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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>政治経済学部</title>
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				<updated>2022-01-18T13:20:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: /* 私立大学 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{独自研究|date=2008年5月}}{{出典の明記|date=2008年5月}}&lt;br /&gt;
'''政治経済学部'''（せいじけいざいがくぶ）は、[[政治学]]・[[経済学]]を中心として[[社会科学]]を学ぶ[[大学]]の[[学部]]である。'''政経学部'''を正式名称としている大学もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&amp;lt;!--★早稲田大学関係者が、「政治経済学」なる語を擁護したいがために、我田引水の根拠薄弱な願望文章を、長々と綴っているが、大幅に修正されるべきである--&amp;gt;&lt;br /&gt;
政治経済学部を最初に発足させたのは、[[早稲田大学]]である。しかし、後述のように、早稲田大学の旧称である東京専門学校創立の1882年よりも前に、東京大学が、1881年に、文学部内に政治学及理財学科を設置している（「理財」は、おおむね「経済」の意）。以降は、通説である、政治経済学部の原点は早稲田にあるとの説{{要出典|date=2011年8月|}}に基づいての説明となる。すなわち、早稲田大学においては、同大学草創期には政治学を[[法学部]]の一部門と捉える[[ドイツ]]の慣習に合わせた考え方が主流であったなか、[[イギリス]]の慣習を採用して、経済学とともに政治を学ぶ学部として「政治経済学部」を発足させた、と主張している{{要出典|date=2011年8月|}}。これは、当時のイギリスにおいて政治の理解なくして経済学の理解はあり得ない、経済の理解なくして政治の理解はあり得ないという理解がなされてきたことによる。そのため、法学部が文系学部の中心学部であることが多い日本の大学の中で、現在においても早稲田大学においては伝統的に政治経済学部が早稲田の文系学部の看板学部・中心学部となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸外国の沿革を考察すると、コース名からみれば、例えば、英国において首相を含め多くの政治家を輩出してきたこと&lt;br /&gt;
で知られる[[オックスフォード大学]]の[[Philosophy, Politics and Economics]]（[[PPE]])プログラム&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.ox.ac.uk/admissions/undergraduate_courses/courses/philosophy_politics_and_economics/philosophy_politic_4.html&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
のように、英国を中心として同様のカリキュラムを有する大学が多く存在する&amp;lt;ref&amp;gt;http://en.wikipedia.org/wiki/Philosophy,_Politics_and_Economics&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
オックスフォード大学のPPEコースは社会哲学から政治学、経済学までの広い分野をカバーしており、学生は各分野の中からいくつかの科目を選択して受講する。卒業生には多くの政治家、著名人が含まれる&amp;lt;ref&amp;gt;http://en.wikipedia.org/wiki/Notable_people_with_PPE_degrees_from_Oxford&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[早稲田大学]]の政治経済学部（School of Political Science and Economics）においても同様のカリキュラムが採用されているが、近年はとりわけ経済学科において必修科目が増加している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伝統的にイギリスでは政治学と経済学を融合的に理解することが行われてきた。現在ではpolitical economyとeconomicsは別の概念であるが、政治学と経済学を一体的に学問研究する意義は増しつつある。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--★ウィキペディアは根拠薄弱な願望を垂れ流す場所ではない。コメントアウトする★なお、近年、「政治経済学部」という名称の起源に関して、明治時代におけるpolitical economyの誤訳ではないかという議論が時々なされることがあるが、根拠に乏しく、仮にそうであるとしてもあまり良質な議論とはいえない。中には何らかの意図をもって政治経済学部の存在の正当性を否定したいという思惑をもって論じる低質な議論もある。しかし、明治時代においても政治と経済を一体として学ぶことに積極的に意義があると特に早稲田系の学者達が考えていたことはもちろんであるし、結果論的に、現代において優秀な政治家や政治学者には適切な経済学的知識が不可欠となっており、経済の面からみても、今日のグロバール社会において複雑な経済現象を理解する上で政治学・政治情勢の知識が不可欠であったりと、政治と経済と一体として学ぶという意義は国際的に深まる一方であり、政治経済学という学問体系が成長しているなど、政治経済学部の意義はいっそう深まっているといえるからである。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下では、政治経済学部という学部が日本で生まれた大まかな沿革が述べられている。&lt;br /&gt;
　イギリスにおいて日本の政治経済学部に該当するものとして、[[ロンドン大学]]の[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス|LSE]]が挙げられる{{要出典|date=2011年8月|}}（ただし[[LSE]]は[[ロンドン大学連盟]]に所属しているものの、学位は[[ＬＳＥ]]独自のものを授与する独立した大学であり学部名ではない）。同校の正式名称は、London School of Economics &amp;amp; Political Scienceとなっており、日本における政治経済学部と近い学問構成となっている。一方、日本国内では、[[東京大学]]の文学部内に、政治学及理財学科が、1881年9月に設置されている。[[早稲田大学]]の旧称である東京専門学校は、その翌年の創立であるから、東京専門学校の学科の構成をするに当たって、この[[東京大学]]の学科構成を真似た{{要出典|date=2011年8月|}}ものとも思われる。[[東京大学]]の関係者がまず政治経済学という学問を日本に輸入したと思われる{{要出典|date=2011年8月|}}。そもそも東京専門学校の創立には東京大学の関係者が深く関わっていることからすると、どちらにせよ東京大学の関係者が政治経済学という学問の輸入に関与した、というのが真相なのではないかとも思われる{{要出典|date=2011年8月|}}。例えば、大隈重信とともに東京専門学校の創立に参加した[[高田早苗]]は、1882年に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業している。そうすると、まず、東京大学の学科編成担当者が政治学と経済学を同一学科において扱うこととし、その理解にもとづいた学科構成ないし学問分野を、高田早苗らの東京大学関係者がそのまま東京専門学校に応用したということも考えられうる{{要出典|date=2011年8月|}}。その後、東京大学では、1885年に政治学及理財学科を法政学部に編入した（法政学部編入後の学科の存続ないし廃止、改組については不明）のに対して、東京専門学校は政治経済学科を残し、後に学部にまでした。この、東京専門学校ないし早稲田大学が、東京大学にならって政治経済学科ないし政治経済学部を解消、改組することはしなかったことの理由は、早稲田の関係者において、政治学と経済学を一緒に学ぶことに意義があると肯定的に考えられたことにあるのではないかと思われる{{要出典|date=2011年8月|}}。また、伝統的に法学を中心とする[[東京大学]]の影響を極力排除したかったと考えることも出来る{{要出典|date=2011年8月|}}。そして、一般には、東京大学が初期に政治学及理財学科を置いていたという事実が早稲田大学関係者によっては主張されていないことも、早稲田が東大の影響を排除したいという意志の表れとみれば説明がつく{{要出典|date=2011年8月|}}。以上のことから、早稲田が自ら政治と経済を融合的に学ぶことに積極的な意義を見出したという理解が妥当であることとなる。現在もなお日本の大学の文系学部において法学部が中心学部であることが多いのに対して、早稲田大学においては政治経済学部が看板学部・中心学部であるのもその根拠を補強するものといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで、誰が日本において政治経済学という学問、ないし、政治経済学科、政治経済学部という学科学部を作り出したのかは一応疑問があるといえるが、少なくとも以下のことは言えよう。すなわち、日本で政治経済学科ないし政治経済学部という特殊な{{要出典|date=2011年8月|}}学科、学部が設置された背景としては、次の事実が考えられる。当時日本においては近代化の過程で様々な外来語が翻訳されており、学問名も例外ではなかった。その後、[[学習院大学]]と[[明治大学]]が[[早稲田大学]]に倣って{{要出典|date=2011年8月|}}政治経済学部を設けたが、[[学習院大学]]ではそのわずか11年後の1964年　政経学部を法学部（法学科、政治学科）と経済学部（経済学科）に改組している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]後において[[早稲田大学]]と[[明治大学]]の政治経済学部は異なる特色を持つようになる{{要出典|date=2011年8月|}}。早稲田大学政治経済学部では[[行政学]]と[[近代経済学]]を主とし、明治大学政治経済学部は[[社会学]]とドイツ[[歴史学派]]経済学を主とした学問体系を築いた{{要出典|date=2011年8月|}}。現在では、複雑な世界規模の経済現象と政治は密接に関わっているとの理解から、政治学と経済学を融合的に学ぶ意義がさらに理解され、政治経済学と呼ぶべき新たな学問体系を創造するに至っている{{要出典|date=2011年8月|}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では、どの大学でも政治学と経済学の両方を学べる学部という位置づけになっており、経営学まで網羅している大学もある{{要出典|date=2011年8月|}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 早明間の政治経済学論争 ==&lt;br /&gt;
早明両大学は古くから政治経済学部を持っていたこともあり、学問的対立が存在した。特に経済学の分野では学問体系が対立関係にあることからこの二学部に所属する学者の間で経済学論争が起き、旧来から継承されていた[[近代経済学]]と[[歴史学派経済学]]の根本的、具体的議論が繰り広げられた{{要出典|date=2011年8月|}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
両大学ともに、学生運動の時期は[[マルクス経済学]]が主導権を握っていたこともあったが、[[冷戦]]構造の終焉を経て{{要出典|date=2011年8月|}}[[近代経済学]]の確立が目指されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
具体的な論争内容は、60年代以降の学生を中心とした「政治経済学研究会」や教授陣の論文雑誌である「政経論叢」において中心の論点となった事項が数点挙げられる{{要出典|date=2011年8月|}}。&lt;br /&gt;
* 経済学は、状況に適応した施策を求めるものであるのか（早稲田）、理論追求のものであるべきか（明治）という点。これはまさに景気動向に配慮した形で適応的に政策を実行すべきか、貧富の格差の是正など社会的不安の払拭という思想的理念を政策に移すのかという、対立が存在した{{要出典|date=2011年8月|}}。&lt;br /&gt;
* 政治経済学に関する議論。早稲田では政治学と経済学の範疇をより専門化、実証化させるべきであるとの合理主義的立場を重視し、明治では[[社会学]]や[[人類学]]を背景とした、より広範な視点を摂取しながら、政治学と経済学の確立をすべきであるとの理念的立場を重視した。この近代の代表的な構図は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[コロンビア大学]]（専門化重視）と[[シカゴ学派 (経済学)|シカゴ学派]]（広範性重視）の違いを反映している{{要出典|date=2011年8月|}}。しかし、シカゴ学派には早稲田の[[藤原保信]]の政治学がその系統を担っていたし、アメリカの新古典派経済学の実証主義経済政策論を明治で教授した[[赤松要]]の流れをくむ赤松学派が存在していたため、政治経済学の対立は、部分的であったという評価もある{{要出典|date=2011年8月|}}。明治大学の[[後藤昭八郎]]や[[毛馬内勇士]]はその後継者であり、[[日本経済政策学会]]の理事をつとめており、その中心的存在である。&lt;br /&gt;
* [[アルフレッド・マーシャル|マーシャル]]経済学の日本流入以後、経済学の方法論を合理的認識のもとに置くか、理念的認識のもとに置くかという議論。早稲田は戦後、アメリカで進展を見る新古典派経済学を吸収し教育に活かしたのに対し、明治はドイツ系経済学、わけても[[マックス・ヴェーバー]]の歴史学派経済学や[[グスタフ・フォン・シュモラー|シュモラー]]の歴史学派経済学を重視している{{要出典|date=2011年8月|}}。これも、もう一つの対立構図である。特に早稲田の実証的経済学の導入は効果的であった。明治は歴史学的・解釈学的方法論を主とした研究を追究するべきとの考えから、早稲田とは別の独自路線を歩んでいくことになる{{要出典|date=2011年8月|}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では明治大学政治経済学部でも[[近代経済学]]が主であり、マルクス経済学系の教員は一名である。これは早稲田大学政治経済学も同様である。カリキュラムを見ても「社会主義経済学」、「ロシア東欧政治論」が必修ではない「応用科目」として存在している程度である。（注：{{要検証範囲|「社会主義経済学」は現在、担当教員が居らず休講中である。|date=2011年3月}}）また明治大学では地域行政学科が設置され、[[行政学]]にも力を入れるようになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年代以降、国際弁護士でエコノミストの[[湯浅卓]]等をオブザーバーとして多くのシンポジウムやディスカッションを両大学のゼミ連携で行っており{{要出典|date=2011年8月|}}、大学間の論争は影を潜めている。今日的には[[環境学]]・[[平和学]]の展開を背景にレギュラシオン学派を引く経済理論の考究の様相も呈している{{要出典|date=2011年8月|}}。政治学においては、早稲田大学名誉教授の[[内田満]]や明治大学名誉教授の[[岡野加穂留]]との共著出版や大学間兼担講師を相互に引きうけるなど、むしろ協調的交流さえうかがえる。対立構図はなくなった{{要出典|date=2011年8月|}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお現在では、近代経済学においては早稲田と明治ともにほぼ同数の教員が揃っている。それらの教員は、早稲田大学では[[大和瀬達二]]、明治大学では[[池田一新]]の後継者である{{要出典|date=2011年8月|}}。大和瀬は[[寡占]]理論の権威であり、また池田は[[ハインリヒ・フォン・シュタッケルベルク|シュタッケルベルク]]の愛弟子にあたる。大和瀬は[[エーリヒ・シュナイダー|E・シュナイダー]]、池田はシュタッケルベルクの翻訳を日本でいちはやく行なったことで知られている。大和瀬はその著『寡占価格の理論』で早稲田大学経済学博士、池田はその論文「不完全競争理論の体系化のための試論」で明治大学経済学博士となっている。さらに、現在では早明ともにそれぞれマルクス経済学の教員を一名しか置いておらず、早稲田では[[藤森頼明]]、明治では[[飯田和人]]が講義・研究にあたっている。これらの実態を踏まえると、早明政経論争はもはや過去のものとなっており、現在ではそのような論争を知らない世代の若手教員も多くなってきている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 他大学の状況 ==&lt;br /&gt;
早明間では学者間の論争を中心とした学問体系となっていたが{{要出典|date=2011年8月|}}、他の大学の政治経済学部は政治学・経済学を結合させた研究・教育を行うという立場を取っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早明以外ではもっとも古い政経学部を持つ[[拓殖大学]]（第二次世界大戦前には専門部という名称であった）は、もともと台湾への入植者に関する教育を実施する大学であったことから、学問的な論点もさることながら、実際に拓殖地でどのように行政と経営を実施するかを研究・教育する学問体系を取っていた。さらにこうした視点から法学まで内包した科目体制を取っており、現在でも法学は政治学の一分野としてのカリキュラム編成がなされ、学科名は[[法政学科|法律政治学科]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、戦後の開設となる東海大学と国士舘大学では、早くから経済学と政治学を有機的に連携させる体制を取っており、現在多くの大学が目指している学際志向{{要出典|date=2011年8月|}}を当初から持っていたといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 授与される学士号 ==&lt;br /&gt;
授与する[[学士]]の[[学位]]の代表例としては、政治学科では「政治学士」、経済学科では「経済学士」が主流であったが、学士の表記が「学士（専攻分野）」というものに改正され、今日では「学士（政治学）」、経済学科では「学士（経済学）」などが主に授与される例となっている。近年は学科名も多様化しており学位名称も多様化の傾向にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治経済学部をおく日本の大学 ==&lt;br /&gt;
=== 私立大学 ===&lt;br /&gt;
* [[早稲田大学]]&lt;br /&gt;
* [[明治大学]]&lt;br /&gt;
* [[東海大学]]&lt;br /&gt;
* [[国士舘大学]]&lt;br /&gt;
* [[拓殖大学]]&lt;br /&gt;
* [[聖学院大学]]&lt;br /&gt;
* [[大和大学]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大学に準ずる教育機関 ===&lt;br /&gt;
* [[朝鮮大学校 (日本)|朝鮮大学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治経済学科をおく日本の大学 ==&lt;br /&gt;
=== 私立大学 ===&lt;br /&gt;
* [[日本大学]] - 法学部政治経済学科&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治経済学部を設置したが、その後廃止した日本の大学 ==&lt;br /&gt;
=== 私立大学 ===&lt;br /&gt;
* [[学習院大学]] - [[法学部]]と[[経済学部]]に分離&lt;br /&gt;
* [[成蹊大学]] - 同上&lt;br /&gt;
* [[國學院大學]] - 政経学部を経済学部に改組、先行して法学部設置&lt;br /&gt;
* [[秀明大学]] - [[総合経営学部]]に改組、先行して国際協力学部を設置（後に廃止）&lt;br /&gt;
* [[武蔵野大学]] - 法学部と経済学部に分離&lt;br /&gt;
* [[三重中京大学]] - [[政策学部]]に改組、[[現代法経学部]]に名称変更を経て閉学&lt;br /&gt;
* [[大阪国際大学]] - 法政経学部、現代社会学部への名称変更を経て、グローバルビジネス学部に改組&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国立大学 ===&lt;br /&gt;
* [[広島大学]] - 法学部と経済学部に分離&lt;br /&gt;
* 旧制[[東京帝国大学]]（文学部内）1881年～1885年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[商経学部]]&lt;br /&gt;
* [[商経学科]]&lt;br /&gt;
* [[政治経済学科|政経学科]]&lt;br /&gt;
* [[法経学部]]&lt;br /&gt;
* [[法経学科]]&lt;br /&gt;
* [[学部]]&lt;br /&gt;
* [[学部の一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:せいしけいさいかくふ}}&lt;br /&gt;
[[Category:学部]]&lt;br /&gt;
[[Category:政治学]]&lt;br /&gt;
[[Category:経済学]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経済学の教育組織]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

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		<title>海部俊樹</title>
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				<updated>2022-01-18T13:12:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の内閣総理大臣&lt;br /&gt;
|代数 = [[第1次海部内閣|76]]・[[第2次海部内閣|77]]&lt;br /&gt;
|名前 = 海部 俊樹&amp;lt;br /&amp;gt;（かいふ としき）&amp;lt;br /&amp;gt;[[Image:Kaifu Toshiki 1-2.jpg|200px]]&lt;br /&gt;
|生年月日 = [[1931年]][[1月2日]]&lt;br /&gt;
|出生地 = [[愛知県]][[名古屋市]]&lt;br /&gt;
|出身校 = [[早稲田大学]]第二法学部卒業&lt;br /&gt;
|資格 = [[法学士]]&lt;br /&gt;
|前職 = 衆議院議員秘書&amp;lt;br /&amp;gt;国家基本政策委員会委員&lt;br /&gt;
|世襲 = 無&lt;br /&gt;
|就任 = [[1989年]][[8月10日]]&lt;br /&gt;
|退任 = [[1991年]][[11月5日]]&lt;br /&gt;
|選挙区 = [[愛知県第9区]]&lt;br /&gt;
|当選回数 = 16回&lt;br /&gt;
|党派 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]&lt;br /&gt;
|没年月日 = [[2022年]][[1月9日]]&lt;br /&gt;
|花押 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''海部 俊樹'''（かいふ としき、[[1931年]]（[[昭和]]6年）[[1月2日]] - [[2022年]]（[[令和]]4年）[[1月9日]]）は、[[日本]]の[[政治家]]。前[[衆議院議員]]（16期）。[[内閣総理大臣]]（76、77代）、[[大蔵大臣]]（87代）、[[文部大臣]]（98・108代）、[[新進党]][[党首]]（初代）、[[自由改革連合]]代表（初代）、[[自由民主党総裁]]（第14代）を歴任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[Image:小渕・小沢・海部.jpg|400px|thumb|[[自民党総務会]]で新幹事長が了承され握手する[[小渕恵三]]幹事長、[[小沢一郎]]前幹事長、[[海部俊樹]]首相。[[1991年]][[4月8日]]撮影]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初の昭和生まれの内閣総理大臣でもある。派閥は[[二階派]]に属した（最高顧問）。[[2009年]]の衆議院解散の時点で、衆議院議員では連続当選回数16回、勤続年数49年と現職トップだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[1931年]] - [[愛知県]][[名古屋市]]に写真館を経営する家に生まれる&lt;br /&gt;
* [[1948年]] - 旧制東海中学（現：[[東海中学校・高等学校|東海高校]]）卒業&lt;br /&gt;
* [[1951年]] - [[中央大学]][[専門部]]法科卒業 &lt;br /&gt;
* [[1952年]] - [[早稲田大学]][[法学部|第二法学部]]に[[編入学]] &lt;br /&gt;
* [[1954年]] - 早稲田大学第二法学部卒業&lt;br /&gt;
* [[1956年]] - 早稲田大学[[大学院]]法学研究科中退&lt;br /&gt;
* [[1960年]] - [[11月20日]] [[第29回衆議院議員総選挙]]に全国最年少で当選&lt;br /&gt;
* [[1966年]] - [[8月1日]]、労働政務次官（[[第1次佐藤内閣第3次改造内閣]]）&lt;br /&gt;
* [[1974年]] - 12月9日、[[内閣官房副長官]]（[[三木内閣]]）&lt;br /&gt;
* [[1976年]] - 12月24日、[[文部大臣]]（[[福田赳夫内閣]]）&lt;br /&gt;
* [[1985年]] - 12月28日、文部大臣（[[第2次中曽根内閣第2次改造内閣]]）&lt;br /&gt;
* [[1989年]] - [[8月10日]]第76代内閣総理大臣&lt;br /&gt;
* [[1990年]] - [[2月28日]]第77代内閣総理大臣&lt;br /&gt;
* 1990年 - 12月29日、第2次海部改造内閣発足&lt;br /&gt;
* [[1991年]] - 11月、内閣総理大臣辞任&lt;br /&gt;
* [[1994年]] - 6月、自民党離党。7月、[[自由改革連合]]代表。12月、[[新進党]]初代党首&lt;br /&gt;
* [[1998年]] - 1月、新進党分党に伴い無所属（院内会派「無所属の会」）&lt;br /&gt;
* [[1999年]] - 1月、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]最高顧問&lt;br /&gt;
* [[2000年]] - 4月、[[保守新党|保守党]]最高顧問&lt;br /&gt;
* [[2002年]] - 12月、保守新党最高顧問&lt;br /&gt;
* [[2003年]] - 11月、保守新党の解党・自民党への合流により、復党&lt;br /&gt;
* [[2009年]] - 8月30日、[[第45回衆議院議員総選挙]][[落選]]、同日政界引退を表明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治姿勢 ==&lt;br /&gt;
初当選以来、[[番町政策研究所|三木派]]に所属し、[[三木武夫]]の秘蔵っ子として知られていた。また海部自身もクリーンな政治家として三木を尊敬し、「わかりやすく、きれいな政治」を信条としている。「理想の政治家は？」との問いに対しては、常に「三木武夫」と回答していたほどである。また三木が総裁選で[[田中角栄]]に敗れた時には人目をはばからず号泣したという逸話もある。早稲田大学大学院時代に、[[明治大学]]大学院にも学びにくるほどであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三木派が河本派に移行してからは、[[1994年]]に離党するまでの間、名実共にナンバー2として[[河本敏夫]]を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名される。ニューリーダーの次を狙う政治家として[[橋本龍太郎]]、[[藤波孝生]]らと共に「[[ネオ・ニューリーダー]]」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[早稲田大学雄弁会]]の先輩である[[竹下登]]ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」とも言われた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは？」と囁かれた事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表的な文教族であり、[[福田赳夫内閣]]と[[第2次中曽根内閣]]で文部大臣を務めている。文部大臣時代の功績としては[[共通一次試験]]の導入があげられる。また「[[青年海外協力隊]]」の生みの親のひとりとしても知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 総理総裁就任と辞任 ==&lt;br /&gt;
[[Image:加藤・西岡・小沢・海部.jpg|300px|thumb|[[特別国会]]にて左から[[加藤六月]]、[[西岡武夫]]、[[小沢一郎]]、[[海部俊樹]]。[[1990年]][[7月27日]]撮影]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[宇野宗佑]]が[[第15回参議院議員通常選挙]]の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。[[リクルート事件]]で有力政治家が謹慎している中で、極端な世代交代を避けたかった竹下が、「'''時計の針を進めず、戻さず'''」として年齢の割に当選回数があり、かつ同じ稲門（早稲田大学）として近い関係にあった海部を首相にする構想を打ち出したことから、思いがけず総理総裁の座が転がり込んできた。[[自民党総裁選]]では海部の他に、[[林義郎]]と[[石原慎太郎]]が出馬したが、竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて[[自民党総裁]]に選ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、[[ねじれ国会]]に突入した。自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部俊樹、野党が過半数を確保した参議院は[[日本社会党委員長]]の[[土井たか子]]を指名した。[[日本国憲法第67条]]第2項の規定に基づき、[[両院協議会]]にて協議されたが両院の意見は一致せず、衆議院にて指名された海部が内閣総理大臣に就任した（[[衆議院の優越]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海部が首相に就任した頃は、いわゆる[[リクルート事件]]などで国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家を排除（リクルート・パージ）し、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。[[内閣官房長官|官房長官]]の[[山下徳夫]]が宇野と同じく女性スキャンダルを騒がせた際、すぐに山下を更迭させて[[環境庁長官]]だった女性議員の[[森山真弓]]を官房長官に横滑りさせて女性初の官房長官に起用させたり、様々な行事で夫婦同伴をするなど女性層を意識させた戦術をして、1990年の衆院選では衆院単独過半数を獲得する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また党内基盤が脆弱であった海部は自民党にとってはその場しのぎの「看板」でしかなく、党内は相変わらず権力闘争に明け暮れていた。[[石原信雄]]の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた。」と記されており、自民党幹事長を務めていた[[小沢一郎]]は「担ぐ[[神輿]]は軽くてパーな奴が一番いい。」等と海部を暗に揶揄され、[[金竹小]]と評された竹下派実力者三人が海部首相以上に強い影響力を持っていた。自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、本来味方であるはずの自党に振り回され、小選挙区導入反対派の[[加藤紘一]]、[[山崎拓]]、[[小泉純一郎]]の「[[YKK (政治同盟)|YKK]]」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。しかし、圧倒的な世論の支持が海部を守った。[[湾岸戦争]]における経済的な協力や[[掃海艇]]派遣では驚異的なねばり腰で法案を成立させた。このことに限らず、外交面では当時の[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]英首相や[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]米大統領から絶大な信頼を得ていた。[[六四天安門事件|天安門事件]]後、世界から孤立しかかった[[中華人民共和国|中国]]に西側先進国首脳として真っ先に訪問し、円借款を再開させたことには現在でも中国から感謝され「井戸を掘った人」として尊敬されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政策の目玉として取り組んだ政治改革関連法案が国会で審議未了廃案となったことを受け、「'''重大な決意で望む'''」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ[[衆議院解散|解散権]]は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱がおこった（[[海部おろし]]）。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派でさえ明確に解散不支持を表明し、結局解散に踏み切ることが出来ず、発言の責任を取る形で[[内閣総辞職]]を選んだ。在任中の内閣支持率は退任直前でさえも50％を超えていた。時には64％ということもあり、国民的な人気は根強いものがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首相在任日数818日間は日本国憲法下において衆議院で[[内閣不信任決議]]が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 首相在任中の施策 ==&lt;br /&gt;
;資金提供&lt;br /&gt;
:[[湾岸戦争]]の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供。しかし、戦後[[クウェート]]の新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が無かったが、その後改められた。この施策に関し保守層からは'''金だけだして人出さない'''、'''似非国際貢献'''、'''一国平和主義'''と罵られ左派からも「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した。」と強く批判されるなど一部から強い批判を浴びた。&lt;br /&gt;
;[[自衛隊ペルシャ湾派遣]]&lt;br /&gt;
:[[湾岸戦争]]の停戦後に、[[自衛隊]]創設以来初の海外実任務となる[[海上自衛隊]][[掃海艇|掃海]]部隊を[[ペルシャ湾]]に派遣する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自民党離党、自由改革連合代表、新進党党首へ ==&lt;br /&gt;
[[1994年]]6月29日、自民党総裁の[[河野洋平]]が、党の政権復帰のため[[日本社会党]]、[[新党さきがけ]]と[[自社さ連立政権]]構想で合意し、首班指名で社会党の[[村山富市]]に投票することを決めると、これを拒否して離党。旧[[連立与党]]である[[新生党]]や[[日本新党]]から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。その数日後正式に離党し[[自由改革連合]]結成し代表就任、[[新進党]]結党し初代党首となる。新進党結党会見では臨席した初代幹事長の[[小沢一郎]]に核心の質問が集中し思わず「党首は私なんですから質問の順序が逆じゃないんですか。」といきりたつ一幕もあった。さらにこの光景が放映されたあと[[久米宏]]が「小沢さんが実権を握っているのは皆わかっている。」と発言し止めをさした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この離党に至る海部の動きに対し、元[[衆議院議長]]・[[田村元]]は、かつて海部が師事した[[三木武夫]]になぞらえて「三木さんは我々と対立したが偉大な政治家であった。三木さんはあえて茨の道を選んだ。しかし、海部はてんぷらのにおいがするほうへつられて歩いて行った」と酷評している。また、当時の自由民主党幹事長代理[[野中広務]]は「元総裁が党を裏切るとは何事」と激怒。自民党本部の八階ホールと総裁室にある歴代総裁[[肖像画]]から海部の肖像画のみ撤去させた。更に野中は海部の肖像画の廃棄処分まで指示したが、周囲から「大人げない」とたしなめられ、海部の肖像画は党本部の収蔵庫に保管されることになった。その後、野中と小沢が連携し[[自自公連立政権]]が成立し海部も与党へと復帰していくこととなり、野中は海部批判を口にしなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自民党復党、政界引退 ==&lt;br /&gt;
新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし（[[院内会派]]「[[無所属の会]]」）を経て、自民党との連立政権に加わった[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]に入党。[[2000年]]の同党分裂の際には、自民連立継続派の[[保守新党|保守党]]に所属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[保守新党]]に改組して臨んだ[[2003年]]に[[第43回衆議院議員総選挙]]では、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の新人[[岡本充功]]に[[比例復活]]を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣の[[番町政策研究所|高村派]]には戻らず、[[二階俊博]]ら一緒に復党した旧保守新党議員らと[[二階グループ]]を結成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自民党復党の折には、[[安倍晋三]][[自民党幹事長]]（当時）から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の[[肖像画]]も再び掲額された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、院内に銅像が建てられる50年永年勤続表彰を目指し出馬した[[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]にて、小選挙区で[[岡本充功]]に敗れた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.47news.jp/CN/200908/CN2009083001000555.html 連続１６選の海部元首相が落選　民主前職に敗れ、愛知９区]共同通信2009年8月30日&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[比例代表制|比例代表]]は73歳未満と定めた党規に抵触し[[重複立候補制度|重複立候補]]が許されなかったため落選し、同日政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えた事も落選の一因と見られている。首相経験者が落選したのは、1963年の[[第30回衆議院議員総選挙]]の[[石橋湛山]]、[[片山哲]]両元首相以来46年振り&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin2009/news/20090831-OYT1T00059.htm 首相経験者の落選、46年ぶり]YOMIURI ONLINE 読売新聞2009年8月31日&amp;lt;/ref&amp;gt;、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な所属議員連盟 ==&lt;br /&gt;
*日独議員連盟会長&lt;br /&gt;
*日墺議員連盟会長&lt;br /&gt;
*日英議員連盟最高顧問&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な肩書き ==&lt;br /&gt;
*（財）日本ソフトテニス連盟会長&lt;br /&gt;
*日本ティーボール協会会長&lt;br /&gt;
*EU・ジャパンフェスト日本委員会最高顧問&lt;br /&gt;
*地球環境行動会議（GEA）最高顧問&lt;br /&gt;
*[[中央政策研究所]]最高顧問&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・エピソード==&lt;br /&gt;
=== ネクタイ ===&lt;br /&gt;
'''水玉模様の[[ネクタイ]]'''が[[トレードマーク]]である。これは、三木内閣の官房副長官時代、[[スト権スト]]問題でテレビの討論番組に出演した際、帰宅もままならぬ事から、連日連夜同じ水玉柄のネクタイをしていた事を視聴者に指摘され、それを自らのトレードマークにしたものである。討論番組そのものでは当時[[公労協]]事務局長であった[[富塚三夫]]に対して一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった。昭和天皇の大喪の礼でも仄かに水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 弁論 ===&lt;br /&gt;
旧制中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、中央大学専門部入学と共に[[中央大学辞達学会]]（[[弁論部]]）に所属。中央大学専門部法科卒業後、同郷出身の代議士[[河野金昇]]の書生を務めていた。その後、1年間の浪人生活を経て早稲田大学第二法学部夜間部に入学。[[雄弁会]]に所属。当時の弁論大会で優勝した折、総長から「海部の前に海部なし、海部のあとに海部なし」と講評される。議員秘書の傍ら早大[[雄弁会]]で弁論術の研鑚及び人脈作りにいそしむ。同年代の[[雄弁会]]員には[[渡部恒三]]がいる。この時代に培った弁論術・人脈が政界入り後に大きな力となり、小派閥から内閣総理大臣まで登りつめた原動力となった。海部は、[[明治大学]]卒業の[[三木武夫]]の愛弟子であったことから、明治大学にもたびたび公演に訪れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 29 ===&lt;br /&gt;
[[1960年]]に行われた[[第29回衆議院議員総選挙]]に、河野金昇の死後、後継として出馬し一期務めた[[河野孝子]]未亡人の後継として出馬。応援演説に来た[[井出一太郎]]が放った「'''サイフは落としてもカイフは落とすな'''」というキャッチフレーズで人気が沸騰し、当選した。この時29歳であった事から、「29回総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言していた。自民党内では傍流である三木派に属していた事から、この言葉は半ば冗談のように受け取られ、また本人も講演会等の挨拶におけるリップサービスにしていた。ところが、初当選から29年後の[[1989年]]、諸々の条件が重なり、海部は内閣総理大臣に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヒューストン・サミット ===&lt;br /&gt;
