾孫'''&lt;br /&gt;
* [[福澤幸雄]] - 進太郎の長男、レーサー&lt;br /&gt;
* [[福澤武]]- 三菱地所会長&lt;br /&gt;
; '''玄孫'''&lt;br /&gt;
* [[福澤克雄]] - （[[TBSテレビ]]/ [[映画監督]]/ [[演出家]] /  [[テレビディレクター]] ）&lt;br /&gt;
* [[片山千恵子]] -（[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー）福澤諭吉は大曾祖父&lt;br /&gt;
; '''その他'''&lt;br /&gt;
* [[福澤桃介]] - 女婿（次女・房の夫）、実業家&lt;br /&gt;
* [[中上川彦次郎]] - 甥（姉・婉の長男）&lt;br /&gt;
* [[高谷龍洲]] - 母の[[再従兄弟]]、[[儒学者]]&lt;br /&gt;
* [[藤原あき]] - 甥の三女&lt;br /&gt;
* [[フランキー堺]] - 次男が諭吉の曾孫の娘と結婚&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場作品 ==&lt;br /&gt;
* [[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]（1974年、NHK大河ドラマ、演：[[青山良彦]]）&lt;br /&gt;
* [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]（1977年、NHK大河ドラマ、演：[[入川保則]]）&lt;br /&gt;
* [[陽だまりの樹]]（1981年、[[手塚治虫]]）&lt;br /&gt;
* [[春の波涛]]（1985年、NHK大河ドラマ、演：[[小林桂樹]]）&lt;br /&gt;
* [[幕末青春グラフィティ　福沢諭吉]]（1985年、TBSドラマ、演：[[中村勘九郎 (5代目) ]]・現[[中村勘三郎 (18代目) ]]）&lt;br /&gt;
* [[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]]（1988年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演：[[中村雅俊]]）&lt;br /&gt;
* [[勝海舟 (テレビドラマ)|勝海舟]]（1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演：[[石原良純]]）　&lt;br /&gt;
* [[福沢諭吉 (映画)|福沢諭吉]]（1991年、映画、演：[[柴田恭兵]]）&lt;br /&gt;
* [[EAST MEETS WEST]]（1995年、松竹、演：[[橋爪淳]]）&lt;br /&gt;
* [[西部邁]]・[[佐高信]]の学問のすゝめ（2008年、[[朝日ニュースター]]）&lt;br /&gt;
* [[ETV特集 シリーズ「日本と朝鮮半島2千年」]]第10回“脱亜”への道～江華島事件から日清戦争へ～（2010年、[[日本放送協会|NHK]][[ETV特集]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記念行事 ==&lt;br /&gt;
* 2009年（平成21年）、慶應義塾創立150年記念「'''未来をひらく福沢諭吉展'''」が[[東京国立博物館]]、[[福岡市美術館]]、[[大阪市立美術館]]において、また「'''福沢諭吉と神奈川展'''」が[[神奈川県立歴史博物館]]において、順次開催された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.fukuzawa2009.jp 慶應義塾　創立150年記念　未来をひらく　福沢諭吉展]。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Fukuzawa Yukichi}}&lt;br /&gt;
{{Wikiquote|福沢諭吉}}&lt;br /&gt;
=== 関連事項 ===&lt;br /&gt;
{{col-begin}}&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* [[儒学]] - [[国学]] - [[蘭学]]&lt;br /&gt;
* [[武士]] - [[居合]] - [[立身新流]]&lt;br /&gt;
* [[進脩館]] - [[適塾]]&lt;br /&gt;
* [[慶應義塾]] - [[専修学校 (旧制)]]&lt;br /&gt;
* [[明六社]] - [[明六雑誌]]&lt;br /&gt;
* [[日本学士院]] - [[東京地学協会]]&lt;br /&gt;
* [[興亜会]]&lt;br /&gt;
* [[交詢社]]&lt;br /&gt;
* [[三菱商業学校]]（[[明治義塾]]）&lt;br /&gt;
* [[大坂]]&lt;br /&gt;
* [[中津市]]&lt;br /&gt;
* [[福澤諭吉旧居]]&lt;br /&gt;
* [[幕末の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[明治の人物一覧]]&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* [[京都集書院]]&lt;br /&gt;
* [[明治時代]]&lt;br /&gt;
* [[文明政治の六条件]]&lt;br /&gt;
* [[皇室制度]]&lt;br /&gt;
* [[科学]]&lt;br /&gt;
* [[経済]]&lt;br /&gt;
* [[数学]]&lt;br /&gt;
* [[演説]]&lt;br /&gt;
* [[簿記]]&lt;br /&gt;
* [[脱亜論]]&lt;br /&gt;
* [[脱亜思想]]&lt;br /&gt;
* [[亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説]]&lt;br /&gt;
* [[土地は併呑す可らず国事は改革す可し]]&lt;br /&gt;
* [[支那人親しむ可し]]&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* [[修身要領]]&lt;br /&gt;
* [[福澤心訓]]&lt;br /&gt;
* [[高尚]]&lt;br /&gt;
* [[文銭堂本舗]]&lt;br /&gt;
* [[経世済民]]&lt;br /&gt;
* [[アジア主義]]&lt;br /&gt;
* [[甲申事変]] - [[開化派]]&lt;br /&gt;
* [[長沼事件]]&lt;br /&gt;
* [[思想史]] - [[近代日本思想大系]] - [[現代日本思想大系]]&lt;br /&gt;
* [[仮名垣魯文]]&lt;br /&gt;
* [[志摩三商会]]&lt;br /&gt;
* [[ニカラグア運河]]&lt;br /&gt;
* [[ハングル]]&lt;br /&gt;
* [[日本の海洋国家論]]&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
{{col-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 親交が深かった人物・同門の人物 ===&lt;br /&gt;
* [[高畠五郎]]&lt;br /&gt;
* [[肥田浜五郎]]&lt;br /&gt;
* [[芳蓮院]]&lt;br /&gt;
* [[木村芥舟]]&lt;br /&gt;
* [[中島三郎助]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリッヒ・フォン・シーボルト]]&lt;br /&gt;
* [[楠本イネ]]&lt;br /&gt;
* [[大村益次郎]]&lt;br /&gt;
* [[大鳥圭介]]&lt;br /&gt;
* [[九鬼隆義]]&lt;br /&gt;
* [[川本幸民]]&lt;br /&gt;
* [[尺振八]]&lt;br /&gt;
* [[森村市左衛門]]&lt;br /&gt;
* [[長与専斎]]&lt;br /&gt;
* [[後藤象二郎]]&lt;br /&gt;
* [[北里柴三郎]]&lt;br /&gt;
* [[森山栄之助]]&lt;br /&gt;
* [[栗本鋤雲]]&lt;br /&gt;
* [[桂川甫周]]&lt;br /&gt;
* [[箕作秋坪]]&lt;br /&gt;
* [[大槻磐渓]]&lt;br /&gt;
* [[林金兵衛]]&lt;br /&gt;
* [[宇都宮三郎]]&lt;br /&gt;
* [[高島嘉右衛門]]&lt;br /&gt;
* [[渡辺重石丸]]&lt;br /&gt;
* [[山口良蔵]]&lt;br /&gt;
* [[デュアン・シモンズ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 影響を受けた人物 ===&lt;br /&gt;
* [[荻生徂徠]]&lt;br /&gt;
* [[佐倉惣五郎]]&lt;br /&gt;
* [[中村栗園]]&lt;br /&gt;
* [[白石照山]]&lt;br /&gt;
* [[帆足万里]]&lt;br /&gt;
* [[緒方洪庵]]&lt;br /&gt;
* [[江川英龍]]&lt;br /&gt;
* [[新井白石]]&lt;br /&gt;
* [[石川桜所]]&lt;br /&gt;
* [[西郷隆盛]]&lt;br /&gt;
* [[アレクシス・ド・トクヴィル]]&lt;br /&gt;
* [[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]&lt;br /&gt;
* [[ジョン・スチュアート・ミル]]&lt;br /&gt;
* [[ウォルター・バジョット]]&lt;br /&gt;
* [[ヘンリー・バックル]]&lt;br /&gt;
* [[ウィリアム・ブラックストン]]&lt;br /&gt;
* [[ハーバート・スペンサー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 影響を与えた人物 ===&lt;br /&gt;
;明治以後、福澤の思想に影響を受けた、または論評の手法を真似た人物（慶應義塾関係者を除く）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766416541/ 明治人の観た福澤諭吉]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[梁啓超]]&lt;br /&gt;
* [[南方熊楠]]&lt;br /&gt;
* [[陸羯南]]&lt;br /&gt;
* [[徳富蘇峰]]（猪一郎）&lt;br /&gt;
* [[中江篤介]]（兆民）&lt;br /&gt;
* [[福地桜痴]]（源一郎）&lt;br /&gt;
* [[田口卯吉]]（鼎軒）&lt;br /&gt;
* [[山路愛山]]&lt;br /&gt;
* [[幸徳秋水]]&lt;br /&gt;
* [[内村鑑三]]&lt;br /&gt;
* [[三宅雪嶺]]&lt;br /&gt;
* [[植村正久]]&lt;br /&gt;
* [[朝比奈知泉]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連人物脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.city-nakatsu.jp/docs/2011083001134/ 独立自尊の人「福澤諭吉」 | 中津市]&lt;br /&gt;
* [http://www.keio.ac.jp/ja/contents/fukuzawa_history/index.html 慶應義塾：福澤諭吉年譜]&lt;br /&gt;
* [http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A6%8F%E6%B2%A2%E8%AB%AD%E5%90%89/ 福澤諭吉] - [[Yahoo!百科事典]]&lt;br /&gt;
* [http://www.fukuzawa2009.jp 未来をひらく福澤諭吉展（福沢諭吉展） −慶應義塾創立150年記念−]&lt;br /&gt;
* [http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h17/ 「大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説一覧及び起筆者推定」]&lt;br /&gt;
* [http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h22/ 「福沢諭吉演説一覧」]&lt;br /&gt;
* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person296.html 福沢 諭吉：作家別作品リスト]（[[青空文庫]]）&lt;br /&gt;
* デジタルで読む福澤諭吉：[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_tbl.php eBOOK版]・[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_search.php テキスト版]（[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/ 慶應義塾図書館]）&lt;br /&gt;
* [http://www.mint.go.jp/coin/coin_topics/20101022.html 肖像メダル「福澤諭吉」] [[造幣局 (日本)|造幣局]]&lt;br /&gt;
* [http://www.city-nakatsu.jp/modules/honyaba/index.php?id=10 青の洞門と福澤諭吉] [[中津市]]&lt;br /&gt;
* [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/185.html 福沢諭吉] | [http://www.ndl.go.jp/portrait/index.html 近代日本人の肖像]（[[国立国会図書館]]）&lt;br /&gt;
* [http://kindai.ndl.go.jp/BIBibList.php?tpl_wid=WBPL110&amp;amp;tpl_wish_page_no=1&amp;amp;tpl_select_row_no=&amp;amp;tpl_hit_num=14&amp;amp;tpl_bef_keyword=&amp;amp;tpl_action=&amp;amp;tpl_search_kind=1&amp;amp;tpl_keyword=&amp;amp;tpl_s_title=&amp;amp;tpl_s_title_mode=BI&amp;amp;tpl_s_title_oper=AND&amp;amp;tpl_s_author=%e7%a6%8f%e6%b2%a2%e8%ab%ad%e5%90%89&amp;amp;tpl_s_author_mode=BI&amp;amp;tpl_s_author_oper=AND&amp;amp;tpl_s_published_place=&amp;amp;tpl_s_published_place_mode=ZI&amp;amp;tpl_s_published_place_oper=AND&amp;amp;tpl_s_publisher=&amp;amp;tpl_s_publisher_mode=ZI&amp;amp;tpl_s_publisher_oper=AND&amp;amp;tpl_s_nengou=AD&amp;amp;tpl_s_published_year_from=&amp;amp;tpl_s_published_year_to=&amp;amp;tpl_s_ndc=&amp;amp;tpl_s_ndc_mode=ZI&amp;amp;tpl_s_heading=&amp;amp;tpl_s_heading_mode=ZI&amp;amp;tpl_s_heading_oper=AND&amp;amp;tpl_s_jp_num=&amp;amp;tpl_s_toc=&amp;amp;tpl_s_toc_oper=AND&amp;amp;tpl_item_oper=AND&amp;amp;tpl_sort_key=PUB_YEAR&amp;amp;tpl_sort_order=ASC&amp;amp;tpl_list_num=200&amp;amp;tpl_end_of_data= 著者＝“福沢諭吉”で検索]（[[近代デジタルライブラリー]]）&lt;br /&gt;
** {{近代デジタルライブラリー書誌情報|41017575|福沢全集/福沢諭吉著、時事新報社、明31}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{東京学士会院会長}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふくさわ ゆきち}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで隠蔽された真実]]&lt;br /&gt;
[[Category:ウィキペディアで保護された記事]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:摂津国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末中津藩の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸幕府旗本]]&lt;br /&gt;
[[Category:万延元年遣米使節の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:文久遣欧使節の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕府の外交官僚]]&lt;br /&gt;
[[Category:薩英戦争の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:19世紀の学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の文人]]&lt;br /&gt;
[[Category:蘭学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:自然保護活動家]]&lt;br /&gt;
[[Category:適塾の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:居合]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の啓蒙思想家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の保守思想家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の文明評論家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の貿易立国論者]]&lt;br /&gt;
[[Category:明六社の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京学士会院の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京地学協会の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:興亜会の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学の教員|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:時事新報の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:福澤諭吉|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の紙幣の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1835年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1901年没]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>福澤諭吉</title>
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				<updated>2012-02-03T08:46:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;船徳: ページの作成：「{{Infobox Scientist | name = 福澤諭吉 | image = Yukichi Fukuzawa Berlin2.jpg | image_size = 200px | caption = （文久2年(1862年)江戸幕府使節と...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox Scientist&lt;br /&gt;
| name = 福澤諭吉&lt;br /&gt;
| image = Yukichi Fukuzawa Berlin2.jpg&lt;br /&gt;
| image_size = 200px&lt;br /&gt;
| caption = （[[文久]]2年([[1862年]])[[江戸幕府]]使節として欧州歴訪の際[[ベルリン]]にて）&lt;br /&gt;
| birth_date = [[1835年]][[1月10日]]&lt;br /&gt;
| birth_place = [[摂津国]][[大阪市|大坂]][[堂島浜]]&lt;br /&gt;