[[1990年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ヒューストン]]で開催された[[主要国首脳会議|サミット]]における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]米大統領・[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]英首相・[[ブライアン・マルルーニー|マルルーニー]]加首相が大爆笑している場面の写真が全世界に配信されたが、一般にはあまり知られていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 皇室 ===&lt;br /&gt;
[[1990年]]は[[秋篠宮]]結婚の儀、[[明仁|今上天皇]][[即位の礼]]・[[大嘗祭]]等重要な[[皇室]]行事が続いたが、海部はすべて問題なくこなした。とりわけ即位儀礼は[[日本国憲法]]下初の挙行であったため儀式にも慎重に手が入れられたが、それぞれの儀礼は滞りなく進んだ。今上天皇は儀式にあたりその細かい部分について海部に直接相談したり、二人だけで話し込んだりすることもあった。今上天皇は海部と年齢が近いこともあり話しやすく感じていたようであり、個人的な信頼関係が生まれていたと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[きんさんぎんさん]] ===&lt;br /&gt;
記録的な長寿で話題となった[[双子]][[姉妹]]、[[成田きん]]と[[蟹江ぎん]]は生前、「尊敬する[[政治家]]」として海部の名を挙げていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プライベート===&lt;br /&gt;
[[三枝の愛ラブ!爆笑クリニック]]に首相退任後、夫婦で出演した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族・親族 ==&lt;br /&gt;
*曾祖父・久蔵は旧[[尾張藩]]士・海部久（九）兵衛家の嗣子で（[[海部氏]]を参照）、明治4年（1871）に義弟（海部の曾祖母・すまの弟）にあたる[[海部壮平]]の家族、平井理右衛門の家族とともに春日井郡池之内村（現在の[[小牧市]]池之内）に[[帰田法|帰田]]し、共同で[[万屋]]と農業を営んでいたが、万屋は経営不振により1879年（明治12）に閉店した{{Sfn|入谷|2000|pp=57,75,87-92,130}}。その後、1880年（明治13）に、[[中区 (名古屋市)|中区]]小林町（大須門前町）の邸宅の戸主だった父・久兵衛（海部の高祖父にあたる）が死去したことに伴い、池之内村から同地に転居したとみられている{{Sfn|入谷|2000|p=92}}。&lt;br /&gt;
**海部壮平は[[養鶏業]]を営み、実弟の海部正秀とともに[[名古屋コーチン]]を作出したことで知られるが{{Sfn|入谷|2000|pp=110-112,152-176}}、壮平は1875年（明治8）に正秀の勧めで副業として養鶏を始め{{Sfn|入谷|2000|p=115}}、万屋が閉店し、1880年（明治13）に久蔵らが転居した後、鶏舎を増築して事業を本格化したといい{{Sfn|入谷|2000|pp=131-132}}、久蔵が養鶏業を営んでいたかは不明{{Sfn|入谷|2000|pp=92-93}}。&lt;br /&gt;
**明治期に[[尾張徳川家#家令|尾張徳川家・家令]]、[[明倫中学校]]校長を務めた[[海部昂蔵]]について、{{Harvtxt|大石|1994|p=62}}および{{Harvtxt|小田部|1988|p=42}}は、海部の祖父、{{Harvtxt|藤田|2010|p=80 注47}}および{{Harvtxt|豊田|1991|pp=3-6}}は、海部の曾祖父にあたる、としているが、{{Harvtxt|入谷|2000|pp=92,196-197}}は、海部の曾祖父・久蔵は代々「海部久兵衛」を称した家系、海部昂蔵の家系は「海部久右衛門」を称した家系で（詳細は[[海部氏]]を参照）、生没年も異なり、昂蔵と久蔵は別人、としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*祖父にあたる[[海部幸之進|幸之進]]は、1884年（明治17）に[[大須]]で[[写真館]]を開業{{Sfn|入谷|2000|p=92}}。その姉・松江が[[中村牧陽]]と結婚した関係から、牧陽の弟子になり、[[中村写真館]]を継いだ{{Sfn|入谷|2000|p=92}}。幸之進は、[[コロタイプ]]写真印刷部を設けた人物として知られている{{Sfn|入谷|2000|p=93}}。&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|豊田|1991|pp=3,6}}は、幸之進は、米国・[[コロナコダック]]社で写真撮影技術を学び、名古屋で初めての写真館「中村写真館」を開業した、としている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*父・誠也は幸之進の長男。母・ふさは名古屋写真材料組合の初代組合長・加藤隆助の長女{{Sfn|入谷|2000|p=93}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[アニメ]]プロデューサーの[[海部正樹]]は長男。[[天文学者]]の[[海部宣男]]、2008年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]、[[シンコーホーム詐欺事件]]で2002年に有罪判決を受けた[[シンコーホーム]]元常務の[[海部俊一]]は従弟。（出典？）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[第1次海部内閣]]&lt;br /&gt;
*[[第2次海部内閣]]、[[第2次海部内閣改造内閣]]&lt;br /&gt;
*[[ネオ・ニューリーダー]]&lt;br /&gt;
*[[石原健太郎]]&lt;br /&gt;
*[[神田真秋]]&lt;br /&gt;
*[[小此木彦三郎]]&lt;br /&gt;
*[[教育美術振興会]]&lt;br /&gt;
*[[中道新党構想]]&lt;br /&gt;
*[[PKO国会]]&lt;br /&gt;
*[[金石清禅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.anan.ne.jp/kaifu/ 海部俊樹オフィシャルホームページ]（公式サイト）&lt;br /&gt;
*[http://jimin-aichi.jp/ 自民党愛知県連]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==付録==&lt;br /&gt;
=== 脚注 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist|18em}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===参考文献===&lt;br /&gt;
*{{Aya|藤田|year=2010}} 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、{{NAID|40017129111}}&lt;br /&gt;
*{{Aya|入谷|year=2000}} 入谷哲夫『名古屋コーチン作出物語』ブックショップ「マイタウン」、ISBN 4938341972&lt;br /&gt;
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生 ‐ 北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、ISBN 4642036563&lt;br /&gt;
*{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、ISBN 4250880192&lt;br /&gt;
*{{Aya|豊田|year=1983}} [[豊田行二]]『海部俊樹・全人像』行政問題研究所、ISBN 978-4905786276&lt;br /&gt;
**{{Aya|豊田|year=1991|mask=－}} 改訂版 行研出版局、ISBN 4905786843 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{start box}}&lt;br /&gt;
{{s-off}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[宇野宗佑]]&lt;br /&gt;
| years  = 第76・77代：1989年 - 1991年&lt;br /&gt;
| after  = [[宮澤喜一]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|JPN}} [[文部大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[永井道雄]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[松永光]]&lt;br /&gt;
| years  =  第96代：1976年 - 1977年&amp;lt;br/&amp;gt;第106代 : 1985年 - 1986年&lt;br /&gt;
| after  = [[砂田重民]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[藤尾正行]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|JPN}} [[大蔵大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[橋本龍太郎]]&lt;br /&gt;
| years  = 第95代：1991年（兼任）&lt;br /&gt;
| after  = [[羽田孜]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|日本}} [[内閣官房副長官|内閣官房副長官（政務担当）]]&lt;br /&gt;
| before = [[梶山静六]]&lt;br /&gt;
| years  = &lt;br /&gt;
| after  = [[鯨岡兵輔]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{s-par}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|日本}} [[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]]&lt;br /&gt;
| before = [[田沢吉郎]]&lt;br /&gt;
| years  = 第31代：1972年 - 1973年&lt;br /&gt;
| after  = [[佐々木秀世]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{s-ppo}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[新進党|新進党党首]]&lt;br /&gt;
| before = 結成&lt;br /&gt;
| years  = 初代：1994年 - 1995年&lt;br /&gt;
| after  = [[小沢一郎]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[自由改革連合|自由改革連合代表]]&lt;br /&gt;
| before = 結成&lt;br /&gt;
| years  = 初代：1994年&lt;br /&gt;
| after  = [[新進党]]へ&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[高志会|高志会代表]]&lt;br /&gt;
| before = 結成&lt;br /&gt;
| years  = 初代 : 1994年&lt;br /&gt;
| after  = [[新進党]]へ&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[自由民主党総裁]]&lt;br /&gt;
| before = [[宇野宗佑]]&lt;br /&gt;
| years  = 第14代 : 1989年 - 1991年&lt;br /&gt;
| after  = [[宮澤喜一]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[自由民主党国会対策委員会|自由民主党国会対策委員長]]&lt;br /&gt;
| before = [[宇野宗佑]]&lt;br /&gt;
| years  = 第21代 : 1976年&lt;br /&gt;
| after  = [[安倍晋太郎]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{end box}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{日本国歴代内閣総理大臣&lt;br /&gt;
|当代=[[第1次海部内閣|76]]・[[第2次海部内閣|77]]&lt;br /&gt;
|在任期間=1989年 - 1991年&lt;br /&gt;
|前代=[[宇野内閣|75]]&lt;br /&gt;
|前首相名=宇野宗佑&lt;br /&gt;
|次代=[[宮沢内閣|78]]&lt;br /&gt;
|次首相名=宮澤喜一&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かいふ としき}}&lt;br /&gt;
[[Category:1931年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:海部氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:名古屋市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:中央大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:早稲田大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:早稲田大学雄弁会の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:愛知県の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:衆議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:番町政策研究所の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の文部大臣]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の内閣総理大臣]]&lt;br /&gt;
[[Category:新進党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:保守新党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:2022年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

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		<title>西武調理師アート専門学校</title>
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				<updated>2022-01-18T13:09:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: ページの作成:「'''西武調理師アート専門学校'''（せいぶちょうりしアートせんもんがっこう）は、埼玉県所沢市にある私立...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''西武調理師アート専門学校'''（せいぶちょうりしアートせんもんがっこう）は、[[埼玉県]][[所沢市]]にある[[私立学校|私立]]の[[専修学校]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 設置学科 ==&lt;br /&gt;
* 調理師科&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 所在地 ==&lt;br /&gt;
* 埼玉県所沢市松葉町4-23&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 取得できる資格・免許状 ==&lt;br /&gt;
* [[調理師]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[埼玉県専修学校一覧]]&lt;br /&gt;
* [[調理師養成施設]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [https://www.seibugakuen.ac.jp/fujimino/ 西武調理師アート専門学校]&lt;br /&gt;
* {{Twitter|seibu_chouri}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{School-stub|pref=埼玉県}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:せいふちようりしあとせんもん}}&lt;br /&gt;
[[Category:所沢市の専修学校]]&lt;br /&gt;
[[Category:埼玉県の私立専修学校]]&lt;br /&gt;
[[Category:学校記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

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		<title>清水隆弘</title>
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				<updated>2022-01-18T12:51:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: /* 関連項目 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox baseball player&lt;br /&gt;
|選手名             = 清水 隆弘&lt;br /&gt;
|本名               = &lt;br /&gt;
|英語表記           = &lt;br /&gt;
|所属球団           = &lt;br /&gt;
|役職               = &lt;br /&gt;
|背番号             = &lt;br /&gt;
|選手写真ファイル名 = &lt;br /&gt;
|写真サイズ         = &lt;br /&gt;
|写真のコメント     = &lt;br /&gt;
|国籍               = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|出身地             = [[千葉県]][[佐倉市]]&lt;br /&gt;
|生年月日           = {{生年月日と年齢|1984|6|29}}&lt;br /&gt;
|没年月日           = &lt;br /&gt;
|身長               = 171&lt;br /&gt;
|体重               = 70&lt;br /&gt;
|利き腕             = 右&lt;br /&gt;
|打席               = 右&lt;br /&gt;
|守備位置           = [[捕手]]&lt;br /&gt;
|プロ入り年度       = &lt;br /&gt;
|ドラフト順位       = &lt;br /&gt;
|初出場             = &lt;br /&gt;
|最終出場           = &lt;br /&gt;
|年俸               = &lt;br /&gt;
|経歴               = &amp;lt;nowiki&amp;gt;&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[千葉県立柏井高等学校]]&lt;br /&gt;
*[[千葉商科大学]]&lt;br /&gt;
*[[石川ミリオンスターズ]]（2007）&lt;br /&gt;
|経歴補足題         = &lt;br /&gt;
|経歴補足           = &amp;lt;nowiki&amp;gt;&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&lt;br /&gt;
|代表チーム         = &lt;br /&gt;
|五輪               = &lt;br /&gt;
|WBC              = &lt;br /&gt;
|選出国             = &lt;br /&gt;
|選出年             = &lt;br /&gt;
|得票率             = &lt;br /&gt;
|選出方法           = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''清水 隆弘'''（しみず たかひろ、[[1984年]][[6月29日]] - ）は、[[千葉県]][[佐倉市]]出身の元[[プロ野球選手]]（[[捕手]]）。[[血液型]]はB型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[千葉県立柏井高等学校|柏井高]]から[[千葉商科大学]]を経て、[[2007年]]に[[石川ミリオンスターズ]]に入団するも、同年限りで退団。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年度別打撃成績 ==&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
![[年度]]!![[ベースボール・チャレンジ・リーグ|球団]]!![[野球の背番号|背&amp;lt;br /&amp;gt;番&amp;lt;br /&amp;gt;号]]!![[試合|試&amp;lt;br /&amp;gt;合]]!![[打数|打&amp;lt;br /&amp;gt;数]]!![[得点|得&amp;lt;br /&amp;gt;点]]!![[安打|安&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[二塁打|二&amp;lt;br /&amp;gt;塁&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[三塁打|三&amp;lt;br /&amp;gt;塁&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[本塁打|本&amp;lt;br /&amp;gt;塁&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[塁打|塁&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[打点|打&amp;lt;br /&amp;gt;点]]!![[盗塁|盗&amp;lt;br /&amp;gt;塁]]!![[犠牲バント|犠&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[犠牲フライ|犠&amp;lt;br /&amp;gt;飛]]!![[四球|四&amp;lt;br /&amp;gt;球]]!![[死球|死&amp;lt;br /&amp;gt;球]]!![[三振|三&amp;lt;br /&amp;gt;振]]!![[併殺|併&amp;lt;br /&amp;gt;殺&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[打率|打&amp;lt;br /&amp;gt;率]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[2007年]]||rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center;&amp;quot;|石川||rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center;&amp;quot;|26||18||29||2||6||1||0||0||7||4||0||2||0||1||0||8||2||.207&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;3&amp;quot;|通算成績&lt;br /&gt;
|18||29||2||6||1||0||0||7||4||0||2||0||1||0||8||2||.207&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[石川ミリオンスターズの選手一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しみす たかひろ}}&lt;br /&gt;
{{baseball-biography-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の野球選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:石川ミリオンスターズの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:千葉商科大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:千葉県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1984年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>長島和弘</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''長島 和弘'''（ながしま かずひろ、[[1963年]] - ）は[[株式評論家]]。[[千葉商科大学]]商経学部卒業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大手証券会社勤務、大手建設会社の上場支援業務を経て、投資顧問会社で投資家向けのレポートなどを執筆、ラジオたんぱ（[[ラジオNIKKEI]]）にも出演する。現在、[[日本インタビュ新聞社]]IR企画室室長及び株式評論家として証券雑誌・新聞などに執筆。マスコミ、講演会などでも講師とも活動。[[証券日刊]]に「大株主ウォッチャー」を連載。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://ookabunushi.seesaa.net/ 長島和弘の大株主ウォッチャー]　オフィシャルサイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:経済評論家|なかしま かすひろ]]&lt;br /&gt;
[[Category:株式評論家|なかしま かすひろ]]&lt;br /&gt;
[[Category:千葉商科大学出身の人物|なかしま かすひろ]]&lt;br /&gt;
[[Category:1963年生|なかしま かすひろ]]&lt;br /&gt;
{{People-stub|なかしまかすひろ}}&lt;br /&gt;
[[Category:Wikipediaで削除依頼された記事|{{PAGENAME}}]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[wiki:長島和弘]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>カテゴリ:千葉商科大学出身の人物</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E5%8D%83%E8%91%89%E5%95%86%E7%A7%91%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9&amp;diff=396527"/>
				<updated>2022-01-18T12:48:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: ページの作成:「千葉商科大学の卒業生に関するカテゴリ。 {{CategoryTOC}}  しゆつしん Category:日本の大学出身...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[千葉商科大学]]の卒業生に関するカテゴリ。&lt;br /&gt;
{{CategoryTOC}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:千葉商科大学の人物|しゆつしん]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の大学出身の人物|ちはしようか]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>百瀬晴人</title>
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				<updated>2022-01-18T12:47:33Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox baseball player&lt;br /&gt;
|選手名       = 百瀬　晴人&lt;br /&gt;
|所属球団     = &lt;br /&gt;
|背番号       = &lt;br /&gt;
|国籍         = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|出身地       = [[千葉県]]&lt;br /&gt;
|生年月日     = {{生年月日と年齢|1983|9|24}}&lt;br /&gt;
|没年月日     = &lt;br /&gt;
|身長         = 175&lt;br /&gt;
|体重         = 78&lt;br /&gt;
|利き腕       = 右&lt;br /&gt;
|打席         = 右&lt;br /&gt;
|守備位置     = [[内野手]]&lt;br /&gt;
|プロ入り年度 = 2008年&lt;br /&gt;
|経歴         = &amp;lt;nowiki&amp;gt;&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[習志野市立習志野高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[千葉商科大学]]&lt;br /&gt;
* [[千葉熱血MAKING]]&lt;br /&gt;
* [[サウザンリーフ市原]]&lt;br /&gt;
* [[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ]]（2008 - 2010）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''百瀬 晴人'''（ももせ はると、[[1983年]][[9月24日]] - ）は、[[千葉県]]出身の元[[プロ野球選手]]（[[内野手]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[習志野市立習志野高等学校|市立習志野高]]から[[千葉商科大学]]、[[千葉熱血MAKING]]、[[サウザンリーフ市原]]を経て、[[2008年]]にトライアウトに合格し[[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ]]に入団。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毎年、打率が2割台前半と振るわず、[[2010年]]10月8日に[[自由契約]]となり退団。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 詳細情報 ==&lt;br /&gt;
=== 年度別打撃成績 ===&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot; &lt;br /&gt;
![[年度|年&amp;lt;br /&amp;gt;度]]!![[球団|球&amp;lt;br /&amp;gt;団]]!![[試合|試&amp;lt;br /&amp;gt;合]]!![[打数|打&amp;lt;br /&amp;gt;数]]!![[得点|得&amp;lt;br /&amp;gt;点]]!![[安打|安&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[二塁打|二&amp;lt;br /&amp;gt;塁&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[三塁打|三&amp;lt;br /&amp;gt;塁&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[本塁打|本&amp;lt;br /&amp;gt;塁&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[打点|打&amp;lt;br /&amp;gt;点]]!![[盗塁|盗&amp;lt;br /&amp;gt;塁]]!![[犠打|犠&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[犠飛|犠&amp;lt;br /&amp;gt;飛]]!![[四球|四&amp;lt;br /&amp;gt;球]]!![[死球|死&amp;lt;br /&amp;gt;球]]!![[三振|三&amp;lt;br /&amp;gt;振]]!![[併殺打|併&amp;lt;br /&amp;gt;殺&amp;lt;br /&amp;gt;打]]!![[打率|打&amp;lt;br /&amp;gt;率]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2008}}&lt;br /&gt;
|rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|[[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ|新潟]]&lt;br /&gt;
|17||39||1||9||1||0||0||4||1||2||0||1||0||11||1||.231&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2009}}&lt;br /&gt;
|63||178||14||44||6||0||2||13||1||8||0||10||5||36||5||.247&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2010}}&lt;br /&gt;
|45||120||6||26||6||1||0||14||0||8||1||9||1||24||4||.217&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|通算：3年&lt;br /&gt;
|125||337||21||79||13||1||2||31||2||18||1||20||6||71||10||.234&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 背番号 ===&lt;br /&gt;
* '''23'''（2008年 - 2010年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの選手一覧]]&lt;br /&gt;
* [[千葉県出身の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[池上礼一]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Baseball-biography-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ももせ はるひと}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の野球選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:千葉商科大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:千葉県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1983年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E7%A5%9E%E9%9A%A0%E3%81%97%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=396525</id>
		<title>江東マンション神隠し殺人事件</title>
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				<updated>2022-01-18T12:43:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: /* 初公判始まる */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:星島貴徳1.jpg|300px|thumb|報道陣の取材に答える星島貴徳＝2008年5月19日午後、東京都江東区潮見のマンション前]]&lt;br /&gt;
'''江東マンション神隠し殺人事件'''とは、[[2008年]][[4月18日]]に[[東京都]][[江東区]]の[[マンション]]で[[OL]]の東城瑠理香さん(23歳)が神隠しにあったように行方不明となった事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に[[星島貴徳]]による[[殺人]]・[[死体遺棄|死体損壊遺棄]]が発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件の概要 ==&lt;br /&gt;
[[Image:東城瑠理香.jpg|300px|thumb|殺害された東城瑠理香さん]]&lt;br /&gt;
2008年4月18日（金曜）の夜、東城瑠理香さん（当時23歳）が東京都江東区[[潮見]]二丁目の自宅[[マンション]]から忽然と消え、親族から捜索願いが出される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最上階の自室の玄関に少量の[[血痕]]が残った状態であったことに加え、マンションに設置された[[監視カメラ]]の記録に、東城瑠理香さんがマンション[[建物]]から外出した形跡がないことから、「[[神隠し]]事件」として、[[マスメディア]]各社がトップニュースで報じた。また、同マンションは当時3分の1近くが空室であり、東城瑠理香さん宅の両隣は空室であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[警視庁]]は、マンション住民全員から[[事情聴取]]、任意での[[指紋]]採取、[[家宅捜索]]を行った。事件発生から約1ヶ月後の同年[[5月25日]]、東城瑠理香さん宅の2つ隣の部屋に住む[[派遣社員]]の星島貴徳（当時33歳）を[[住居侵入]]容疑で[[逮捕]]した。その後の[[捜査]]で、星島貴徳は[[死体遺棄#死体損壊|死体損壊]]、[[死体遺棄|遺棄]]の疑いで再逮捕（同年[[6月13日]]）、[[殺人罪　(日本)|殺人]]容疑で再逮捕（同年[[6月25日]]）されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逮捕後、星島貴徳からの供述により事件の全貌が明らかとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件の全貌 ==&lt;br /&gt;
; 拉致・殺害&lt;br /&gt;
: 2008年4月18日夜、星島貴徳は[[性的奴隷|性奴隷]]獲得目的で東城瑠理香さんの帰宅を待ち伏せし、帰宅直後を狙い東城瑠理香さん宅へ侵入。東城瑠理香さんに騒がれたため頭部を殴打し拉致、自室へ連れ帰り、縛って部屋に寝かせておいた。まもなく、東城瑠理香さんと同居していた姉が帰宅し、室内の異変に気付いて[[警察]]へ被害届を提出した。早くも警察の捜査が始まったことを知った星島貴徳は、事件の発覚を恐れ、東城瑠理香さんの首に包丁を刺し殺害した。&lt;br /&gt;
; 解体・隠蔽&lt;br /&gt;
: 殺害後、星島貴徳は東城瑠理香さんの遺体を[[包丁]]2本と[[のこぎり]]でバラバラに切断し、[[冷蔵庫]]やベッドの下、段ボール箱などに隠した。翌日、警察がマンション全室に行った任意の家宅捜索の際には、事件とは無関係な段ボール箱を[[刑事|捜査員]]に見せて中身を確認させた上、警察が中身を詳しく調べないだろうと考え、遺体の一部が入っていた段ボール箱をあえて自ら示し、中身確認を促すなど巧妙かつ大胆に振る舞った。結局、遺体が入った段ボール箱は見逃すこととなる。&lt;br /&gt;
: 星島貴徳は東城瑠理香さんの遺体を細かく切断して[[トイレ]]に流したり、出勤時に[[ゴミ]]捨て場に捨てるなどして、同年[[5月1日]]までに遺体の全てを処理した。&lt;br /&gt;
; 指紋照合&lt;br /&gt;
: 東城瑠理香さん宅に残っていた指紋を警察が調べた結果、星島貴徳が東城瑠理香さん宅に侵入した際に、指紋をわずかに残していたことが判明。事件直後には星島貴徳を含むマンション住民全員から任意で指紋を採取していたが、その時は、星島貴徳は何らかの薬品を使って指先の皮膚を荒らしていたため、10指とも紋様が読み取れず、照合が不可能だった。事件から1ヶ月後に再び警察が星島貴徳の指紋を採取した際には、皮膚は再生しており、東城瑠理香さんの部屋で発見された指紋と一致したため、星島貴徳の逮捕へと至った。&lt;br /&gt;
; DNAの一致&lt;br /&gt;
: 星島貴徳の逮捕後、警察が[[下水管]]などを調べた結果、わずかに残った遺体肉片と東城瑠理香さんの[[DNA]]が一致した。また、星島貴徳の部屋の一室や浴槽から採取された血痕と東城瑠理香さんのDNAが一致した。その他、東城瑠理香さんが所有していた[[財布]]や[[免許証]]などの切断された一部を発見した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==星島貴徳のプロフィール ==&lt;br /&gt;
星島貴徳は[[岡山県]]出身、[[岡山県立玉野光南高等学校]]の情報処理科を卒業後、ゲーム業界大手の[[セガ]]に入社。[[プログラマ|プログラマー]]志望で入社したが、与えられた仕事は[[ゲームセンター]]の店長であったため、仕事に対して不満がありセガを退職、その後、派遣社員としてコンピューター会社に勤務していた。星島貴徳は生活に不便をきたす状況になく、逮捕当時、月収50万円を稼いでいたと報じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東城瑠理香さんは当時23歳、東京都内の会社法人に勤務し、事件現場となったマンションには姉と同居していた。星島貴徳と東城瑠理香さんの間に面識はなく、星島貴徳は東城瑠理香さんの名前も年齢も知らなかった。若く太っていない女性を無差別に狙った、[[強姦]]、[[性的暴行]]、[[婦女暴行]]目的の犯行であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
殺害後、星島貴徳は東城瑠理香さんの父親とエレベーターで乗り合わせた際に「大変なことになりましたね」と言い、マンションの管理会社に対して監視カメラが足りないなどと言ってクレームの電話までかけたり、マンションの外で待ち構える多くのマスメディアの[[インタビュー]]に応じて自分が殺害した東城瑠理香さんの失踪を心配するそぶりを見せたり（このインタビューは後にメディアに報道された）、事件と無関係を装っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
星島貴徳の逮捕から2週間後に[[秋葉原通り魔事件]]が発生したため、この事件の報道は小さくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 裁判 ==&lt;br /&gt;
=== 初公判始まる ===&lt;br /&gt;
2008年4月に東京都江東区のマンションで帰宅直後のOLを拉致し、自室に連れ込んで殺害したとして殺人やわいせつ目的略取などの罪に問われた同じマンションに住む無職、星島貴徳被告(34)の初公判が[[2009年[[1月13日]]、[[東京地裁]]で開かれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
都会のマンションからOLが忽然と消えたこの事件は「現代の神隠し」とも呼ばれ、殺害の立証が難しいと予想されたが、被告は起訴事実を認める方針という。公判前整理手続きでは責任能力も認め、精神鑑定は行わない予定。争点は量刑に絞られたが、ポイントは検察の「訴因変更」にあるようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件が起きたのは約9カ月前。昨年4月18日午後8時45分ごろ、会社員の東城瑠理香さん＝当時23歳＝と同居する姉は、マンション9階の自室に帰宅するや、異様な光景に息をのんだ。玄関ドア付近に付着する血痕。転がるピアス。部屋の電気はついたまま…。そして東城さんがいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この直前に東城さんは帰宅を告げるメールを姉に送っていた。その経緯からみて、帰宅した東城さんが何らかのトラブルに巻き込まれた疑いが濃厚に漂っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
姉からの110番通報を受けた警視庁は、直ちに捜査を始める。ともかく東城さんを探し出すことが先決だ。状況からみて、拉致された東城さんがマンションの外に連れ出された形跡は薄い。どこかの部屋に監禁されている可能性が高いとみられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東城さんの失踪直後から約1週間、警視庁はマンションのエントランスに約15人の捜査員を配置して出入りを制限、マンション全150戸の室内を任意で捜索した。が、東城さんは見つからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マンションの2部屋隣の918号室に住む星島が逮捕されたのは約5週間後の5月25日。東城さん宅から検出された指紋が、何の交友関係もないはずの星島のものと判明したのが決め手になった。だが、東城さんはいぜん見つからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
被告は「殺害し、遺体をバラバラにしてトイレに流したりした」と供述したのだ。被告の部屋からは、東城さんのものとみられる血液反応が出た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は警視庁は、星島の部屋に捜査員が事件の翌日、翌々日に立ち入らせ、トイレや風呂場から天井裏まで調べさせている。しかしこのときは東城さんの気配すら察知できていない。警視庁は「任意捜査の限界」と言ったが、5週間も捜査の時間を費やしてしまったことは痛恨の極みだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その星島は事件発生翌日の4月19日午後、マンション前で報道陣に囲まれると、取材に応じ、約20分間、饒舌に話し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「(東城さんは)派手な印象で、ホステスでもやっているのかと思ったが、警戒されると思って話しかけたことはない。若い女性は苦手なので…」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「叫び声は聞こえなかった。ひとり暮らしなので怖い」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件に無関係であるとアピールする半面、被告には、目が泳いだり、あごをしきりになでたりするなど落ち着かない様子もあった。いったい被害者をどうするつもりだったのか?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
星島は住居侵入、わいせつ目的略取、殺人、死体損壊、死体遺棄の5つの罪で起訴されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
起訴状によると、星島は昨年4月18日夜、わいせつ目的で東城さん宅に玄関から押し入り、東城さんの顔を殴打。タオルで両手首を縛り、ジャージーのズボンを顔に巻いて目隠しすると、首に文化包丁を突きつけ、自室に連れ込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化包丁で首を切って失血死させると、その遺体は翌月1日ごろにかけて、のこぎりで切断。トイレに流したり、別のマンション外のごみ置き場に捨てたりした。その手口は残忍としかいいようがない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
切断された骨片の数は150超。星島はトイレに流せなかった遺留品や遺体の一部を、小分けにして冷蔵庫や段ボールに隠し、ビジネスバッグで持ち出した。解体作業は夜中に行い、勤務先では遅刻や早退、居眠りを繰り返していたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ、こんな凶行に至ったのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「部屋が近くて、手っ取り早いのでねらった。乱暴目的で自分の支配下に置きたかった」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
捜査で星島は、暴行目的の犯行だと認めた。[[ストーカー]]のように東城さんを偏愛していた形跡はなく、実際は姉妹2人暮らしだった東城さんを「一人暮らし」だと思い込んでいた。自宅の両隣が空き部屋で狙いやすかったことも犯行につながったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「(捜索などの)騒ぎで解放できなくなったので消すしかないと思った」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
被告はこうも供述している。警視庁が星島に最初に聞き込みしたのは失踪から約2時間半後。星島は玄関先で応対した。この時点で、東城さんは生存しており、当初から殺害するつもりではなかった、というのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
よくわからないのは、具体的な犯行計画だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
監禁したとして、星島はその期間をどの程度想定していたのか。その後は解放するつもりだったのか。捜査関係者の1人も「ずっと自分の意のままにしておくつもりだったのだろうか」と首をかしげるのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
星島は、[[平成2年]]まで約9年間、少女を監禁し続けた「[[新潟少女監禁事件]]」と同様の犯行を思い描いていたのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「1週間前に初めて見かけた」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
星島は岡山市出身。4人兄弟の長男として生まれ、同県[[玉野市]]の岡山県立玉野光南高等学校の情報処理科に進んだ。当時からパソコンが得意で、勉強もできたという。ただ、おとなしくクラスでも目立つ存在ではなく、「女性と話すのを恥ずかしがっていた」(当時の同級生)という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後は[[セガ]]に就職したが退職。昨年1月から東京・[[お台場]]のプログラム開発会社に派遣社員として勤め、プログラム開発に携わっていた。ゲームやアニメが好きだったことから「アキバ系」とも言われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[税理士]]の父親を嫌悪しており、「殺したいぐらい」と話して周囲を驚かせたこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、殺害された東城さんは3人姉妹の次女として[[長野市]]で生まれ、同県内の県立高校では柔道部のマネジャーを務めた。神奈川県内の私立大に進学したが、学費はアルバイトでためるという努力家ぶりだった。大学時代には[[カナダ]]に留学。英語が堪能で、周囲には「得意の語学を生かした仕事に就きたい」と夢を語っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後は都内の広告関連会社にいったん就職。昨年1月から、契約社員として別の会社に勤め始めたばかりだった。勤務先は「企業セミナーを1人で任せようとしていた」といい、仕事への順応も早かったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これまでの捜査の結果、両者をつなぐ接点は、「同じマンションの居住者である」という点以外は浮かび上がっていない。星島は事件の約1週間前に東城さんを初めて見かけ、監禁を計画したと供述しているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あす行われる初公判を皮切りに公判は1月に集中的に開かれ、判決は7回目公判となる2月10日に言い渡される予定となっている。「神隠し」とも騒がれたこの事件の裁判のポイントはどこにあるだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元[[最高検]][[検事]]の[[土本武司]]・[[白鴎大]]法科大学院長は、東京地検が昨年7月17日に殺人罪で起訴した際、訴因変更で住居侵入罪にわいせつ目的略取罪を追加したことに着目する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「量刑判断では犯行動機が重視される。動機にも直結するわいせつ目的略取罪をあえて加えて立件したということは、検察側に極刑に近づけたい意識があることの表れだ。求刑は死刑も考えられるのではないか。それを踏まえて、裁判所は星島に酌量すべき事情があるかどうかを判断することになるだろう」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土本氏は犯行手口が似ている例として、薬物を吸引させて女性10人に乱暴、うち英国人[[ルーシー・ブラックマン]]さん＝当時21歳＝ら2人を死亡させた事件を指摘する。この事件の犯人は、昨年12月の控訴審判決で死体損壊・遺棄罪は認定されたものの、準強姦致死罪については認められず、無期懲役刑となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
殺人事件をはじめ重大な犯罪が対象となる裁判員制度が5月21日から始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神隠し公判4日目「お前の性奴隷なんてならない」「ケダモノ以下」 ===&lt;br /&gt;
…母の怒声響く&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《「最も連れ去りが成功する可能性が高い」という考えだけで、星島貴徳被告から狙われた東城瑠理香さん。母親ら遺族は、犯人がどういう顔をしていたのかを瑠理香さんに見せるため、遺影を抱えて毎回裁判を傍聴し、瑠理香さんの当時の恐怖や理不尽な犯行への怒りを代弁するために証言に立ったという。検察官の質問は続く》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「瑠理香さんは怖がりでしたね」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「はい。とても怖がりでした」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「そんな瑠理香さんが、被告に襲われて殴られた際に1度しか悲鳴を上げず、あとはだまっていましたよね。どうしてだと思いますか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「瑠理香は頭の良い子でした。『また悲鳴を上げれば、殴られたり、もしかしたら殺されたりするのではないか』と考えていたと思います」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「被告は公判で『瑠理香さんを性奴隷にしたかった』と言っていますよね。これを聞いて瑠理香さんはどう言うと思いますか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「なるわけないじゃないですか。『お前なんかの性奴隷なんてならない』『何を考えているんだ』と罵倒していると思います」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《検察官の質問にも、あまり感情的にならず冷静に答えていた母親だが、『性奴隷』の点には、声を荒らげて答え、法廷には遺族らのすすり泣く声も漏れた》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《星島被告は、帰宅した東城さんを襲い、目隠しした上で包丁で脅し、2軒隣の自室に連れ込んだ。ベッドの上に寝かし、両手足を縛った。室内の電気を消したままだった。母親による瑠理香さんの心境の代弁が続く》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「連れ去られた瑠理香さんは、どんな気持ちだったと思いますか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「恐怖の中、『早く帰してほしい』『とにかく助けて』。これだけを考えていたと思います」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「このとき(部屋に連れ去られた後)も、瑠理香さんは声を出しませんでしたね」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「本当は『ここから出して』と叫びたかったと思います」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《母親の代弁を星島被告はじっと下を向いて聞き入る。当時の状況を思いだしてか、耳を赤らめて耐えているようだ》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《瑠理香さんの行方不明を知った同居の姉からの通報で警察がマンション内の捜索を始めた直後の４月１８日午後１０時２０分ごろ、捜査員が星島被告宅を訪問していた。この際には瑠理香さんは生存していた。検察官は核心の状況についても母親に代弁を求める》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「警察官が(星島被告宅の)ドアをノックした際には、瑠理香さんはどう思っていたでしょうね」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「『だれかが助けに来てくれた』と思ったはずです」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「その際にも、瑠理香さんは声をあげていませんね」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「『せっかくここまでがんばってきたのだから、声をあげたら努力が水の泡になる』。そう思って必死で耐えていたのだと思います。瑠理香は我慢強い子でしたから…」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《しかし、その忍耐も星島被告には届かず、東城さんは包丁を首に突き刺される。それも何の前触れもなく、無言で刺された》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「刺された瞬間はどう思っていましたか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「…。痛みと苦しみと…。それでも『絶対に生きよう』と考えていたと思います」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「瑠理香さんは生きて何をしたいと思っていましたか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「やり残していることはいっぱいありました。仕事が楽しくなってきたころでしたし、瑠理香は結婚にもあこがれていました。『ウエディングドレスも着たい』と言っていましたし、結婚して子供も産んでいたでしょう」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《いつしか母親は代弁に変わり、自らの感情を抑えられないように思い出を語り始める》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「（事件）直前に瑠理香と話していたことがありました。『もう少ししたら家族で旅行に行こう』と話していました。あと友だちとおいしいものも食べたかったでしょうし、いとこともカラオケにも行っていたでしょう。やり残したことは限りありません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《東城さんは首を刺されてから１０分間は生存し、痛みに必死に耐えていた》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「星島被告は『なかなか死ななかった』と公判で話していましたが…」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「死ななかったんじゃない。死ねなかったんです！絶対に生きようと死ねなかったんです！」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《母親は感情を抑えられない様子で大声で答える。母親は、東城さんの同居の姉からの連絡で長野から現場に向かった。殺害された時刻は、向かっていた最中だったことになる。母親は当時を振り返る》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「何もしてあげられなかった。母親として、すごく情けないというか、そういう気持ちになりました」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《星島被告は『性奴隷』にしたいと連れ去った瑠理香さんを殺害した理由について、公判で『瑠理香さんが犯行（連れ去り）の証拠になり、自分の生活を守るために殺害した』などと話していた》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「瑠理香さんが殺害される理由は何か思いあたりますか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「何も思いあたりません」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「殺害の動機を星島被告が公判で話しているのを瑠理香さんが聞いたら、どうしていると思いますか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「『何で、そんな理由で』と、たぶん発狂していると思います」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《星島被告は、瑠理香さんを殺害したばかりか、遺体を原形をとどめないほどに切断して捨てていた。心配した母親がマンションに着いた際に、切断を始めていたという》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「もし、あのとき分かっていれば、（現場検証で規制する）警察官を振り切って乗り込み、瑠理香を連れて帰ってきたと思う」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「でも、被告はトイレに流しましたね」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「瑠理香はとてもきれい好きでした。とても、とても…。そんな子の腕を傷つけ、生ゴミや汚物と一緒に切り刻んで流すなんて…。絶対に許せません。人間じゃないと思います。ほんとにケダモノか、それ以下だと思います」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察官「『下水道から骨が見つかった』と警察から聞かされたときは、どう思いましたか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母「瑠理香だと確信しました。小さいときからがんばり屋で、そんなところに流されても、流れの中で必死に耐えて、『自分を見つけてほしい』と…。だから発見を聞いて、瑠理香だと確信しました」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一審 ===&lt;br /&gt;
[[2009年]][[1月13日]]、[[東京地方裁判所]]（平出喜一[[裁判長]]）で初[[公判]]が開かれた。星島貴徳は起訴事実を認めた。公判のなかで、事件の全貌や、星島貴徳の陵辱を好む性癖が明らかにされた。この[[裁判]]は[[裁判員制度]]のモデルケースとしても注目され、[[検察]]側は[[証拠]]として被害者女性の遺体の一部を65インチのモニターに表示するなどし、再度クローズアップされることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年[[1月26日]]、検察は[[論告]]でわいせつ目的略取という身勝手な動機、[[完全犯罪]]を目論んだ徹底した罪証隠滅工作、部屋の血液反応という[[物的証拠|物証]]が提示されるまで犯行を否認したこと、[[永山則夫連続射殺事件#永山基準|永山基準]]以降で殺人の前科がない一人殺人で死刑が確定した3事件の例を提示し、[[死刑]]を[[求刑]]した。弁護側は最終弁論で、[[前科]]がないことや逮捕後は犯行を供述して謝罪していることや下半身に大やけどを負った過去の生い立ちなどを提示して死刑回避を求めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年[[2月18日]]、東京地方裁判所は、「性奴隷にしようとして拉致し、事件の発覚を防ぐには被害者の存在自体を消してしまうしかないと考えた自己中心的で卑劣な犯行で、酌量の余地はない」と厳しく指弾したが、「死刑選択には相当強い悪質性が認められることが必要となるが、この殺害では執拗な攻撃を加えたものではなく、残虐極まりないとまではいえない」「自ら罪を悔いており、死刑は重すぎる」として、検察の死刑求刑に対し[[無期懲役]]を言い渡した。同月、検察は量刑不服として[[控訴]]した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 控訴審 ===&lt;br /&gt;
同年[[6月11日]]、[[東京高等裁判所]]（[[山崎学]]裁判長）で控訴審初公判が開かれた。検察側は控訴趣意書で、死刑求刑に対して無期懲役とした一審判決を、「犯行は類を見ないほど凶悪で危険極まりない。一審の刑は軽すぎる」として、改めて死刑を求めた。一方の弁護側は殺害された被害者が1人で死刑の適用が争点となった事件と比較し、「無期懲役が最も適切」と控訴棄却を求めた。同月16日、控訴審結審。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9月10日]]、控訴審判決公判があり、東京高裁は犯行を「殺人などの重大犯罪で、冷酷かつ残虐で人倫にもとる犯行」と指摘したが、殺害方法の残虐性や殺人、死体損壊・遺棄の計画性を否定するなどし、「前科などもなく、自らの罪を悔いて謝罪の態度を示し、矯正の可能性がある」として、永山基準や、被害者が1人でも死刑となった過去の事案との違いを指摘し、「極刑がやむを得ないとまでは言えない」と結論づけ、一審東京地裁判決を支持し、検察側の控訴を[[棄却]]した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察（[[東京高検]]）は「[[憲法違反]]や判例違反などの明確な上告理由がない」と[[上告]]を断念し、被告側も上告しなかったため、同月25日、無期懲役が確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
; [[埼玉愛犬家連続殺人事件]]&lt;br /&gt;
: 過去に、死体を消すことで殺人の立件を困難にして完全犯罪を狙った殺人事件に、埼玉愛犬家連続殺人事件がある。埼玉の事件は警察の捜査がない中で、自営業で他にも従業員を働かせることが可能である複数犯が、死体を消失させた事件であった。しかし、今回の江東区の事件は、警察の捜査が入る中で、仕事のため勤務先と自宅を往復している単独犯が死体を消失させた事件であったため、その手際のよさが注目された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[バラバラ殺人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://sankei.jp.msn.com/etc/090114/etc0901141914001-n1.htm 江東マンション神隠し殺人事件]（産経新聞）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こうとうまんしよんかみかくしさつしんしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:2008年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:平成時代の殺人事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:無期懲役が確定した日本の殺人事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:江東区の歴史|まんしよんかみかくしさつしんしけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦後の東京]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=1%E6%9C%882%E6%97%A5&amp;diff=396524</id>
		<title>1月2日</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=1%E6%9C%882%E6%97%A5&amp;diff=396524"/>
				<updated>2022-01-18T12:41:06Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: /* 誕生日 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''1月2日'''（いちがつふつか）は[[グレゴリオ暦]]で年始から2日目に当たり、年末まであと363日（[[閏年]]では364日）ある。&lt;br /&gt;
誕生花は[[孟宗竹]]。又は[[蝋梅]]。&lt;br /&gt;
{{カレンダー_1月}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== できごと ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- * [[1665年]] - [[大坂城]][[天守閣]]、[[雷|落雷]]により焼失。[[1931年]]に再建。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[1788年]] - [[ジョージア州]]が[[アメリカ合衆国]]に加盟。&lt;br /&gt;
* [[1876年]] - [[三菱財閥|三菱系]][[企業]]で[[日本]]初の[[ボーナス]]支給。&lt;br /&gt;
* [[1905年]] - [[日露戦争]]で[[旅順]]開城。&lt;br /&gt;
* [[1930年]] - 第一回[[朝日学術賞]]授与式。&lt;br /&gt;
* [[1937年]] - [[イギリス]]の[[戦艦]]、[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]の建造開始。[[1939年]]に進水。&lt;br /&gt;
* [[1942年]] - [[太平洋戦争]]で、[[日本軍]]が[[マニラ]]を占領。&lt;br /&gt;
* 1942年 - [[興亜奉公日]]を廃止し、毎月8日を[[大詔奉戴日]]とすることを[[閣議決定]]。&lt;br /&gt;
* [[1943年]] - [[ニューギニア]]のブナで[[日本軍]]が玉砕する。&lt;br /&gt;
* [[1953年]] - 「[[第3回NHK紅白歌合戦|第3回紅白歌合戦]]」がテレビで実験放送される。&lt;br /&gt;
* [[1954年]] - [[皇居]][[二重橋]]で皇居一般参賀者が橋上で[[将棋倒し]]となり16人が死亡する（[[二重橋事件]]）。&lt;br /&gt;
* [[1956年]] - [[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]がこの年から2日に往路、3日に復路の開催に。&lt;br /&gt;
* [[1959年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]が世界初の月面ロケット「ルーニク1号（ルナ1号）」を打上げ。[[軌道 (力学)|軌道]]が逸れて[[太陽]]を周回する初の人工惑星に。&lt;br /&gt;
* 1959年 - [[キューバ]]革命軍が[[フルヘンシオ・バティスタ]]を打倒する。&lt;br /&gt;
* 1959年 - [[大分空港]]発、[[岩国飛行場|岩国]]経由[[大阪国際空港|大阪]]行の[[全日本空輸|全日空]]機で飛び降り自殺。[[飛行機]]の[[便所]]から不発の[[ダイナマイト]]25本が発見された。（[[全日空機爆破未遂事件]]）&lt;br /&gt;
* [[1969年]] - [[昭和天皇パチンコ狙撃事件]]。&lt;br /&gt;
* [[1971年]] - [[和歌山県]]新和歌浦寿司由楼で火災が発生し、31人が死傷する。&lt;br /&gt;
* [[1973年]] - [[ボクシング]]世界フライ級タイトルマッチで[[大場政夫]]が5度目の防衛成功。（同年[[1月25日]]に交通事故で死亡）&lt;br /&gt;
* [[1997年]] - [[島根県]]沖の[[日本海]]でロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」が沈没し、[[重油]]3700キロリットルが流出。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誕生日 ==&lt;br /&gt;
* [[1601年]]（[[慶長]]5年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]） - [[徳川義直]]、[[尾張藩|尾張藩主]]（+ [[1650年]]）&lt;br /&gt;
* [[1649年]] - [[メフメト4世]]、[[オスマン帝国]]第19代[[スルタン]]（+ [[1693年]]）&lt;br /&gt;
* [[1727年]] - [[ジェームズ・ウルフ]]、[[イギリス陸軍]]の将軍（+ [[1759年]]）&lt;br /&gt;
* [[1784年]] - [[エルンスト1世 (ザクセン＝コーブルク＝ゴータ公)|エルンスト1世]]、[[ザクセン＝コーブルク＝ゴータ公国|ザクセン＝コーブルク＝ゴータ公]]（+ [[1844年]]）&lt;br /&gt;
* [[1822年]] - [[ルドルフ・クラウジウス]]、[[物理学者]]（+ [[1888年]]）&lt;br /&gt;
* [[1836年]] - [[メンデレ・スフォリム]]、[[イディッシュ語]]作家（+ [[1917年]]）&lt;br /&gt;
* [[1837年]] - [[ミリイ・バラキレフ]]、[[作曲家]]（+ [[1910年]]）&lt;br /&gt;
* [[1870年]] - [[エルンスト・バルラハ]]、[[彫刻家]]（+ [[1938年]]）&lt;br /&gt;
* 1870年（[[明治]]2年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]） - [[小川平吉]]、[[法務大臣|司法大臣]]・[[国土交通大臣|鉄道大臣]]（+ [[1942年]]）&lt;br /&gt;
* [[1873年]] - [[リジューのテレーズ]]、[[修道士|修道女]]（+ [[1897年]]）&lt;br /&gt;
* [[1880年]] - [[ルイ・ブレゲー]]、[[飛行機]]設計者（+ [[1955年]]）&lt;br /&gt;
* [[1892年]] - [[柏尾誠一郎]]、[[テニス]]選手（+ [[1962年]]）&lt;br /&gt;
* [[1896年]] - [[ジガ・ヴェルトフ]]、[[映画監督]]（+ [[1954年]]）&lt;br /&gt;
* [[1900年]] - [[伊丹万作]]、映画監督（+ [[1946年]]）&lt;br /&gt;
* [[1901年]] - [[久保栄]]、[[戯曲]]作家（+ [[1958年]]）&lt;br /&gt;
* [[1904年]] - [[ヴァルター・ハイトラー]]、[[物理学者]]（+ [[1981年]]）&lt;br /&gt;
* [[1905年]] - [[ルイジ・ザンパ]]、[[映画監督]]（+ [[1991年]]）&lt;br /&gt;
* 1905年 - [[マイケル・ティペット]]、作曲家（+ [[1998年]]）&lt;br /&gt;
* [[1906年]] - [[三島雅夫]]、[[俳優]]（+ [[1973年]]）&lt;br /&gt;
* [[1907年]] - [[辻嘉一]]、[[日本料理]]の[[料理人]]（+ [[1988年]]）&lt;br /&gt;
* [[1909年]] - [[吾郷清彦]]、[[歴史家]]（+ [[2003年]]）&lt;br /&gt;
* [[1910年]] - [[松谷穣]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]]（+ [[1995年]]）&lt;br /&gt;
* [[1911年]] - [[横路節雄]]、[[政治家]]（+ [[1967年]]）&lt;br /&gt;
* [[1912年]] - [[木村庄之助 (26代)|木村庄之助]]、[[立行司]]（+ [[1984年]]）&lt;br /&gt;
* [[1913年]] - [[林健太郎]]、[[歴史学者]]・[[東京大学]]総長（+ [[2004年]]）&lt;br /&gt;
* [[1915年]] - [[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]、[[落語家]]（+ [[2002年]]）&lt;br /&gt;
* 1915年 - [[古川正男]]、元[[プロ野球選手]]&lt;br /&gt;
* [[1919年]] - [[吉原正喜]]、元プロ野球選手（+ [[1944年]]）&lt;br /&gt;
* [[1920年]] - [[アイザック・アシモフ]]、[[SF作家]]（+ [[1992年]]）&lt;br /&gt;
* [[1921年]] - [[春風亭小柳枝 (7代目)]]、落語家（+ [[1962年]]）&lt;br /&gt;
* [[1923年]] - [[玉乃海太三郎]]、[[大相撲]][[力士]]（+ [[1987年]]）&lt;br /&gt;
* [[1924年]] - [[河合雅雄]]、動物生態学者&lt;br /&gt;
* [[1926年]] - [[天本英世]]、[[俳優]]（+ [[2003年]]）&lt;br /&gt;
* 1926年 - [[長江録弥]]、[[彫刻家]]（+ [[2005年]]）&lt;br /&gt;
* [[1927年]] - [[野村昭子]]、俳優&lt;br /&gt;
* [[1928年]] - [[池田大作]]、[[宗教家]]・[[創価学会]]名誉会長&lt;br /&gt;
* 1928年 - [[大木民夫]]、[[声優]]&lt;br /&gt;
* [[1930年]] - [[梶山季之]]、[[小説家]]（+ [[1975年]]）&lt;br /&gt;
* 1930年 - [[徳岡孝夫]]、[[ジャーナリスト]]&lt;br /&gt;
* 1930年 - [[皆川博子]]、小説家&lt;br /&gt;
* [[1931年]] - [[海部俊樹]]、第77、78代[[内閣総理大臣]]（+ [[2022年]]）&lt;br /&gt;
* [[1932年]] - [[野末陳平]]、[[作家]]・[[国会議員|参議院議員]]&lt;br /&gt;
* 1932年 - [[二上達也]]、元[[将棋棋士]]、元[[日本将棋連盟]]会長&lt;br /&gt;
* 1932年 - [[大津淳]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[1933年]] - [[森村誠一]]、作家&lt;br /&gt;
* [[1934年]] - [[山口定]]、[[政治学者]]&lt;br /&gt;
* [[1935年]] - [[伊藤強]]、[[音楽評論家]]&lt;br /&gt;
* [[1936年]] - [[立川談志|7代目立川談志]]、落語家&lt;br /&gt;
* 1936年 - [[はせさん治]]、俳優・[[声優]] （+ [[2002年]]）&lt;br /&gt;
* 1936年 - [[式守伊之助 (30代)|式守伊之助]]、立行司&lt;br /&gt;
* [[1937年]] - [[沢たまき]]、[[参議院議員]]（+ [[2003年]]）&lt;br /&gt;
* 1937年 - [[花紀京]]、[[コメディアン]]&lt;br /&gt;
* [[1938年]] - [[野田知佑]]、カヌーイスト・作家&lt;br /&gt;
* 1938年 - [[ロバート・スミッソン]]、[[現代美術家]]（+ [[1973年]]）&lt;br /&gt;
* [[1939年]] - [[櫻井一孝]]、[[映画監督]]&lt;br /&gt;
* [[1940年]] - [[津川雅彦]]、俳優&lt;br /&gt;
* 1940年 - [[S. R. シュリニヴァーサ・ヴァラダン]]、[[数学者]]&lt;br /&gt;
* [[1942年]] - [[デニス・ハスタート]]、[[アメリカ合衆国下院|アメリカ合衆国下院議長]]&lt;br /&gt;
* [[1943年]] - [[古谷一行]]、俳優&lt;br /&gt;
* [[1944年]] - [[ノロドム・ラナリット]]、[[カンボジア]]の王族&lt;br /&gt;
* [[1946年]] - [[伊吹吾郎]]、俳優&lt;br /&gt;
* [[1948年]] - [[岡本信人]]、俳優&lt;br /&gt;
* 1948年 - [[鏡明]]、[[SF作家]]&lt;br /&gt;
* 1948年 - [[竜崎孝路]]、[[作曲家]]&lt;br /&gt;
* [[1949年]] - [[高野悦子 (大学生)|高野悦子]]、大学生、『二十歳の原点』著者（+ [[1969年]]）&lt;br /&gt;
* 1949年 - [[奥田敏輝]]、元プロ野球選手（+ [[2006年]]）&lt;br /&gt;
* [[1951年]] - [[ビル・マドロック]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[1952年]] - [[井原慎一郎]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[1953年]] - [[二間瀬敏史]]、[[宇宙物理学]]者&lt;br /&gt;
* [[1956年]] - [[睦月影郎]]、小説家&lt;br /&gt;
* 1956年 - [[蔵前仁一]]、[[旅行作家]]&lt;br /&gt;
* [[1957年]] - [[小坂明子]]、[[シンガーソングライター]]&lt;br /&gt;
* 1957年 - [[ジョアンナ・パクラ]]、俳優&lt;br /&gt;
* [[1960年]] - [[浦沢直樹]]、[[漫画家]]&lt;br /&gt;
* [[1961年]] - [[斉藤仁]]、[[柔道]]家・[[ソウルオリンピック]]金メダリスト&lt;br /&gt;
* 1961年 - [[トッド・ヘインズ]]、映画監督&lt;br /&gt;
* [[1962年]] - [[正田耕三]]、元プロ野球選手、コーチ&lt;br /&gt;
* 1962年 - [[速水けんたろう]]、歌手（8代目[[うたのおにいさん]]）&lt;br /&gt;
* [[1963年]] - [[デービッド・コーン]]、元[[メジャーリーガー]]&lt;br /&gt;
* 1963年 - [[エドガー・マルティネス]]、元メジャーリーガー&lt;br /&gt;
* [[1964年]] - [[パーネル・ウィテカー]]、[[プロボクサー]]&lt;br /&gt;
* [[1967年]] - [[黒岩唯一]]、DJ&lt;br /&gt;
* 1967年 - [[ティア・カレル]]、女優&lt;br /&gt;
* 1967年 - [[桜井美春]]、タレント&lt;br /&gt;
* 1967年 - [[ロバート・ウィッシュネフスキー]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[1968年]] - [[キューバ・グッディングJr.]]、俳優&lt;br /&gt;
* 1968年 - [[オレグ・デリパスカ]]、[[ルサール]]社長、[[大富豪]]&lt;br /&gt;
* [[1969年]] - [[トミー・モリソン]]、プロボクサー&lt;br /&gt;
* 1969年 - [[クリスティー・ターリントン]]、[[ファッションモデル]]&lt;br /&gt;
* 1969年 - [[上口龍生]]、[[マジシャン]]&lt;br /&gt;
* [[1971年]] - [[竹野内豊]]、俳優&lt;br /&gt;
* 1971年 - [[ジェイムス・ヘイブンス]]、DJ、[[シンガーソングライター]]&lt;br /&gt;
* [[1973年]] - [[高橋真紀子]]、[[テレビ朝日]][[アナウンサー]]&lt;br /&gt;
* 1973年 - [[中嶋ミチヨ]]、タレント&lt;br /&gt;
* [[1974年]] - [[さとう珠緒]]、タレント&lt;br /&gt;
* [[1978年]] - [[豊口めぐみ]]、声優&lt;br /&gt;
* [[1979年]] - [[清水あき]]、[[ファッションモデル]]&lt;br /&gt;
* [[1980年]] - [[村上知子]]、[[お笑いタレント]]（[[森三中]]）&lt;br /&gt;
* 1980年 - [[アニー・ベルマール]]、[[フィギュアスケート]]選手&lt;br /&gt;
* [[1981年]] - [[青井実]]、[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]&lt;br /&gt;
* [[1982年]] - [[妹岳なつめ]]、[[AV女優]]&lt;br /&gt;
* [[1983年]] - [[松林悟]]、漫画家&lt;br /&gt;
* [[1984年]] - [[菊池亜衣]]、[[歌手]]&lt;br /&gt;
* [[1986年]] - [[蕭一傑]]、プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[1987年]] - [[水谷妃里]]、俳優&lt;br /&gt;
* [[1988年]] - [[明坂聡美]]、声優&lt;br /&gt;
* [[1991年]] - [[林イー豪|林羿豪]]、プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[1992年]] - [[宮内彩花]]、女優&lt;br /&gt;
* 1992年 - [[井上美帆]]、ファッションモデル&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 忌日 ==&lt;br /&gt;
* [[1497年]] - [[ベアトリーチェ・デステ]]、[[ミラノ公国|ミラノ公]][[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]の妃（* [[1475年]]）&lt;br /&gt;