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1835|01|10|1901|02|03}}&lt;br /&gt;
| death_place = [[東京府]][[三田 (東京都港区)|三田]]&lt;br /&gt;
| residence = &lt;br /&gt;
| nationality = {{JPN}}&lt;br /&gt;
| field = &lt;br /&gt;
| work_institution = [[中津藩]]・[[晩香堂]]・[[光永寺]]・[[適塾]]・[[江戸幕府]]外国方翻訳局・[[外国奉行]]・[[慶應義塾]]・[[明六社]]・[[興亜会]]・[[東京学士会院]]・[[時事新報]]&lt;br /&gt;
| alma_mater = &lt;br /&gt;
| doctoral_advisor = &lt;br /&gt;
| doctoral_students =&lt;br /&gt;
| notable_students = &lt;br /&gt;
| known_for = &lt;br /&gt;
| prizes = &lt;br /&gt;
| religion =&lt;br /&gt;
| footnotes ='''廟'''：麻布山[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[File:福澤諭吉像2.jpg|250px|right|thumb|福澤先生像 (三田)]]&lt;br /&gt;
[[File:福澤諭吉先生像慶応日吉.jpg|250px|right|thumb|福澤先生像 (日吉)]]&lt;br /&gt;
'''福澤 諭吉'''（ふくざわ ゆきち、[[天保]]5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]（[[1835年]][[1月10日]]）- [[1901年]]（[[明治]]34年）[[2月3日]]）は、[[日本]]の[[武士]]（[[中津藩]]士のち[[旗本]]）、[[19世紀]]後期の学者、[[蘭学者]]、[[著述家]]、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]、教育者、新聞『[[時事新報]]』の創刊・発行者。[[慶應義塾]]の創設者であり、[[専修学校 (旧制)|専修学校]]（後の[[専修大学]]）、[[商法講習所]]（後の[[一橋大学]]）、[[伝染病研究所]]、[[土筆ヶ岡養生園]]の創設にも尽力した。他に[[東京学士会院]]（現在の[[日本学士院]]）初代会長を務めた。[[雅号]]は、'''三十一谷人'''（さんじゅういっこくじん）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=114&amp;amp;PAGE=20&amp;amp;KEY= 余が印章に三十一谷人の五字を刻]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代では「福沢諭吉」と記載される事が一般的である&amp;lt;ref&amp;gt;学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書など。一方、[[慶應義塾大学]]をはじめとする[[学校法人慶應義塾]]の公式ホームページでは「福澤諭吉」と表記されている。例えば、[http://www.keio.ac.jp/ja/about_keio/history/index.html 理念と歴史]を参照。なお、学術書でも「福澤諭吉」の表記を用いるものも近年、出現している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。[[諱]]は範（はん）。[[字]]は子囲（しい）。関防印は「'''無我他彼此'''（がたぴしなし）」、[[揮毫]]の落款印は「'''明治卅弐季後之福翁'''」。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、[[明治維新]]以後は「ふくざわ」と発音するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=北康利|authorlink=北康利|year=2007|month=3|title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-213884-0}}（21頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hotarumachi-Nakatsuhan-Monument.jpg|thumb|200px|生誕の地と中津藩蔵屋敷跡の記念碑（大阪府大阪市）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出生から中津帰藩、長崎遊学 ===&lt;br /&gt;
[[天保]]5年12月12日（[[1835年]][[1月10日]]）、[[大坂]][[堂島浜]]（現・[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]1丁目、通称[[ほたるまち]]）にあった[[豊前国]][[中津藩]]の[[蔵屋敷]]&amp;lt;ref&amp;gt;この場所には、のち大阪医科大学附属医院（のち大阪帝国大学医学部附属医院を経て[[大阪大学医学部附属病院]]）が設置され、現在は[[朝日放送]]の新社屋（[[2008年]][[5月]]稼働開始）が建つ。&amp;lt;/ref&amp;gt;で下級藩士福澤百助・於順の次男（末っ子）として生まれる。諭吉という名の由来は、[[儒学]]者でもあった父が『[[上諭条例]]』（[[清]]の[[乾隆帝]]治世下の法令を記録した書）を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父は、[[鴻池家|鴻池]]や[[加島屋]]などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあり、藩儒・[[野本雪巌]]や[[帆足万里]]に学び、[[菅茶山]]・[[伊藤東涯]]などの[[儒教]]に通じた学者でもあった&amp;lt;ref&amp;gt;百助が所持していた[[伊藤東涯]]の『易経集注』という書は福澤家に残され、現在は慶應義塾大学に寄託されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
百助の後輩には江州[[水口藩]]・藩儒の[[中村栗園]]がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。[[中小姓格]]（[[厩方]]）の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵（かたき）で御座る」（『[[福翁自伝]]』）とすら述べており、自身も[[封建制|封建制度]]には疑問を感じていた。世間の仕来りや信仰・迷信にも無頓着で、「子供ながらも精神はまことにカラリとしたものでした。」（『福翁自伝』）と述べる。兄・三之助は父に似た純粋な[[漢学者]]で、「死に至るまで[[孝悌忠信]]」の一言であったという。なお、母兄姉と一緒に暮してはいたが、幼時から叔父[[中村術平]]の養子になり中村姓を名乗っていた。後、福澤の実家に復する。体格が良く、当時の日本人としてはかなり大柄な人物となる&amp;lt;ref&amp;gt;明治14年（[[1881年]）7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ。[[明治生命]]による。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保6年（[[1836年]]）、1歳6か月のとき父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、豊前国中津（現・[[大分県]][[中津市]]）で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、[[孝悌忠信]]や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。[[お札]]を踏んでみたり、[[神社]]で悪戯をしてみたりと、悪童まがいの溌剌とした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表変え、障子の貼り変えをこなすなど内職に長けた子供であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5歳頃から藩士・[[服部五郎兵衛]]に[[漢学]]と[[一刀流]]の手解きを受けはじめる。初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読みあさり、[[漢籍]]を修める。8歳になると、兄・三之助も師事した[[野本真城]]、[[白石照山]]の塾（[[晩香堂]]）へ通い始める。『[[論語]]』『[[孟子]]』『[[詩経]]』『[[書経]]』はもちろん、『[[史記]]』『[[左伝]]』『[[老子]]』『[[荘子]]』に及び、特に『左伝』は得意で十五巻を十一度も読み返して面白いところは暗記したという。この頃には先輩を凌いで「'''[[漢学者]]の前座ぐらい'''（自伝）」は勤まるようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福澤の学問的・思想的源流に当たるのは、[[亀井南冥]]や[[荻生徂徠]]であり、諭吉の師・白石照山は[[陽明学]]や[[朱子学]]も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ci.nii.ac.jp/naid/120000800655/en 福沢諭吉と亀井学の思想:福沢における「縦に慣れたる資力」とは何か]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
したがって、福澤の学問の基本には[[儒学]]が根ざしており、その学統は白石照山・[[野本百厳]]・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた[[三浦梅園]]にまで遡ることが出来る。のちに[[蘭学]]の道を経て[[思想家]]となる過程の中にも、この学統が原点にある。傍ら[[立身新流]]の[[居合]]術を習得し、[[免許皆伝]]となる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://tatsumi-ryu.com/ 福澤先生と立身新流抜合]「三田評論」No.1123(2009年5月号),pp.5--7&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Koyeiji_Temple_Nagasaki.jpg|thumb|200px|長崎光永寺（大正）、手彩色絵葉書]]&lt;br /&gt;
[[黒船]]が来襲したことにより中津藩でも[[西洋砲術]]を学ぶ必要が起きたことで、[[安政]]元年（[[1854年]]）、19歳で[[長崎市|長崎]]へ遊学して蘭学を学ぶ。[[黒船来航]]により砲術の需要が高まり、[[オランダ]]流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないかと兄から誘われたのがきっかけであった。長崎市の[[光永寺]]に寄宿し、現在は石碑が残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[長崎奉行]]配下の役人で[[砲術家]]の[[山本物次郎]]宅に居候し、オランダ通詞（通訳などを仕事とする長崎の役人）のもとへ通ってオランダ語を学んだ。山本家には[[蛮社の獄]]の際に[[高島秋帆]]が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝礼金をもらっており、福澤は[[鉄砲]]の設計図を引くことさえできるようになった。同時期に長崎遊学していた[[薩摩藩]]の[[松崎鼎甫]]には[[アルファベット]]を教えてもらっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その時分の諸藩の西洋家、例えば[[宇和島藩]]（[[大村益次郎]]）、[[五島藩]]、[[佐賀藩]]（[[本島藤太夫]]）、[[水戸藩]]（[[菊池富太郎]]）などの人々が来て、出島のオランダ屋敷に行ってみたいとか、大砲を鋳るから図をみせてくれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな福澤の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、福澤はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。山本自身は蘭書が読めなかったため、実際に蘭学を習ったのは[[楢林健吉]]（[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]の弟子の[[楢林栄建]]の子孫）という通詞の家であった。その傍ら[[石川桜所]]の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 適塾時代（大坂） ===&lt;br /&gt;
安政2年（[[1855年]]）、その山本家を紹介した[[奥平壱岐]]や、その実家である[[奥平氏|奥平家]]（中津藩[[家老]]の家柄）と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし福澤本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から江戸へは行くなと引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた[[足守藩]]下士で[[蘭学者]]の[[緒方洪庵]]の[[適塾]]（適々斎塾）で学ぶこととなった。ところが[[腸チフス]]を患い、緒方から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」（自伝）と告げられ、緒方の朋友、[[内藤数馬]]から処置を施され、体力が回復し一時中津へ帰国する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政3年（[[1856年]]）、再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の[[家督]]を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書（C.M.H.Pel,''Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst'',Hertogenbosch 1852年）を翻訳するという名目で適塾の食客（住み込み学生）として学ぶこととなる。この時、丹後[[宮津藩]]士・[[高橋順益]]から[[酒]]と[[煙草]]を勧められ、これを覚えた。先輩の一人、村田蔵六（大村益次郎）は人一倍暗い性格で、殴り合いになっても怒らず、抓る程度だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政4年（[[1857年]]）には最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に[[長与専斎]]を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って[[化学]]実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため[[瀉血]]や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、福澤は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また[[工芸技術]]にも熱心になり、化学の道具を使って[[硫酸]]を製造し、頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、筑前の国主[[黒田長溥]]が金80両を投じて購入したワンダーベルツと題する物理書を写本して、[[元素]]を配列してそこに積極消極（プラスマイナス）の順を定めることやファラデーの電気説（[[ファラデーの法則]]）を始めて知ることになる。こういった[[電気]]の新説などを知り、[[発電]]を試みたりもしたようである。他にも[[昆布]]や[[荒布]]からのヨジュウムの製造、[[淀川]]に浮かべた小舟の上での[[アンモニア]]製造などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
適塾時代のエピソードには「[[熊]]の[[解剖]]」、「[[豚]]の頭を貰ってきて、解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食った話」などが自伝で語られており、他にも[[大坂]]の[[町人]]と[[江戸]]の[[町人]]の対比&amp;lt;ref&amp;gt;大阪の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出て来ない。夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂りとなる。&amp;lt;/ref&amp;gt;や「[[鯛]]の味噌漬と欺して[[河豚]]を食わせる」、「[[禁酒]]から[[煙草]]」、など自伝には福澤の人物像を表すエピソードが多数記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の時から酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、「書生の生活酒の悪弊」「血に交わりて赤くならず」「書生を懲らしめる」（自伝）には、恐ろしく飲んで緒方夫妻を驚かせる、[[囲碁]]の話、茶屋の話などが記されている。塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独り飲むということであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江戸に出る ===&lt;br /&gt;
安政5年（[[1858年]]）、中津藩から江戸出府を命じられる（差出人は江戸居留守役の[[岡見清熙]]）。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾&amp;lt;ref&amp;gt;それまで、中津藩邸に近い[[木挽町]]にあった[[佐久間象山]]の塾には多くの中津藩士が通っており、象山は中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し[[上総国]]の[[姉ヶ崎]]で試射したりしている。象山に学んだ岡見彦三清熙は江戸藩邸内に蘭学塾を設けていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;の講師となるために吉川正雄（当時の名は岡本周吉、後に[[古川節蔵]]）、[[原田磊蔵]]を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく[[足立寛]]、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた[[佐倉藩]]の[[沼崎巳之介]]、[[沼崎済介]]が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」が後の[[学校法人慶應義塾]]の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元来、この蘭学塾は[[佐久間象山]]の塾（[[象山書院]]）から受けた影響が大きく、[[マシュー・ペリー]]の渡来に先んじて[[嘉永]]3年（1850年）ごろから既に藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5～6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、[[島津文三郎]]のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は[[杉亨二]]（杉はのちに勝海舟にも通じて[[氷解塾]]の塾頭も務める）、薩摩藩士の[[松木弘安]]を招聘していた。諭吉が蘭学塾の講師に就任してからは、[[藤本元岱]]・[[神尾格]]・[[藤野貞司]]・[[前野良伯]]らが適塾から移ってきた他、諭吉の前の適塾塾頭・[[松下元芳]]が入門するなどしている。岡見清熙は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、福澤は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持（地方勤務手当）として6人扶持が別途支給されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[島村鼎甫]]を尋ねたのち、中津屋敷からは、当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた[[桂川家]]が500m以内の場所であったため、[[桂川甫周]]・[[神田孝平]]・[[箕作秋坪]]・[[柳川春三]]・[[大槻磐渓]]・[[宇都宮三郎]]、村田蔵六らと共に出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の[[高橋順益]]が近くに住みたいと言って、浜御殿（現在の[[浜離宮]]）の西に位置する源助町に転居してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政6年（[[1859年]]）、[[日米修好通商条約]]により[[外国人居留地]]となった[[横浜市|横浜]]の見物に出かける。しかしそこでは専ら[[英語]]が用いられており、自身が学んできた[[オランダ語]]が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などをたよりにほぼ独学で英語の勉強を始める。世界の覇権は[[大英帝国]]が握っており、すでにオランダに昔日の面影が無いことは当時の[[蘭学者]]の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語や[[ドイツ語]]を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが[[鎖国]]の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