* [[1546年]]（[[天文 (元号)|天文]]14年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]）- [[妙玖]]、[[毛利元就]]の[[正室]]（* [[1499年]]）&lt;br /&gt;
* [[1557年]] - [[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]、[[画家]]（* [[1494年]]）&lt;br /&gt;
* [[1726年]] - [[ドメニコ・ツィポーリ]]、[[作曲家]]（* [[1688年]]）&lt;br /&gt;
* [[1788年]]（[[天明]]7年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]）- [[浅野宗恒]]、第6代[[広島藩|広島藩主]]（* [[1717年]]）&lt;br /&gt;
* [[1819年]] - [[マリア・ルイサ・デ・パルマ|マリア・ルイサ]]、[[スペイン]]王[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]の妃（* [[1751年]]）&lt;br /&gt;
* [[1823年]]（[[文政]]5年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]）- [[松浦検校]]、[[三味線]]・[[箏曲]]奏者、作曲家&lt;br /&gt;
* [[1831年]] - [[バルトホルト・ゲオルク・ニーブール]]、[[歴史家]]（* [[1776年]]）&lt;br /&gt;
* [[1835年]]（[[天保]]5年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]） - [[宇田川玄真]]、[[蘭学|蘭学者]]（* [[1770年]]）&lt;br /&gt;
* [[1855年]]（[[嘉永]]7年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]）- [[源清麿]]、[[刀工]]（* [[1813年]]）&lt;br /&gt;
* [[1861年]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]国王（* [[1795年]]）&lt;br /&gt;
* [[1872年]]（[[明治]]4年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]）- [[片岡仁左衛門 (9代目)]]、[[歌舞伎]]役者（* [[1839年]]）&lt;br /&gt;
* [[1877年]] - [[アレクサンダー・ベイン]]、[[発明家]]（* [[1811年]]）&lt;br /&gt;
* [[1879年]] - [[ケイレブ・クッシング]]、第23代[[アメリカ合衆国司法長官]]（* [[1800年]]）&lt;br /&gt;
* [[1883年]] - [[物集高世]]、[[国学|国学者]]（* [[1817年]]）&lt;br /&gt;
* [[1892年]] - [[ジョージ・ビドル・エアリー]]、[[天文学者]]（* [[1801年]]）&lt;br /&gt;
* [[1904年]] - [[マチルド・ボナパルト]]、[[ヴェストファーレン王国|ヴェストファーレン王]][[ジェローム・ボナパルト]]の長女（* [[1820年]]）&lt;br /&gt;
* [[1913年]] - [[レオン・ティスラン・ド・ボール]]、[[気象学|気象学者]]（* [[1855年]]）&lt;br /&gt;
* [[1915年]] - [[カール・ゴルトマルク]]、[[作曲家]]（* [[1830年]]）&lt;br /&gt;
* [[1927年]] - [[アハド・ハアム]]、[[ヘブライ語]]著述家・[[シオニズム]][[思想家]]（* [[1856年]]）&lt;br /&gt;
* [[1932年]] - [[綾部利右衛門]]、[[実業家]]・[[川越市|川越市長]]（* [[1860年]]）&lt;br /&gt;
* [[1935年]] - [[吉松茂太郎]]、第6・7・8代[[連合艦隊司令長官]]（* [[1859年]]）&lt;br /&gt;
* [[1941年]] - [[ミッシャ・レヴィツキ]]、[[ピアニスト]]（* [[1898年]]）&lt;br /&gt;
* [[1945年]] - [[佐々木積]]、[[俳優]]（* [[1885年]]）&lt;br /&gt;
* [[1950年]] - [[エミール・ヤニングス]]、俳優（* [[1884年]]）&lt;br /&gt;
* [[1960年]] - [[ファウスト・コッピ]]、[[自転車競技]]選手（* [[1919年]]）&lt;br /&gt;
* [[1963年]] - [[ディック・パウエル]]、俳優（* [[1904年]]）&lt;br /&gt;
* [[1966年]] - [[藤蔭静樹]]、[[舞踏家]]（* [[1880年]]）&lt;br /&gt;
* [[1968年]] - [[斎藤宗次郎]]、「[[雨ニモマケズ]]」のモデルとされる人物（* [[1877年]]）&lt;br /&gt;
* 1968年 - [[クーノ・ホフマイスター]]、[[天文学者]]（* [[1892年]]）&lt;br /&gt;
* [[1976年]] - [[檀一雄]]、小説家（* [[1912年]]）&lt;br /&gt;
* [[1978年]] - [[アルノルト・ハウザー]]、[[美術史|美術史学者]]（* [[1892年]]）&lt;br /&gt;
* [[1986年]] - [[ビル・ベック]]、[[メジャーリーグベースボール]]球団オーナー（* [[1914年]]）&lt;br /&gt;
* [[1988年]] - [[エドモンド・ブリスコ・フォード]]、[[生態学|生態学者]]・[[遺伝学|遺伝学者]]（* [[1901年]]）&lt;br /&gt;
* [[1991年]] - [[野間宏]]、小説家（* [[1915年]]）&lt;br /&gt;
* [[1993年]] - [[田中浩 (俳優)|田中浩]]、俳優（* [[1934年]]）&lt;br /&gt;
* [[1995年]] - [[和達清夫]]、[[地震学|地震学者]]・[[気象学|気象学者]]（* [[1902年]]）&lt;br /&gt;
* 1995年 - [[ヘンリー・グラハム・シャープ]]、[[フィギュアスケート]]選手（* [[1917年]]）&lt;br /&gt;
* 1995年 - [[モハメド・シアド・バーレ]]、[[ソマリア]]大統領（* [[1919年]]?）&lt;br /&gt;
* [[1999年]] - [[清元志寿太夫]]、[[清元節]][[太夫]]（* [[1898年]]）&lt;br /&gt;
* 1999年 - [[ロルフ・リーバーマン]]、作曲家（* [[1910年]]）&lt;br /&gt;
* [[2000年]] - [[パトリック・オブライアン]]、[[小説家]]（* [[1914年]]）&lt;br /&gt;
* 2000年 - [[ナット・アダレイ]]、[[ジャズ]][[コルネット]]奏者（* [[1931年]]）&lt;br /&gt;
* [[2001年]] - [[島上善五郎]]、[[日本社会党]][[衆議院議員]]（* [[1903年]]）&lt;br /&gt;
* [[2002年]] - [[桂歌之助 (2代目)]]、[[落語家]]（* [[1946年]]）&lt;br /&gt;
* [[2004年]] - [[桂枝助]]、落語家（* [[1943年]]）&lt;br /&gt;
* [[2005年]] - [[本多逸郎]]、プロ野球選手・監督（* [[1931年]]）&lt;br /&gt;
* [[2006年]] - [[近藤貞雄]]、プロ野球選手・監督（* [[1925年]]）&lt;br /&gt;
* [[2007年]] - [[中居英太郎]]、元日本社会党衆議院議員・[[宮古市|宮古市長]]（* [[1917年]]）&lt;br /&gt;
* 2007年 - [[浅井孝祐]]、[[オートレース選手]]（* [[1938年]]）&lt;br /&gt;
* [[2008年]] - [[ナラーティワートラーチャナカリン]]、[[タイ王国|タイ]]の王族（* [[1923年]]）&lt;br /&gt;
* [[2009年]] - [[平木隆三]]、元サッカー選手、サッカー指導者（* [[1931年]]）&lt;br /&gt;
* 2009年 - [[マリア・デ・イエス]]、2008年[[11月26日]] - 2009年1月2日の長寿世界一（* [[1893年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記念日・年中行事 ==&lt;br /&gt;
* [[正月]]&lt;br /&gt;
** [[初夢]]&lt;br /&gt;
**: 昔から初夢で[[年|1年]]の吉凶を占う風習がある。&lt;br /&gt;
** [[書き初め]]&lt;br /&gt;
** [[仕事始め]]（[[初荷]]、初売り、初商、農初め、初舟、山初め）&lt;br /&gt;
** [[初売り]]（[[仙台初売り]]）&lt;br /&gt;
** [[姫始め]]&lt;br /&gt;
* [[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]往路&lt;br /&gt;
* 皇室一般参賀&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== フィクションのできごと ==&lt;br /&gt;
* 西暦不明 - SOS団が冬合宿から帰還。キョン、長門有希、朝比奈みくるの3人で時間遡行して「やり残していたこと」を済ませる。（[[ライトノベル]][[涼宮ハルヒシリーズ]]7巻『涼宮ハルヒの陰謀』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 誕生日 ===&lt;br /&gt;
* [[1977年]] - [[殿馬一人]]、漫画『[[ドカベン]]』に登場するキャラクター（生年は『[[ドカベン_(プロ野球編)]]』以降の設定）&lt;br /&gt;
* [[1978年]] - 綾小路行人、ゲーム『[[アパシー・シリーズ]]』の登場人物&lt;br /&gt;
* [[1981年]] - 石塚織絵(通称：ポテト)、アニメ『[[絶対無敵ライジンオー]]』に登場するキャラクターー&lt;br /&gt;
* [[1994年]] - ロロット・ステイシル、ゲーム『[[リーズのアトリエ 〜オルドールの錬金術士〜]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* [[2009年]] - [[ジェフ・トレーシー]]、特撮人形劇『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* [[2042年]] - 朝倉由夢、ゲーム『[[D.C.II 〜ダ・カーポII〜]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* 未来世紀47年 - マリア・ルイゼ、アニメ『[[機動武闘伝Gガンダム]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* 生年不明 - 栗尾かの子、漫画『[[Mr.FULLSWING]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* 生年不明 - 星崎理都、漫画『[[密・リターンズ!]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* 生年不明 - ポンチョ、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* 生年不明 - 壇太一、漫画『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* 生年不明 - ヴィトス・ロートス、ゲーム『[[ユーディーのアトリエ 〜グラムナートの錬金術士〜]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* 生年不明 - 岡本みなみ、ゲーム『[[とらいあんぐるハート2 さざなみ女子寮]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
* 生年不明 - エメレンツィア・ベアトリクス・リューディガー、小説・アニメ『[[護くんに女神の祝福を!]]』のサブヒロイン&lt;br /&gt;
* 生年不明 - 斉藤健、漫画『[[生徒会のヲタのしみ。]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 忌日 ===&lt;br /&gt;
* [[2004年]] - 南空ナオミ、漫画『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{新暦365日|1|1|1|3|[[12月2日]]|[[2月2日]]|[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]|0102|1|02}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:January 2]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=1931%E5%B9%B4&amp;diff=396523</id>
		<title>1931年</title>
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				<updated>2022-01-18T12:40:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: /* 1月 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''1931年'''（せん きゅうひゃく さんじゅう いち ねん）は、[[木曜日]]から始まる[[平年]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 他の紀年法 ==&lt;br /&gt;
* [[干支]]：[[辛未]]&lt;br /&gt;
* [[日本]]（月日は一致）&lt;br /&gt;
** [[昭和]]6年&lt;br /&gt;
** [[皇紀]]2591年&lt;br /&gt;
* [[中国]]（月日は一致）&lt;br /&gt;
** [[中華民国暦|中華民国]]20年&lt;br /&gt;
* [[朝鮮]]（月日は一致）&lt;br /&gt;
** [[檀君紀元|檀紀]]4264年&lt;br /&gt;
** [[主体暦|主体]]20年&lt;br /&gt;
* [[阮朝]]（[[ベトナム]]）&lt;br /&gt;
** [[保大 (阮朝)|保大]]5年11月13日 - 保大6年11月23日&lt;br /&gt;
* [[モンゴル人民共和国]]（月日は一致）&lt;br /&gt;
** [[共戴紀元|モンゴル人民共和国]]21年&lt;br /&gt;
* [[仏滅紀元]]：2473年～2474年&lt;br /&gt;
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]：1349年8月11日～1350年8月20日&lt;br /&gt;
*[[ユダヤ暦]]：5691年4月12日～5692年4月21日&lt;br /&gt;
* [[修正ユリウス日]](MJD)：26342～26706&lt;br /&gt;
* [[リリウス日]](LD)：127183～127547&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:smaller&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== できごと ==&lt;br /&gt;
=== 1月 ===&lt;br /&gt;
*[[1月1日]] -  [[市川猿之助 (2代目)|二代目市川猿之助]]らが[[松竹]]を脱退し[[春秋座]]を再建、旗揚げ公演（[[市村座]]） &lt;br /&gt;
*[[1月15日]] - [[台湾放送協会|台北放送局]](JFAK)放送開始&lt;br /&gt;
*[[1月16日]] - [[霧社事件]]の引責により台湾総督[[石塚英蔵]]が退任&lt;br /&gt;
*[[1月22日]] - [[離宮|霞ヶ関離宮]]の払下げ決る&lt;br /&gt;
*[[1月27日]] - [[全日本学生庭球連盟]]発足&lt;br /&gt;
*[[マックス・ホルクハイマー]]が、[[フランクフルト社会研究所]]所長に任命さる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 2月 ===&lt;br /&gt;
*[[2月1日]] - 三等寝台車を新設（東海道線 東京-神戸間）&lt;br /&gt;
*[[2月11日]] - [[三菱重工]]設立（三菱造船より改名）&lt;br /&gt;
*[[2月28日]] - [[婦人公民権]]案を[[衆議院]]で可決（3月24日に[[貴族院 (日本)|貴族院]]で否決）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 3月 ===&lt;br /&gt;
*[[3月6日]] &lt;br /&gt;
**[[三重県]]上空で[[日本空輸]]旅客機から乗客1人が'''初の飛降り自殺'''&lt;br /&gt;
**パラシュートガール[[宮森美代子]]が千葉県[[津田沼]]で降下し大人気&lt;br /&gt;
*[[3月7日]] &lt;br /&gt;
**[[順宮厚子内親王]]ご誕生（命名13日）&lt;br /&gt;
**[[全国農業協同組合連合会|全農]]第4回大会で左右両派が激突し左派多数が検挙され右派が役員を独占する（全農分裂）。&lt;br /&gt;
*[[3月10日]] - [[金杉惇郎]]・[[長岡輝子]]ら[[テアトル・コメディ]]結成第一回公演&lt;br /&gt;
*[[3月14日]] - [[全国産業博覧会]]開催（[[浜松市]]）&lt;br /&gt;
*[[3月20日]] - 政治結社「[[桜会]]」による[[クーデター]]の計画が発覚（[[三月事件]]）。&lt;br /&gt;
*[[イネ]]の画期的な交配種、 [[水稲農林1号]]の育成成功。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4月 ===&lt;br /&gt;
*[[4月1日]] - [[中央本線]][[新宿駅|新宿]] - [[甲府駅|甲府]]間電化完成&lt;br /&gt;
*[[4月14日]] - [[第2次若槻内閣]]成立&lt;br /&gt;
*[[4月25日]] - [[東京音楽学校]]に作曲科設置&lt;br /&gt;
*[[重要産業統制法]]公布&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 5月 ===&lt;br /&gt;
*[[5月1日]] - [[鉄道省]]、小型[[コンテナ]]試用開始&lt;br /&gt;
*[[5月3日]] - 北関東・東北に霜害。[[熊谷]]の最低気温零下4℃&lt;br /&gt;
*[[5月7日]] - 石川県[[山中温泉]]で大火。740戸焼失。&lt;br /&gt;
*[[5月13日]] - 新潟県[[白根町]]で大火。402戸焼失，死傷者五十余人。&lt;br /&gt;
*[[5月20日]] - [[国際ヘーゲル連盟]]日本支部「[[ヘーゲルとヘーゲル主義]]」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 6月 ===&lt;br /&gt;
*[[6月8日]] - [[御茶ノ水橋]]完成&lt;br /&gt;
*[[6月17日]]&lt;br /&gt;
**[[朝鮮総督]]に[[宇垣一成]]を任命・親任式&lt;br /&gt;
**関東で強震。[[横浜]]全市が停電、暗黒の街となる&lt;br /&gt;
*[[6月22日]] - [[日本空輸航空]]旅客機が福岡県山中に墜落し3名死亡（'''初の旅客機事故'''）&lt;br /&gt;
*[[6月27日]] - [[中村大尉事件]]。北満視察中の[[中村震太郎]]大尉が中国兵に殺害される&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 7月 ===&lt;br /&gt;
*[[7月2日]] - [[万宝山事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 8月 ===&lt;br /&gt;
*[[8月1日]] - [[八十二銀行]]設立（第十九銀行と六十三銀行が合併）&lt;br /&gt;
*[[8月10日]] - [[鎌倉御用邸]]廃止&lt;br /&gt;
*[[8月25日]] - 羽田飛行場（後の[[東京国際空港]]）開港&lt;br /&gt;
*[[8月31日]] - [[江蘇省]]で水害（30万人溺死）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 9月 ===&lt;br /&gt;
*[[9月1日]] - [[清水トンネル]]開通により[[上越線]]全通（上野-新潟間が7時間10分に短縮）&lt;br /&gt;
*[[9月18日]] - [[柳条湖事件]]（[[満州事変]]勃発）&lt;br /&gt;
*[[9月21日]] - [[林銑十郎]]による独断越境進撃&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 10月 ===&lt;br /&gt;
*[[10月1日]] - [[国立公園法]]施行&lt;br /&gt;
*[[10月17日]] - [[錦旗革命事件]]。[[橋本欣五郎]]中佐([[桜会]])らによる軍部内閣樹立クーデター発覚・拘禁&lt;br /&gt;
*[[宇野弘蔵]]と[[山田盛太郎]]「[[資本論体系]]」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 11月 ===&lt;br /&gt;
*[[11月2日]] - [[国立科学博物館|東京科学博物館]]開館式&lt;br /&gt;
*[[11月27日]] - [[中華ソビエト共和国]]臨時政府樹立&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 12月 ===&lt;br /&gt;
*[[12月6日]] - [[岡倉天心]]銅像除幕式（[[東京美術学校]]前庭）&lt;br /&gt;
*[[12月11日]] - [[安達謙蔵|安達]]内相が辞任勧告を拒否。内閣不統一により第2次[[若槻禮次郎|若槻]]内閣総辞職&lt;br /&gt;
*[[12月13日]]&lt;br /&gt;
**[[犬養毅]]内閣成立&lt;br /&gt;
**金輸出再禁止令公布施行&lt;br /&gt;
*[[12月15日]] - [[中島飛行機]]株式会社設立&lt;br /&gt;
*[[12月16日]] - 東京浅草オペラ館開場。[[榎本健一|エノケン]]が旗揚公演&lt;br /&gt;
*[[12月23日]] - [[帝国議会|第60議会]]召集。&lt;br /&gt;
*[[12月25日]] - [[東京中央郵便局]]完成&lt;br /&gt;
*[[12月31日]] - [[ムーランルージュ新宿座]]開場&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出生 ==&lt;br /&gt;
=== 1月 ===&lt;br /&gt;
* [[1月2日]] - [[海部俊樹]]、第76・77代[[内閣総理大臣]]（+ [[2022年]]）&lt;br /&gt;
* [[1月6日]] - [[八千草薫]]、[[女優]]&lt;br /&gt;
* [[1月11日]] - [[田口富久治]]、[[政治学者]]&lt;br /&gt;
* [[1月17日]] - [[ドン・ジマー]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[1月19日]] - [[明石康]]、元[[国際連合|国連]]事務次長&lt;br /&gt;
* [[1月20日]] - [[内藤博文]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[1月21日]] - [[久我美子]]、[[女優]]&lt;br /&gt;
* [[1月28日]] - [[小松左京]]、[[SF作家]]&lt;br /&gt;
* [[1月29日]] - [[ジム・バーマ]]、元プロ野球選手（+ [[1996年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 2月 ===&lt;br /&gt;
* [[2月1日]] - [[ボリス・エリツィン]]、[[ロシア]]初代[[大統領]]（+[[2007年]]）&lt;br /&gt;
* [[2月2日]] - [[若ノ海周治]]、[[大相撲]][[力士]]・元[[小結]]（+ [[1999年]]）&lt;br /&gt;
* [[2月3日]] - [[雨宮敬子]]、[[彫刻家]]&lt;br /&gt;
* [[2月8日]] - [[ジェームズ・ディーン]]、[[俳優]]（+ [[1955年]]）&lt;br /&gt;
* [[2月9日]] - [[ロバート・モリス (芸術家)|ロバート・モリス]]、[[現代美術家]]&lt;br /&gt;
* 2月9日 - [[ヨゼフ・マソプスト]]、元[[サッカー選手]]&lt;br /&gt;
* [[2月16日]] - [[高倉健]]、俳優(+2014年)&lt;br /&gt;
* [[2月26日]] - [[岡本伊三美]]、元[[プロ野球選手]]&lt;br /&gt;
* [[2月27日]] - [[村上泰亮]]、[[経済学者]]・[[評論家]]（+ [[1993年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 3月 ===&lt;br /&gt;
* [[3月2日]] - [[ミハイル・ゴルバチョフ]]、元[[ソビエト連邦]][[書記長]]&lt;br /&gt;
* [[3月2日]] - [[藤木悠]]、俳優（+ [[2005年]]）&lt;br /&gt;
* [[3月5日]] - [[大津守]]、元[[プロ野球選手]]（+ [[2007年]]）&lt;br /&gt;
* [[3月6日]] - [[砂澤ビッキ]]、[[彫刻家]]（+ [[1989年]]）&lt;br /&gt;
* [[3月7日]] - [[井上洋介]]、[[絵本作家]]・[[イラストレーター]]&lt;br /&gt;
* [[3月9日]] - [[篠田正浩]]、[[映画監督]]&lt;br /&gt;
* [[3月13日]] - [[篠田守男]]、彫刻家&lt;br /&gt;
* [[3月18日]] - [[宮川泰]]、[[作曲家]]（+ [[2006年]]） &lt;br /&gt;
* [[3月21日]] - [[豊登道春]]、元[[プロレスラー]]（＋[[1998年]]）&lt;br /&gt;
* [[3月23日]] - [[ヴィクトール・コルチノイ]]、[[チェス]]プレーヤー&lt;br /&gt;
* [[3月27日]] - [[松平頼暁]]、[[現代音楽]]の[[作曲家]]・[[立教大学]]名誉教授&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4月 ===&lt;br /&gt;
* [[4月11日]] - [[すぎやまこういち]]、作曲家&lt;br /&gt;
* [[4月20日]] - [[カールトン半田]]、元[[プロ野球選手]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 5月 ===&lt;br /&gt;
* [[5月1日]] - [[あずさ欣平]]、俳優・[[声優]]（+ [[1997年]]）&lt;br /&gt;
* [[5月3日]] - [[本多逸郎]]、元[[プロ野球選手]]（+ [[2005年]]）&lt;br /&gt;
* [[5月6日]] - [[ウィリー・メイズ]]、元[[メジャーリーガー]]&lt;br /&gt;
* [[5月10日]] - [[永井一郎]]、俳優・声優&lt;br /&gt;
* [[5月17日]] - [[ジャッキー・マクリーン]]、[[ジャズ]][[サックス]]奏者 &lt;br /&gt;
* [[5月25日]] - [[ジム・マーシャル (野球)|ジム・マーシャル]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[5月29日]] - [[芦屋雁之助]]、俳優・[[脚本家]]・[[演出家]]（+ [[2004年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 6月 ===&lt;br /&gt;
* [[6月20日]] - [[岡田功]]、元[[プロ野球選手]]、元[[プロ野球審判員|審判]]&lt;br /&gt;
* [[6月26日]] - [[コリン・ウィルソン]]、[[小説家]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 7月 ===&lt;br /&gt;
* [[7月1日]] - [[椙本勝]]、元[[プロ野球選手]]&lt;br /&gt;
* [[7月7日]] - [[デイヴィッド・エディングス]]、[[ファンタジー]]小説家&lt;br /&gt;
* [[7月10日]] - [[三船正俊]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[7月12日]] - [[木内幸男]]、高校野球指導者&lt;br /&gt;
* [[7月19日]] - [[水野晴郎]]、[[映画評論家]]、[[映画監督]]（+ [[2008年]]）&lt;br /&gt;
* [[7月20日]] - [[山中恒]]、[[児童文学作家]]&lt;br /&gt;
* [[7月27日]] - [[渡辺礼次郎]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[7月23日]] - [[ジョー・スタンカ]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 8月 ===&lt;br /&gt;
* [[8月4日]] - [[石垣一夫]]、元[[プロ野球選手]]（+ [[2004年]]）&lt;br /&gt;
* [[8月5日]] - [[木坂順一郎]]、[[政治学者]]・[[歴史家]]&lt;br /&gt;
* [[8月6日]] - [[種田弘]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* 8月6日 - [[山下健]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[8月7日]] - [[藤田元司]]、元プロ野球選手（+ [[2006年]]）&lt;br /&gt;
* [[8月10日]] - [[佐藤孝夫]]、元プロ野球選手（+ [[2005年]]）&lt;br /&gt;
* [[8月13日]] - [[千葉耕市]]、[[俳優]]・[[声優]]・[[音響監督]]（+ [[2001年]]）&lt;br /&gt;
* 8月13日 - [[あまんきみこ]]、[[児童文学作家]]&lt;br /&gt;
* [[8月20日]] - [[ドン・キング]]、[[ボクシング]]プロモーター&lt;br /&gt;
* [[8月30日]] - [[八奈見乗児]]、俳優・声優&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 9月 ===&lt;br /&gt;
* [[9月1日]] - [[徳永喜久夫]]、元[[プロ野球選手]]&lt;br /&gt;
* [[9月7日]] - [[宮本一三]]、元[[衆議院議員]]&lt;br /&gt;
* [[9月13日]] - [[山田洋次]]、[[映画監督]]&lt;br /&gt;
* [[9月17日]] - [[曽野綾子]]、[[小説家]]&lt;br /&gt;
* [[9月19日]] - [[高橋輝]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
* [[9月22日]] - [[貞永方久]]、映画監督&lt;br /&gt;
* [[9月24日]] - [[マイケル・クレスニック]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 10月 ===&lt;br /&gt;
* [[10月7日]] - [[デズモンド・ムピロ・ツツ]]、[[ケープタウン]][[大主教]]・[[ノーベル平和賞]]受賞者・[[人権]]活動家&lt;br /&gt;
* 10月7日 - [[平木隆三]]、元サッカー選手、サッカー指導者（+ [[2009年]]）&lt;br /&gt;
* [[10月13日]] - [[レイモン・コパ]]、元サッカー選手&lt;br /&gt;
* [[10月15日]] - [[長谷部稔]]、元[[プロ野球選手]]&lt;br /&gt;
* [[10月20日]] - [[田中東雨]]、[[書家]]&lt;br /&gt;
* 10月20日 - [[ミッキー・マントル]]、元[[メジャーリーガー]]（+ [[1995年]]）&lt;br /&gt;
* [[10月23日]] - [[ウィリアム・パトリック・クラーク]]、第44代[[アメリカ合衆国内務長官]]。&lt;br /&gt;
* 10月23日 - [[ジャニー喜多川]]、実業家（+ [[2019年]]）&lt;br /&gt;
* [[10月29日]] - [[戸口天従]]、元プロ野球選手&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 11月 ===&lt;br /&gt;
* [[11月1日]] - [[いかりや長介]]、[[お笑いタレント]]・[[ザ・ドリフターズ]][[リーダー]]（+ [[2004年]]）&lt;br /&gt;
* 11月1日 - [[大村崑]]、俳優・コメディアン&lt;br /&gt;
* 11月1日 - [[菊池俊輔]]、作曲家&lt;br /&gt;
* [[11月2日]] - [[ノーマン・ミネタ]]、[[アメリカ合衆国]]の運輸長官&lt;br /&gt;
* 11月2日 - [[小森光生]]、元[[プロ野球選手]]&lt;br /&gt;
* [[11月3日]] - [[松永怜一]]、アマチュア野球指導者&lt;br /&gt;
* [[11月5日]] - [[赤瀬川隼]]、小説家&lt;br /&gt;
* [[11月6日]] - [[マイク・ニコルズ]]、映画監督&lt;br /&gt;
* [[11月8日]] - [[川村たかし]]、[[児童文学作家]]&lt;br /&gt;
* 11月8日 - [[ジョージ・マチューナス]]、[[現代美術家]]（+ [[1978年]]）&lt;br /&gt;
* [[11月9日]] - [[白石一郎]]、小説家（+ 2004年）&lt;br /&gt;
* [[11月11日]] - [[柴田英治]]、元プロ野球選手（+ [[1999年]]）&lt;br /&gt;
* [[11月29日]] - [[勝新太郎]]、俳優（+ [[1997年]]）&lt;br /&gt;
* [[11月30日]] - [[浅井昭衛]]、宗教団体[[冨士大石寺顕正会|顕正会]]会長&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 12月 ===&lt;br /&gt;
* [[12月7日]] - [[ジェームズ・グローガン]]、[[フィギュアスケート]]選手（+[[2000年]]）&lt;br /&gt;
* [[12月8日]] - [[杉浦直樹]]、俳優&lt;br /&gt;
* [[12月9日]] - [[岩下守道]]、元[[プロ野球選手]]&lt;br /&gt;
* [[12月11日]] - [[山本富士子]]、女優&lt;br /&gt;
* [[12月14日]] - [[高島孝之]]、[[実業家]]（+[[1981年]]）&lt;br /&gt;
* [[12月15日]] - [[谷川俊太郎]]、[[詩人]]&lt;br /&gt;
* [[12月18日]] - [[北村弘一]]、俳優・声優（+[[2007年]]）&lt;br /&gt;
* [[12月31日]] - [[坂田藤十郎_(4代目)]]、[[歌舞伎役者]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 死去 ==&lt;br /&gt;
* [[1月1日]] - 8代目[[朝寝坊むらく]]、[[落語家]]（* [[1882年]]）&lt;br /&gt;
* [[1月10日]] - [[高島北海]]、[[日本画家]]（* [[1850年]]）&lt;br /&gt;
* [[1月19日]] - [[森道伯]]、[[漢方]]一貫堂医学の創始者（* [[1867年]]）&lt;br /&gt;
* [[1月26日]] - [[アンナ・パヴロワ]]、[[バレリーナ]]（* [[1881年]]）&lt;br /&gt;
* [[1月27日]] - [[西ノ海嘉治郎 (2代)|西ノ海嘉治郎]]、[[大相撲]]第25代[[横綱]]（* [[1880年]]）&lt;br /&gt;
* [[2月11日]] - [[チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ]]、[[技術者]]（* [[1854年]]）&lt;br /&gt;
* [[2月12日]] - [[飯沼貞吉]]、[[白虎隊|白虎隊士]]（* 1854年）&lt;br /&gt;
* [[2月13日]] - [[小出楢重]]、[[画家]]（* [[1887年]]）&lt;br /&gt;
* [[2月26日]] - [[オットー・ヴァラッハ]]、[[化学者]]（* [[1847年]]）&lt;br /&gt;
* [[3月7日]] - [[テオ・ファン・ドースブルフ]]、画家（* [[1883年]]）&lt;br /&gt;
* [[3月11日]] - [[F・W・ムルナウ]]、[[映画監督]]（* [[1888年]]）&lt;br /&gt;
* [[3月20日]] - [[ヘルマン・ミュラー]]、[[ドイツ国首相]]（* [[1876年]]）&lt;br /&gt;
* [[4月4日]] - [[アンドレ・ミシュラン]]、[[ミシュラン|ミシュランタイヤ]]創業者（* [[1853年]]）&lt;br /&gt;
* 4月4日 - [[ジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィック]]、[[作曲家]]（* [[1854年]]）&lt;br /&gt;
* [[4月8日]] - [[エリク・アクセル・カールフェルト]]、[[詩人]]（* [[1864年]]）&lt;br /&gt;
* [[4月10日]] - [[ハーリル・ジブラーン]]、詩人（* [[1883年]]）&lt;br /&gt;
* [[4月26日]] - [[ジョージ・ハーバート・ミード]]、[[社会心理学|社会心理学者]]（* [[1863年]]）&lt;br /&gt;
* [[5月7日]] - [[アクセリ・ガッレン＝カッレラ]]、画家（* [[1865年]]）&lt;br /&gt;
* [[5月9日]] - [[アルバート・マイケルソン]]、[[物理学者]]（* [[1852年]]）&lt;br /&gt;
* [[5月12日]] - [[ウジェーヌ・イザイ]]、[[ヴァイオリニスト]]・作曲家（* [[1858年]]）&lt;br /&gt;
* [[5月14日]] - [[デーヴィッド・ベラスコ]]、[[劇作家]]（* [[1853年]]）&lt;br /&gt;
* 5月14日 - [[ヴィクトル・ダイク]]、作家（* [[1877年]]）&lt;br /&gt;
* [[5月15日]] - [[エドウィン・ダン]]、[[お雇い外国人]]の[[農学|農学者]]（* [[1848年]]）&lt;br /&gt;
* [[6月4日]] - [[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]、[[マッカ]]のシャリーフ（* [[1853年]]）&lt;br /&gt;
* [[6月9日]] - [[ウィリアム・デニング]]、[[天文学者]]（* [[1848年]]）&lt;br /&gt;
* [[6月13日]] - [[北里柴三郎]]、[[医学者]]（* 1853年）&lt;br /&gt;
* [[6月15日]] - [[平林初之輔]]、[[小説家]]（* [[1892年]]）&lt;br /&gt;
* [[6月22日]] - [[アルマン・ファリエール]]、[[フランス第三共和政]]第8代[[フランス大統領の一覧|大統領]]（* [[1841年]]）&lt;br /&gt;
* [[6月23日]] - [[湯浅一郎]]、画家（* [[1869年]]）&lt;br /&gt;
* [[6月26日]] - [[山川健次郎]]、[[教育者]]（* [[1854年]]）&lt;br /&gt;
* [[7月12日]] - [[ナータン・セーデルブロム]]、[[ウプサラ]][[大司教]]（* [[1866年]]）&lt;br /&gt;
* [[7月18日]] - [[木村鷹太郎]]、[[歴史学者]]、[[文学者]]（* [[1870年]]）&lt;br /&gt;
* [[7月20日]] - [[ハーバート・バデリー]]、[[テニス]]選手（* [[1872年]]）&lt;br /&gt;
* [[7月28日]] - [[エミール・ワールブルク]]、物理学者（* [[1846年]]）&lt;br /&gt;
* [[8月1日]] - [[人見絹枝]]、[[陸上選手]]（* [[1907年]]）&lt;br /&gt;
* [[8月26日]] - [[濱口雄幸]]、[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]・第27代[[内閣総理大臣]]（* [[1870年]]）&lt;br /&gt;
* [[8月27日]] - [[フランク・ハリス]]、作家・[[編集者]]（* [[1856年]]）&lt;br /&gt;
* [[9月3日]] - [[フランツ・シャルク]]、[[指揮者]]（* [[1863年]]）&lt;br /&gt;
* [[9月18日]] - [[アンゲラ・ラウバル]]、[[アドルフ・ヒトラー]]の姪（* [[1908年]]）&lt;br /&gt;
* [[9月25日]] - [[ウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ＝メレンドルフ]]、[[文献学|文献学者]]（* [[1848年]]）&lt;br /&gt;
* [[10月1日]] - [[小堀鞆音]]、日本画家（* [[1864年]]）&lt;br /&gt;
* [[10月2日]] - [[トーマス・リプトン]]、[[実業家]]・[[リプトン]]創業者（* [[1848年]]）&lt;br /&gt;
* [[10月3日]] - [[カール・ニールセン]]、作曲家（* [[1865年]]）&lt;br /&gt;
* [[10月18日]] - [[トーマス・エジソン]]、[[発明家]] （* [[1847年]]）&lt;br /&gt;
* [[10月21日]] - [[アルトゥル・シュニッツラー]]、小説家（* [[1862年]]）&lt;br /&gt;
* [[11月6日]] - [[ジャック・チェスブロ]]、[[メジャーリーグベースボール]]選手（* [[1874年]]）&lt;br /&gt;
* [[11月11日]] - [[渋沢栄一]]、[[実業家]]（* [[1840年]]）&lt;br /&gt;
* [[12月2日]] - [[ヴァンサン・ダンディ]]、作曲家（* [[1851年]]）&lt;br /&gt;
* [[12月3日]] - [[尾竹越堂]]、日本画家（* [[1868年]]）&lt;br /&gt;
* 12月3日 - [[花井卓蔵]]、[[弁護士]]・[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]（* [[1868年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ノーベル賞 ==&lt;br /&gt;
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - 該当者なし&lt;br /&gt;
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[カール・ボッシュ]]（[[ドイツ]]）、[[フリードリッヒ・ベルギウス]]（ドイツ）&lt;br /&gt;
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[オットー・ワールブルク]]（ドイツ）&lt;br /&gt;
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[エリク・アクセル・カールフェルト]]（[[スウェーデン]]）&lt;br /&gt;
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[ジェーン・アダムズ]]（[[アメリカ合衆国|アメリカ]]）、[[ニコラス・バトラー]]（アメリカ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:1931年|*]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:1931]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E6%B5%B7%E9%83%A8%E4%BF%8A%E6%A8%B9&amp;diff=396522</id>
		<title>海部俊樹</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E6%B5%B7%E9%83%A8%E4%BF%8A%E6%A8%B9&amp;diff=396522"/>
				<updated>2022-01-18T12:39:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の内閣総理大臣&lt;br /&gt;
|代数 = [[第1次海部内閣|76]]・[[第2次海部内閣|77]]&lt;br /&gt;
|名前 = 海部 俊樹&amp;lt;br /&amp;gt;（かいふ としき）&amp;lt;br /&amp;gt;[[Image:Kaifu Toshiki 1-2.jpg|200px]]&lt;br /&gt;
|生年月日 = [[1931年]][[1月2日]]&lt;br /&gt;
|出生地 = [[愛知県]][[名古屋市]]&lt;br /&gt;
|出身校 = [[早稲田大学]]第二法学部卒業&lt;br /&gt;
|資格 = [[法学士]]&lt;br /&gt;
|前職 = 衆議院議員秘書&amp;lt;br /&amp;gt;国家基本政策委員会委員&lt;br /&gt;
|世襲 = 無&lt;br /&gt;
|就任 = [[1989年]][[8月10日]]&lt;br /&gt;
|退任 = [[1991年]][[11月5日]]&lt;br /&gt;
|選挙区 = [[愛知県第9区]]&lt;br /&gt;
|当選回数 = 16回&lt;br /&gt;
|党派 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]&lt;br /&gt;
|没年月日 = [[2022年]][[1月9日]]&lt;br /&gt;
|花押 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''海部 俊樹'''（かいふ としき、[[1931年]]（[[昭和]]6年）[[1月2日]] - [[2022年]]（[[令和]]4年）[[1月9日]]、[[日本]]の[[政治家]]。前[[衆議院議員]]（16期）。[[内閣総理大臣]]（76、77代）、[[大蔵大臣]]（87代）、[[文部大臣]]（98・108代）、[[新進党]][[党首]]（初代）、[[自由改革連合]]代表（初代）、[[自由民主党総裁]]（第14代）を歴任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[Image:小渕・小沢・海部.jpg|400px|thumb|[[自民党総務会]]で新幹事長が了承され握手する[[小渕恵三]]幹事長、[[小沢一郎]]前幹事長、[[海部俊樹]]首相。[[1991年]][[4月8日]]撮影]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初の昭和生まれの内閣総理大臣でもある。派閥は[[二階派]]に属した（最高顧問）。[[2009年]]の衆議院解散の時点で、衆議院議員では連続当選回数16回、勤続年数49年と現職トップだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[1931年]] - [[愛知県]][[名古屋市]]に写真館を経営する家に生まれる&lt;br /&gt;
* [[1948年]] - 旧制東海中学（現：[[東海中学校・高等学校|東海高校]]）卒業&lt;br /&gt;
* [[1951年]] - [[中央大学]][[専門部]]法科卒業 &lt;br /&gt;
* [[1952年]] - [[早稲田大学]][[法学部|第二法学部]]に[[編入学]] &lt;br /&gt;
* [[1954年]] - 早稲田大学第二法学部卒業&lt;br /&gt;
* [[1956年]] - 早稲田大学[[大学院]]法学研究科中退&lt;br /&gt;
* [[1960年]] - [[11月20日]] [[第29回衆議院議員総選挙]]に全国最年少で当選&lt;br /&gt;
* [[1966年]] - [[8月1日]]、労働政務次官（[[第1次佐藤内閣第3次改造内閣]]）&lt;br /&gt;
* [[1974年]] - 12月9日、[[内閣官房副長官]]（[[三木内閣]]）&lt;br /&gt;
* [[1976年]] - 12月24日、[[文部大臣]]（[[福田赳夫内閣]]）&lt;br /&gt;
* [[1985年]] - 12月28日、文部大臣（[[第2次中曽根内閣第2次改造内閣]]）&lt;br /&gt;
* [[1989年]] - [[8月10日]]第76代内閣総理大臣&lt;br /&gt;
* [[1990年]] - [[2月28日]]第77代内閣総理大臣&lt;br /&gt;
* 1990年 - 12月29日、第2次海部改造内閣発足&lt;br /&gt;
* [[1991年]] - 11月、内閣総理大臣辞任&lt;br /&gt;
* [[1994年]] - 6月、自民党離党。7月、[[自由改革連合]]代表。12月、[[新進党]]初代党首&lt;br /&gt;
* [[1998年]] - 1月、新進党分党に伴い無所属（院内会派「無所属の会」）&lt;br /&gt;
* [[1999年]] - 1月、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]最高顧問&lt;br /&gt;
* [[2000年]] - 4月、[[保守新党|保守党]]最高顧問&lt;br /&gt;
* [[2002年]] - 12月、保守新党最高顧問&lt;br /&gt;
* [[2003年]] - 11月、保守新党の解党・自民党への合流により、復党&lt;br /&gt;
* [[2009年]] - 8月30日、[[第45回衆議院議員総選挙]][[落選]]、同日政界引退を表明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治姿勢 ==&lt;br /&gt;
初当選以来、[[番町政策研究所|三木派]]に所属し、[[三木武夫]]の秘蔵っ子として知られていた。また海部自身もクリーンな政治家として三木を尊敬し、「わかりやすく、きれいな政治」を信条としている。「理想の政治家は？」との問いに対しては、常に「三木武夫」と回答していたほどである。また三木が総裁選で[[田中角栄]]に敗れた時には人目をはばからず号泣したという逸話もある。早稲田大学大学院時代に、[[明治大学]]大学院にも学びにくるほどであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三木派が河本派に移行してからは、[[1994年]]に離党するまでの間、名実共にナンバー2として[[河本敏夫]]を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名される。ニューリーダーの次を狙う政治家として[[橋本龍太郎]]、[[藤波孝生]]らと共に「[[ネオ・ニューリーダー]]」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[早稲田大学雄弁会]]の先輩である[[竹下登]]ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」とも言われた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは？」と囁かれた事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表的な文教族であり、[[福田赳夫内閣]]と[[第2次中曽根内閣]]で文部大臣を務めている。文部大臣時代の功績としては[[共通一次試験]]の導入があげられる。また「[[青年海外協力隊]]」の生みの親のひとりとしても知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 総理総裁就任と辞任 ==&lt;br /&gt;
[[Image:加藤・西岡・小沢・海部.jpg|300px|thumb|[[特別国会]]にて左から[[加藤六月]]、[[西岡武夫]]、[[小沢一郎]]、[[海部俊樹]]。[[1990年]][[7月27日]]撮影]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[宇野宗佑]]が[[第15回参議院議員通常選挙]]の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。[[リクルート事件]]で有力政治家が謹慎している中で、極端な世代交代を避けたかった竹下が、「'''時計の針を進めず、戻さず'''」として年齢の割に当選回数があり、かつ同じ稲門（早稲田大学）として近い関係にあった海部を首相にする構想を打ち出したことから、思いがけず総理総裁の座が転がり込んできた。[[自民党総裁選]]では海部の他に、[[林義郎]]と[[石原慎太郎]]が出馬したが、竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて[[自民党総裁]]に選ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、[[ねじれ国会]]に突入した。自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部俊樹、野党が過半数を確保した参議院は[[日本社会党委員長]]の[[土井たか子]]を指名した。[[日本国憲法第67条]]第2項の規定に基づき、[[両院協議会]]にて協議されたが両院の意見は一致せず、衆議院にて指名された海部が内閣総理大臣に就任した（[[衆議院の優越]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海部が首相に就任した頃は、いわゆる[[リクルート事件]]などで国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家を排除（リクルート・パージ）し、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。[[内閣官房長官|官房長官]]の[[山下徳夫]]が宇野と同じく女性スキャンダルを騒がせた際、すぐに山下を更迭させて[[環境庁長官]]だった女性議員の[[森山真弓]]を官房長官に横滑りさせて女性初の官房長官に起用させたり、様々な行事で夫婦同伴をするなど女性層を意識させた戦術をして、1990年の衆院選では衆院単独過半数を獲得する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また党内基盤が脆弱であった海部は自民党にとってはその場しのぎの「看板」でしかなく、党内は相変わらず権力闘争に明け暮れていた。[[石原信雄]]の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた。」と記されており、自民党幹事長を務めていた[[小沢一郎]]は「担ぐ[[神輿]]は軽くてパーな奴が一番いい。」等と海部を暗に揶揄され、[[金竹小]]と評された竹下派実力者三人が海部首相以上に強い影響力を持っていた。自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、本来味方であるはずの自党に振り回され、小選挙区導入反対派の[[加藤紘一]]、[[山崎拓]]、[[小泉純一郎]]の「[[YKK (政治同盟)|YKK]]」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。しかし、圧倒的な世論の支持が海部を守った。[[湾岸戦争]]における経済的な協力や[[掃海艇]]派遣では驚異的なねばり腰で法案を成立させた。このことに限らず、外交面では当時の[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]英首相や[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]米大統領から絶大な信頼を得ていた。[[六四天安門事件|天安門事件]]後、世界から孤立しかかった[[中華人民共和国|中国]]に西側先進国首脳として真っ先に訪問し、円借款を再開させたことには現在でも中国から感謝され「井戸を掘った人」として尊敬されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政策の目玉として取り組んだ政治改革関連法案が国会で審議未了廃案となったことを受け、「'''重大な決意で望む'''」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ[[衆議院解散|解散権]]は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱がおこった（[[海部おろし]]）。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派でさえ明確に解散不支持を表明し、結局解散に踏み切ることが出来ず、発言の責任を取る形で[[内閣総辞職]]を選んだ。在任中の内閣支持率は退任直前でさえも50％を超えていた。時には64％ということもあり、国民的な人気は根強いものがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首相在任日数818日間は日本国憲法下において衆議院で[[内閣不信任決議]]が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 首相在任中の施策 ==&lt;br /&gt;
;資金提供&lt;br /&gt;
:[[湾岸戦争]]の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供。しかし、戦後[[クウェート]]の新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が無かったが、その後改められた。この施策に関し保守層からは'''金だけだして人出さない'''、'''似非国際貢献'''、'''一国平和主義'''と罵られ左派からも「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した。」と強く批判されるなど一部から強い批判を浴びた。&lt;br /&gt;
;[[自衛隊ペルシャ湾派遣]]&lt;br /&gt;
:[[湾岸戦争]]の停戦後に、[[自衛隊]]創設以来初の海外実任務となる[[海上自衛隊]][[掃海艇|掃海]]部隊を[[ペルシャ湾]]に派遣する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自民党離党、自由改革連合代表、新進党党首へ ==&lt;br /&gt;
[[1994年]]6月29日、自民党総裁の[[河野洋平]]が、党の政権復帰のため[[日本社会党]]、[[新党さきがけ]]と[[自社さ連立政権]]構想で合意し、首班指名で社会党の[[村山富市]]に投票することを決めると、これを拒否して離党。旧[[連立与党]]である[[新生党]]や[[日本新党]]から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。その数日後正式に離党し[[自由改革連合]]結成し代表就任、[[新進党]]結党し初代党首となる。新進党結党会見では臨席した初代幹事長の[[小沢一郎]]に核心の質問が集中し思わず「党首は私なんですから質問の順序が逆じゃないんですか。」といきりたつ一幕もあった。さらにこの光景が放映されたあと[[久米宏]]が「小沢さんが実権を握っているのは皆わかっている。」と発言し止めをさした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この離党に至る海部の動きに対し、元[[衆議院議長]]・[[田村元]]は、かつて海部が師事した[[三木武夫]]になぞらえて「三木さんは我々と対立したが偉大な政治家であった。三木さんはあえて茨の道を選んだ。しかし、海部はてんぷらのにおいがするほうへつられて歩いて行った」と酷評している。また、当時の自由民主党幹事長代理[[野中広務]]は「元総裁が党を裏切るとは何事」と激怒。自民党本部の八階ホールと総裁室にある歴代総裁[[肖像画]]から海部の肖像画のみ撤去させた。更に野中は海部の肖像画の廃棄処分まで指示したが、周囲から「大人げない」とたしなめられ、海部の肖像画は党本部の収蔵庫に保管されることになった。その後、野中と小沢が連携し[[自自公連立政権]]が成立し海部も与党へと復帰していくこととなり、野中は海部批判を口にしなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自民党復党、政界引退 ==&lt;br /&gt;
新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし（[[院内会派]]「[[無所属の会]]」）を経て、自民党との連立政権に加わった[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]に入党。[[2000年]]の同党分裂の際には、自民連立継続派の[[保守新党|保守党]]に所属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[保守新党]]に改組して臨んだ[[2003年]]に[[第43回衆議院議員総選挙]]では、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の新人[[岡本充功]]に[[比例復活]]を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣の[[番町政策研究所|高村派]]には戻らず、[[二階俊博]]ら一緒に復党した旧保守新党議員らと[[二階グループ]]を結成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自民党復党の折には、[[安倍晋三]][[自民党幹事長]]（当時）から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の[[肖像画]]も再び掲額された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、院内に銅像が建てられる50年永年勤続表彰を目指し出馬した[[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]にて、小選挙区で[[岡本充功]]に敗れた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.47news.jp/CN/200908/CN2009083001000555.html 連続１６選の海部元首相が落選　民主前職に敗れ、愛知９区]共同通信2009年8月30日&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[比例代表制|比例代表]]は73歳未満と定めた党規に抵触し[[重複立候補制度|重複立候補]]が許されなかったため落選し、同日政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えた事も落選の一因と見られている。首相経験者が落選したのは、1963年の[[第30回衆議院議員総選挙]]の[[石橋湛山]]、[[片山哲]]両元首相以来46年振り&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin2009/news/20090831-OYT1T00059.htm 首相経験者の落選、46年ぶり]YOMIURI ONLINE 読売新聞2009年8月31日&amp;lt;/ref&amp;gt;、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な所属議員連盟 ==&lt;br /&gt;
*日独議員連盟会長&lt;br /&gt;
*日墺議員連盟会長&lt;br /&gt;
*日英議員連盟最高顧問&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な肩書き ==&lt;br /&gt;
*（財）日本ソフトテニス連盟会長&lt;br /&gt;
*日本ティーボール協会会長&lt;br /&gt;
*EU・ジャパンフェスト日本委員会最高顧問&lt;br /&gt;
*地球環境行動会議（GEA）最高顧問&lt;br /&gt;
*[[中央政策研究所]]最高顧問&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・エピソード==&lt;br /&gt;
=== ネクタイ ===&lt;br /&gt;
'''水玉模様の[[ネクタイ]]'''が[[トレードマーク]]である。これは、三木内閣の官房副長官時代、[[スト権スト]]問題でテレビの討論番組に出演した際、帰宅もままならぬ事から、連日連夜同じ水玉柄のネクタイをしていた事を視聴者に指摘され、それを自らのトレードマークにしたものである。討論番組そのものでは当時[[公労協]]事務局長であった[[富塚三夫]]に対して一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった。昭和天皇の大喪の礼でも仄かに水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 弁論 ===&lt;br /&gt;
旧制中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、中央大学専門部入学と共に[[中央大学辞達学会]]（[[弁論部]]）に所属。中央大学専門部法科卒業後、同郷出身の代議士[[河野金昇]]の書生を務めていた。その後、1年間の浪人生活を経て早稲田大学第二法学部夜間部に入学。[[雄弁会]]に所属。当時の弁論大会で優勝した折、総長から「海部の前に海部なし、海部のあとに海部なし」と講評される。議員秘書の傍ら早大[[雄弁会]]で弁論術の研鑚及び人脈作りにいそしむ。同年代の[[雄弁会]]員には[[渡部恒三]]がいる。この時代に培った弁論術・人脈が政界入り後に大きな力となり、小派閥から内閣総理大臣まで登りつめた原動力となった。海部は、[[明治大学]]卒業の[[三木武夫]]の愛弟子であったことから、明治大学にもたびたび公演に訪れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 29 ===&lt;br /&gt;
[[1960年]]に行われた[[第29回衆議院議員総選挙]]に、河野金昇の死後、後継として出馬し一期務めた[[河野孝子]]未亡人の後継として出馬。応援演説に来た[[井出一太郎]]が放った「'''サイフは落としてもカイフは落とすな'''」というキャッチフレーズで人気が沸騰し、当選した。この時29歳であった事から、「29回総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言していた。自民党内では傍流である三木派に属していた事から、この言葉は半ば冗談のように受け取られ、また本人も講演会等の挨拶におけるリップサービスにしていた。ところが、初当選から29年後の[[1989年]]、諸々の条件が重なり、海部は内閣総理大臣に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヒューストン・サミット ===&lt;br /&gt;
[[1990年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ヒューストン]]で開催された[[主要国首脳会議|サミット]]における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]米大統領・[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]英首相・[[ブライアン・マルルーニー|マルルーニー]]加首相が大爆笑している場面の写真が全世界に配信されたが、一般にはあまり知られていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 皇室 ===&lt;br /&gt;
[[1990年]]は[[秋篠宮]]結婚の儀、[[明仁|今上天皇]][[即位の礼]]・[[大嘗祭]]等重要な[[皇室]]行事が続いたが、海部はすべて問題なくこなした。とりわけ即位儀礼は[[日本国憲法]]下初の挙行であったため儀式にも慎重に手が入れられたが、それぞれの儀礼は滞りなく進んだ。今上天皇は儀式にあたりその細かい部分について海部に直接相談したり、二人だけで話し込んだりすることもあった。今上天皇は海部と年齢が近いこともあり話しやすく感じていたようであり、個人的な信頼関係が生まれていたと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[きんさんぎんさん]] ===&lt;br /&gt;
記録的な長寿で話題となった[[双子]][[姉妹]]、[[成田きん]]と[[蟹江ぎん]]は生前、「尊敬する[[政治家]]」として海部の名を挙げていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プライベート===&lt;br /&gt;
[[三枝の愛ラブ!爆笑クリニック]]に首相退任後、夫婦で出演した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族・親族 ==&lt;br /&gt;
*曾祖父・久蔵は旧[[尾張藩]]士・海部久（九）兵衛家の嗣子で（[[海部氏]]を参照）、明治4年（1871）に義弟（海部の曾祖母・すまの弟）にあたる[[海部壮平]]の家族、平井理右衛門の家族とともに春日井郡池之内村（現在の[[小牧市]]池之内）に[[帰田法|帰田]]し、共同で[[万屋]]と農業を営んでいたが、万屋は経営不振により1879年（明治12）に閉店した{{Sfn|入谷|2000|pp=57,75,87-92,130}}。その後、1880年（明治13）に、[[中区 (名古屋市)|中区]]小林町（大須門前町）の邸宅の戸主だった父・久兵衛（海部の高祖父にあたる）が死去したことに伴い、池之内村から同地に転居したとみられている{{Sfn|入谷|2000|p=92}}。&lt;br /&gt;
**海部壮平は[[養鶏業]]を営み、実弟の海部正秀とともに[[名古屋コーチン]]を作出したことで知られるが{{Sfn|入谷|2000|pp=110-112,152-176}}、壮平は1875年（明治8）に正秀の勧めで副業として養鶏を始め{{Sfn|入谷|2000|p=115}}、万屋が閉店し、1880年（明治13）に久蔵らが転居した後、鶏舎を増築して事業を本格化したといい{{Sfn|入谷|2000|pp=131-132}}、久蔵が養鶏業を営んでいたかは不明{{Sfn|入谷|2000|pp=92-93}}。&lt;br /&gt;
**明治期に[[尾張徳川家#家令|尾張徳川家・家令]]、[[明倫中学校]]校長を務めた[[海部昂蔵]]について、{{Harvtxt|大石|1994|p=62}}および{{Harvtxt|小田部|1988|p=42}}は、海部の祖父、{{Harvtxt|藤田|2010|p=80 注47}}および{{Harvtxt|豊田|1991|pp=3-6}}は、海部の曾祖父にあたる、としているが、{{Harvtxt|入谷|2000|pp=92,196-197}}は、海部の曾祖父・久蔵は代々「海部久兵衛」を称した家系、海部昂蔵の家系は「海部久右衛門」を称した家系で（詳細は[[海部氏]]を参照）、生没年も異なり、昂蔵と久蔵は別人、としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*祖父にあたる[[海部幸之進|幸之進]]は、1884年（明治17）に[[大須]]で[[写真館]]を開業{{Sfn|入谷|2000|p=92}}。その姉・松江が[[中村牧陽]]と結婚した関係から、牧陽の弟子になり、[[中村写真館]]を継いだ{{Sfn|入谷|2000|p=92}}。幸之進は、[[コロタイプ]]写真印刷部を設けた人物として知られている{{Sfn|入谷|2000|p=93}}。&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|豊田|1991|pp=3,6}}は、幸之進は、米国・[[コロナコダック]]社で写真撮影技術を学び、名古屋で初めての写真館「中村写真館」を開業した、としている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*父・誠也は幸之進の長男。母・ふさは名古屋写真材料組合の初代組合長・加藤隆助の長女{{Sfn|入谷|2000|p=93}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[アニメ]]プロデューサーの[[海部正樹]]は長男。[[天文学者]]の[[海部宣男]]、2008年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]、[[シンコーホーム詐欺事件]]で2002年に有罪判決を受けた[[シンコーホーム]]元常務の[[海部俊一]]は従弟。（出典？）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[第1次海部内閣]]&lt;br /&gt;
*[[第2次海部内閣]]、[[第2次海部内閣改造内閣]]&lt;br /&gt;
*[[ネオ・ニューリーダー]]&lt;br /&gt;
*[[石原健太郎]]&lt;br /&gt;
*[[神田真秋]]&lt;br /&gt;
*[[小此木彦三郎]]&lt;br /&gt;
*[[教育美術振興会]]&lt;br /&gt;
*[[中道新党構想]]&lt;br /&gt;
*[[PKO国会]]&lt;br /&gt;
*[[金石清禅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.anan.ne.jp/kaifu/ 海部俊樹オフィシャルホームページ]（公式サイト）&lt;br /&gt;
*[http://jimin-aichi.jp/ 自民党愛知県連]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==付録==&lt;br /&gt;
=== 脚注 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist|18em}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===参考文献===&lt;br /&gt;
*{{Aya|藤田|year=2010}} 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、{{NAID|40017129111}}&lt;br /&gt;
*{{Aya|入谷|year=2000}} 入谷哲夫『名古屋コーチン作出物語』ブックショップ「マイタウン」、ISBN 4938341972&lt;br /&gt;
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生 ‐ 北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、ISBN 4642036563&lt;br /&gt;
*{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、ISBN 4250880192&lt;br /&gt;
*{{Aya|豊田|year=1983}} [[豊田行二]]『海部俊樹・全人像』行政問題研究所、ISBN 978-4905786276&lt;br /&gt;
**{{Aya|豊田|year=1991|mask=－}} 改訂版 行研出版局、ISBN 4905786843 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{start box}}&lt;br /&gt;
{{s-off}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[宇野宗佑]]&lt;br /&gt;
| years  = 第76・77代：1989年 - 1991年&lt;br /&gt;
| after  = [[宮澤喜一]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|JPN}} [[文部大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[永井道雄]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[松永光]]&lt;br /&gt;
| years  =  第96代：1976年 - 1977年&amp;lt;br/&amp;gt;第106代 : 1985年 - 1986年&lt;br /&gt;
| after  = [[砂田重民]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[藤尾正行]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|JPN}} [[大蔵大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[橋本龍太郎]]&lt;br /&gt;
| years  = 第95代：1991年（兼任）&lt;br /&gt;
| after  = [[羽田孜]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|日本}} [[内閣官房副長官|内閣官房副長官（政務担当）]]&lt;br /&gt;
| before = [[梶山静六]]&lt;br /&gt;
| years  = &lt;br /&gt;
| after  = [[鯨岡兵輔]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{s-par}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|日本}} [[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]]&lt;br /&gt;
| before = [[田沢吉郎]]&lt;br /&gt;
| years  = 第31代：1972年 - 1973年&lt;br /&gt;
| after  = [[佐々木秀世]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{s-ppo}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[新進党|新進党党首]]&lt;br /&gt;
| before = 結成&lt;br /&gt;
| years  = 初代：1994年 - 1995年&lt;br /&gt;
| after  = [[小沢一郎]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[自由改革連合|自由改革連合代表]]&lt;br /&gt;
| before = 結成&lt;br /&gt;
| years  = 初代：1994年&lt;br /&gt;
| after  = [[新進党]]へ&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[高志会|高志会代表]]&lt;br /&gt;
| before = 結成&lt;br /&gt;
| years  = 初代 : 1994年&lt;br /&gt;
| after  = [[新進党]]へ&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[自由民主党総裁]]&lt;br /&gt;
| before = [[宇野宗佑]]&lt;br /&gt;
| years  = 第14代 : 1989年 - 1991年&lt;br /&gt;
| after  = [[宮澤喜一]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[自由民主党国会対策委員会|自由民主党国会対策委員長]]&lt;br /&gt;
| before = [[宇野宗佑]]&lt;br /&gt;
| years  = 第21代 : 1976年&lt;br /&gt;
| after  = [[安倍晋太郎]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{end box}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{日本国歴代内閣総理大臣&lt;br /&gt;
|当代=[[第1次海部内閣|76]]・[[第2次海部内閣|77]]&lt;br /&gt;
|在任期間=1989年 - 1991年&lt;br /&gt;
|前代=[[宇野内閣|75]]&lt;br /&gt;
|前首相名=宇野宗佑&lt;br /&gt;
|次代=[[宮沢内閣|78]]&lt;br /&gt;
|次首相名=宮澤喜一&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かいふ としき}}&lt;br /&gt;
[[Category:1931年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:海部氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:名古屋市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:中央大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:早稲田大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:早稲田大学雄弁会の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:愛知県の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:衆議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:番町政策研究所の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の文部大臣]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の内閣総理大臣]]&lt;br /&gt;
[[Category:新進党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:保守新党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:2022年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E4%BA%8C&amp;diff=396521</id>
		<title>佐藤信二</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E4%BA%8C&amp;diff=396521"/>
				<updated>2022-01-18T12:33:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{政治家&lt;br /&gt;
|人名 = 佐藤 信二&lt;br /&gt;
|各国語表記 = （さとう しんじ）&lt;br /&gt;
|画像 = &lt;br /&gt;
|画像説明 = &lt;br /&gt;
|国略称 = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|生年月日 = [[1932年]][[2月8日]]&lt;br /&gt;
|出生地 = [[山口県]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[田布施町]] &lt;br /&gt;
|没年月日 = [[2016年]][[5月3日]]&lt;br /&gt;
|死没地 = &lt;br /&gt;
|出身校 = [[慶應義塾大学]]&lt;br /&gt;
|前職 = 会社員&lt;br /&gt;
|現職 = &lt;br /&gt;
|所属政党 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]&lt;br /&gt;
|称号・勲章 = [[勲一等旭日大綬章]]&amp;lt;br /&amp;gt;大綬景星勲章&lt;br /&gt;
|世襲の有無 = 2世&lt;br /&gt;
|親族（政治家） = [[佐藤栄作]]（[[父]]）&amp;lt;br /&amp;gt;[[岸信介]]（[[伯父]]）&lt;br /&gt;
|配偶者 = &lt;br /&gt;
|サイン = &lt;br /&gt;
|ウェブサイト = &lt;br /&gt;
|サイトタイトル = &lt;br /&gt;
|国旗 = 日本&lt;br /&gt;
|職名 = 第60代[[運輸大臣]]&lt;br /&gt;
|内閣 = [[竹下内閣改造内閣|竹下改造内閣]]&lt;br /&gt;
|就任日 = [[1988年]][[12月27日]]&lt;br /&gt;
|退任日 = [[1989年]][[6月3日]]&lt;br /&gt;
|退任理由 = &lt;br /&gt;
|国旗2 = 日本&lt;br /&gt;
|職名2 = 第61代[[経済産業大臣|通商産業大臣]]&lt;br /&gt;
|内閣2 = [[第2次橋本内閣]]&lt;br /&gt;
|就任日2 = [[1996年]][[11月7日]]&lt;br /&gt;
|退任日2 = [[1997年]][[9月11日]]&lt;br /&gt;
|退任理由2 = &lt;br /&gt;
|国旗3 = 日本&lt;br /&gt;
|職名3 = [[衆議院]][[国会議員|議員]]&lt;br /&gt;
|選挙区3 = 比例区中国ブロック&lt;br /&gt;
|当選回数3 = 1回&lt;br /&gt;
|就任日3 = [[2003年]][[11月9日]]&lt;br /&gt;
|退任日3 = [[2005年]][[8月8日]]&lt;br /&gt;
|退任理由3 = 政界引退&lt;br /&gt;
|国旗4 = 日本&lt;br /&gt;
|職名4 = [[衆議院]][[国会議員|議員]]&lt;br /&gt;
|選挙区4 = [[山口県第2区 (中選挙区)|旧山口県第2区]]→[[山口県第2区]]&lt;br /&gt;
|当選回数4 = 7回&lt;br /&gt;
|就任日4 = [[1979年]][[10月7日]]&lt;br /&gt;
|退任日4 = [[2000年]][[6月2日]]&lt;br /&gt;
|退任理由4 = 落選&lt;br /&gt;
|国旗5 = 日本&lt;br /&gt;
|職名5 = [[参議院]][[国会議員|議員]]&lt;br /&gt;
|選挙区5 = 全国区&lt;br /&gt;
|当選回数5 = 1回&lt;br /&gt;
|就任日5 = [[1974年]][[7月8日]]&lt;br /&gt;
|退任日5 = [[1977年]][[7月3日]]&lt;br /&gt;