横浜を見物して以来、オランダ語が通じないと分かった諭吉は、幕府通辞の[[森山栄之助]]を訪問して英学を学んだ後、[[蕃書調所]]へ入所したが英蘭辞書が持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが村田は[[ジェームス・カーティス・ヘボン]]に手ほどきを受けようとしていた。ようやく蕃書調所の[[原田敬策]]と一緒に英書を読もうということになり蘭学だけではなく英学も習得していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 渡米 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:KanrinMaru.jpg|thumb|right|300px|[[咸臨丸]]難航の図（[[鈴藤勇次郎]]画）]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Fukuzawa Yukichi with the girl of the photo studio.jpg|thumb|200px|福澤諭吉とアメリカの少女テオドーラ・アリス。1860年、サンフランシスコにて。（慶應義塾福澤研究センター所蔵）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政6年（[[1859年]]）の冬、日米修好通商条約の批准交換のために[[万延元年遣米使節|使節団]]が米軍艦[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]] で渡米することとなり、その護衛として[[咸臨丸]]を[[アメリカ合衆国]]に派遣することが[[岩瀬忠震]]の建言で決定した。[[万延]]元年1月19日（1860年2月10日）、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行[[木村芥舟|木村摂津守]]の従者として、アメリカへ発つ。翻訳途中だった『[[万国政表]]』（統計表）は留守中に門下生が完成させている。5月5日帰国。なお咸臨丸の指揮官は[[勝海舟]]であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に福澤は、[[蒸気船]]を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて[[太平洋]]を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂 『新訂　福翁自伝』、[[岩波書店]]〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「日本国人の大胆」（111頁）を参照。[[近代デジタルライブラリー]]収録『[[福翁自伝]]』の「[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018839&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=97&amp;amp;ITYPE=0 始めて亜米利加に渡る]」の章を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=198 福翁自傳 - 198 ページ]を参照。&amp;lt;blockquote&amp;gt;併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお当時、福澤と勝はあまり仲が良くなかった様子で、晩年までぎこちない関係が続いた&amp;lt;ref&amp;gt;『[[福翁自伝]]』に航海中の勝の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂　『新訂　福翁自伝』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」（112頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=200 福翁自傳 - 200 ページ]を参照。&amp;lt;blockquote&amp;gt;勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
一方、木村摂津守とは明治維新によって木村が役職を退いた後は、晩年に至るまで親密な交際を続けており、帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方（現在の[[外務省]]）に出仕することになった。その他、[[戊辰戦争]]後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行が日本を離れているうちに、日本では幕府の開国政策に反対する志士たちの[[攘夷論]]がますます高まっていた。その状況を察していた諭吉は、日本への上陸第一歩の海辺で出迎えに来た木村摂津守の家来に、「何か日本に変わったことは無いか」と尋ねた。その家来は顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことがあった」と言う。諭吉はそれを押し止めて「言うてくれるな、私が当てて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様（大老[[井伊直弼]]）の邸に暴れこんだというようなことではないか」（自伝）と、[[3月3日]]の[[桜田門外の変]]を正確に言い当て、家来を驚かせたことがある。もっとも、[[徳川斉昭]]の反目や[[安政の大獄]]による弾圧などで、このような事態は幕府の有識者の間では前もって分かっていたことだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては様々に衝撃を受けた。たとえば、日本では[[徳川家康]]など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が[[ジョージ・ワシントン]]の子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している（ちなみに、ワシントンに子孫はいない）。福澤は、通訳として随行していた中浜万次郎（[[ジョン万次郎]]）とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰国し、アメリカで購入してきた[[広東語]]・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語にカタカナで読みを付け、広東語の[[漢字]]の横には日本語の訳語を付記した『[http://opac.kufs.ac.jp/kufs/detail/0002_A/detail_0002_A-1.html 増訂華英通語]』を出版する。これは福澤が初めて出版した書物である。この書の中で福澤は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「[[ヴ]]」や「ワ」に濁点をつけた文字「[[ワ゛|ヷ]]」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。再び鉄砲洲で講義も行うが、その内容は従来のような[[オランダ語]]ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳をおこなった。これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強をおこなったりもした。この頃にはかなり英語も読めるようになっていたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 渡欧（幕臣時代） ===&lt;br /&gt;
[[File:First Japanese Embassy to Europe Fukuzawa.jpg|200px|thumb|文久2年（1862年）オランダにて。右から[[柴田貞太郎]]、[[福澤諭吉]]、[[太田源三郎]]、[[福田作太郎]]]]&lt;br /&gt;
[[File:FukuzawaYukichi.jpg|200px|thumb|文久2年（1862年）、パリの[[国立自然史博物館 (フランス)|国立自然史博物館]]にて撮影）東京大学史料編纂所蔵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文久元年（[[1861年]]）に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。その年の冬、[[竹内保徳|竹内下野守]]を正使とする[[文久遣欧使節]]を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日（1862年1月30日）、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には[[松木弘安]]・箕作秋坪がおり、行動を共にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行は[[香港]]、[[シンガポール]]、インド洋、紅海、スエズの地峡を汽車で越え、地中海を渡り[[マルセイユ]]に上陸。[[リヨン]]、[[パリ]]、[[ロンドン]]、[[ロッテルダム]]、[[デン・ハーグ|ハーグ]]、[[アムステルダム]]、[[ベルリン]]、ペテルブルク（[[サンクトペテルブルク]]）、[[リスボン]]などを見物し12月11日帰国した。ロンドンでは、ちょうど開かれていた[[万国博覧会]]を視察し、[[蒸気機関車]]・[[電気機器]]・[[タイプライター|植字機]]に触れる。[[樺太]]国境問題を討議するために訪れたサンクトペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。なお、オランダの[[ユトレヒト]]を訪問した際にドイツ系写真家によって撮影されたと見られる写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/190004/ 「福澤諭吉の新たな写真発見　オランダで」話題！‐話のタネニュース:イザ！]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この旅で福澤は幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰っている。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。たとえば[[病院]]や[[銀行]]、[[郵便法]]、[[徴兵令]]、[[選挙制度]]、[[議会制度]]などについてである。これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。また、[[香港]]で[[植民地主義]]・[[帝国主義]]を目の当たりにし、[[イギリス人]]が[[中国人]]を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。また、フランスの青年[[レオン・ド・ロニー]]と友好を結び、「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となり、外国の学会の正会員に最も早い時期で就任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰国後、『[[西洋事情]]』([[慶応]]2年[[1866年]]～）などの著書を通じて啓蒙活動を開始。幕府機構の改革を唱えた。また[[アメリカ独立宣言]]の全文を翻訳して『西洋事情』（初編 巻之二）中に「[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=56000690&amp;amp;VOL_NUM=00002&amp;amp;KOMA=6&amp;amp;ITYPE=0 千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文]」として掲載して日本に伝えた。『西洋事情』は「[[理化学]]、[[器械学]]」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵制の制度や設備について言及してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文久3年（[[1863年]]）7月、[[薩英戦争]]が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、[[外国奉行]]・[[松平康英|松平石見守]]の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
品川に到着した翌日の12月12日には品川御殿山に建設中の[[イギリス公使館]]に[[高杉晋作]]ら[[英国公使館焼き討ち事件|長州藩士による焼打事件]]が起こり、文久3年3月に入ると天皇の[[賀茂神社|賀茂両社]]への攘夷祈願、4月には[[石清水八幡宮]]への行幸をうけて、[[長州藩]]が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つようになった。同僚の[[手塚律蔵]]や[[東条礼蔵]]が切られそうになるという事件も起こり、この頃には既に江戸では「福澤」の名は洋学者の間では知れ渡っていたため、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・[[藤沢志摩守]]の家で会合した後に帰宅する途中、[[浪人]]と鉢合わせ、居合で切り抜けなければと考えながら、すれ違いざまに互いに駆け抜けたことがある。この文久2年頃～明治6年頃までが江戸が一番物騒な世の中であったと回想している。7月に[[禁門の変]]が起こると、長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった[[仙台藩]]の[[大童信太夫]]を通じて、文久3年秋頃に塾で諭吉に師事していた[[横尾東作]]を派遣して新聞『ジャパン＝ヘラルド』を翻訳して諸藩の援助をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元治元年（1864年）には、福澤は郷里である中津に赴き、[[小幡篤次郎]]や[[三輪光五郎]]ら6名を連れて来た。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用（[[幕臣]]）として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて、[[御目見]]以上となり、[[旗本]]となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[勝部真長]] [[PHP研究所]] ISBN 4569771882 『勝海舟』 (終章)P333&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ocw.dmc.keio.ac.jp/j/economics/02A-007_j/lecture_contents/theme031.html 福澤:元治元年/1846～外国奉行支配調訳次席翻訳御用]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶応元年（[[1865年]]）に始まる幕府の[[長州征伐]]の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『[[長州再征に関する建白書]]』では、[[大名同盟]]論の採用に反対し、[[徳川幕府]]の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。この見通しによって、維新後の新政権のために何の貢献もなしえないことが当然となり、この時期の徳川家への愛惜の情をうかがうことが出来る。[[長州征伐]]で幕府軍が長州藩に敗北したと聞き、イギリスの鉄砲を取り寄せて分解し、初の西洋兵学書の翻訳『[[雷銃操法]]』を訳し始める。続いて、[[戊辰戦争]]に際し[[仙台藩]]が福澤に翻訳せしめた『[[兵士懐中便覧]]』は[[奥羽越列藩同盟]]藩士の多くが読んだとされる。明治2年には、[[熊本藩]]の依頼で本格的な西洋戦術書『[[洋兵明鑑]]』を小幡篤次郎・[[小幡甚三郎]]と共訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明治維新 ===&lt;br /&gt;
[[File:Yukichi Fukuzawa Wayland 1868.jpg|200px|thumb|明治元年5月15日（1868年7月4日）、[[上野の戦い]]をよそに、[[中屋敷]]内で経済書の講義を続ける。（[[安田靫彦]]画）]]&lt;br /&gt;
慶応3年（[[1867年]]）には使節主席・[[小野友五郎]]と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米し、[[ニューヨーク]]、[[フィラデルフィア]]、[[ワシントンD.C.]]を訪れた。[[津田仙]]、[[尺振八]]が同乗していた。現地で小野と揉めたため帰国後はしばらく謹慎することとなったが、[[中島三郎助]]の働きかけですぐに解けた。[[紀州藩]]や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や[[物理書]]・[[地図帳]]を買い込み、帰国後、『[[西洋旅案内]]』を書き上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶応4年（[[1868年]]）には蘭学塾を'''慶應義塾'''と名付け、教育活動に専念する。[[三田藩]]・仙台藩・紀州藩・中津藩・[[越後長岡藩]]と懇意になり、藩士を大量に受け入れる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/bitstream/123456789/5839/4/HIT0600301.pdf 上田貞次郎の伝記]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
特に紀州藩とは懇意になり、慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた[[三島億二郎]]が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、[[笠原文平]]らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の[[高島嘉右衛門]]の[[藍謝塾]]とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と[[彰義隊]]の合戦が起こる中でもF・ウェイランド『経済学原論』（The Elements of Political Economy , 1866）の講義を続けた（なお[[経世済民|漢語]]に由来する「[[経済学]]」の語は福澤や[[神田孝平]]らにより[[:en:political economy|political economy]]もしくは[[:en:economics|economics]]の訳語として定着した）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外国奉行の[[川路聖謨]]は病床で『西洋事情』を読んで大きな衝撃を受けたといい、老中・[[稲葉正邦|稲葉美濃守]]から千俵取りの[[御使番]]として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。自身も徳川将軍家を中心とする封建政治の再編成と幕府の延命策（[[公武合体論]]）を考えていたようであるが、維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嫁・お錦の実家である[[土岐家]]と[[榎本武揚]]の母方の実家・[[林家]]が親戚であったことから、[[榎本武揚]]助命のため[[寺島宗則]]（以前の松木弘安）の紹介で官軍参謀長・[[黒田清隆]]と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも[[山縣有朋]]・[[松本良順]]等から出仕の勧めが来たがこれを断り、[[九鬼隆一]]や[[白根専一]]、[[濱尾新]]、[[渡辺洪基]]らを新政府の[[文部]][[官吏]]として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新銭座の土地を攻玉社の塾長・[[近藤真琴]]に300円で譲り渡し、[[三田]]に移動して『帳合之法（現在の[[簿記]]）』などの講義を始めた。また[[明六社]]に参加。当時の文部官吏には九鬼や[[田中不二麿]]・[[森有礼]]ら福沢派官吏が多かったため、明治6年（[[1873年]]）に慶應義塾と[[東京英語学校]]（かつての[[開成学校]]でのち[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|大学予備門]]さらに[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]に再編され、現・[[東京大学]][[教養学部]]）は、例外的に[[徴兵令]]免除の待遇を受けることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[廃藩置県]]を歓迎し、「政権」（軍事や外交）と「治権」（地方の治安維持や教育）の全てを政府が握るのでは無く「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『[[分権論]]』には、これを成立させた[[西郷隆盛]]への感謝と共に、[[地方分権]]が[[士族]]の不満を救うと論じ、続く『[[丁丑公論]]』では政府が掌を返して[[西南戦争]]で西郷を追い込むのはおかしいと主張した（『丁丑公論』は内容が過激だった為、発表は福沢諭吉没後となった。また、[[佐賀の乱]]で敗走した[[江藤新平]]の裁判が公正に行われなかったことに疑問を呈している）。『[[通俗民権論]]』『[[通俗国権論]]』『[[民間経済禄]]』なども官民調和の主張ないしは初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、[[自由主義]]を紹介する際には「'''自由在不自由中（自由は不自由の中にあり）'''」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年（1873年）[[9月4日]]の午後には[[岩倉使節団]]に随行していた[[長与専斎]]の紹介で[[木戸孝允]]と会談。木戸が[[文部卿]]だった期間は4か月に過ぎなかったが、「[[学制]]」を制定し、「文部省は[[竹橋]]にあり、文部卿は[[三田]]にあり」の声があるほど、明治初期までは福沢の思い描く国家の構想が反映されるかのように見えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 薩長藩閥との対立 ===&lt;br /&gt;