|退任理由5 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''佐藤 信二'''（さとう しんじ、[[1932年]][[2月8日]] - [[2016年]][[5月3日]]）は、[[日本]]の[[政治家]]。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属の元[[衆議院議員]]（8期）、[[参議院議員]]（1期）。勲等は[[勲一等旭日大綬章|勲一等]]。衆議院議員永年在職表彰受彰。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第61、62、63代内閣総理大臣[[佐藤栄作]]の次男。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[山口県]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[田布施町]]出身。[[東京都立大学附属高等学校]]を経て[[慶應義塾大学]][[法学部]]卒業後、[[日本鋼管|日本鋼管株式会社]]に入社。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1974年]]の[[第10回参議院議員通常選挙]]全国区で初当選。[[沖縄開発庁]][[政務次官]]を務める。[[1979年]]の[[第35回衆議院議員総選挙]]にて[[衆議院議員]]に初当選。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[木曜クラブ|田中派]]→[[平成研究会|竹下派→小渕派]]に属し、[[運輸大臣]]・[[経済産業大臣|通商産業大臣]]を歴任したが、[[1998年]]の[[自由民主党総裁選挙]]では領袖・[[小渕恵三]]を推す派の意向に反して出馬した[[梶山静六]]を支持し派を離脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1994年]]の[[公職選挙法]]改正（[[小選挙区比例代表並立制]]施行）以降の選挙では、[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]に際し、小選挙区（[[山口県第2区]]）に出馬し当選。しかし、[[2000年]]と[[2003年]]の衆院選では[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の[[平岡秀夫]]に連敗。2003年総選挙では比例区中国ブロックで復活当選した。比例名簿では当選最下位であったため、引退した[[宮沢喜一]]が終身比例名簿1位のままであれば落選になっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]][[7月5日]]の[[郵政国会]]の衆議院本会議の[[郵政民営化法案]]の採決では欠席して造反。[[2005年]][[9月11日]]の[[第44回衆議院議員総選挙]]には出馬せず政界を引退した。通算当選8回（参1回）。なお、急な引退表明をする一方で後継者指名をしなかったため、自民党山口県連は早急に山口2区での候補者選定を迫られることになった。自民党の後任候補は公示9日前に[[福田良彦]]を擁立することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2008年]][[2月18日]]、[[台湾]]の[[陳水扁]][[中華民国総統|総統]]から、日華議員懇談会の前会長として長年・日台友好に寄与した功績から、「[[大綬景星勲章]]」を[[平沼赳夫]]とともに授与された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[台湾高速鉄道]]の日本連合受注に大きく貢献した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]]12月、[[東京都]][[世田谷区]][[代沢]]の私邸に保管していた、[[沖縄返還]]にあたり[[有事]]の際には[[アメリカ軍]]が沖縄に[[核兵器]]を[[非核三原則]]に違反して持ち込む事を容認する、父・栄作と大統領[[リチャード・ニクソン]]の秘密合意書（詳細は[[日米核持ち込み密約問題]]を参照のこと）を公開した（なお、機密文書を持ち帰ったのは栄作である）。「外交資料館での保管を要請したが断られた」との報道が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 栄典 ==&lt;br /&gt;
* [[2003年]][[4月29日]]：[[勲一等旭日大綬章]]&lt;br /&gt;
* [[2008年]][[2月18日]]：大綬景星勲章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族・親族 ==&lt;br /&gt;
* 妻 和子（元[[東京ガス]]会長・[[安西浩]]の長女）&lt;br /&gt;
* 女婿 [[阿達雅志]] - [[2007年]]の[[第21回参議院議員通常選挙|参院選]]比例区に自民党公認で立候補したが落選している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
; 佐藤家（[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sato_sin.html 佐藤氏系譜（武家家伝）]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は[[源義経]]の家臣[[佐藤忠信]]であるという口伝がある。確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、[[寛文]]2年（[[1662年]]）頃から[[萩藩]]の[[武士|士]]となり、扶持方2人・米2石4斗を受けた。下級[[武士]]であり、この待遇はその後もあまり変わらない。役によって4石5斗あるいは6石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。歴代佐藤家の当主の中で世に出たのは、まず4代目の源右衛門信早である。その功を認められて禄高を6石に加増されている。熊毛郡下田布施村の｢宝暦検地絵図｣などの文書も残した。7代目の佐藤嘉津馬は[[安永]]8年（[[1779年]]）12歳で病死する。佐藤家はこの7代まで現在の[[山口市]]南部にあたる大内町御堀の周辺に住んだ。7代目の嘉津馬夭折の後、佐藤家は[[萩]]に住む一族吉田八兵衛の3男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。8代目市郎右衛門信孝であり、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。[[佐藤信寛|寛作信寛]]は[[長州藩]]士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、[[幕末]]期の思想家[[吉田松陰]]に兵要録を授けた。[[明治]]になると、[[島根県]]県令、浜田県権知事等の要職に就いた。信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。秀助は山口県庁に奉職し、勤めを辞めてからは酒造業を始めた&amp;lt;ref&amp;gt;栄作は父について「父は非常に勉強好きな人で、寡黙な人だった。私があまり口をきかないのも、性質が父親に似たせいだろう」と述べている（『忍魁・佐藤栄作研究』 19頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。佐藤家の家紋は“源氏車”である&amp;lt;ref&amp;gt;『正伝 佐藤栄作（上）』　15-26頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;ref&amp;gt;山田栄三著『正伝 佐藤栄作（上）15-26頁』&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┏昭和天皇━━━━━━━━━今上天皇&lt;br /&gt;
　　　　明治天皇━━━大正天皇━━━━━┫　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┗三笠宮崇仁親王━━━━━━寬仁親王　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┏彬子女王 &lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━┫&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　麻生太賀吉　　┃　　　　　┗瑶子女王&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　┏信子&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┣━━┫&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　┗麻生太郎&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┏和子　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　吉田茂━━━━┫&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┗桜子&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　吉田祥朔　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┣━━━━━吉田寛&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┏さわ&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　┏寛子（栄作夫人）&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┣佐藤松介━━┫&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　┗正子&lt;br /&gt;
佐藤信孝━━佐藤信立━━佐藤信寛━━佐藤信彦━╋佐藤寛造　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃（池上）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┣佐藤作造　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┗茂世　　　　　安倍晋太郎&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┣━┳佐藤市郎　　┣━━━━━安倍晋三&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　┃　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（佐藤）┃　┃（佐藤）　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┏岸秀助　┣岸信介━━洋子&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　岸要蔵━━┫　　　　┗佐藤栄作━┳佐藤龍太郎━━佐藤栄治&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　　　　　　┗佐藤信二&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┗岸信政━━良子　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（信介夫人）　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　安西浩━━━━和子&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連 ==&lt;br /&gt;
*[[田村秀昭]]&lt;br /&gt;
*[[平沼赳夫]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注・出典 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{start box}}&lt;br /&gt;
{{s-off}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|日本}} [[通商産業大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[塚原俊平]]&lt;br /&gt;
| years  = 第61代：1996年 - 1997年&lt;br /&gt;
| after  = [[堀内光雄]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|日本}} [[運輸大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[石原慎太郎]]&lt;br /&gt;
| years  = 第60代：1988年 - 1989年&lt;br /&gt;
| after  = [[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{end box}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さとうしんし}}&lt;br /&gt;
[[Category:衆議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:参議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の閣僚経験者]]&lt;br /&gt;
[[Category:山口県の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1932年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2016年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E7%AB%B9%E5%B1%B1%E6%98%AD%E4%BA%8C&amp;diff=396238</id>
		<title>竹山昭二</title>
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				<updated>2022-01-04T14:43:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
{{政治家&lt;br /&gt;
|人名 = 竹山昭二&lt;br /&gt;
|各国語表記 = たけやましょうじ&lt;br /&gt;
|画像 = &lt;br /&gt;
|画像説明 = &lt;br /&gt;
|国略称 = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1943|7|19}}&lt;br /&gt;
|出生地 = [[新潟県]][[三条市]]&lt;br /&gt;
|没年月日 = &lt;br /&gt;
|死没地 = &lt;br /&gt;
|出身校 = [[新潟県立三条商業高等学校|新潟県立三条実業高等学校]]&lt;br /&gt;
|前職 = 前三条市議会議員&lt;br /&gt;
|現職 = [[新潟県議会]]議員&lt;br /&gt;
|所属政党 = [[民主党 (日本 1998-)|民主党]]&lt;br /&gt;
|称号・勲章 = &lt;br /&gt;
|親族（政治家） = &lt;br /&gt;
|配偶者 = &lt;br /&gt;
|サイン = &lt;br /&gt;
|ウェブサイト = &lt;br /&gt;
|サイトタイトル = 竹山昭二ホームページ&lt;br /&gt;
|国旗 = &lt;br /&gt;
|職名 = &lt;br /&gt;
|当選回数 = 3&lt;br /&gt;
|就任日 = [[1999年]]&lt;br /&gt;
|退任日 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''竹山 昭二'''（たけやま しょうじ、[[1943年]][[7月19日]] - [[2012年]][[11月22日]]）は、日本の[[政治家]]。[[新潟県]][[三条市]]選出の[[新潟県議会]]議員（3期）で、現所属委員会は議会運営委員会・産業経済委員会・地域活性化・総合交通対策特別委員会である。[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]新潟県連幹事長を努める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
* [[1943年]]（昭和18年）- 7月19日、三条市島田生まれ。&lt;br /&gt;
* [[1962年]]（昭和37年）- [[新潟県立三条商業高等学校|新潟県立三条実業高等学校卒業]]。&lt;br /&gt;
* [[1981年]]（昭和56年）- (社)三条青年会議所理事長。&lt;br /&gt;
* [[1983年]]（昭和58年）- (社)[[日本青年会議所]]新潟ブロック協議会副会長。&lt;br /&gt;
* [[1987年]]（昭和62年）- 三条市議会議員に初当選。&lt;br /&gt;
* [[1991年]]（平成3年）- 三条市議会議員に当選（2期）&lt;br /&gt;
* [[1999年]]（平成11年）- 新潟県議会議員に初当選。&lt;br /&gt;
* [[2003年]]（平成15年）- 新潟県議会議員に当選（2期）&lt;br /&gt;
* [[2007年]]（平成19年）- 新潟県議会議員に当選（3期）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 役職 ==&lt;br /&gt;
* 民主党新潟県連幹事長&lt;br /&gt;
* 民主党[[新潟県第4区]]総支部長代行&lt;br /&gt;
* 民主党新潟県連三条市支部長&lt;br /&gt;
* 民主党新潟県連自治体議員フォーラム副会長&lt;br /&gt;
* 民主党新潟県連中小企業対策WT（ワーキングチーム）座長&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[関山信之]]&lt;br /&gt;
* [[西村智奈美]]・[[菊田真紀子]]&lt;br /&gt;
* [[市川政広]]・[[大渕健]]&lt;br /&gt;
* [[井口一郎]]・[[上村清隆]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://takeyamashoji.com/ 竹山昭二]&lt;br /&gt;
* [http://www.kaigiroku.net/kensaku/cgi-bin/WWWframeBase.exe?A=frameBase&amp;amp;USR=nignigk&amp;amp;PWD=&amp;amp;L=1&amp;amp;S=31 新潟県議会会議録の検索と閲覧]&lt;br /&gt;
* [http://www.dpj-niigata.com/xoops/ 民主党新潟県連]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たけやましようし}}&lt;br /&gt;
[[Category:新潟県の地方議会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:民主党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本青年会議所の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:新潟県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1943年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2012年没]]&lt;br /&gt;
{{Japan-politician-stub}}&lt;br /&gt;
{{ウィキペディア削除}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

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		<title>竹山昭二</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
{{政治家&lt;br /&gt;
|人名 = 竹山昭二&lt;br /&gt;
|各国語表記 = たけやましょうじ&lt;br /&gt;
|画像 = &lt;br /&gt;
|画像説明 = &lt;br /&gt;
|国略称 = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1943|7|19}}&lt;br /&gt;
|出生地 = [[新潟県]][[三条市]]&lt;br /&gt;
|没年月日 = &lt;br /&gt;
|死没地 = &lt;br /&gt;
|出身校 = [[新潟県立三条商業高等学校|新潟県立三条実業高等学校]]&lt;br /&gt;
|前職 = 前三条市議会議員&lt;br /&gt;
|現職 = [[新潟県議会]]議員&lt;br /&gt;
|所属政党 = [[民主党 (日本 1998-)|民主党]]&lt;br /&gt;
|称号・勲章 = &lt;br /&gt;
|親族（政治家） = &lt;br /&gt;
|配偶者 = &lt;br /&gt;
|サイン = &lt;br /&gt;
|ウェブサイト = &lt;br /&gt;
|サイトタイトル = 竹山昭二ホームページ&lt;br /&gt;
|国旗 = &lt;br /&gt;
|職名 = &lt;br /&gt;
|当選回数 = 3&lt;br /&gt;
|就任日 = [[1999年]]&lt;br /&gt;
|退任日 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''竹山 昭二'''（たけやま しょうじ、[[1943年]][[7月19日]] - [[2012年]][[11月22日]]）は、日本の[[政治家]]。[[新潟県]][[三条市]]選出の[[新潟県議会]]議員（3期）で、現所属委員会は議会運営委員会・産業経済委員会・地域活性化・総合交通対策特別委員会である。現在は[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]新潟県連幹事長を努める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
* [[1943年]]（昭和18年）- 7月19日、三条市島田生まれ。&lt;br /&gt;
* [[1962年]]（昭和37年）- [[新潟県立三条商業高等学校|新潟県立三条実業高等学校卒業]]。&lt;br /&gt;
* [[1981年]]（昭和56年）- (社)三条青年会議所理事長。&lt;br /&gt;
* [[1983年]]（昭和58年）- (社)[[日本青年会議所]]新潟ブロック協議会副会長。&lt;br /&gt;
* [[1987年]]（昭和62年）- 三条市議会議員に初当選。&lt;br /&gt;
* [[1991年]]（平成3年）- 三条市議会議員に当選（2期）&lt;br /&gt;
* [[1999年]]（平成11年）- 新潟県議会議員に初当選。&lt;br /&gt;
* [[2003年]]（平成15年）- 新潟県議会議員に当選（2期）&lt;br /&gt;
* [[2007年]]（平成19年）- 新潟県議会議員に当選（3期）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 役職 ==&lt;br /&gt;
* 民主党新潟県連幹事長&lt;br /&gt;
* 民主党[[新潟県第4区]]総支部長代行&lt;br /&gt;
* 民主党新潟県連三条市支部長&lt;br /&gt;
* 民主党新潟県連自治体議員フォーラム副会長&lt;br /&gt;
* 民主党新潟県連中小企業対策WT（ワーキングチーム）座長&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[関山信之]]&lt;br /&gt;
* [[西村智奈美]]・[[菊田真紀子]]&lt;br /&gt;
* [[市川政広]]・[[大渕健]]&lt;br /&gt;
* [[井口一郎]]・[[上村清隆]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://takeyamashoji.com/ 竹山昭二]&lt;br /&gt;
* [http://www.kaigiroku.net/kensaku/cgi-bin/WWWframeBase.exe?A=frameBase&amp;amp;USR=nignigk&amp;amp;PWD=&amp;amp;L=1&amp;amp;S=31 新潟県議会会議録の検索と閲覧]&lt;br /&gt;
* [http://www.dpj-niigata.com/xoops/ 民主党新潟県連]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たけやましようし}}&lt;br /&gt;
[[Category:新潟県の地方議会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:民主党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本青年会議所の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:新潟県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1943年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2012年没]]&lt;br /&gt;
{{Japan-politician-stub}}&lt;br /&gt;
{{ウィキペディア削除}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E7%94%B0%E8%BE%BA%E8%AA%A0&amp;diff=396236</id>
		<title>田辺誠</title>
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				<updated>2022-01-04T14:24:20Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|衆議院議員、日本社会党委員長の田邊誠|同姓同名の民事訴訟法学者|田邊誠 (法学者)}}&lt;br /&gt;
{{政治家&lt;br /&gt;
|各国語表記 = たなべ まこと&lt;br /&gt;
|画像 = &lt;br /&gt;
|画像説明 = &lt;br /&gt;
|国略称 = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|生年月日 = [[1922年]][[2月25日]]&lt;br /&gt;
|出生地 = [[群馬県]][[前橋市]]&lt;br /&gt;
|没年月日 = [[2015年]][[7月2日]]&lt;br /&gt;
|死没地 = &lt;br /&gt;
|出身校 = [[逓信講習所]]&lt;br /&gt;
|所属政党 = [[民主党 (日本 1998-)|民主党]]（1996 - ）&amp;lt;br/&amp;gt;[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]（1996）&amp;lt;br/&amp;gt;[[日本社会党]]（1960 - 1996）&lt;br /&gt;
|称号・勲章 = &lt;br /&gt;
|配偶者 = &lt;br /&gt;
|国旗 = 日本&lt;br /&gt;
|職名 = 第11代[[日本社会党委員長]]&lt;br /&gt;
|当選回数 = &lt;br /&gt;
|就任日 = [[1991年]][[7月23日]]&lt;br /&gt;
|退任日 = [[1993年]][[1月6日]]&lt;br /&gt;
|退任理由 = &lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ↓省略可↓ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
|国旗2 = 日本&lt;br /&gt;
|職名2 = [[衆議院議員]]&lt;br /&gt;
|当選回数2 = 11回&lt;br /&gt;
|就任日2 = [[1960年]]&lt;br /&gt;
|退任日2 = [[1996年]]&lt;br /&gt;
|退任理由2 = &lt;br /&gt;
|職名3 = &lt;br /&gt;
|当選回数3 = &lt;br /&gt;
|就任日3 = &lt;br /&gt;
|退任日3 = &lt;br /&gt;
|退任理由3 = &lt;br /&gt;
|職名4 = &lt;br /&gt;
|当選回数4 = &lt;br /&gt;
|就任日4 = &lt;br /&gt;
|退任日4 = &lt;br /&gt;
|退任理由4 = &lt;br /&gt;
|職名5 = &lt;br /&gt;
|当選回数5 = &lt;br /&gt;
|就任日5 = &lt;br /&gt;
|退任日5 = &lt;br /&gt;
|退任理由5 = &lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ↑省略可↑ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''田邊 誠'''（'''田辺 誠'''、'''たなべ まこと'''、[[1922年]][[2月25日]] - [[2015年]][[7月2日]]）は、[[群馬県]][[前橋市]]出身の[[日本]]の[[政治家]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[衆議院議員]]（11期）、[[日本社会党委員長]]（第11代）を歴任。&lt;br /&gt;
[[Image:金丸　2.jpg|thumb|left|300px|左・金丸信、中央・[[金日成]]、右・[[田辺誠]]]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政界デビューまで ==&lt;br /&gt;
老人福祉事業に従事していた[[田邊熊蔵]]の長男として生まれる。旧制前橋中学（現在の[[群馬県立前橋高等学校]]）卒業後、旧制高校への進学を希望していたが、父が経営する養老院の運営がおもわしくなく、やむなく学費無料の逓信講習所に進学した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講習所卒業後、前橋郵便局に勤務した。[[1943年]]に応召し兵役に就いたが、軍隊内では熱心な[[クリスチャン]]であることを理由にむごいいじめにあった。復員後、前橋郵便局に復職。上司にも堂々と意見する態度を買われて労働組合の指導者に推され、以後、[[日本郵政公社労働組合|全逓信労働組合]]群馬地区委員長、群馬地方労組評議会議長を歴任した。[[1955年]]、群馬県議会議員に当選。県議会ではダム建設にまつわる不正を追及して、当時の[[北野重雄]]知事を知事選への再出馬断念に追い込んでいる。[[第29回衆議院議員総選挙|1960年の総選挙]]で衆議院議員に初当選。[[第30回衆議院議員総選挙|1963年の総選挙]]では落選したが[[第31回衆議院議員総選挙|1967年の総選挙]]で復活し、以後引退まで連続当選を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 社会党での活動 ==&lt;br /&gt;
衆議院では社会労働委員会に属し、社会福祉政策の充実を訴えた。一方、社会党内では[[江田三郎]]派に属し、次第に右派の重鎮としての地位を築いていった。1977年、社会党の[[国会対策委員長]]に就任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国対委員長時代には、自民党の[[金丸信]]国対委員長とのパイプを築いた。金丸との盟友関係は金丸の死去まで続き、互いに「マムシとナマズ」と呼び合うほどだった。後に金丸が不正蓄財問題で失脚した後、金丸と仲の良かった田辺もダーティーなイメージで見られたが、側近の船橋成幸は、「田辺の私生活は清潔であった」と著書の中で述べている。（船橋成幸『＜証言＞戦後半世紀の政治過程-混迷のいま、21世紀へのメッセージ-』明石書店、2001年、126～131ページ）自民党の実力者との交流は、社会党関係者や市民運動家の要求を通しやすくするためにおこなわれていた側面もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1981年]][[1月]]、旧水曜会を中心に右派既成派閥「[[政権構想研究会]]」結成に参加し、会長に[[武藤山治]]政審会長を据えた。しかし、同年11月の社会党委員長選で自派の武藤政審会長が[[飛鳥田一雄]]委員長に大敗し、国対委員長を退任した。[[1982年]][[7月]]、平林剛書記長の急死で書記長代行に就任。さらに、[[1983年]]7月には、[[石橋政嗣]]委員長の下で書記長に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1986年]]7月、衆参同日選で、社会党が大敗すると石橋委員長の辞任に合わせて、書記長を辞任した。[[1989年]]、土井たか子委員長の下で、副委員長に就任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年、統一地方選挙では敗北の責任をとって土井委員長が辞任すると、後任の委員長に就任した。[[河上丈太郎]]委員長以来、26年ぶりの右派出身の委員長であり、自民党や中道政党とも太いパイプを持つ田邊は、社会党を政権交代可能な政党へと脱皮させる人物としてマスコミなどから期待された。田邊もそれに応えるように、[[影の内閣]]（[[社会党シャドーキャビネット]]）を党内に設置するなど、政権交代を視野にいれた路線を打ち出した。しかし、委員長選挙で左派が推す[[上田哲]]との得票差がわずか1万票に過ぎなかったことは、田邊の党内支持基盤が脆弱であることを党の内外に露呈した。田邊自身も必要以上に左派に気を使うようになり、思ったような党内運営は出来なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1992年]]、通常国会で田邊委員長は、[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|PKO法案]]に対し、当初は自衛隊とは別組織にする条件で妥協する予定だった。しかし、自民・[[公明党|公明]]・[[民社党|民社]]の三党が約束を反故にしたなどの理由で、社民連、連合参議院、共産党と共に[[牛歩戦術]]や社会党衆議院議員総辞職で反対姿勢を示した。党内基盤の弱い田邊は徹底抗戦を訴える左派を説得することは出来ず、また左派も田邊と自民党とのパイプをはなから期待して、事態の収拾に動こうとはしなかった。PKO関連法案は、自民・公明・民社の自公民協力体制で成立。7月の参院選では、PKO法案に強硬に反対しながら、同法案に賛同した公明党、民社党と選挙協力するという一貫性のない対応が仇となり敗北した。党内で参院選の敗北の責任を問う声が高まったことや、田邊の盟友の金丸が失脚したことで、政治家としての田邊のイメージも悪化したことから、[[1993年]]1月、[[山花貞夫]]書記長を後継の委員長に指名して、委員長を辞任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1993年、[[細川護熙]]連立政権が誕生すると、[[日本労働組合総連合会|連合]]の[[山岸章]]会長は田邊を衆議院議長に推したが、[[新生党]]の[[小沢一郎]]らは左派の発言力封じのために土井を議長に推し、田邊議長は実現しなかった。それでも、田邊は右派の中心人物として新生党らとの非自民連立政権維持を説いてまわった。そのため、自民党との連立を選んだ[[村山富市]]内閣とは距離を置き、[[1996年]][[9月]]には社会党の後身である[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]を離党し、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]設立委員会に参加した。1996年総選挙には立候補せず、政界引退。[[2005年]]2月に民主党群馬県連常任顧問に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は父から受け継いだ老人ホームの経営に専念している&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|date=2009-7-26&lt;br /&gt;
|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090726/stt0907261801003-n2.htm&lt;br /&gt;
|title=【政治部デスクの斜め書き】民主・鳩山代表は自民党を愛している?（2/5ページ）&lt;br /&gt;
|accessdate=7月27日&lt;br /&gt;
|accessyear=2009年&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、田邊は[[1990年]]に金丸信と共に[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を訪問し、[[金日成]]国家主席・[[朝鮮労働党]]総書記と会談するなど、北朝鮮との交流に熱心であったことが知られている。しかし北朝鮮による日本人拉致発覚後は、北朝鮮側に対し自分をだましていたことを抗議し、関係を絶っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===南京大虐殺紀念館の建設要請===&lt;br /&gt;
[[浜田幸一]]によると田邊が1980年代に[[南京市]]を訪れた際に[[南京大虐殺紀念館]]を建設するよう求めたという。浜田はこの要請や[[総評]]から南京市への3000万円の寄付によって同紀念館が建設されたと語っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[浜田幸一]]『[[日本をダメにした九人の政治家]]』[[講談社]] 1993年 ISBN 406206779X&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*田邊誠『敬神愛人-田邊熊蔵の生涯』[[日本評論社]]、1984年。ISBN 4535575231&lt;br /&gt;
*田邊誠『愛と知と力の政治』日本評論社、1988年。ISBN 453557765X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本社会党]]&lt;br /&gt;
*[[日本社会党委員長]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www12.wind.ne.jp/minsyu-g/index.html 民主党群馬県連]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{start box}}&lt;br /&gt;
{{s-ppo}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[日本社会党委員長]]&lt;br /&gt;
| before = [[土井たか子]]&lt;br /&gt;
| years  = 第11代 : 1991年 - 1993年&lt;br /&gt;
| after  = [[山花貞夫]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[日本社会党|日本社会党書記長]]&lt;br /&gt;
| before = [[平林剛]]&lt;br /&gt;
| years  = 第10代 : 1983年 - 1986年&lt;br /&gt;
| after  = [[山口鶴男]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{end box}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たなへ まこと}}&lt;br /&gt;
[[Category:衆議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:群馬県の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:群馬県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本社会党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:社会民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:民主党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1922年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2015年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

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		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E9%81%A0%E8%97%A4%E8%A6%81&amp;diff=396235</id>
		<title>遠藤要</title>
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				<updated>2022-01-04T14:15:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''遠藤 要'''（えんどう かなめ、[[1915年]][[10月31日]] - [[2010年]][[6月20日]]）は、[[日本]]の[[政治家]]。  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[参議院議員]]（4期）。[[法務大臣]]（[[第3次中曽根内閣]]）、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[参議院自由民主党|参議院議員総会長]]を歴任。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[宮城県]][[白石市]]白石[[高等小学校]]を卒業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1947年]]（昭和22年）、 宮城県議会議員選挙に立候補し初当選（以後、当選回数7回）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1971年]]（昭和46年）、 宮城県議会議長に選出される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1974年]]（昭和49年）7月7日、 [[第10回参議院議員通常選挙]]に自民党公認で立候補し初当選（以後、当選回数4回）。自民党では、[[田中角栄|田中派]]、竹下派（[[平成研究会|経世会]]）を経て、小渕派（平成研究会）に所属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1986年]]（昭和61年）7月22日、 [[第3次中曽根内閣]]の法務大臣に就任。しかしながら、同月6日の[[第14回参議院議員通常選挙]]（衆参同日選挙）で運動員の中から大量の選挙違反を出していたため、法相就任が適切か問題になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年（平成7年）から1996年（平成8年）にかけて[[参議院自由民主党|自民党参議院議員総会長]]を務めるなど参議院竹下派（参経会）の実力者であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1998年]]（平成10年）7月12日、 [[第18回参議院議員通常選挙]]で落選し、政界引退。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1999年]]（平成11年）、 [[勲一等旭日大綬章]]受章。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 最後の「[[帝銀事件]]死刑確定者の執行権限者」 ==&lt;br /&gt;
[[刑事事件]]で[[死刑]]が確定した場合、死刑囚の命は[[法務大臣]]が握っている。遠藤要[[法相]]は、[[1955年]]に死刑が確定した帝銀事件の[[平沢貞通]]に対して死刑執行権限を行使しなかった最後の法務大臣となった。彼の在任中、平沢貞通が老衰で死亡したためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{start box}}&lt;br /&gt;
{{s-off}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = {{Flagicon|日本}} [[法務大臣]]&lt;br /&gt;
| before = [[鈴木省吾 (政治家)|鈴木省吾]]&lt;br /&gt;
| years  = 第45代：1986年 - 1987年&lt;br /&gt;
| after  = [[林田悠紀夫]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{s-ppo}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[参議院議員団|自由民主党参議院議員総会長]]&lt;br /&gt;
| before = [[斎藤十朗]]&lt;br /&gt;
| years  = 第19代 : 1995年 - 1996年&lt;br /&gt;