明治8年（[[1875年]]）、福澤は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて[[大久保利通]]と会談した。大久保は福澤のことを民権論者の首魁のように思っていたのでそれを否定し会談を終えた（「面白」（流石有名に恥じず。大久保の日記。）による。）が、大久保は出版検閲の権限を[[文部省]]から[[内務省]]に移管したことで、[[秋山恒太郎]]が官吏を移動するという災難に遭った。これを見た福澤は、『[[民間雑誌]]』に「内務卿の凶聞」という社説を大久保暗殺後に掲載。これが問題となり、編集長の[[加藤政之助]]が内務省警視局に呼び出され、『民間雑誌』は廃刊となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで目を付けたのが、[[薩長]][[藩閥]]では無い、[[大隈重信]]の存在だった。福澤は大隈を頼りに[[統計院]]（後の内閣統計局）を設立させる。統計院にはある秘密があり、設立直後から「'''憲法の調査立案'''」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに[[矢野文雄]]・[[犬養毅]]・[[尾崎行雄]]といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。明治7年（[[1874年]]）には[[板垣退助]]、[[後藤象二郎]]、[[江藤新平]]が野に下るや、高知の[[立志学舎]]に門下生を教師として派遣した他、後藤象二郎の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って[[郵便報知新聞]]に「[[国会論]]」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、[[岩崎弥太郎]]と面会し、岩崎が[[山師]]では無いと評価した福沢は、[[三菱商会]]にも[[荘田平五郎]]や[[豊川良平]]といった門下を投入した他、後藤の経営する[[高島炭鉱]]を岩崎に買い取らせた。他、[[愛国社]]から頼まれて『[[国会を開設するの允可を上願する書]]』の起草に助力。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入念に門下らと憲法を思案し、大隈重信が提出していた早期国会開設論の背後に福澤の影があると、放った[[密偵]]によって察知した[[伊藤博文]]は、対処をプロシア流憲法の草案者で、明治政府一番の能吏・[[井上毅]]に一任することになる。丁度、[[開拓使官有物払下げ事件|北海道開拓使官有物払い下げ問題]]で[[本山彦一]]、[[箕浦勝人]]、[[門田三郎兵衛]]らが『[[大阪新報]]』を通じて問題を糾弾。薩摩閥の怒りはピークに達し、[[岩倉具視]]・九鬼隆一らも加わって大隈一派を政府内から一掃するクーデター（[[明治十四年の政変]]）が起こる事となった。福澤は、この事件に際して2,500字に及ぶ、人生で最も長い手紙を伊藤と[[井上馨]]に送ったが、聞き入れては貰えず、さらに井上毅が『[[大日本帝国憲法]]』、『[[旧皇室典範|皇室典範]]』、『[[教育勅語]]』、『[[軍人勅諭]]』の起草全てに参加したため、福澤は明治政府とこれ以後一切の付き合いを辞めることとなった。その他にも、[[東京府会議員]]副議長の辞職、[[東京学士会院]]も小幡篤次郎・[[栗本鋤雲]]ら福沢派学者と共に脱会するに至った&amp;lt;ref&amp;gt;「教育勅語への道」 ISBN 4883030016&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政変の後の福澤への明治政府の仕打ちは厳しく、政府主導で設立する予定だった『[[時事新報]]』も自らの手で創刊することになったが、明治15年（[[1882年]]）3月1日に創刊されるや否や1,500部全てを売る結果となり、この後、時事新報は一定の成功を収めることとなった。結局、明治31年（[[1898年]]）5月16日に[[広尾]]の別邸で行われた[[鎌田栄吉]]塾長就任披露の園遊会で[[伊藤博文]]が出席するまで伊藤との関係は修復されなかった。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には「'''唯大に求る所は国権皇張の一点に在るのみ'''」が掲げられ、福澤諭吉は明治10年（1877年）前後から自由民権運動を批判し始め、「国権論」を強調し始めた。明治15年3月28日の『[[圧制も亦愉快なる哉]]』や『[[時事小言]]』でも国権皇張を目的とすることが説かれ、国家の独立と富国強兵、官民調和を積極的に主張した。この国権論に、福澤の師・白石照山は激励の手紙を送っている。やはり『時事新報』の論調は著しく「[[国民主義]]」（ナショナリズム）に傾いているものが多く、明治初年には自由主義を標榜としてきたかのように思われた福沢の論調は、欧米列強のアジア侵略が刻々と迫ってくる時局認識もあってか、「'''国権皇張'''」を特に強調し始め、自由主義の楽観的な見解を警戒し始めた。このいわば明治の新しいナショナリズムは、のちに[[陸羯南]]や[[徳富猪一郎]]らによって模倣されていくこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その典型例は明治7年12月の『[[明六雑誌]]』第26号で、「外国人の内地雑居許す可からざるの論」で、我が国民利益を守るために外国人の[[内地雑居]]を許してはならないと主張。外国人の内地旅行を認めるべきであるという[[西周]]および[[津田真道]]に反論。攘夷論（[[外国]]の力を取り入れ、日本が[[植民地]]になること防ぐという概念）を唱え、[[不平等条約]]の結果、我が国貿易がこうむる不利益を警戒していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝鮮独立運動支援 ===&lt;br /&gt;
福澤は、朝鮮人愛国者・[[金玉均]]との出会いをきっかけにして、朝鮮の独立運動にも加担することになる。当時の朝鮮は日本の[[明治維新]]前夜の状況と酷似しており、小規模な武力闘争も起きていた（[[江華島事件]]）。福澤が日本の文明開化の立役者であるということは朝鮮にも知れ渡っており、明治14年（1881年）3月6日、金玉均は福澤と面会を果たし、朝鮮独立への協力を依頼した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治15年（1882年）7月23日、[[壬午事変]]が勃発すると、福沢は[[横浜正金銀行]]から17万円の借款を得、賠償金の一部に充当することができた。また、井上馨から国王の委任状があれば、さらに300万円の借款を供与するという提案を貰う。この時、金を支援するべく[[牛場卓蔵]]と[[井上角五郎]]を派遣。『[[漢城旬報]]』という朝鮮最初の新聞を発行する。井上は諭吉の助言に従い、朝鮮式かな混じり文を考案するべく朝鮮の文法学者と共に[[李朝]]第四代の王・[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]によって公布された[[訓民正音]]の研究を開始。国王・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の内諾を取り、新字体で紙面を構成し始める。これが今日の朝鮮文体『[[ハングル]]』である。朝鮮では大正9年（[[1920年]]）頃から呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後藤象二郎も協力し、フランス公使に艦隊を借りて、[[自由党]]の荘士で民兵を組織し、朝鮮半島に送り込む計画を立て始めたが、伊藤博文によって却下される。明治17年（[[1884年]]）12月4日、[[甲申事変]]が起こるも失敗。この直後の明治18年（1885年）3月16日、福沢は『時事新報』に『[[脱亜論]]』を発表し、その5か月後には社説『[[朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す]]』を発表する。内容は、「人民の生命も財産も独立国民の誇りも守ってやれないような国は、むしろ滅びてしまった方が人民のためだ。」という強烈なものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、金玉均は福沢邸にしばらく潜伏していたが、清の最高実力者・[[李鴻章]]の引渡しに応じ、[[日本郵船]]の[[西京丸]]で上海へ向かわせたが、無残にも暗殺されることとなった。その後、明治政府は[[日清戦争]]への道を歩み、福沢も開戦はやむなしとして[[南方熊楠]]から頼まれて、共に軍資金を寄附した。なお、上海で暗殺された金の供養のために法名をつけることを[[真浄寺]]住職[[寺田福寿]]に依頼し、寺田はただちに福沢の要請に応え、「'''古筠院釈温香'''」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官[[山崎英夫]]や[[朴泳孝]]などを福沢邸に招いて営んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら一連のアジア解放運動は、[[アジア主義]]団体として知られる[[黒龍会]]が、昭和8年（1933年）から同11年（1936年）にかけて編纂・刊行した『東亜先覚志士記伝』にも取り上げられている。また、紀州出身の[[大陸浪人]]・[[岡本柳之助]]とは面識があり（書簡）、同じく紀州出身の[[鎌田栄吉]]に岡本の活動を援助するように伝えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 教育支援 ===&lt;br /&gt;
[[教育令]]が思った通りにならず、福沢考案の田中不二麿や[[土佐藩]]出身の[[中島信行]]（後の自由党副総裁）の建言が、[[佐野常民]]と[[元田永孚]]、更には薩長派[[文部卿]]に転じた九鬼隆一によって潰され、教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、[[東京大学]]に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに福澤は勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、勝からは「そんな教育機関はさっさと止めて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、[[島津家]]に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は[[大学南校]]や[[大学東校]]、[[東京師範学校]]の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治13年（[[1880年]]）、伊藤博文から、西郷隆盛や板垣退助等と同じく政府に反発する者・[[自由民権運動]]の火付け役として睨まれていた福澤の立場は益々厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、[[渡部久馬八]]・[[門野幾之進]]・[[浜野定四郎]]の3人に経営を任せることにした。この頃から[[平民]]の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、私立の総合大学が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を[[大阪商業講習所]]や[[商法講習所]]で活躍させる一方、[[専修学校 (旧制)|専修学校]]や[[東京専門学校]]、[[英吉利法律学校]]の設立を支援し、開校式にも出席した。しかし東京専門学校などはあからさまに大隈重信嫌いの山縣有朋など薩長参議が潰そうとしてきた為、設立は困難を極め、開校式に大隈が15年間出席せず、「学問の独立」という取って付けた宣言を[[小野梓]]が発表するに留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治25年（[[1892年]]）には、長与専斎の紹介で[[北里柴三郎]]を迎えて、[[伝染病研究所]]や[[土筆ヶ岡養生園]]を[[森村市左衛門]]と共に設立していく。丁度帝国大学の構想が持ち上がっている頃だったが、慶應義塾に大学部を設置し[[小泉信吉]]を招聘して、一貫教育の体制を確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩年・年譜 ===&lt;br /&gt;
[[File:福澤公園1-慶應三田.jpg|200px|thumb|福澤邸の跡地にある福澤公園&amp;lt;BR/&amp;gt;明治時代にはこの場所から東京湾が一望出来た。]]&lt;br /&gt;
[[File:福澤公園2.jpg|200px|right|thumb|福澤の邸宅が存在した台地&amp;lt;BR/&amp;gt;([[慶應義塾大学]]三田キャンパス内)]]&lt;br /&gt;
[[File:馬留石.jpg|200px|right|thumb|福澤が馬を繋いだと伝えられる馬留石]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年は旅行や著作に多くの時間を費やし、旅行に出かける時は常に[[居合刀]]を携帯して、健康のために振った。自叙伝『福翁自伝』を記し始め、『時事新報』掲載の社説には[[明治政府]]の[[国家社会主義]]的な[[西洋化]]・[[近代化]]への批判（『[[民情一新]]』や明治維新以降のエセ文明より旧幕府のほうが良かったのではないかと言い切る等）、[[キリスト教]]を始めとした[[宗教]]批評&amp;lt;ref&amp;gt;「宗教の中には色々な宗派があるが、その違いは普通の茶と紅茶の違いぐらいであって、どちらを飲んでも大した違いはない」（1897年（明治30年）9月4日付「時事新報」社説）&amp;lt;/ref&amp;gt;など多岐に及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親友の木村芥舟と交遊しながら要人との会談も積極的に行い、[[木村浩吉 (海軍軍人)|木村浩吉]]（芥舟の息子）の推薦で[[山本権兵衛]]・[[後藤新平]]等、見込みのある人物との交流を行っている。また、旧幕人懇親会で福沢と同じく明治政府に出仕していなかった友人の栗本鋤雲が勝海舟に向かって「腰抜けは下がれ！」と大渇し、また『[[瘠我慢の説]]』の草稿をいち早く栗本に見せたため、内容が外部に漏れてしまうこととなったが、明治34年（[[1901年]]）[[1月1日]]から時事新報に連載が開始された。晩年までに出版された著作は、現在の『[[学問]]』『[[科学]]』領域にある分野についてほとんどが言及されており、そのほとんどが日本で始めて著されているもので、出版されていない作品も多く、また当時の時勢・文化・歴史上の人物評等が得られる貴重な歴史資料ともなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1879年（明治12年）：[[東京学士会院]]（現・[[日本学士院]]）初代会長就任。[[東京府会]]副議長に選出されるが辞退。『[[民情一新]]』刊。&lt;br /&gt;
*1880年（明治13年）：専修学校（現・[[専修大学]]）の創設に協力し、京橋区の福澤の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。11月、慶應義塾が塾生の激減により財政難に陥ったため、福澤は廃塾を決意するが、広く寄付を求める「慶應義塾維持法案」を発表して、門下生たちが奔走した結果、危機を乗り切る&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/39.html 「應義塾豆百科」No.39　慶應義塾維持法案]、慶應義塾。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*1881年（明治14年）：[[1月23日]]、「慶應義塾仮憲法」を制定、引き続き福澤が社頭となる。8月、[[明治十四年の政変]]が起き、政府要人と絶交する。[[上野]] - [[青森]]間の[[日本鉄道会社]]設立に助力。&lt;br /&gt;
*1882年（明治15年）：日刊新聞『[[時事新報]]』を創刊し、不偏不党・国権皇張の理念のもと、世論を先導した。『[[帝室論]]』刊。&lt;br /&gt;
*1887年（明治20年）：[[伊藤博文]]首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。&lt;br /&gt;
*1889年（明治22年）：8月、「慶應義塾規約」を制定。&lt;br /&gt;
*1890年（明治23年）：1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。&lt;br /&gt;
*1892年（明治25年）：[[伝染病研究所]]の設立に尽力（[[北里柴三郎]]が初代所長となる）。&lt;br /&gt;
*1893年（明治26年）：[[土筆ヶ岡養生園]]開設&lt;br /&gt;
*1894年（明治27年）：郷里、[[中津市|中津]]の景勝・競秀峰を自然保護のため買い取る。&lt;br /&gt;
*1895年（明治28年） - 1897年（明治30年）：[[箱根]]、[[京都]]、[[大阪]]、[[広島]]、[[伊勢神宮]]、[[山陽]]方面へ旅行に出る。&lt;br /&gt;
*1898年（明治31年）：5月、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立、政治科を増設。[[9月26日]]、[[脳出血]]で倒れ、いったん回復。&lt;br /&gt;
*1900年（明治32年）：[[1月21日]]、[[勝海舟]]没。多年に亘る著訳教育の功労により、[[皇室]]から金5万円を下賜される。[[8月8日]]、再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復。『[[修身要領]]』完成。[[12月31日]]、翌年の幕明けにかけて[[慶應義塾]]生らと[[19世紀]]と[[20世紀]]の「[[学校法人慶應義塾#世紀送迎会|世紀送迎会]]」を開催。[[日本]]では[[元号]]と[[神武天皇即位紀元]]が主流で、[[西暦]]・[[世紀]]の概念が普及していないなかの新しい試みであった。&lt;br /&gt;
*1901年（明治34年）：[[1月25日]]、再び脳出血で倒れる。[[2月3日]]、再出血し、午後10時50分死去。葬儀の際、遺族は福澤の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である[[大隈重信]]が涙ながらにもってきた花を、福沢家は黙って受け取った。また、死によせて[[福地源一郎]]が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。[[爵位]]を断る。[[2月7日]]、[[衆議院]]において満場一致で哀悼を決議&amp;lt;ref&amp;gt;決議文の内容は次の通り。「衆議院ハ夙ニ開国ノ説ヲ唱ヘ力ヲ教育ニ致シタル福澤諭吉君ノ訃音ニ接シ茲ニ哀悼ノ意ヲ表ス」（[[片岡健吉]]ほか6名提出）。[[井上角五郎]]が提出者を代表して、説明のため登壇した。明治34年2月8日付「官報」号外、衆議院議事録（「第15回帝国議会・衆議院議事録・明治33.12.25 - 明治34.3.24」、国立公文書館（ref:A07050006700）。）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。2月8日、葬儀が執り行われる。生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/62.html 「慶應義塾豆百科」No.62　塾葬」]、慶應義塾&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓 ===&lt;br /&gt;
[[File:福澤諭吉終焉之地.jpg|250px|thumb|福澤諭吉終焉之地]]&lt;br /&gt;
福澤は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されている（旧居の基壇の一部が今も残る）。[[戒名]]は「'''大観院独立自尊居士'''」で、麻布山[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]にその墓がある。命日の2月3日は[[雪池忌]]（ゆきちき）と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和52年（[[1977年]]）、最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、遺体が[[ミイラ]]（[[死蝋]]）化して残っているのが発見された。外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま[[荼毘]]にふされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・思想 ==&lt;br /&gt;
[[File:天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず.jpg|250px|thumb|「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」&amp;lt;BR/&amp;gt;[[慶應義塾大学]][[慶應義塾の建造物#三田キャンパス|東館]]に刻まれている[[ラテン語]]で書かれた言葉]]&lt;br /&gt;
[[File:Tsukuniya.jpg|250px|thumb|福澤馴染みの酒屋｢[[津國屋]]｣&amp;lt;BR/&amp;gt;[[三田 (東京都港区)|三田]]に現存]]&lt;br /&gt;
* 『福翁自伝』には万延元年（[[1860年]]）5月から文久元年（[[1861年]]）12月までと、元治元年（[[1864年]]）10月から慶応3年（[[1867年]]）1月までの二つの重要な幕末の時期について、言及がない。どうやら元治年間以降については、[[徳川慶喜]]を頂点としつつ[[大鳥圭介]]・[[小栗忠順]]・[[太田黒伴雄]]らを与党とする実学派（[[公武合体]]派）の人々と連携して、長州の[[久坂玄瑞]]や[[高杉晋作]]を始め、[[尊王攘夷]]派に対抗する活動に従事していたと分析されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h78/ 『福澤諭吉』あとがき全文] [[平山洋]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この他にも、自伝には意図的に書かれていない活動が多く存在する。&lt;br /&gt;
* 同世代の思想家を挙げると、[[橋本左内]]とは同年代、[[坂本龍馬]]は一つ年下、高杉晋作は五つ年下、[[吉田松陰]]で四つ年上。これら[[幕末]]の人物と同世代であるというイメージが世間一般ではすらりと出にくいとされる&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（上）第一講&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 同時代の思想家で、最も共通しているといわれているのは[[横井小楠]]で、小楠が唱えた天意自然の理に従うという理神論「天の思想」と福沢の人生観が合致するとされている&amp;lt;ref&amp;gt;『横井小楠とその弟子たち』 評論社 ASIN B000J8E88I&amp;lt;/ref&amp;gt; 。&lt;br /&gt;
* 文久3年（1863年）春頃から『姓名録』（『慶應義塾入社帳』29冊現存）を付け始め、入塾者を記録し始めた。これ以前およびのちの数年の正確な入塾者については明らかになっていない。&lt;br /&gt;
* [[第二次長州征伐]]では、徹底的に[[長州藩]]を討つべしと幕府に建言し、「尊王攘夷などというものは長州のいい加減な口実で、世を乱すものにすぎない」と進言した&amp;lt;ref&amp;gt;『長州再征に関する建白書』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 福澤の著書には、しばしば儒学者の[[荻生徂徠]]が出てくるが、思想には影響を受けた大儒であってもやはり[[漢学者]]には心酔者が多いのでだめである。と論じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（上）第一講&amp;lt;/ref&amp;gt; &lt;br /&gt;
* 文明の本質を「'''人間交際'''」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた&amp;lt;ref&amp;gt;『民情一新』&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* [[孔子]]と[[孟子]]を「古来稀有の思想家」としたうえで、儒教的な「[[政教一致]]」の欠点を指摘した&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（中）第八講&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* 期待していた[[水戸藩]]が維新前に[[水戸学]]の[[立原翠軒]]派と[[藤田幽谷]]派の[[内ゲバ]]や[[天狗党の乱]]で分裂してしまったことを例に挙げ、学問や政治の宗教化を厳しく批判し、その他[[宗教]]的なものは一切認めないと論じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（上）第十一講&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* [[徳川家康]]を「'''奸計の甚しきものを云ふ可し'''」としてやや批判的に論じ、[[豊臣秀吉]]を非常に高く評価した&amp;lt;ref&amp;gt;[[丸山眞男]]「文明論之概略」を読む（中）第十一講&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* 「'''古来唯一の忠臣義士'''」として[[佐倉惣五郎]]を挙げた&amp;lt;ref&amp;gt;『学問のすすめ』第七編&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 明治15年3月13日の時事新報にて『[[僧侶論]]』と題する社説を掲載。[[仏教]]界の保護を訴え、[[キリスト教]]排撃論を説いた（しかしのちに容認の態度も取った）。&lt;br /&gt;
* [[大久保利通]]から[[政体取調掛]]を命じられ、[[細川潤次郎]]が邸宅に赴いたとき「'''学者を誉めるなら 豆腐屋も誉めろ'''」といって明治政府の招聘を断った&amp;lt;ref&amp;gt;[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=349 福翁自傳-349 ページ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
* 明治政府内では[[大鳥圭介]]と[[後藤象二郎]]びいきで、「相撲や役者のように政治家にも贔屓というものがありますが、私は後藤さんが大の贔屓なのです。」と語り、福沢邸から歩いて20分ほどの距離にあった後藤の屋敷（現在の[[高輪プリンスホテル]]周辺）には頻繁に行き来していた。大鳥に関しては適塾時代からの友人で、『[[痩我慢の説]]』でも大鳥は批判されていなかった。  &lt;br /&gt;
* 特に後藤象二郎との交遊は深く、明治30年（1897年）に後藤が亡くなると、時事新報に『後藤伯』と題する社説を掲載。「風雷一発、天地を振るい動かして、積り積もった諸悪をはらい除いて清めることは、非常大胆の豪傑でなければ出来ない。後藤伯のごときは、この一点において、満天下唯一の人物である。」と後藤の死を惜しんだ。&lt;br /&gt;
* [[立憲改進党]]が結党式を挙げる際に[[京橋]]の[[明治会堂]]を[[大隈重信]]に貸し出してやったことがある。このように、後輩思いで頼まれると中々断れないという[[お人好し]]な面が強かったようである&amp;lt;ref&amp;gt;[[会田倉吉]] 人物叢書 日本歴史学会編 第198項&amp;lt;/ref&amp;gt; &lt;br /&gt;
* 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は福沢の言と誤解されることが多いが、[[学問のすゝめ|学問のスゝメ]]冒頭には「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず'''と言えり'''」と書かれており、正しくは福沢の言ではない。出典元は諸説あるが、[[トーマス・ジェファーソン]]によって起草されたといわれるアメリカの独立宣言の一節を意訳したものというのが有力説である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/22.html 慶應義塾豆百科]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[緒方洪庵]]の他に自伝でも触れられている英雄の一人が[[江川英龍]]で、寒中袷一枚で過ごしているのを聞いて自分も真似たという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/egawa/egawa10.htm 江川太郎左衛門(１)]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『時事新報』は、1888（明治21）年3月23日、日本で初めて新聞紙上に[[天気予報]]を掲載した。晴れや雨を表すイラストは現在の天気予報で使用されているお天気マークの元祖である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html 日本で初めて新聞に 天気予報 を掲載]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『西洋旅案内』は外国為替や近代的な保険制度について書かれた日本最初の文献である。&lt;br /&gt;
* 明治3年（1870年）5月中旬、発疹チフスを患うと、元福井藩主・[[松平春嶽]]が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用。大学東校の宇都宮三郎のもとで、わが国で初めて機械によって氷を製造した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html 福澤先生の大病が絡んだ製氷器事始め]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『[[文明論之概略]]』は[[新井白石]]の『[[読史余論]]』から影響を受けており、維新の動乱の最中、程度の高い成人向けに「なかんずく儒教流の故老に訴えてその賛成をうる」ことを目的とし、故[[西郷隆盛|西郷南州]]なども通読したることになった&amp;lt;ref&amp;gt;小泉信三 『福沢諭吉』 岩波新書&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 福澤の代表的な[[言葉]]で[[戒名]]にも用いられた言葉が「'''[[独立自尊]]'''」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」（『[[修身要領]]』第二条）。&lt;br /&gt;
* 晩年の自伝である『[[福翁自伝]]』において、適塾の有様について「塾風は不規則と云（い）わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉（ろうぜき）、丸で物事に無頓着（むとんじやく）。その無頓着の極（きよく）は世間で云（い）うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止（と）めない。」と記している&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「不潔に頓着せず」（65頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=118 福翁自傳 - 118 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* ベストセラーになった『[[西洋事情]]』や『文明論之概略』などの著作を発表し、[[明治維新]]後の日本が[[中華思想]]、[[儒教]]精神から脱却して[[西洋文明]]をより積極的に受け入れる流れを作った（[[脱亜思想]]）。&lt;br /&gt;
* 『時事新報』に『兵論』という社説を寄稿し、官民調和の基で増税による軍備拡張論を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/15.html 時事新報史 第15回：朝鮮問題①　壬午事変の出兵論] 都倉武之 慶應義塾大学出版会&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵（かたき）」と激しく嫌悪した。その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として[[中華思想]]からなる[[冊封体制]]を維持していた[[清]]や[[李氏朝鮮]]の支配層にも向けられた。一方で、[[榎本武揚]]や[[勝海舟]]のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「[[オポチュニスト]]」と徹底的に批判する一面もある（『[[瘠我慢の説]]』）。&lt;br /&gt;
* 幼少期より[[酒]]を嗜み、[[月代]]を剃るのを嫌がるのを母親が酒を飲ますことを条件に我慢させたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「大阪修行」の章にある「書生の生活酒の悪癖」（57頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=103 福翁自傳 - 103 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。後年、禁酒する代わりに[[喫煙]]の習慣を持ったが、結局、両方とも嗜むことになってしまった&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「禁酒から烟草」（76-77頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=137 福翁自傳 - 137 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。三田の酒屋[[津國屋]]を贔屓との店とし、自ら赴き酒を購入することもあった。&lt;br /&gt;
* 適塾時代に覚えた[[煙草]]を晩年まで好み、太い[[キセル]]で煙草をふかしたことから、塾生からは「[[海賊]]の親分」との愛称を貰っていたようである&amp;lt;ref&amp;gt;北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』P156、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 宗教については淡白で、『[[福翁自伝]]』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有（ありがた）いだのということは一寸（ちよい）ともない。卜筮呪詛（うらないまじない）一切不信仰で、狐狸（きつねたぬき）が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂 『新訂　福翁自伝』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「幼少の時」の章にある「稲荷様の神体を見る」（23頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=44 福翁自傳 - 44 ページ ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。&lt;br /&gt;
* [[会計学]]の基礎となる[[複式簿記]]を日本に紹介した人物でもある。[[借方]][[貸方]]という語は福澤の訳によるもの。&lt;br /&gt;
* 日本に近代[[保険]]制度を紹介した。福澤は『[[西洋旅案内]]』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合（生命保険）、火災請合（火災保険）、海上請合（海上保険）の三種の災難請合について説いている。&lt;br /&gt;
* 昭和59年（[[1984年]]） - 平成16年（[[2004年]]）発行の[[日本銀行券]]D号1万円札、現行のE号1万円札の肖像にも使用されている。そのせいか、「ユキチ」が一万円札の代名詞として使われることもある。このことから派生して、一万円札の枚数を言う時に1人、2人などのように人数を数えるように言うことがあり、一万円札の代名詞でもある。&lt;br /&gt;
* 現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、[[昭和]]59年（[[1984年]]）[[11月1日]]の新紙幣発行に際して、最初の[[大蔵省]]理財局の案では、十万円札が[[聖徳太子]]、五万円札が[[野口英世]]、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった&amp;lt;ref&amp;gt;北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』（7-9頁）、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福澤諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記される&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アジア近隣諸国に対して ===&lt;br /&gt;
福澤は、アジアの「改革勢力」の支援を通じて近隣諸国の「[[近代化]]」に力を注いでいる。[[李氏朝鮮]]の[[金玉均]]などを支援しているし、漢文とハングルの混合文を発案するとともに、朝鮮で初めての[[ハングル]]交じりの[[新聞]]『[[漢城周報]]』へと発展する『[[漢城旬報]]』（漢字表記）の創刊にも私財を投じて関わっている。また朝鮮からの留学生も1881年（明治14年）6月から慶應義塾に受け入れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日清戦争に関して ===&lt;br /&gt;
[[日清戦争]]は、[[1894年]]（明治27年）7月から[[1895年]]（明治28年）4月にかけておこなわれた。福澤は『時事新報』1894年（明治27年）8月14日号に署名入りの「私金義捐に就いて」を掲載し、開戦となった以上、戦勝のために義捐金を寄せて欲しいと訴えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年の自伝『[[福翁自伝]]』の「老余の半生」では、&lt;br /&gt;
{{Quotation|顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有（ありがた）いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました。}}&lt;br /&gt;
と述べている。&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「老余の半生」の章にある「行路変化多し」（316頁）を参照。[[近代デジタルライブラリー]]収録の『[[福翁自伝]]』では[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018839&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=280&amp;amp;ITYPE=0 547] - [http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018839&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=281&amp;amp;ITYPE=0 548頁]を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=565 福翁自傳 - 565 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福澤の男女同等論 === &lt;br /&gt;
福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、「人倫の大本は夫婦なり」として[[一夫多妻制|一夫多妻]]や[[妾]]をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;[[青空文庫]]の『[http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card46890.html 中津留別の書]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、[[ハインリッヒ・フォン・シーボルト]]夫人に芸事の指導を頼んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治7年（1874年）に発足した慶應義塾幼稚舎が、明治10年（1877年）以降しばらくの間、男女を共に教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、福澤の男女同等論に近いものであったり彼もそれを支持したが、士族系の反対があったため父家長制のものに書き換えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 私生活 ===&lt;br /&gt;
文久元年（[[1861年]]）、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女錦と結婚し、四男五女の9人の子供をもうけた。松山棟庵によると、福澤は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという&amp;lt;ref&amp;gt;松山棟庵「故福澤翁」（慶應義塾学報 臨時増刊39号『福澤先生哀悼録』[[みすず書房]]、1987年3月、ISBN 4-622-02671-6、193-194頁）[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h30/02/#id_2_0_3 伝記作家石河幹明の策略―その2― 2.0.3項]参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