| after  = [[坂野重信]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{end box}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:えんとう かなめ}}&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:参議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の閣僚経験者]]&lt;br /&gt;
[[Category:宮城県の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:1915年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2010年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E5%A0%80%E5%86%85%E5%85%89%E9%9B%84&amp;diff=396234</id>
		<title>堀内光雄</title>
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				<updated>2022-01-04T14:05:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''堀内 光雄'''（ほりうち みつお、[[1930年]][[1月1日]] - [[2016年]][[5月17日]]）は、[[日本]]の[[政治家]]、[[実業家]]。[[自由民主党]]前[[衆議院議員]]。[[富士急行]][[株式会社]][[会長]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[山梨県]][[御坂町]]出身。[[山梨県立甲府第一高等学校]]、[[慶應義塾大学]][[経済学部]]卒。富士急行オーナー一族の出身で、祖父、父ともに衆議院議員。[[1962年]]、富士急行社長に就任。学究肌の経営者として知られ、『生産性の測定と適正分配』（[[1961年]][[ダイヤモンド社]]刊）他複数の著書がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一地方私鉄に過ぎなかった富士山麓電気鉄道（通称・麓鉄）を富士急行（通称・富士急）に躍進させた第一人者。富士山麓電鉄入社後、東京都内の観光バス営業所に勤務。ここでの修行体験が後年同社を観光事業を中心として再建するのに役立ったとされる。また、現在の[[富士急行#バス|富士急バス]]のカラーリング（緑色をベースとした物）も彼が考案したものである。この他、富士急社長時代には富士急ハイランドや日本ランドなどの観光事業や各種事業に注力し、父・堀内一雄と東急総帥の[[五島慶太]]との関係からともすると[[東京急行電鉄]]の傍系とみなされていた同社を自立させ、一代で現在の富士急グループを形成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1976年]]に衆議院議員初当選。[[1989年]]の[[宇野宗佑内閣]]で[[労働大臣]]として初入閣を果たすが、[[1990年]]の[[第39回衆議院議員総選挙]]では落選。[[1993年]]の総選挙で返り咲いた後は[[1997年]]に[[第2次橋本内閣改造内閣]]で[[通商産業省|通商産業大臣]]に就任。通産大臣時代、[[石油公団]]について事務方が用意した答弁書の内容に疑問を持ったことから、同公団関連企業112社についての膨大な資料を独力で精査する。その結果、公団の[[不良債権]]が1兆3,000億円にも膨れ上がっていたことを暴き出し、退任後の[[1998年]]、「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」誌[[1998年]][[11月]]号に掲載の論文『通産省の恥部 石油公団を告発する』で実態を世に問う。その結果、[[2002年]]に「[[石油公団]]廃止法」が成立される運びとなり、同公団は[[2005年]][[3月]]をもって解散された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]][[11月]]の[[加藤の乱]]で[[加藤派]]から分離、翌年[[堀内派]]を結成し、会長となる。[[2001年]][[4月]]から[[2004年]][[9月]]まで小泉政権下で党[[総務会長]]を務め、[[小泉改革]]に反対するベテラン議員が多い中で、基本的には一貫して小泉を支援した。2003年の自民党総裁選では[[野中広務]]や[[古賀誠]]らに反小泉派の統一候補として出馬を要請されるが固辞する。しかし、総務会長退任後は一転して反小泉色を鮮明にする。これは、派を挙げて小泉政権に協力したのに、[[内閣改造]]などで堀内派が反主流派並の冷遇を受けたからだと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[郵政民営化]]法案の衆議院本会議採決では、採決当日に派閥会長を辞任して反対票を投じた。このため、[[第44回衆議院議員総選挙]]では自民党公認を得られず、無所属で出馬。自民党公認の[[長崎幸太郎]]候補らを破り10回目の当選を果たすも、当選後の[[特別国会]]では、再提出された郵政法案に一転して賛成票を投じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]][[8月22日]]に慶應義塾大学OBの親睦という名目で、[[民主党代表]]の[[小沢一郎]]と[[国民新党]]代表の[[綿貫民輔]]とゴルフをするなど、非自民色を強めていると見られた。しかし、10月に入ってからは復党の流れが強まった（[[郵政造反組復党問題]]）。[[11月27日]]には、自民党に「復党願」と「誓約書」を提出。[[11月28日|翌28日]]には[[記者会見]]を行い、「迎えてくれるのならありがたい」「私は[[郵政民営化|法案]]には反対したが、民営化自体には賛成」と語り、復党の理由などを国民へ説明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]][[12月4日]]、造反議員11人の復党が[[党紀委員会]]にて全会一致で認められ、自民党に復帰。[[12月15日]]、[[古賀派]]（旧堀内派）に名誉顧問として再入会。翌年[[9月26日]]、同派名誉会長に就任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2008年]][[6月16日]]に自民党党本部は堀内を公認することを内定した。対立する長崎幸太郎には、比例一位の待遇が用意されたものの、長崎は無所属で出馬する旨を表明、[[麻生太郎|麻生首相]]が[[衆議院解散]]・[[総選挙]]の日程を予告した[[2009年]][[7月13日]]に、自民党に離党届を提出し、17日に了承された。[[7月18日]]には、長崎を支持する地元[[町議会議員|町議]]ほか党員3648人が集団離党したと報じられたが、水増しであり、自民党山梨県連は、実際の党員は415人で、その中でも故人の場合や本人の承諾がない場合もあることを明らかにしている。その後[[8月11日]]、長崎が保守系・反小泉・反郵政[[無所属]]の政治家により構成される[[平沼グループ]]に参加し、グループ代表の[[平沼赳夫]]が求めていた郵政民営化を見直す方針の受け入れを表明したため、[[小泉チルドレン]]の刺客として反小泉・反郵政の堀内に敵対した前回選挙と図式が逆転している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年8月30日に行われた[[第45回衆議院議員総選挙]]では[[山梨県建設業協会]]の支援を受けて選挙活動をしていたが、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]新人の[[坂口岳洋]]に敗れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物像 ==&lt;br /&gt;
*タバコ嫌いで有名である。&lt;br /&gt;
*[[2006年]]4月の衆議院議員千葉7区補欠選挙の際、候補者の[[斎藤健]]の応援演説に立った[[武部勤]]が放った「最初はグー、斎藤健」のキャッチフレーズを皮肉り、[[三宅久之]]が「最初はグー、武部はパー」と揶揄したが、このジョークを三宅に伝授したのは堀内であると言われる（但し同様のジョークは[[舛添要一]]や[[鴻池祥肇]]も口にしている）。&lt;br /&gt;
*[[餡|あんこ]]系の甘いものに目がない。[[あんパン]]などを愛食している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 議員連盟 ==&lt;br /&gt;
*[[中部横断自動車道]]建設推進議員連盟会長 &lt;br /&gt;
*[[リニア中央新幹線]]建設促進議員連盟会長&lt;br /&gt;
*リニア中央新幹線建設促進国会議員連盟会長 &lt;br /&gt;
*[[司法書士]]制度推進議員連盟会長 &lt;br /&gt;
*[[大深度地下]]利用国会議員連盟会長 &lt;br /&gt;
*[[医療心理師]][[国家資格]]を実現する国会議員の会会長 &lt;br /&gt;
*[[日韓議員連盟]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族・親族 ==&lt;br /&gt;
*妻　英子（旧陸軍中佐で[[石川県]]の政治家・[[辻政信]]の長女）&lt;br /&gt;
*長男　[[堀内光一郎|光一郎]](現富士急行社長)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*堀内氏　[[清和源氏]]義光流、[[逸見氏]]堀内家の[[嫡流]]である。先祖は[[武田信玄]]の臣下で、[[若狭守]]、[[佐渡守]]を冠していた。&lt;br /&gt;
*また、[[甲斐国志]]において、堀内家は代々黒駒の名主を務め、藤右衛門を名乗った、と記されている。&lt;br /&gt;
*[[日蓮]]が堀内家の先祖の家に宿泊したことがあり、その縁で[[身延山久遠寺]]との関わりが深く、祖父･良平の代から[[信徒総代]]を勤めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
良平━┳一雄━┳和子&lt;br /&gt;
　　　┣義男　┣英子&lt;br /&gt;
　　　┗正夫　┗光雄━┳光一郎&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　┗祐子&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
*『設備投資の合理的方法』（[[1958年]]）[[ダイヤモンド社]]&lt;br /&gt;
*『例解経営分析実務』（[[1959年]]）[[中央経済社]]&lt;br /&gt;
*『生産性の測定と適正分配』（[[1961年]]）ダイヤモンド社&lt;br /&gt;
*『人間の価値計算』（[[1964年]]）ダイヤモンド社&lt;br /&gt;
*『自民党は殺された』（[[2006年]]）ワック社 ISBN 4898310923&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.genkihoriuchi.jp/ 堀内光雄オフィシャルサイト]&lt;br /&gt;
*[http://www.fujikyu.co.jp/ 富士急行]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ほりうち みつお}}&lt;br /&gt;
[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の閣僚経験者]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党の衆議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:山梨県選出の衆議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の実業家]]&lt;br /&gt;
[[Category:富士急行の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:神道政治連盟の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本会議の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:山梨県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1930年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2016年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E9%87%91%E6%AD%A3%E6%97%A5&amp;diff=396233</id>
		<title>金正日</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E9%87%91%E6%AD%A3%E6%97%A5&amp;diff=396233"/>
				<updated>2022-01-04T13:44:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{労働新聞}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--{{大統領&lt;br /&gt;
| 人名 = 金正日&lt;br /&gt;
| 各国語表記 = {{Lang|ko|김정일}}&lt;br /&gt;
| 画像 = Kim Jong-Il.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =150px&lt;br /&gt;
| キャプション = &lt;br /&gt;
| 国名 = {{PRK2}}&lt;br /&gt;
| 代数 = 第2&lt;br /&gt;
| 職名 = 最高指導者&lt;br /&gt;
| 就任日 = [[1994年]][[7月8日]]&lt;br /&gt;
| 退任日 = &lt;br /&gt;
| 副大統領 = &lt;br /&gt;
| 元首 = &lt;br /&gt;
| 国名2 = {{PRK2}}&lt;br /&gt;
| 代数2 = 初&lt;br /&gt;
| 職名2 = [[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会|国防委員会委員長]]&lt;br /&gt;
| 就任日2 = [[1993年]][[4月9日]]&lt;br /&gt;
| 退任日2 = &lt;br /&gt;
| 副大統領2 = &lt;br /&gt;
| 元首2 = &lt;br /&gt;
| 国名3 = {{PRK2}}&lt;br /&gt;
| 代数3 = 第2&lt;br /&gt;
| 職名3 = [[朝鮮人民軍]]最高司令官&lt;br /&gt;
| 就任日3 = [[1991年]][[12月24日]]&lt;br /&gt;
| 退任日3 = &lt;br /&gt;
| 副大統領3 = &lt;br /&gt;
| 元首3 = &lt;br /&gt;
| 国名4 = [[画像:Flag of the Workers' Party of Korea.svg|25px]] [[朝鮮労働党]]&lt;br /&gt;
| 代数4 = 第2&lt;br /&gt;
| 職名4 = 中央委員会[[総書記]]&lt;br /&gt;
| 就任日4 = [[1997年]][[10月8日]]&lt;br /&gt;
| 退任日4 = &lt;br /&gt;
| 副大統領4 = &lt;br /&gt;
| 元首4 = &lt;br /&gt;
| 国名5 = &lt;br /&gt;
| 代数5 = &lt;br /&gt;
| 職名5 = &lt;br /&gt;
| 就任日5 = &lt;br /&gt;
| 退任日5 = &lt;br /&gt;
| 副大統領5 = &lt;br /&gt;
| 元首5 = &lt;br /&gt;
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1941|2|16}}&amp;lt;ref&amp;gt;[[1942年]]説もあり&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 生地 = [[ソビエト連邦|ソ連]]国内の軍事教練キャンプ&lt;br /&gt;
| 死亡日 = [[2011年]][[12月17日]] &lt;br /&gt;
| 没地 = [[北朝鮮]]の列車内部&lt;br /&gt;
| 配偶者 = [[成恵琳]]、[[洪一茜]]、&amp;lt;br/&amp;gt;[[高英姫]]、[[金英淑]]、[[金玉 (秘書)|金玉]]&lt;br /&gt;
| 政党 = [[画像:Flag of the Workers' Party of Korea.svg|25px]] [[朝鮮労働党]]&lt;br /&gt;
| サイン = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{北朝鮮の事物&lt;br /&gt;
|title=金正日&lt;br /&gt;
|hangeul=김정일&lt;br /&gt;
|hanja=金正日&lt;br /&gt;
|hiragana=きん・しょうにち&lt;br /&gt;
|katakana=キム・ジョンイル&lt;br /&gt;
|alphabet-type=[[英語]]表記&lt;br /&gt;
|alphabet=Kim Jong-il}}--&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''金 正日'''（キム・ジョンイル、[[1941年]]&amp;lt;ref&amp;gt;[[北朝鮮]]側の発表では1942年生。&amp;lt;/ref&amp;gt;[[2月16日]] - [[2011年]][[12月17日]]）は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]（北朝鮮）の[[政治家]]、[[軍人]]。[[朝鮮労働党]]中央委員会[[総書記]]、[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会]]委員長、[[朝鮮人民軍]]最高司令官。[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]][[金日成]]の嫡男であり、金日成が死去して以降、北朝鮮の最高指導者でありつづけている。&amp;lt;!--（事実上の[[独裁者]]とも言われている。）独裁者と断言されているかわからないと言われるかのどちらかでは？--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[称号]]は[[英雄称号|朝鮮民主主義人民共和国共和国英雄]]（三回受称しており「三重英雄」と称される）&amp;lt;ref&amp;gt;[[1975年]][[2月24日]]・[[1977年]]2月・[[1982年]][[2月15日]]の3回。なお、1度目の授与は当初2月15日に予定されていたが、その時点では辞退している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;!--1980年代以降、日本政府は呼称の相互主義に基づき、ハングル（チョソングル）の発音に準じ「キム・ジョンイル」と発音。日本マスコミ各社もそれに倣っている。血液型はA型。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴 ==&lt;br /&gt;
=== 出生 ===&lt;br /&gt;
[[ソビエト連邦|ソ連]][[極東|極東地方]]（[[ハバロフスク]]郊外）に生まれたといわれ、幼名は有羅（ユーラ）&amp;lt;ref&amp;gt;フルネームは「ユーリ・イルセノビッチ・キム（Yuri Ilsenovich Kim）」。「ユーラ（ユーリ）」はロシア人名「グリゴリー」の愛称と言われ、ソビエト連邦出生説の根拠ともなっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;というロシア風の名を号した。「ユーラ」から「ジョンイル」に変わったのは朝鮮半島の解放後の[[ソビエト連邦軍]]政期とする説、[[1960年]]夏頃とする説がある&amp;lt;ref&amp;gt;金正日の学友の一人だった人物の証言によれば、金正日は南山高級中学校（高級中学校は日本の高等学校に相当）卒業直前の1960年7月に「最近“キム・ジョンイル”の名前で公民証が発給されたので、今後は“ユーラ”でなく“ジョンイル”と呼んでほしい」と語ったといわれる（韓国・[[中央日報|中央日報社]]編『金正日・衝撃の実像』[[徳間書店]] 1994年9月 ISBN 9784198601614）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1980年]]の第6回党大会にて金正日という表記が確認された。&amp;lt;!--また、「正日」は父である金日成、[[金正淑]]から一文字づつ取り、ほかの兄弟たちとの差別化を図ったと考えられている。ほかの兄弟はみな「日」ではなく「一」の字を使った。（←ノートを反映して、とりあえずコメントアウト--&amp;gt;また、「キムジョンイル」の名が公式文書に登場した当初、日本では“'''金正一'''”の字があてられていた&amp;lt;ref&amp;gt;日本のマスコミで金正日について始めて報道したのは[[毎日新聞]]（[[1974年]][[11月19日]]付）。金正日は「金正一」と表記されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;（当時、朝鮮人が父母の名から字を取ることは稀であり、[[人名#韓国人・朝鮮人の名前|朝鮮の伝統的な命名ルール]]ではあり得ないこととされている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 出生地について ====&lt;br /&gt;
金正日は、[[1941年]][[2月16日]]ソビエト連邦の[[極東連邦管区|極東地方]]の軍事教練キャンプで生まれた。正確な出生地については[[ハバロフスク]]近郊の[[ビャックエ]]にある北野営、[[ウラジオストク]]近郊の[[オケアンスカヤ]]にある南野営、[[ウラジオストク]]市内の病院といった諸説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
但し[[北朝鮮]]側の発表では金日成、金正日を神格化する意図から、「[[1942年]][[2月16日]]に[[白頭山]]で誕生した」と宣伝されている。[[1982年]][[2月15日]]、[[中央人民委員会]]より「白頭山密営にて誕生」という公式発表がおこなわれ&amp;lt;ref&amp;gt;『労働新聞』1982年2月15日付『金正日同志に朝鮮民主主義人民共和国英雄称号を授与することについて』&amp;lt;/ref&amp;gt;、“白頭山密営”は「革命の聖地」とされた。[[1987年]][[2月]]には密営の建物（丸太小屋）が建設された。北朝鮮では2010年現在も、この密営に“巡礼”することが全国民の義務とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幼年期 ===&lt;br /&gt;
[[1945年]][[11月25日]]、父・金日成の側近の1人である[[趙明禄]]の護衛により&amp;lt;ref&amp;gt;『北朝鮮解体新書』p.33&amp;lt;/ref&amp;gt;、母・[[金正淑]]、弟・修羅（[[金万一]]）とともにソ連から海路で朝鮮に帰国。[[羅先直轄市|雄基港]]に上陸&amp;lt;ref&amp;gt;金正日はこの時のことを記憶しており「雄基港の灯台について深い印象が残っている」と語っている（[[張明秀]]『裏切られた楽土』 [[講談社]] 1991年8月 ISBN 4062050749）&amp;lt;/ref&amp;gt;後、[[清津市|清津]]を経由して[[平壌]]に移動し、先に帰国していた父のもとに落ち着いた。[[1946年]]に妹・[[金敬姫]]が生まれたが、[[1947年]]に弟を事故で、[[1949年]]には母を[[前置胎盤]]でそれぞれ亡くしている。幼年期は内向的な性格だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[朝鮮戦争]]開始後の[[1950年]]9月中旬、[[朝鮮人民軍|北朝鮮軍]]の形勢が不利になると、曽祖父母や妹と共に平壌から[[慈江道]]長江郡に疎開するが、[[国連軍]]が北上し中朝国境付近に迫ると、[[満浦市|満浦]]経由で[[中華人民共和国|中国]]に脱出、[[吉林市]]内の学校に通学した。[[1952年]]11月下旬、父の指示により北朝鮮に帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;『北朝鮮解体新書』p.142&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 青少年期 ===&lt;br /&gt;
現在ロシア在住の当時の同級生によると、仲間と一緒に様々な学校でのイベントを主催したり、家でパーティーを開くなど、幼少期に内向的だった性格は次第に社交的になっていったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平壌第一初級中学校、南山高級中学校（現在の平壌第1高等中学校）卒業後、1960年[[9月1日]]に[[金日成総合大学]][[経済学部]][[政治経済学科]]に入学&amp;lt;ref&amp;gt;当時の北朝鮮では9月に入学・進学がおこなわれていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1964年]][[3月30日]]に[[卒業]]&amp;lt;ref&amp;gt;卒業論文は『社会主義建設における郡の位置と役割』（実際の作成者は大学の指導教授だった黄長燁）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[朝鮮労働党]]中央委員会に入り、文化芸術部や組織指導部で働く。北朝鮮独自の立場とされている[[主体思想]]の思想整備を担当した[[黄長ヨプ|黄長燁]]に師事していたこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 権力の掌握 ===&lt;br /&gt;
[[1974年]][[2月13日]]の朝鮮労働党中央委員会第5期第8回総会において、政治委員会委員（現：政治局委員）に選出され、翌[[2月14日]]には、金日成の後継者として「推戴」された&amp;lt;ref&amp;gt;既に[[1972年]][[12月22日]]の朝鮮労働党中央委員会第5期第6回総会において金正日を「唯一後継者」とする秘密決定がおこなわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし対外的には発表されず、金正日は「党中央」としてのみ言及された&amp;lt;ref&amp;gt;金元祚『凍土の共和国』p344。「党中央」の表記が最初に登場したのは『[[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞]]』1974年2月14日付社説。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1980年]][[10月10日]]の朝鮮労働党中央委員会第6期第1回総会で党中央委員会書記に就任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後継者としての地位を確立する過程では、腹違いの弟[[金平一]]を推す義母[[金聖愛]]との間に激しい権力闘争があったと言われている&amp;lt;ref&amp;gt;李　友情著「金正日入門より」&amp;lt;/ref&amp;gt;。同じ時期に金日成を称える[[プロパガンダ]]が高まっていったことから、父・金日成の[[カリスマ]]化と忠誠合戦を仕掛けることが権力闘争を勝ち抜く彼の方策だったと推測されている。金日成派の独裁化に貢献したと思われることも含め、党内闘争に熟達し、情報統制に長けていると推測されている。これは彼が若い頃に映画局に勤め、父・金日成をカリスマ化するプロパガンダに関係した経験が生かされたと見られることが多い。実際に、[[テレビ]]映像やイベント関係の視覚効果などは自ら現場で綿密にチェックすると言われている{{誰}}。自らの肉声をほとんど流さないことでも有名で、南北首脳会談以前の肉声は[[1992年]][[4月25日]]に行われた朝鮮人民軍創建60周年の軍事パレードで発した「英雄的朝鮮人民軍将兵諸君に栄光あれ!」というわずか5秒間の音声が唯一であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
権力の世襲に対する批判に対しては、「金正日は金日成の息子だから後継者となったのではなく、もっとも優れた後継者がたまたま金日成の息子だった」、というのが公式の回答である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金日成以来、ソ連によって北朝鮮の政権中枢の役割を担わされた[[満州派]]（[[パルチザン]]派）が[[朝鮮人民軍]]を権力基盤としてきた一方で、金正日は党官僚の代表や行政官僚の利益代弁者として振舞ったと思われる時期があった。そのため、[[金日成]]死亡の少し前から朝鮮人民軍を掌握しようと腐心していたことが公式プロパガンダおよび人事配置からうかがえる。一方で、外交官経験者を比較的重用し始めていることも人事配置からうかがえる。これはソビエト連邦における[[ゴルバチョフ]]期のソ連・東欧と似た現象である。朝鮮労働党大会は[[1980年]]の第6回大会以来招集していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金正日は、[[1991年]][[12月24日]]、朝鮮人民軍最高司令官に「推戴」され、[[1993年]][[4月9日]]には国防委員会委員長に選出された。[[1972年]]に制定された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法（1972年憲法）では、軍の統帥権は国家主席にあり、朝鮮人民軍最高司令官と国防委員長は国家主席が兼務することが定められていたが、同憲法は[[1992年]]に改正され、軍の統帥権は国家主席から国防委員長に委譲された。これにより、金正日は軍の統帥権を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国家元首として ===&lt;br /&gt;
[[1994年]][[7月8日]]、金日成主席が死去。金正日は国家元首の地位を正式に継承はしなかったものの、この日より事実上の最高指導者として統治を開始した。[[1997年]][[10月8日]]、金日成の死によって空席となっていた[[朝鮮労働党]]中央委員会[[総書記]]に「推戴」され、[[1998年]]9月の[[最高人民会議]]第10期第1回会議において改めて[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会|国防委員会]]委員長に選出された。同会議において、国防委員長は「国家の最高職責」とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]]6月には[[太陽政策]]を取る[[大韓民国|韓国]]の[[金大中]][[大統領]]を平壌に迎え、[[南北首脳会談]]を行う。会談の結果、[[南北共同宣言]]が発表された。その直前に[[現代グループ]]が北朝鮮へ違法な送金を行ったことを黙認しており、会談はこの見返りだったと言われている{{誰}}。以後、民間レベルでの交流事業が本格化し、日本やアメリカも国交正常化交渉へ乗り出す情勢ができた。[[2000年]]に[[南北首脳会談]]を行ってから、[[2001年]]にかけ[[イタリア]]、[[イギリス]]、[[カナダ]]等西側諸国との[[国交]]を樹立し、徐々に開放政策へと舵を切り始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2001年9月の[[アメリカ同時多発テロ事件]]を境に、2002年にはアメリカの[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]大統領が、北朝鮮、[[イラン]]、[[イラク]]の3ヶ国をテロ支援国家であるとし、「[[悪の枢軸]] (axis of evil)」と呼んで批判するなどの北朝鮮敵視政策が国際的緊張を生んだ。アメリカとの緊張関係は和らぐことなく、「[[先軍政治]]」を掲げ、要求が受け入れられないと交渉決裂や武力衝突を辞さない態度をちらつかせるいわゆる“瀬戸際外交”を展開している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2002年9月17日、[[小泉純一郎]]首相との[[日朝首脳会談]]の席で金正日は日本人13人を拉致したことを認め、口頭で謝罪した。犯人については、「特殊機関の一部の盲動主義者らが、英雄主義に走ってかかる行為を行ってきたと考えている」とし、関係者はすべて処罰したと述べた。また、2国間の懸案の解決し、国交正常化へ努力することを記した「[[日朝平壌宣言]]」を発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2003年、[[イラク戦争]]の最中には密かに[[中華人民共和国]]の[[北京市|北京]]を訪問していたという（「[[ストラトフォー|STRATFOR]]」報道、2003年4月11日付＝共同通信配信）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2004年]][[9月1日]]に[[高英姫]]夫人の死亡が報道された。高英姫は[[在日朝鮮人の帰還事業|帰国事業]]で家族と共に北朝鮮に渡った[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]二世である。このため日本では、金正日との間の次男・[[金正哲]]が三代目後継者として浮上し、労働党創建60周年に合わせ後継者に内定されたとの観測が出た。このように日本と韓国のメディアは北朝鮮が最高指導者の世襲後継を慣習化するだろうと前提して後継者が誰なのかについてしばしば話題にしているが、実際には金正日が後継者となった経緯さえ不明であり、世襲は再度可能なのかどうか、不可能だとすればそれにあえて挑戦するかなど様々な憶測がある（「[[金日成#後継者|後継者]]」の節参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]][[7月16日]]には北朝鮮の[[ミサイル]]発射をきっかけに&amp;lt;!--非難の対象はミサイルだけ?--&amp;gt;国連・安保理の全会一致で非難決議がなされた。また、2006年[[7月23日]]には女性秘書の[[金玉 (秘書)|金玉]]を事実上の夫人とし、一緒に生活している事を報じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]には、 アメリカの『[[タイム (雑誌)|TIME]]』誌に「2006年の主要人物26人」の1人に選ばれ、「金総書記は7月4日にミサイルを連射、米ホワイトハウスで開かれた[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]大統領の独立記念日パーティーをメチャクチャにし、10月には世界で最も排他的かつ危険な核クラブの首長になった」と紹介された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]][[4月9日]]に開かれた最高人民会議で国防委員長に再任され、政権は3期目に突入した。なお、同月の憲法改正により、国防委員長は北朝鮮の最高指導者として位置づけられた&amp;lt;ref&amp;gt;「最高指導者は国防委員長――北朝鮮、改正憲法に明記」『[[産経新聞]]』[[2009年]][[9月26日]]付朝刊。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2010年]][[2月1日]]、金正日の「私は、人民が未だ[[トウモロコシ]]の飯を食べていることに最も胸が痛む。いま私が行うべきことは、この世で一番立派なわが人民に白米を食べさせ、パンやめん類を十分に食べさせること」という談話が[[労働新聞]]に掲載された。2009年末に行われた[[デノミ]]が失敗し、その結果としての餓死や治安部隊との小競り合いが頻繁に発生しているという情報が日韓にも入ってきている。金正日自身の健康問題も絡み、いわば今の北朝鮮は「崖っぷち」の状態であると分析するメディアもある&amp;lt;ref&amp;gt;{{citenews|url=http://sankei.jp.msn.com/world/korea/100206/kor1002060702001-n1.htm|title=【朝鮮半島ウォッチ】金正日総書記「崖っぷち」の68歳誕生日|publisher=産経新聞|date=2010-2-6|accssesdate=2010-2-6}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年5月、[[中華人民共和国|中国]]を訪問した。金正日は[[六者会合]]の再開に前向きな姿勢を示し、中国側は「中朝の友情を時代と共に前進、発展させる」という発言をした。これは[[中国共産党]]内では関係見直しを意味する決まり文句であり、度重なる北朝鮮の独断での強硬行為に中国側は不信感を募らせていると見られ、距離を置かれる形となった&amp;lt;ref&amp;gt;{{citenews|url=http://mainichi.jp/select/world/news/20100508k0000m030062000c.html|title=金総書記：６カ国再開に前向き「条件作りたい」|publisher=毎日新聞|date=2010-5-7|accessdate=2010-5-8}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、金正日が要望した大規模な経済支援も[[温家宝]]国務院総理に拒否され、金正日がその後の予定を切り上げて早く帰国したという事実も判明、いわば、友人であった中国にも見捨てられた格好となった&amp;lt;ref&amp;gt;{{citenews|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100517-OYT1T00830.htm|title=中国、金総書記の大規模支援要請断っていた|publisher=読売新聞|date=2010-5-17|accessdate=2010-5-18}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 健康と後継問題 ==&lt;br /&gt;
元専属料理人の[[藤本健二]]や脱北者から伝わってくる贅沢な生活ぶりと体型の変化から、[[生活習慣病]]説や健康悪化説がメディアで流れることがある。実際、ドイツの医療チームに心臓の手術を受けたという情報や&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/article/20070705000004 金総書記、髪が抜けウエストほっそり] Chosun online 2007年7月5日&amp;lt;/ref&amp;gt;、心臓の他、[[糖尿病]]、[[肝臓病]]、糖尿合併症による[[腎臓病]]も患っており&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/article/20060207000028 金正日総書記、糖尿病・腎不全か] Chosun online 2006年2月7日&amp;lt;/ref&amp;gt;、短い時間でも立つのが困難という&amp;lt;ref name=&amp;quot;jeonsiku&amp;quot;&amp;gt;『朝鮮半島最後の陰謀』 李鍾植, [[幻冬舎]] ISBN 978-4344013230&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
韓国の聯合通信TVニュース（YTN）は2009年7月13日、すい臓がんである事を報道した。すい臓がんの再発率は非常に高く、すい臓がんをすべて摘出する場合、体内でインシュリンを作れなくなってしまうので、すい臓を摘出した後は糖尿病になる。&lt;br /&gt;
[[2008年]]秋に入ると、[[2008年]][[9月9日]]に行われた建国60周年記念の軍事パレードに出席しなかったこと、当初建国以来最大規模とも伝えられていた軍事パレードが、[[労農赤衛隊]]などの民兵のみのパレードにとどまったこと、その他動静の報道が一時途絶えたことから金正日の重病説が広く報道された。例として、&lt;br /&gt;
* 8月に[[脳卒中]]で倒れ、半身不随になった。&lt;br /&gt;
* 金正日は脳卒中で倒れた後、2008年9月現在も四肢に障害が残っている状態であり、回復には相当な期間の静養とリハビリが必要。&lt;br /&gt;
といったものがある。&lt;br /&gt;
しかし、あくまでも説なので、信憑性は低いとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに先立ち8月に[[重村智計]]が死亡説・影武者説を提起している&amp;lt;ref&amp;gt;参考文献、重村による。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]]1月、後継体制について未確認情報がいくつか報道された。&lt;br /&gt;
* 長男の[[金正男]]を形式的な元首とし、[[張成沢]]を中心に[[朝鮮労働党]]、[[朝鮮人民軍]]による集団指導体制を準備しているとのことである&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090114-OYT1T00040.htm&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 金正日が三男の[[金正雲|金正銀]]を後継に指名したようだ（韓国－[[聯合ニュース]]、[[2009年]][[1月15日]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年9月、代行と言う形で権力を握っているのは義弟で[[外戚]]の[[張成沢]]であるが、後継の政治指導体制がどのようになるのか（3代にわたる世襲か、軍部による集団指導体制か、あるいは[[朝鮮労働党]]の実力者が権力を握るのか）という話題に関心が集まっている。重病説を受けて、米韓では金正日体制崩壊後の軍事対応策である「[[概念計画5029]]」の作戦計画への格上げが検討され、また、米中間では非公式に金正日体制崩壊後についての協議が行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月、北朝鮮が金正日の写真を公開したが、以前とは別人のように痩せている&amp;lt;ref&amp;gt;http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090325/kor0903251846006-n1.htm&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年4月9日、開催された最高人民会議に出席した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年7月8日、開催された金日成主席の追悼大会に出席する様子がテレビで報道されたが、歩く際に脚を引きずり書類を閲覧する際に左手を使わなかったりと体調の衰えが目立っていた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090708-OYT1T01113.htm やつれ目立つ金総書記、足引きずり左手使わず] [[読売新聞]] [[2009年]][[7月8日]]付&amp;lt;/ref&amp;gt;。アメリカ政府当局者の話として、健康状態が悪化し余命一年であると伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090710-OYT1T00134.htm?from=main5 金正日総書記、余命1年の可能性…米紙報道] [[読売新聞]] [[2009年]][[7月10日]]付&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2010年]][[6月26日]]の[[朝鮮日報]]が、韓国情報院院長の話として、金総書記が、脳卒中の後遺症で記憶力が低下し痴呆症状が出ていると報じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物像 ==&lt;br /&gt;