或時先生にお話すると「左樣か、性來の健康の外に別段人と異つた所もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前にも後にも、未だ嘗て一度も婦人に接した事がない、隨分方々を流浪して居るし、緒方塾に居た時は放蕩者等を、引ずつて來るために不潔な所に行つた事もあるが、金玉の身体をむざ／＼汚す様な機會をつくらぬのだ」と先生は嘘をつく方ではない、先生の御夫婦ほど純潔な結合が、今の世界に幾人あるだらう&lt;br /&gt;
&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 居合の達人 ===&lt;br /&gt;
福澤は、若年の頃より立見新流[[居合]]の修練を積み、成人の頃に[[免許皆伝]]を許された居合の達人であった。ただし、福澤は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、剣を持って戦った事はなく逃げている。無論、逃げる事は最も安全な護身術であるが、福澤自身、居合はあくまでも求道の手段であり殺人術でないと考えていたと思われ、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことが無かった勝海舟・[[山岡鉄舟]]の思想と似ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。医学者の[[土屋雅春]]は福澤の死因の一つに居合のやりすぎを挙げている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000348758 『医者のみた福澤諭吉』]&amp;lt;/ref&amp;gt;。晩年まで一日千本以上行っていた居合日記を付けており、これでは逆に健康を害すると分析されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治中期より武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「再度米国行」の章にある「刀剣を売り払う」（162頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=285 福翁自傳 - 285 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。はやりものに対して[[シニカル]]な一面もうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 福澤と勝海舟 ===&lt;br /&gt;
福澤諭吉は、[[勝海舟]]の批判者であり続けた。[[戊辰戦争]]の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である[[咸臨丸]]の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件（[[清水次郎長]]が埋葬し男を上げた意味でも有名）で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の[[清見寺]]内に立てられるが、福澤は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が[[榎本武揚]]と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事（人の食（禄）を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味）」を見ると激怒したという&amp;lt;ref&amp;gt;次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲という[[アウトロー]]が尊ぶ精神構造と似ていたせいか福澤と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[瘠我慢の説]]』という公開書簡によって、海舟と[[榎本武揚]]（共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた）を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家の名誉回復と存続に大変な労力を裂いており、現在では大局として[[徳川家]]という狭い枠にとどまらず、日本の為に尽くしたと評価されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現に明治維新という急激な改革に諸藩の不平[[士族]]たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついに背くことがなかった。これは勝や[[大久保一翁]]、[[山岡鉄舟]]らの尽力によるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお福澤は勝に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある&amp;lt;ref&amp;gt;1878年（明治11年）4月11日の日記に記載。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
当時慶應義塾の経営は薩摩藩学生の退学等もあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた勝に援助を求めた。だが勝は福澤が政府から払い下げられた1万4千坪に及ぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていた為、土地を売却しても尚（慶應義塾の経営に）足りなかったら相談に乗ると答えたが、福澤は三田の土地を非常に気に入っていた為、遂に売却していない。瘠我慢の説発表はこの後のことである。また、『[[福翁自伝]]』で福澤は借金について以下のように語っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[富田正文]]校訂　『新訂　[[福翁自伝]]』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「一身一家経済の由来」の章にある「仮初にも愚痴を云わず」（270-271頁）を参照。[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=116&amp;amp;PAGE=482&amp;amp;KEY=%E6%B5%81%E5%84%80 福翁自傳 - 482 ページ]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;blockquote&amp;gt;「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗（かつ）て人に相談しようとも思わなければ、人に喙（くちばし）を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝海舟も福沢と同様に身なりにはあまり気を遣わない方であったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日、上野精養軒の明六社へ尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた勝が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか？日本が貧乏になってきたからシナに強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかましく言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福沢さん、儲けたらちっとあげます。」と言ってからかったという&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=北康利|authorlink=北康利|year=2007|month=3|title=福沢諭吉 国を支えて国を頼らず|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-213884-0}}（226頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、勝は福澤のことを学者として一目置いており、自分が学んだ[[佐久間象山]]の息子の[[佐久間恪二郎]]や、[[徳川慶喜]]の十男で養子の、[[勝精]]を慶應義塾に入学させる等面倒見のよい一面もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝は晩年、福沢に自身の『[[海軍歴史]]』という書を贈っているが、内容は木村喜毅の功績を始めとする他人の功績を全て勝が横取りした内容となっており、これを見た福沢はますます勝と疎遠となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小泉信三はその著『福沢諭吉』の中で「咸臨丸がたまたま日本の近世史上に大きな役目を勤めた、勝海舟と福沢諭吉という両人物を同乗させたことは一つの奇縁」としながらも、明治以後疎遠となった2人は本来気質的に合わなかったと分析した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 西洋医学 ===&lt;br /&gt;
[[土屋雅春]]の『医者のみた福澤諭吉』（[[中央公論社]]、中公新書）や[[桜井邦朋]]の『福沢諭吉の「科學のススメ」』（[[祥伝社]]）によれば、福澤と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。&lt;br /&gt;
; 『蘭学事始』の出版 &lt;br /&gt;
: [[杉田玄白]]が記した『[[蘭学事始#経緯|蘭東事始]]』の写本を、福澤の友人[[神田孝平]]が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である[[杉田廉卿]]の許可を得て、福澤の序文を附して、[[明治]]2年（[[1869年]]）に『[[蘭学事始]]』として出版した。さらに、[[1890年]]（明治23年）[[4月1日]]には、再版を「蘭学事始再版序」を附して[[日本医学会]]総会の機会に出版している。&lt;br /&gt;
[[ファイル:The Institute of Medical Science Tokyo Japan Medical Science Museum 20070127 0076.jpg|250px|right|thumb|「[[伝染病研究所]]｣の外観を再現した「[[近代医科学記念館]]｣&amp;lt;BR/&amp;gt;([[東京大学医科学研究所]]内)]]&lt;br /&gt;
; 北里柴三郎への支援&lt;br /&gt;
: [[1892年]]（明治25年）にドイツ留学から帰国した[[北里柴三郎]]のために、東京柴山内に[[大日本私立衛生会]][[伝染病研究所]]（伝研）を設立して、北里を所長に迎えた。[[1894年]]（明治27年）には、伝研は芝愛宕町に移転した。移転の際に住民から反対運動が起こったので、福澤は次男[[福澤捨次郎|捨次郎]]の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。[[1899年]]（明治32年）に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、福澤と[[長与専斎]]と[[森村市左衛門]]とが創設した[[土筆ヶ岡養生園]]に移った。&lt;br /&gt;
; 慶應義塾医学所の創設&lt;br /&gt;
: 明治3年（[[1870年]]）、慶應義塾の塾生[[前田政四郎]]のために、福澤が英国式の医学所の開設を決定した。そして[[1873年]]（明治6年）、慶應義塾内に医学所を開設した。所長は慶應義塾出身の医師[[松山棟庵]]が就任した。また、[[杉田玄端]]を呼んで[[尊王舎]]を医学訓練の場所とした。なお、[[1880年]]（明治13年）6月、医学所は閉鎖されることになった。&lt;br /&gt;
: しかし、福澤の死後15年たった[[1916年]]（[[大正]]5年）[[12月27日]]、慶應義塾に医学部の創設が許可され、[[1917年]]（大正6年）3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 研究・評価史 ==&lt;br /&gt;
=== 日本における福沢研究をめぐる論争 ===&lt;br /&gt;
{{main|脱亜論|安川・平山論争}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「脱亜論」再発見から ====&lt;br /&gt;
[[太平洋戦争]]後、歴史学者[[服部之総]]や[[遠山茂樹]]らによって福沢の「脱亜論」が再発見され、福澤は[[アジア]]諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者であると批判された&amp;lt;ref&amp;gt;服部之総論文「東洋における日本の位置」、遠山茂樹論文「日清戦争と福沢諭吉」(1951)（遠山茂樹著作集第5巻所収、岩波書店,1992&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[丸山真男]]は[[服部之総]]の福沢解釈を「論敵」としていたといわれる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h07/#id_2_1 東谷暁インタビュー 平山洋]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年（平成13年）、[[朝日新聞]]に掲載された[[安川寿之輔]]の論説「福沢諭吉　アジア蔑視広めた思想家&amp;lt;ref&amp;gt;2001年（平成13年）4月21日付「[[朝日新聞]]」に掲載&amp;lt;/ref&amp;gt;」に、[[平山洋]]が反論「福沢諭吉　アジアを蔑視していたか」&amp;lt;ref&amp;gt;同年[[5月12日]]付同紙）&amp;lt;/ref&amp;gt;を掲載したことで、いわゆる「[[安川・平山論争]]」が始まった。&amp;lt;ref name=&amp;quot;hirayama_shinjitsu&amp;quot;&amp;gt;平山洋『福沢諭吉の真実』[[文藝春秋]]〈文春新書394〉、2004年、ISBN 4-16-660394-9&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 安川・平山論争 ====&lt;br /&gt;
平山は、[[井田進也]]の文献分析を基礎に&amp;lt;ref&amp;gt;「歴史とテクスト　西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年&amp;lt;/ref&amp;gt;、福沢のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で、『時事新報』の主筆を務め、『[[福澤全集]]』を編纂した[[石河幹明]]の作為にみる&amp;lt;ref&amp;gt;前掲書&amp;lt;/ref&amp;gt;。平山によれば、福澤は[[支那]]（[[中国]]）や[[朝鮮]][[政府]]を批判しても、[[民族]]そのものをおとしめたことはなかった。だが、たとえば[[清]]の兵士を[[ブタ|豚]]になぞらえた論説など、[[差別]]主義的内容のものは、石河の論説であり、全集編纂時に、福澤のものと偽って収録したのだという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながらこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を[[文献学]]（テキストクリティーク）的に確定しないことには決着がつかない&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h07/#id_2_1 東谷暁インタビュー 平山洋]また[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/9.html 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1)　〜論説執筆者認定論争〜]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[井田進也]]は無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「[[時事新報]]論説」執筆者再認定作業を開始している&amp;lt;ref&amp;gt;「歴史とテクスト　西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年&amp;lt;/ref&amp;gt;。今後の研究がまたれるところである&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/9.html 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1)　〜論説執筆者認定論争〜]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 「時事新報」無署名論説 ====&lt;br /&gt;
[[平山洋]]は、井田の分析を基に、現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の「時事新報論集」はその大部分が無署名であることを指摘したうえで、大正時代の『福沢全集』（1925～26）と昭和時代の『続福沢全集』（1933～34）の編纂者であった弟子の[[石河幹明]]が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録している、とした。さらに現行版『全集』（1958～64）の第一六巻には福沢の没後数ヵ月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している&amp;lt;ref&amp;gt;平山洋、2004、『福沢諭吉の真実』、文藝春秋〈文春新書394〉&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人気度 ===&lt;br /&gt;
2000年3月12日付で[[朝日新聞]]が企画した「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7863票のうち、第6位の豊臣秀吉（382票）に次ぐ第7位（330票）にランクインするなど、国民的な人気がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[朝日新聞]]2000年3月12日、1位・[[坂本龍馬]]、2位・[[徳川家康]]、3位・[[織田信長]]、4位・[[田中角栄]]、5位・[[吉田茂]]、6位・[[豊臣秀吉]]、7位・[[福澤諭吉]]、8位・[[西郷隆盛]]、9位・[[市川房枝]]、10位・[[伊藤博文]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アメリカ合衆国における評価 ===&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 台湾における評価 ===&lt;br /&gt;
元[[中華民国総統]][[李登輝]]は、講演『学問のすゝめと日本文化の特徴』で、福澤について、欧米を日本に紹介するだけではなく、[[学問のすゝめ]]を著わすことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/world/china/080923/chn0809232017002-n1.htm 李登輝元総統が「学問のすゝめと日本文化の特徴」をテーマに講演] 産経ニュース 2008.9.23&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 韓国における評価 ===&lt;br /&gt;
[[朝日新聞]]によれば、[[大韓民国]]において、脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは、[[1970年]]以降であり&amp;lt;ref&amp;gt;ソウル大国際問題研究所の姜相圭による&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[1980年代]]に日本で[[歴史教科書問題]]が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っているという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html  朝日新聞〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福澤が援助した[[李氏朝鮮]]の[[開化派]]は、その中心にいた[[朴泳孝]]が[[日本統治時代の朝鮮]]において[[爵位]]を得るなどの厚遇を得て、[[金玉均]]は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では[[親日派]]と見なされ、福澤への関心もほとんど無かったものと推測される。[[金玉均]]に対する評価は[[北朝鮮]]の方が高く&amp;lt;ref&amp;gt;[[1960年代]]にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。&amp;lt;/ref&amp;gt;、それを受けた形で、[[在日韓国・朝鮮人|在日]]歴史研究家の[[姜在彦]]が[[1974年]]（昭和49年）に「金玉均の日本亡命」を発表し&amp;lt;ref&amp;gt;『歴史と人物』誌上&amp;lt;/ref&amp;gt;、福澤に触れていて、「最近の研究で明らかにされてきているように、福沢の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、福沢を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は福沢に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている&amp;lt;ref&amp;gt;姜在彦『朝鮮の攘夷と開化　近代朝鮮にとっての日本』平凡社、1987年。ISBN 4-582-82251-7&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の韓国におけるごく一般的な福沢像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている&amp;lt;ref&amp;gt;その典型的な例を挙げれば、[[2001年]]の[[中央日報]]、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18616&amp;amp;servcode=100&amp;amp;sectcode=100 【噴水台】ユーロ貨の橋]の次のような文言：「日本の１万円札には19世紀末、'''韓国を征伐するよう主張した'''福沢諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」&amp;lt;/ref&amp;gt;。一般的に、韓国における福澤は、往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、福澤の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、[[神功皇后]]伝説や[[豊臣秀吉]]にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捕らえられている。[[1990年代]]あたりから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、[[1996年]]（平成8年）の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』&amp;lt;ref&amp;gt;韓桂玉『「征韓論」の系譜』三一書房、1996年。ISBN 4-380-96291-1&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[2006年]]の琴秉洞&amp;lt;ref&amp;gt;[[在日本朝鮮人総聯合会|総連]]系の学者で金玉均の研究家&amp;lt;/ref&amp;gt;『日本人の朝鮮観　その光と影』&amp;lt;ref&amp;gt;琴秉洞著『日本人の朝鮮観　その光と影』明石書店、2006年。ISBN 4-7503-2415-9&amp;lt;/ref&amp;gt;を挙げることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年代におけるこういった韓国の状況が、福澤に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、[[安川寿之輔]]が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。[[高嶋伸欣]]が[[1992年]]（平成4年）に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ、訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、福澤を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに福澤研究に取り組んだという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『福沢諭吉と朝鮮』の著者・杵淵信雄は、安川とはちがい、「脱亜論の宣言を注視するあまり、（福澤は）アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、福澤の侵略性を強調する立場ではないが、[[1997年]]（平成9年）の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ福沢の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している&amp;lt;ref&amp;gt;杵淵信雄『福沢諭吉と朝鮮　時事新報社説を中心に』彩流社、1997年。ISBN 4-88202-560-4&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、1990年代の韓国において、福澤研究に取り組む研究者が複数現れたことを、林宗元は述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10005325-20080000-0259 韓国における福沢諭吉: 一九九〇年代における福沢諭吉の研究状況を中心に　林, 宗元(Lim, Jong-won)韓国関東大学校教授　慶應義塾大学学術情報リポジトリ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。林宗元の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と福澤を比較するもの、福澤と朝鮮開化派との関係を追求するもの、福澤の反儒教論を批判分析するものなど、多岐にわたっていて、否定的なものばかりではないことが注目される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2000年代に入り、こういった学問的取り組みと平行して、近代化の旗手としての福澤への一定の理解が、新聞論調にも見えはじめる&amp;lt;ref&amp;gt;中央日報、[[2002年]]の[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=24262&amp;amp;servcode=100&amp;amp;sectcode=100 【噴水台】ブッシュと福沢]においては、「多様な翻訳・著述を通じて西洋学術・科学用語を日本語に移すことによって、日本はもちろん韓国・中国にまで大きな影響を及ぼした」という率直な評価が述べられている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[2004年]]（平成16年）前後に登場した[[ニューライト]]は、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、[[日本統治時代の朝鮮]]における近代化も認める立場をとっていて、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど、新しい風を巻き起こした。そんな中で同年、林宗元によって、[[福翁自伝]]が韓国語に訳され、出版されたことも、韓国における福澤像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙は軒並み好意的な書評をよせ、[[ハンギョレ]]は「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、韓国において福澤に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい&amp;lt;ref&amp;gt;[[朝日新聞]]、[http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html  〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2005年]]、[[ニューヨークタイムズ]]の東京支局長[[ノリミツ・オオニシ]]は「日本人の嫌韓感情の根底には福澤の脱亜論がある」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=950CE0D91E3EF93AA25752C1A9639C8B63 Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japan] &amp;lt;/ref&amp;gt;とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び、福澤を「アジアを見下して侵略を肯定した[[嫌韓]]の父であり[[右翼]]の元祖」と評してもいる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=119108&amp;amp;servcode=A00&amp;amp;sectcode=A00 【その時の今日】福沢諭吉…侵略戦争正当化した日本右翼の元祖] 中央日報 2009.08.12&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=69808&amp;amp;servcode=700&amp;amp;sectcode=700 「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」NYT紙] 中央日報 2005.11.20&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[筑波大学]]の稲葉継雄は、韓国で福澤の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hdl.handle.net/2241/13533 井上角五朗と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に]筑波大学 稲葉継雄&amp;lt;/ref&amp;gt;、韓国における福澤像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作等 ==&lt;br /&gt;
=== 主な著書 ===&lt;br /&gt;
{{col-begin}}&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* 『[[増訂華英通語]]』&lt;br /&gt;
* 『[[西洋事情]]』&lt;br /&gt;
* 『[[雷銃操法]]』&lt;br /&gt;
* 『[[西洋旅案内]]』&lt;br /&gt;
* 『[[条約十一国記]]』&lt;br /&gt;
* 『[[西洋衣食住]]』&lt;br /&gt;
* 『[[兵士懐中便覧]]』&lt;br /&gt;
* 『[[訓蒙窮理図解]]』&lt;br /&gt;
* 『[[洋兵明鑑]]』&lt;br /&gt;
* 『[[掌中万国一覧]]』&lt;br /&gt;
* 『[[英国議事院談]]』&lt;br /&gt;
* 『[[清英交際始末]]』&lt;br /&gt;
* 『[[世界国尽]]』&lt;br /&gt;
* 『[[啓蒙手習之文]]』&lt;br /&gt;
* 『[[学問のすゝめ]]』&lt;br /&gt;
* 『[[ひびのおしえ]]』&lt;br /&gt;
* 『[[童蒙教草]]』&lt;br /&gt;
* 『[[かたわ娘]]』&lt;br /&gt;
* 『[[改暦弁]]』&lt;br /&gt;
* 『[[帳合之法]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本地図草紙]]』&lt;br /&gt;
* 『[[文字之教]]』&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* 『[[会議弁]]』&lt;br /&gt;
* 『[[文明論之概略]]』&lt;br /&gt;
* 『[[学者安心論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[分権論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[民間経済録]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤文集]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通貨論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通俗民権論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通俗国権論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[民情一新]]』&lt;br /&gt;
* 『[[国会論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[時事小言]]』&lt;br /&gt;
* 『[[時事大勢論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[帝室論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[兵論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[徳育如何]]』&lt;br /&gt;
* 『[[学問之独立]]』&lt;br /&gt;
* 『[[全国徴兵論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[通俗外交論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本婦人論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本婦人論後編]]』&lt;br /&gt;
* 『[[士人処世論]]』&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* 『[[品行論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[男女交際論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[日本男子論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[尊王論 (書名)|尊王論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[国会の前途]]』&lt;br /&gt;
* 『[[国会難局の由来]]』&lt;br /&gt;
* 『[[治安小言]]』&lt;br /&gt;
* 『[[地租論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[実業論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤全集緒言]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤全集]]』&lt;br /&gt;
* 『[[修業立志編]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福翁百話]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福翁百余話]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福澤先生浮世談]]』&lt;br /&gt;
* 『[[女大学評論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[新女大学]]』&lt;br /&gt;
* 『[[明治十年丁丑公論]]』&lt;br /&gt;
* 『[[瘠我慢の説]]』&lt;br /&gt;
* 『[[福翁自伝]]』&lt;br /&gt;
* 『[[旧藩情]]』&lt;br /&gt;
* 『[[唐人往来]]』&lt;br /&gt;
{{col-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著作集 ===&lt;br /&gt;
『[http://www.keio-up.co.jp/yukichi/ 福澤諭吉著作集] （全12巻）』が、2002～03年に[[慶應義塾大学出版会]]で刊行。&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408772 西洋事情]』※、ISBN 4-7664-0877-2&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408780 世界国尽　窮理図解]』、ISBN 4-7664-0878-0&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408799 学問のすゝめ]』※、ISBN 4-7664-0879-9&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408810 文明論之概略]』※、ISBN 4-7664-0880-2&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408810 学問之独立　慶應義塾之記]』、ISBN 4-7664-0881-0&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408829 民間経済録　実業論]』、ISBN 4-7664-0882-9&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408837 通俗民権論　通俗国権論]』、ISBN 4-7664-0883-7&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408845 時事小言　通俗外交論]』、ISBN 4-7664-0884-5&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408853 丁丑公論　瘠我慢の説]』、ISBN 4-7664-0885-3&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408861 日本婦人論　日本男子論]』、ISBN 4-7664-0886-1&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/476640887X 福翁百話]』※、ISBN 4-7664-0887-X&lt;br /&gt;
#『[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766408888 福翁自伝　福澤全集緒言]』※、ISBN 4-7664-0888-8&lt;br /&gt;
:※は、2009年にコンパクト版（選書版）が刊行&amp;lt;br&amp;gt;別巻に『福澤諭吉事典』　同編集委員会編／慶應義塾発行、2010年12月、 ISBN 4-7664-1800-X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著書翻訳 ===&lt;br /&gt;
* 『An Outline of a Theory of Civilization　（福澤諭吉、文明論之概略）』&lt;br /&gt;
: [[慶應義塾大学出版会]]、2008年11月。ISBN 4-7664-1560-4、『福翁自伝』も数か国語に訳された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
=== 系図 ===&lt;br /&gt;
; '''福澤家&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　中上川才蔵&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┣━━━━━━━━━━━中上川彦次郎━━藤原あき&lt;br /&gt;
　　┃&lt;br /&gt;
　　┃緒方洪庵━━━━━━━緒方収二郎━━━淑子&lt;br /&gt;
　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　┏━美和&lt;br /&gt;
　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━━━┫&lt;br /&gt;
　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　┗━福澤範一郎&lt;br /&gt;
　┏婉　　　　　　　　　　　糸　　　　　┏━福澤八十吉&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　　　　　┣━━━━━╋━遊喜&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┏━━━━━福澤一太郎　┗━八重&lt;br /&gt;
　┗福澤諭吉　　┃　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━房　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━━福澤駒吉&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　福澤桃介&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　松方正義━━松方五郎━━━松方正信　　┏━松方正隆&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━┻━松方正範&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━里　　　　　　　　┏てる子　　　　　紀久子　　　┏━いく子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━中村愛作━━╋中村仙一郎　　　┣━━━━━╋━ともの&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　中村貞吉　　　　　┗武子　　　　┏━渡辺紀久男　┗━純子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━╋━渡辺晴男&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　渡辺良吉　　┗━岩崎正男&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━俊　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━━清岡暎一　　　　　　┣━━━━━━━雅美&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　清岡邦之介　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┏━━━寛子&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━━━━━滝　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━━多代　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　志立鉄次郎　　　┃　　　　　┃　┏━木内宏&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━＝━┫&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃　┗━木内孝&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　木内重四郎　　┏木内信胤　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　　　　　┣━━━━━━┫　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┏━━━磯路　　　　　┗木内良胤━━＝━━━木内昭胤━━━━木内孝胤&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┣━━━━╋━＝━━━福澤三八　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　┣━━━━━━━浦子　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　清　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　福澤億之助　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━＝━━━福澤大四郎　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　┣━━━━━━━福澤進太郎　┃　┏━福澤幸雄&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　益子　　　　　　┣━━━━━＝━┫&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　アクリヴィ　┃　┗━エミ&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┣━＝━━━光　　　　　┏━潮田江次　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　┣━━━━━┫　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　潮田伝五郎　┗━潮田勢吉　　┃&lt;br /&gt;
　　　┃　　　　┃　┃　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　錦　　　　┃　┃　┏━林雅之助━┳━━ラク　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　┃　┃　┃　　　　　　┃　　　　　　　　┃　　　須賀川誠&lt;br /&gt;
　　林董━━━━＝━＝━┫　　　　　　┗━━岩崎忠雄　　┃　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　┃　┃　┃　　　　　　　　　┣━━━━━┻━━━和子&lt;br /&gt;
　┏岩崎弥之助━＝━＝━＝━岩崎俊弥━━━━淑子&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┃　┃　┃&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┃　┃　┗━菊　　　　　┏━福澤時太郎&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┃　┃　　　┣━━━━━┫&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　┗━＝━━━福澤捨次郎　┗━福澤堅次　　┏━━━福澤雄吉&lt;br /&gt;
　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　　　　┣━━━━━┫&lt;br /&gt;
　┗岩崎弥太郎━━━┻━━━岩崎久弥━━━━綾子　　　　┗━━━初子&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 親類縁者 ===&lt;br /&gt;
; '''子'''&lt;br /&gt;
* [[福澤一太郎]] - 長男、慶應義塾塾長。文久3年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]（[[1863年]][[11月22日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤捨次郎]] - 次男、時事新報社長。慶應元年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]（[[1865年]][[11月9日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤里]]（阿三（後に通称をお里））- 長女、[[中村貞吉]]に嫁す。慶應4年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]（[[1868年]][[4月23日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤房]]（阿房）- 次女、諭吉の婿養子・桃介の妻。明治3年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]（[[1870年]][[8月22日]]）生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤俊]]（阿俊）- 三女、[[清岡邦之介]]に嫁す。[[1873年]]（明治6年）[[8月4日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤滝]]（阿滝）- 四女、[[志立鉄次郎]]に嫁す。[[1876年]]（明治9年）[[3月2日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤光]]（阿光）- 五女、[[潮田伝五郎]]に嫁す。[[1879年]]（明治12年）[[3月27日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤三八]] - 三男。[[1881年]]（明治14年）[[7月14日]]生まれ。&lt;br /&gt;
* [[福澤大四郎]] - 四男、実業家。[[1883年]]（明治16年）[[7月24日]]生まれ。&lt;br /&gt;
; '''孫'''&lt;br /&gt;
* 福澤進太郎 - 大四郎の長男、[[フランス文学]]者・慶應義塾大学[[教授]]&lt;br /&gt;
; '''曾孫'''&lt;br /&gt;
* [[福澤幸雄]] - 進太郎の長男、レーサー&lt;br /&gt;
* [[福澤武]]- 三菱地所会長&lt;br /&gt;
; '''玄孫'''&lt;br /&gt;
* [[福澤克雄]] - （[[TBSテレビ]]/ [[映画監督]]/ [[演出家]] /  [[テレビディレクター]] ）&lt;br /&gt;
* [[片山千恵子]] -（[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー）福澤諭吉は大曾祖父&lt;br /&gt;
; '''その他'''&lt;br /&gt;
* [[福澤桃介]] - 女婿（次女・房の夫）、実業家&lt;br /&gt;
* [[中上川彦次郎]] - 甥（姉・婉の長男）&lt;br /&gt;
* [[高谷龍洲]] - 母の[[再従兄弟]]、[[儒学者]]&lt;br /&gt;
* [[藤原あき]] - 甥の三女&lt;br /&gt;
* [[フランキー堺]] - 次男が諭吉の曾孫の娘と結婚&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場作品 ==&lt;br /&gt;
* [[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]（1974年、NHK大河ドラマ、演：[[青山良彦]]）&lt;br /&gt;
* [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]（1977年、NHK大河ドラマ、演：[[入川保則]]）&lt;br /&gt;
* [[陽だまりの樹]]（1981年、[[手塚治虫]]）&lt;br /&gt;
* [[春の波涛]]（1985年、NHK大河ドラマ、演：[[小林桂樹]]）&lt;br /&gt;
* [[幕末青春グラフィティ　福沢諭吉]]（1985年、TBSドラマ、演：[[中村勘九郎 (5代目) ]]・現[[中村勘三郎 (18代目) ]]）&lt;br /&gt;
* [[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]]（1988年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演：[[中村雅俊]]）&lt;br /&gt;
* [[勝海舟 (テレビドラマ)|勝海舟]]（1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演：[[石原良純]]）　&lt;br /&gt;
* [[福沢諭吉 (映画)|福沢諭吉]]（1991年、映画、演：[[柴田恭兵]]）&lt;br /&gt;
* [[EAST MEETS WEST]]（1995年、松竹、演：[[橋爪淳]]）&lt;br /&gt;
* [[西部邁]]・[[佐高信]]の学問のすゝめ（2008年、[[朝日ニュースター]]）&lt;br /&gt;
* [[ETV特集 シリーズ「日本と朝鮮半島2千年」]]第10回“脱亜”への道～江華島事件から日清戦争へ～（2010年、[[日本放送協会|NHK]][[ETV特集]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記念行事 ==&lt;br /&gt;
* 2009年（平成21年）、慶應義塾創立150年記念「'''未来をひらく福沢諭吉展'''」が[[東京国立博物館]]、[[福岡市美術館]]、[[大阪市立美術館]]において、また「'''福沢諭吉と神奈川展'''」が[[神奈川県立歴史博物館]]において、順次開催された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.fukuzawa2009.jp 慶應義塾　創立150年記念　未来をひらく　福沢諭吉展]。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Fukuzawa Yukichi}}&lt;br /&gt;
{{Wikiquote|福沢諭吉}}&lt;br /&gt;
=== 関連事項 ===&lt;br /&gt;
{{col-begin}}&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* [[儒学]] - [[国学]] - [[蘭学]]&lt;br /&gt;
* [[武士]] - [[居合]] - [[立身新流]]&lt;br /&gt;
* [[進脩館]] - [[適塾]]&lt;br /&gt;
* [[慶應義塾]] - [[専修学校 (旧制)]]&lt;br /&gt;
* [[明六社]] - [[明六雑誌]]&lt;br /&gt;
* [[日本学士院]] - [[東京地学協会]]&lt;br /&gt;
* [[興亜会]]&lt;br /&gt;
* [[交詢社]]&lt;br /&gt;
* [[三菱商業学校]]（[[明治義塾]]）&lt;br /&gt;
* [[大坂]]&lt;br /&gt;
* [[中津市]]&lt;br /&gt;
* [[福澤諭吉旧居]]&lt;br /&gt;
* [[幕末の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[明治の人物一覧]]&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* [[京都集書院]]&lt;br /&gt;
* [[明治時代]]&lt;br /&gt;
* [[文明政治の六条件]]&lt;br /&gt;
* [[皇室制度]]&lt;br /&gt;
* [[科学]]&lt;br /&gt;
* [[経済]]&lt;br /&gt;
* [[数学]]&lt;br /&gt;
* [[演説]]&lt;br /&gt;
* [[簿記]]&lt;br /&gt;
* [[脱亜論]]&lt;br /&gt;
* [[脱亜思想]]&lt;br /&gt;
* [[亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説]]&lt;br /&gt;
* [[土地は併呑す可らず国事は改革す可し]]&lt;br /&gt;
* [[支那人親しむ可し]]&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
* [[修身要領]]&lt;br /&gt;
* [[福澤心訓]]&lt;br /&gt;
* [[高尚]]&lt;br /&gt;
* [[文銭堂本舗]]&lt;br /&gt;
* [[経世済民]]&lt;br /&gt;
* [[アジア主義]]&lt;br /&gt;
* [[甲申事変]] - [[開化派]]&lt;br /&gt;
* [[長沼事件]]&lt;br /&gt;
* [[思想史]] - [[近代日本思想大系]] - [[現代日本思想大系]]&lt;br /&gt;
* [[仮名垣魯文]]&lt;br /&gt;
* [[志摩三商会]]&lt;br /&gt;
* [[ニカラグア運河]]&lt;br /&gt;
* [[ハングル]]&lt;br /&gt;
* [[日本の海洋国家論]]&lt;br /&gt;
{{col-3}}&lt;br /&gt;
{{col-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 親交が深かった人物・同門の人物 ===&lt;br /&gt;
* [[高畠五郎]]&lt;br /&gt;
* [[肥田浜五郎]]&lt;br /&gt;
* [[芳蓮院]]&lt;br /&gt;
* [[木村芥舟]]&lt;br /&gt;
* [[中島三郎助]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリッヒ・フォン・シーボルト]]&lt;br /&gt;
* [[楠本イネ]]&lt;br /&gt;
* [[大村益次郎]]&lt;br /&gt;
* [[大鳥圭介]]&lt;br /&gt;
* [[九鬼隆義]]&lt;br /&gt;
* [[川本幸民]]&lt;br /&gt;
* [[尺振八]]&lt;br /&gt;
* [[森村市左衛門]]&lt;br /&gt;
* [[長与専斎]]&lt;br /&gt;
* [[後藤象二郎]]&lt;br /&gt;
* [[北里柴三郎]]&lt;br /&gt;
* [[森山栄之助]]&lt;br /&gt;
* [[栗本鋤雲]]&lt;br /&gt;
* [[桂川甫周]]&lt;br /&gt;
* [[箕作秋坪]]&lt;br /&gt;
* [[大槻磐渓]]&lt;br /&gt;
* [[林金兵衛]]&lt;br /&gt;
* [[宇都宮三郎]]&lt;br /&gt;
* [[高島嘉右衛門]]&lt;br /&gt;
* [[渡辺重石丸]]&lt;br /&gt;
* [[山口良蔵]]&lt;br /&gt;
* [[デュアン・シモンズ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 影響を受けた人物 ===&lt;br /&gt;
* [[荻生徂徠]]&lt;br /&gt;
* [[佐倉惣五郎]]&lt;br /&gt;
* [[中村栗園]]&lt;br /&gt;
* [[白石照山]]&lt;br /&gt;
* [[帆足万里]]&lt;br /&gt;
* [[緒方洪庵]]&lt;br /&gt;
* [[江川英龍]]&lt;br /&gt;
* [[新井白石]]&lt;br /&gt;
* [[石川桜所]]&lt;br /&gt;
* [[西郷隆盛]]&lt;br /&gt;
* [[アレクシス・ド・トクヴィル]]&lt;br /&gt;
* [[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]&lt;br /&gt;
* [[ジョン・スチュアート・ミル]]&lt;br /&gt;
* [[ウォルター・バジョット]]&lt;br /&gt;
* [[ヘンリー・バックル]]&lt;br /&gt;
* [[ウィリアム・ブラックストン]]&lt;br /&gt;
* [[ハーバート・スペンサー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 影響を与えた人物 ===&lt;br /&gt;
;明治以後、福澤の思想に影響を受けた、または論評の手法を真似た人物（慶應義塾関係者を除く）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766416541/ 明治人の観た福澤諭吉]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[梁啓超]]&lt;br /&gt;
* [[南方熊楠]]&lt;br /&gt;
* [[陸羯南]]&lt;br /&gt;
* [[徳富蘇峰]]（猪一郎）&lt;br /&gt;
* [[中江篤介]]（兆民）&lt;br /&gt;
* [[福地桜痴]]（源一郎）&lt;br /&gt;
* [[田口卯吉]]（鼎軒）&lt;br /&gt;
* [[山路愛山]]&lt;br /&gt;
* [[幸徳秋水]]&lt;br /&gt;
* [[内村鑑三]]&lt;br /&gt;
* [[三宅雪嶺]]&lt;br /&gt;
* [[植村正久]]&lt;br /&gt;
* [[朝比奈知泉]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連人物脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.city-nakatsu.jp/docs/2011083001134/ 独立自尊の人「福澤諭吉」 | 中津市]&lt;br /&gt;
* [http://www.keio.ac.jp/ja/contents/fukuzawa_history/index.html 慶應義塾：福澤諭吉年譜]&lt;br /&gt;
* [http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A6%8F%E6%B2%A2%E8%AB%AD%E5%90%89/ 福澤諭吉] - [[Yahoo!百科事典]]&lt;br /&gt;
* [http://www.fukuzawa2009.jp 未来をひらく福澤諭吉展（福沢諭吉展） −慶應義塾創立150年記念−]&lt;br /&gt;
* [http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h17/ 「大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説一覧及び起筆者推定」]&lt;br /&gt;
* [http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h22/ 「福沢諭吉演説一覧」]&lt;br /&gt;
* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person296.html 福沢 諭吉：作家別作品リスト]（[[青空文庫]]）&lt;br /&gt;
* デジタルで読む福澤諭吉：[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_tbl.php eBOOK版]・[http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_search.php テキスト版]（[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/ 慶應義塾図書館]）&lt;br /&gt;
* [http://www.mint.go.jp/coin/coin_topics/20101022.html 肖像メダル「福澤諭吉」] [[造幣局 (日本)|造幣局]]&lt;br /&gt;
* [http://www.city-nakatsu.jp/modules/honyaba/index.php?id=10 青の洞門と福澤諭吉] [[中津市]]&lt;br /&gt;
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** {{近代デジタルライブラリー書誌情報|41017575|福沢全集/福沢諭吉著、時事新報社、明31}}&lt;br /&gt;
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		<author><name>船徳</name></author>	</entry>

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