国営の[[朝鮮中央放送]]で使われる[[金正日の呼称一覧|金正日の呼び名]]は100以上あると言われ、北朝鮮国内の[[メディア_(媒体)|メディア]]では、'''「百戦百勝の鋼鉄の霊将」などと賛美されるが、実際には実戦で指揮を執った経験はない。'''この称号は[[金日成]]を賛美する決まり文句が儀礼化したまま流用されたものと言われている。国民からは「将軍様(장군님:チャングンニム) 」と呼ばれ&amp;lt;ref&amp;gt;[[日本語]]では『将軍』に対しての敬称は『閣下』であるが、[[朝鮮語]]では上位者を呼ぶ際に社長様、先生様など肩書きの後に『様』をつける呼び方が一般的に用いられている。従って「将軍様」の厳密な訳はただの「将軍」である。同様の敬称として金日成に対する「首領様(수령님:スリョンニム)」などがある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、国内のあらゆる所にその肖像画が掛けられている。代表的な呼び名として「親愛なる指導者、金正日同志」があるが、二言目からは「金正日同志」「金正日総書記」と略される。また、朝鮮人民軍内部では「最高司令官同志」ともよばれる。その他、かつて使用されたものに「[[党中央]]」がある。「党中央」の語は一般的に党中央委員会のことと解釈される語であったため、「党中央」の語が金正日個人を指すと判明するまでに長い時間がかかった。また、北朝鮮の公式文献においても「党中央」の語が機関を指す語から次第に個人を指す語としての様相をみせるまで長い時間がかかっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の肩書は、国家においては共和国国防委員会委員長、共和国元帥、朝鮮人民軍最高司令官、最高人民会議代議員、党においては朝鮮労働党総書記、朝鮮労働党政治局常務委員、朝鮮労働党中央軍事委員、朝鮮労働党中央委員、朝鮮労働党政治局員であり、権力を一手に集めている。&lt;br /&gt;
呼称については国家における最も重要な役職である国防委員長（もしくは委員長）とするのが正式だが、日本のマスメディアだけ総書記としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[スラックス]]と[[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]]を愛用している。[[シークレットブーツ]]を履くという説もある。メディアでは[[サングラス]]を着用する姿がしばしば放映されている。外国の[[元首]]と会談する際は中華人民共和国の[[人民服]]に似た服を着用することもある。肖像画には軍服を着用している姿もあるが、実際に軍服姿で公の場に出たことはないようである。金日成は[[スーツ]]を着用することが多かったが、金正日がスーツを着用することはまずない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[テロリズム|テロ]]を恐れているためか、父・金日成と同様、[[飛行機]]嫌いであり、[[鉄道]]で繋がっている中華人民共和国や[[ロシア]]などの外国を訪問する時は専用の[[装甲列車]]&amp;lt;ref&amp;gt;列車はすべて爆弾に耐えられる仕様になっているという説もあるが、実際は金正日が搭乗する客車の床にだけ防弾鉄板が敷かれているともいわれる{{誰}}。『[[朝鮮日報]]』[http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/03/30/20050330000082.html 【金正日研究】鉄道好む金総書記 飛行機利用は65年のみ]&amp;lt;/ref&amp;gt;を使う（1965年、父金日成に随行した[[インドネシア]]訪問時では飛行機の利用が確認されている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[在日本朝鮮人総連合会|朝鮮総連]]の[[ウェブサイト]]には「名言録」や「逸話集」などを掲載した金正日総書記特集があり、そのなかでは金正日を偉人と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
統一教会（[[世界基督教統一神霊協会]]）の[[文鮮明]]と関係があるとされる。[[1992年]]に統一教会教祖の文鮮明と会談し、35億ドル（約4400億円）もの援助を約束され、経済協力の関係を築いた。[[1994年]]7月に父金日成が死去した直後には、文鮮明の側近の[[朴普煕]]と会談した。統一教会の幹部、[[朴相権]]が社長を務める韓国の「[[平和自動車]]」との合弁会社「平和自動車総会社」を設立して自国の南浦（ナンポ）工業団地で自動車生産を行なったり、国営の「[[普通江ホテル]]」の経営を統一教会関係者に行なわせている。[[2002年]]には、文鮮明の80歳を祝って、韓国の要人に対しては極めて異例と言える祝賀メッセージとプレゼントを贈った。このような北朝鮮とのパイプを作った統一教会は系列の「[[ワシントンタイムズ]]」社の[[朱東文]]（チュ・ドン厶ン）社長が[[2006年]]に訪米した[[山崎拓]]と面会し、翌[[2007年]]1月10日の山崎の訪朝のルートを用意したとも言われている{{誰}}。しかし、近年、北朝鮮当局は統一教会の幹部を[[スパイ]]容疑で逮捕してからは監視対象にしていると言われる&amp;lt;ref&amp;gt;有田芳生の『酔醒漫録』[http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2007/01/110_b856.html 山崎拓訪朝は統一教会ルートだった]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会員限定のPyongyang Golf Club（パー72、7700ヤード）のコースで、1ラウンドのうち合計11ホールでホールインワンを達成したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将来、北朝鮮の体制が崩壊し、仮に国外逃亡を余儀なくされても引き続き贅沢な暮らしを送れるよう、およそ3600億円の隠し資金をヨーロッパの銀行に保有していると言う。これらの資金は核やミサイル技術の売却などで得た資金であるとされる&amp;lt;ref&amp;gt;{{citenews|url=http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010031501000880.html|title=金総書記、欧州に逃亡資金 3600億円保有と英紙|publisher=[[47NEWS]]|date=2010-3-15|accessdate=2010-3-15}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 超能力 ===&lt;br /&gt;
北朝鮮の[[教科書]]や『[[白頭山]][[伝説]]集』において金日成とともに[[超能力]]が使えるとされており、[[地震]]を起こしたり[[日本地図]]を塗りつぶして日本に[[台風|大型台風]]を発生させることが出来るとされている。また「[[縮地法]]」で[[瞬間移動]]が出来るとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 趣味 ===&lt;br /&gt;
[[インターネット]]に熱心である。一日数時間、情報収集などに利用している。[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]に関しては[[Macintosh|Mac]]ユーザーであるとも言われている。{{要出典}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[平壌]]中心の高台に「国家映画文献庫」&amp;lt;ref&amp;gt;「国家映画文献庫」については外部リンク[http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/04/07/20050407000031.html 朝鮮日報Web日本語版2005年4月7日]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;という[[映画]]の文献庫を（事実上個人で）持ち、およそ2万巻のビデオテープを所有すると言われるほどの映画[[マニア]]。日本や欧米の映画などを多数鑑賞していると言われている{{誰}}。映画論についての自筆の著書もある。[[日本映画]]では『[[ゴジラ]]』の他、『[[男はつらいよ]]』のファンで、[[1985年]]には[[東宝]]の[[特撮]]スタッフを招いて『[[プルガサリ]]』という怪獣映画をプロデュースしたこともある。また、北朝鮮の映画産業のために韓国の映画監督・[[申相玉]]とその妻の[[女優]]を招き、上記・『プルガサリ』の制作に参加させたこともある。二人は後に再[[亡命]]した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スポーツは[[バスケットボール]]を好む。[[ダンス|舞踏]]鑑賞も多くの趣味のひとつ。[[WUSA]]のファンで、[[マデレーン・オルブライト]]からサッカーボールを贈与されたことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛車は[[メルセデス・ベンツ Sクラス]]であったが、2006年に[[フォルクスワーゲン・フェートン]]を所有した模様。なお、[[2000年代]]の初め頃まではアメリカ製の[[リンカーン (自動車)|リンカーン]]・タウンカーを20年以上公用車として使用していた。オートバイは[[ハーレーダビッドソン]]を所有。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北朝鮮メディアによれば、[[2006年]]には初めて[[ゴルフ]]を行い、18ホール中11ホールで[[ホールインワン]]を達成したという。他には高質の布を織ったり、オペラ曲を6曲作ったりしたことが報じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[食通|グルメ]]であり、[[フカヒレ]]料理や、日本食では[[寿司]]や[[すき焼き]]なども好物である。また、[[日清食品]]の[[カップラーメン]]である[[ラ王]]も好物である。日本人[[藤本健二]]を専属料理人として雇っていたこともある。食材は日本など外国から高級なものを取り寄せることも多いが、[[2006年]]10月15日に[[国際連合|国連]]で決定された北朝鮮への経済制裁にある贅沢品禁輸措置により入手の困難化が推測される。アメリカ合衆国は金正日の趣味の対象とされる[[iPod]]、[[プラズマテレビ]]、[[高級車]]、[[キックボード]]、高級ワインなどの輸出を禁止した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつては[[喫煙|ヘビースモーカー]]で、特に[[イギリス]]の[[ロスマンズ]]を愛飲していたが、現在は禁煙しているらしい。禁煙を達成するのに20年かかった。金正日の禁煙達成後、北朝鮮国内で禁煙ブームが起きた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/article/20070206000036 【萬物相】金正日総書記の「21世紀3大バカ」論]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族構成 ==&lt;br /&gt;
* [[金日成]]（父、北朝鮮建国者）&lt;br /&gt;
* [[金英柱]]（叔父、[[日本陸軍]][[関東軍]]の[[通訳]]&amp;lt;ref name=joins20091106&amp;gt;{{cite news&lt;br /&gt;
| url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=122425&amp;amp;servcode=100&amp;amp;sectcode=100&lt;br /&gt;
| title = 【コラム】恣意的に作られた親日人名辞典 &lt;br /&gt;
| newspaper = [[中央日報]]&lt;br /&gt;
| date = 2009-11-06&lt;br /&gt;
| accessdate = 2010-02-24 &lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[金万一]]（弟）&lt;br /&gt;
* [[金敬姫]]（妹）&lt;br /&gt;
* [[張成沢]]（義理の弟）&lt;br /&gt;
* [[金平一]]（異母弟）&lt;br /&gt;
* [[金英一]]（異母弟）&lt;br /&gt;
* [[金慶真]]（異母妹）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[洪一茜]]（最初の妻）&lt;br /&gt;
** [[金恵敬]]（長女）&lt;br /&gt;
* [[成恵琳]]（二番目の妻）&lt;br /&gt;
** [[金正男]]（長男）&lt;br /&gt;
* [[金英淑]]（三番目の妻）&lt;br /&gt;
** [[金雪松]]（次女）&lt;br /&gt;
** [[金英順]]（三女）&lt;br /&gt;
* [[高英姫]]（四番目の妻、[[在日朝鮮人]]）&lt;br /&gt;
** [[金正哲]]（次男）&lt;br /&gt;
** [[金正雲|金正銀]]（三男）&lt;br /&gt;
** [[金ヨジュン]]（四女）&lt;br /&gt;
* [[金玉 (秘書)|金玉]]（五番目の妻）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本で出版されている主な著作 ==&lt;br /&gt;
* 『人間の証し』（[[角川書店]]（[[同朋舎]]）、[[2000年]][[10月]]発行） - ISBN 4810426505&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references/&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
=== 北朝鮮側の文献 ===&lt;br /&gt;
* [[李珍珪]]『二十一世紀と金正日書記』1995 [[朝鮮青年社]]&lt;br /&gt;
* [[尾上健一]]『金正日主義入門』1995 [[白峰社]] ISBN 4938859033&lt;br /&gt;
* 朝鮮・金正日伝編纂委員会『金正日伝 (第1巻)』2004 白峰社 ISBN 4434041657&lt;br /&gt;
* 朝鮮・金正日伝編纂委員会『金正日伝 (第2巻)』2005 白峰社 ISBN 4434060910&lt;br /&gt;
* [[在日本朝鮮人総連合会|在日本朝鮮人総聯合会]]中央常任委員会『金正日略伝』1995 [[雄山閣|雄山閣出版]] ISBN 4639012764&lt;br /&gt;
* [[朝鮮新報社]]朝鮮問題担当班『キム・ジョンイルプラン―21世紀をリードするリーダーの戦略』1997 朝鮮青年社 ISBN 4885220475&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の文献 ===&lt;br /&gt;
* [[テリー伊藤|伊藤輝夫]]『お笑い北朝鮮―金日成・金正日親子長期政権の解明』（[[コスモの本]] [[1993年]]9月 ISBN 4906380506）&lt;br /&gt;
* [[テリー伊藤]]『新お笑い北朝鮮』（[[ダイヤモンド社]] [[2004年]][[4月1日]] ISBN 4478942056）&lt;br /&gt;
* [[河信基]]『金正日の後継者は在日の息子―日本のメディアが報じない北朝鮮「高度成長」論』（[[講談社]] 2004年12月）&lt;br /&gt;
* [[恵谷治]]『「金正日と朝鮮人民軍」秘密のベールをすべて剥ぐ!―北朝鮮解体新書』（[[小学館]] 1997年11月　ISBN 4091031366）&lt;br /&gt;
* [[重村智計]]『金正日の正体』（講談社、2008年8月 ISBN 9784062879538）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[金正日の呼称一覧]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮民主主義人民共和国]]&lt;br /&gt;
* [[大韓民国]]&lt;br /&gt;
* [[共産主義]]&lt;br /&gt;
* [[独裁者]]&lt;br /&gt;
* [[個人崇拝]]&lt;br /&gt;
* [[藤本健二]]（金正日の元・専属料理人）&lt;br /&gt;
* [[普天堡電子楽団]]（金正日からの指令で結成された音楽グループ）&lt;br /&gt;
* [[喜び組]]&lt;br /&gt;
* 映画『[[プルガサリ]]』&lt;br /&gt;
* [[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致事件]]&lt;br /&gt;
* [[大韓航空機爆破事件]]&lt;br /&gt;
* [[プリンセス・テンコー]]（金正日が彼女の大ファン）&lt;br /&gt;
* [[金正日花]]（金正日のために日本の農家が品種改良して作った花）&lt;br /&gt;
* [[金正日将軍の歌]]（金正日を称える歌）&lt;br /&gt;
* [[あなたがいなければ祖国もない]]（上に同じ）&lt;br /&gt;
* [[我らの金正日同志]]（上に同じ）&lt;br /&gt;
* [[武力で守ろう我らの最高司令官]]（上に同じ）&lt;br /&gt;
* [[最高司令官同志の健康を祝います]]（上に同じ）&lt;br /&gt;
* [[金正日の歌]]（金正日を賛美する歌謡の一覧）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Kim Jong Il}}&lt;br /&gt;
* [http://www.chongryon.com/ 在日本朝鮮人総聯合会]&amp;amp;gt;[http://www.chongryon.com/japan/kim/kim.htm 朝鮮労働党金正日総書記]&lt;br /&gt;
* [http://dprk-cn.com/history/jong-il/biography 「金正日略伝」] 朝鮮外国文出版社2001年中国語版&lt;br /&gt;
* [http://dprk-cn.com/history/jong-il 「逸話集 偉大な人間金正日」] 朝鮮外国文出版社中国語版&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;margin:0 auto&amp;quot;&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
!　{{PRK2}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|最高指導者|[[1994年]] - |[[金日成]]|現職}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会|国防委員長]]|[[1993年]] - |[[金日成]]&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;（国家主席が国防委員長兼務）&amp;lt;/small&amp;gt;|現職}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[朝鮮人民軍]]最高司令官|[[1991年]] - |[[金日成]]|現職}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!　[[File:Flag of the Workers' Party of Korea.svg|25px]][[朝鮮労働党]]&lt;br /&gt;
{{先代次代|中央委員会総書記|[[1997年]] - |[[金日成]]&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;（1994年から空席）&amp;lt;/small&amp;gt;|現職}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{朝鮮民主主義人民共和国の指導者}}&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きむ しよんいる}}&lt;br /&gt;
[[Category:北朝鮮の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:テロリズム]]&lt;br /&gt;
[[Category:冷戦に関わった政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:1942年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2011年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:アジアの社会主義]]&lt;br /&gt;
[[Category:核武装推進論者]]&lt;br /&gt;
[[Category:超常現象]] &lt;br /&gt;
[[Category:霊能者]]&lt;br /&gt;
[[Category:独裁者]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E9%87%91%E6%AD%A3%E7%94%B7&amp;diff=396232</id>
		<title>金正男</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E9%87%91%E6%AD%A3%E7%94%B7&amp;diff=396232"/>
				<updated>2022-01-04T13:44:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: /* 関連文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''金 正男'''（キム・ジョンナム、[[1971年]][[5月10日]] - [[2017年]][[2月13日]]）は、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の第二代最高指導者[[金正日]]の[[長男]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==プロフィール==&lt;br /&gt;
''この項目では、北朝鮮の人物について説明しています。韓国のサッカー選手については「金正男 (サッカー選手)」をご覧ください。''&lt;br /&gt;
===出生===&lt;br /&gt;
金正日を父に、[[成恵琳]]を母に北朝鮮の[[平壌]]で生まれる。出生当初、父・正日は息子の存在を外部に知られないようにしていた。また、正男のことを[[金日成]]主席は、かなり可愛がっていたという。[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]の[[インターナショナルスクール]]などに[[留学]]歴があると言われている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&amp;amp;task=view&amp;amp;id=24&amp;amp;Itemid=2 金正日・金正男、愛憎の父子関係 ]North Korea Today&amp;lt;/ref&amp;gt;が詳細は不明。なお、12歳から14歳までは[[ソビエト連邦]]の[[モスクワ]]で暮らしていたという&amp;lt;ref name=rosiannews&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2012/02/17/0200000000AJP20120217001000882.HTML&lt;br /&gt;
|title = 金正男氏　送金中断でホテル代にも困窮＝露週刊誌&lt;br /&gt;
|date = 2012-02-17&lt;br /&gt;
|work = 聯合ニュース&lt;br /&gt;
|publisher = yonhapnews&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年4月26日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt; 。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母国語の[[朝鮮語]]の他に[[英語]]や[[フランス語]]（それぞれ[[2007年]][[2月12日]]と[[2007年]][[11月13日]]に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の夕方のニュースで記者とのやり取りが報道された）を話し、また[[ロシア語]]、[[中国語]]（[[広東語]]）もある程度話せるようである。[[日本語]]については、日本人記者の「日本語は分かりますか？」という朝鮮語の質問に、日本語で「日本語ワカリマセン」と答えたことが、ネット掲示板等で話題になった&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20111225/zsp1112251000000-n1.htm&lt;br /&gt;
|title = 金総書記急死で“長男・金正男待望論”再燃か！&lt;br /&gt;
|date = 2011-12-25&lt;br /&gt;
|work = zakzak&lt;br /&gt;
|publisher = 産経デジタル&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年1月11日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 現在の職務と生活 ===&lt;br /&gt;
現職はコンピュータ委員会委員長&amp;lt;ref&amp;gt;[http://news.pyongyangology.com/archives/2001/04/it_11.html 金正日の長男がIT政策の最高責任者]North Korea Today&amp;lt;/ref&amp;gt;、 &amp;lt;!--[[朝鮮人民軍]]保衛局長、中将説もあるが確認されていない。--&amp;gt;ソフト産業の振興発展、光ファイバー情報ネットワーク「光明」の構築などを指導したといわれる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://news.pyongyangology.com/archives/2001/07/post_1487.html 北、内部コンピューター網のホームページを初めて公開]North Korea Today&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2007年]][[8月27日]]に[[大韓民国]]の「[[朝鮮日報]]」は、金正男が2007年6月帰国し、以前父親の金正日が所属していた組織指導部に所属していると報道した。ただこれに関しては、金正男は[[平壌]]に年に数回来ることはあるが、平壌で暮らしてはいないとする情報もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]][[1月30日]]に在[[香港]]の複数の情報筋が、金正男と思われる男が、[[中華人民共和国]]の[[特別行政区]]である[[マカオ]]入りしたことを明らかにした。[[アメリカ]]の北朝鮮に対する金融制裁により、マカオの金融機関「[[匯業銀行|バンコ・デルタ・アジア]]（BDA）」にあった約2400万ドルに上る北朝鮮関連口座が凍結されており、中朝関係筋は、北京で同日始まった金融制裁問題に関する米朝専門家会合に関連して、金正男がマカオ入りした可能性を指摘している。なお、[[エレベーター]]内の取材で「日本の[[拉致問題]]」の事を話すとノーコメントだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、同時に日本や韓国のメディアで、「金正男とその家族がマカオ市内に住居を構え長期間滞在し、[[マンダリン・オリエンタルホテルグループ|マンダリン・オリエンタルホテル]]などで[[ヨーロッパ]]の高級[[ブランド]]品などのショッピングを楽しんでいる」と報道された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2011年]]現在も[[マカオ]]に滞在して活動しているとみられる。金正日の長男という立場でありながら、後継者問題（後述）に現北朝鮮の政治体制をゆるがしかねない批判あるいは意見を広く西側に向けて発信していることから、軍部を中心に北朝鮮側にとって疎まれる存在であるとみられている。近年では父親である金正日への接触はもちろん、公式非公式問わず北朝鮮への入国や北朝鮮指導部とも接触が報道されたことはない。同年12月17日の金正日の死去においても、テレビで初めて知らされたことが伝えられている。しかし金正男は直後に「金哲（キムチョル）」という名義のパスポートを使い、平壌直行便のある北京経由ルートを避けて本国に帰国、金正日の霊前との対面を果たし金正恩を含む家族とともに別れを告げたとみられる。数日後にはマカオに戻った&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111231-OYT1T00563.htm&lt;br /&gt;
|title = 金正男氏、総書記死亡直後に帰国…国葬は不参加&lt;br /&gt;
|date = 2012-1-1&lt;br /&gt;
|work = Yomiuri Online&lt;br /&gt;
|publisher = [[読売新聞]]&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年5月1日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、公式な葬儀への参列は確認されていない&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://mainichi.jp/select/world/news/20111226dde007030005000c.html&lt;br /&gt;
|title = 北朝鮮の金正日総書記が17日に死去、正恩氏が権力継承へ&lt;br /&gt;
|date = 2011-12-26&lt;br /&gt;
|work = 毎日jp&lt;br /&gt;
|publisher = [[毎日新聞]]&lt;br /&gt;
|accessdate = 2011年12月30日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、ロシアメディアなどが、金正男氏が妻や子供は中華人民共和国の支援によりマカオ市内の高級マンションに住み、金正男本人は北朝鮮支援によるホテル住まいであることなどが伝えられていたが、北朝鮮本国で[[金正恩]]体制が確立された[[2012年]]に入り、ホテルの1万5000ドルの宿泊代を払えずに退去し、これは北朝鮮側からの送金停止によるものではないかと伝えられた&amp;lt;ref name=rosiannews /&amp;gt;。さらに、4月22日に、[[金永日]][[朝鮮労働党]]書記が北京で[[戴秉国]]国務委員と会談した中で、マカオに住む金正男の身柄引き渡しを要求し、中華人民共和国側が拒否したと伝えられた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://jiji.com/jc/c?g=int_30&amp;amp;k=2012042400410&lt;br /&gt;
|title = 北朝鮮、正男氏引き渡し要求＝中国は拒否－韓国紙&lt;br /&gt;
|date = 2012-04-24&lt;br /&gt;
|work = 時事ドットコム&lt;br /&gt;
|publisher = 時事通信&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年4月26日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし別のメディアでは、5月に平壌に戻って再度出国したと報じられるなど、現政権との関係については情報が錯綜している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==後継者問題==&lt;br /&gt;
長男であることから後継者候補であるとされてきたが、上述のとおり略奪愛の末にできた子であることから金正日は彼の存在を隠しており、金正日の料理人であった[[藤本健二]]は「将軍（金正日）や軍大将、党幹部らが集まる宴席で彼の姿を見たことはないし、噂話として語られたことは一度も無い」一方「[[金正哲]]や[[金正恩]]の話は将軍からよく聞きましたし、遊び相手でもありました。きっと彼は長男の存在を隠し通したかったのではないでしょうか」と否定的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]]2月25日に、日本や韓国のメディアで金正男が後継者問題について「関心が無く、させられてもやらない」と知人に述べていることが報道された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070226k0000m030037000c.html 北朝鮮：後継者問題「関心もなく、やらない」金正男氏語る][[毎日新聞]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ニュースでも「色々な所に行って　後継者になったりするのか」、「後継者とは考えられない」という発言があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、金正日に[[ロシア語]]を教えた金賢植によると、「正男は出生当時、出生が極秘にされたことから、後継者になるのは難しい」との見解を示した&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&amp;amp;k=2008101200110&amp;lt;/ref&amp;gt;。ところが、次男の[[金正哲]]を推す軍部の強硬派である[[李済剛]]が失脚し、正男を推す金正日の義弟の[[張成沢]]が権力を掌握、正男が後継者になる可能性が高まったとの報道もある。その後[[2008年]]9月には金正日の重病説が流れたこともあり、一部では後継者問題に再び火がついたという見方をされている。&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.zakzak.co.jp/top/200810/t2008102140_all.html&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]][[6月5日]]に、西側諸国のメディアで「金正男が滞在先のマカオから中華人民共和国（もしくはアメリカか韓国）に亡命する見込みが強まっている」との報道がなされた&amp;lt;ref&amp;gt;http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090605/kor0906050737001-n1.htm&amp;lt;/ref&amp;gt; 三男の[[金正恩]]を後継とする体制づくりが急ピッチで進んでいるとされる。だが、[[6月9日]]にマカオで[[テレビ朝日]]の「[[報道ステーション]]」の単独インタビューに応じ、「政治には興味が無い。[[金正恩]]との関係は自分の弟であるという関係である。後継者については報道で知り、後継は父が決めたことだからそれに従う。マカオは旅行で滞在し亡命ではない」と語った&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=116421&amp;amp;servcode=500&amp;amp;sectcode=500 金正男氏「私は政治に興味がない」 中央日報]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、「[[独立総合研究所]]」の[[青山繁晴]]によれば、かつて正男と同じ立場にあった父の異母弟の[[金平一]]は、後継者争いに敗れた後、去勢手術を受けさせられているとされる&amp;lt;ref&amp;gt;『[[サンデースクランブル]]』2009年6月7日放送&amp;lt;/ref&amp;gt;。なおこの頃、金正恩によって暗殺されかねない状況にまで追い込まれたことがある。慌てた金正日が金正男暗殺阻止のため、中国政府に彼の身辺擁護を依頼したほどである&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=133425&amp;amp;servcode=500 キム・ジョンウン氏、金正男氏を暗殺しようとした]2010年9月30日 中央日報日本語版&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三男の金正恩が後継者として就任するのを反対している。反対している主な理由は、[[天安沈没事件]]と2009年に行われた[[デノミネーション|デノミ]]施策が金正恩指揮の下で行われたため&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=133912&amp;amp;servcode=500&amp;amp;sectcode=500 金正男「天安艦は金正恩の仕業」　父に抗議…KBS報道]2010年10月15日 中央日報日本語版&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年9月、金正恩への権力世襲について、韓国の民主平和統一諮問会議の李首席副委員長は、金正男と親密な関係者から、『正男が「滅びるのに。長続きすると思うか」と述べた』と聞いた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201010/2010102600500 「正男氏、北朝鮮崩壊を示唆？ - 親密な関係者に漏らす」] 2010年10月26日 [[時事通信社]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年10月9日、金正男は[[テレビ朝日]]のインタビューで、「個人的に'''3代世襲に私は反対します'''。ですが然るべき内部的要因があったならそれに従うべきだと思います」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.youtube.com/watch?v=FO6OKX1CB_c 長男・金正男氏重大発言「3代世襲に反対」（北京市内9日）] 2010年10月11日 テレビ朝日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==日本への密入国==&lt;br /&gt;
観光などを目的に偽造[[パスポート]]を使い[[日本]]に'''5度の'''不法入国をしていたことを本人が認めている。来日時に「[[東京ディズニーランド]]」にも出入りしていたと伝えられているほか、赤坂の韓国バーなどで[[朝鮮総連]]関係者や[[暴力団]]関係者と接触していた。また密輸資金の回収が過去数回の不法来日の目的ではないかとも報じられた。しかし、正男にそんな裏ルートのパイプ作りは容易ではなく、実際の目的は妻子を連れて観光することだけであった。[[朝鮮総連]]関係者や[[暴力団]]関係者と赤坂ほかで会合を開いたのも、ただ招聘に応じただけとみられている。この''赤坂会合''が彼の運命を狂わせてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2001年]][[5月1日]]に、「金正男と見られる男性」が[[成田国際空港|成田空港]]で[[地方入国管理局|入国管理局]]に拘束されるという事件が発生した。男は妻子を連れており、[[ドミニカ共和国]]の偽造パスポートを使用して中国名の『'''胖熊'''』&amp;lt;ref&amp;gt;[[ピン音]]: Pàng Xióng パンシォン - 『太った熊』の意。（[http://www.atimes.com/atimes/Korea/FI02Dg01.html Death of Kim's consort: Dynastic implications] アジア・タイムズ 2004年9月2日付）&amp;lt;/ref&amp;gt;という偽名で入国を図ったところを拘束・収容され、その際に背中に[[トラ|虎]]の[[刺青]]が施されていることが判明。同月3日に身柄拘束の事実が報道によって明らかとなったが、外交問題に発展することを恐れたことと、当時北朝鮮にいた日本人観光客の人命を保護するために政府（[[小泉純一郎]]首相、[[田中真紀子]][[外務大臣 (日本)|外相]]ら）の判断により、[[退去強制]]処分（事実上の[[超法規的措置]]）とされ、翌4日に、2階席を貸し切り状態にされた[[全日本空輸]]の[[ボーイング747-400]]型機で[[中華人民共和国]]の[[北京市]]に向けて出国した。なお同社の同路線は通常[[ボーイング767]]型機で運航されていることから、金正男とその家族の移送のために、予備機として成田空港にあったボーイング747-400型機に振り替えて運行されたものと思われる。5度目の来日の際には、「でじこグッズ」を買いたい、と秋葉原に出没したとも報じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北京に移送される際の映像がテレビで何度も放映された&amp;lt;ref&amp;gt;これが西側のテレビ映像に捕らえられた初のケースといわれている&amp;lt;/ref&amp;gt;。この男について、日本及び北朝鮮政府いずれからも、金正男本人かどうかの正式な発表はないが、[[大韓民国|韓国]]政府筋は「金正男本人」であるとした。この男は、「東京ディズニーランドに行きたかった」と弁明した。当初のニュースは「正男を日本から出すな!」の一点張り報道が目立ったが、長男のためにディズニーランドにいったことが発覚すると、日本国内メディアも正男への態度を改め取材をするようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際に、[[2009年]]1月24日に[[北京首都国際空港|北京国際空港]]に現れた金正男本人が、日本のマスコミにインタビューを受けた際のやり取りにおいて、2001年に日本に不法入国しようとした理由につき、「日本という国に興味があったので旅行にいきました」、「日本はとても清潔で美しい。また経済的にも非常に発展している国だと思います」と答え、日本へ入国した過去があることと、2001年5月に成田空港で拘束された「金正男とみられる男性」が、本人であることを事実上認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本人は「日本には5回行きました。5回目に拘束されました」と述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==死去==&lt;br /&gt;
2017年の2月13日、マレーシアのクアラルンプール空港で二人の北朝鮮工作員に「目に液体をかけられ」殺害された。かけられた直後はフロントに体調の悪化を訴えるほどの意識があったが、その後容体が急変し死亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==備考==&lt;br /&gt;
* [[2002年]]12月には、[[パリ]]郊外の[[ディズニーランド・パリ|ディズニーランド]]を訪れるために[[フランス]]入国を申請したがフランス政府に拒否された、とフランス紙に報じられた。&lt;br /&gt;
* [[2004年]][[9月25日]]には、[[北京首都国際空港|北京国際空港]]に現れ、居合わせた報道陣の問いに金正男本人だと認めた。渡航理由は不明だが、付き人もなく一人で北京市内のホテルに滞在したという。また同年[[12月3日]]、本人と思われる人物が複数の日本の[[新聞]]社に年末年始の挨拶の[[電子メール]]を送った事が報じられた。これが実際に本人からのものであるならば、先述の9月の北京国際空港での取材時に渡された名刺に書かれた[[メールアドレス]]を見て送ったのだろうと推測されている。&lt;br /&gt;
**このメール騒動について、北朝鮮問題に詳しい[[恵谷治]]は偽者説を、[[コリアレポート]]の[[辺真一]]は本物か周辺によるメール送信説を述べた。評論家の河信基は「後継者から外され、焦っている」と語る。北京を主に活動しているようである。&lt;br /&gt;
* 異母弟の[[金正恩]]とは一度も会ったことがないと発言している&amp;lt;ref&amp;gt;2011年2月28日放送の「[[情報7daysニュースキャスター]]」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 尚、[[中央日報]]によると、金正男は金正恩によって暗殺されそうになったとする記事がある&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=133425&amp;amp;servcode=500 「キム・ジョンウン氏、金正男氏を暗殺しようとした」]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 2011年9月、正男の長男である[[キム・ハンソル]]が[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の[[モスタル]]にある[[インターナショナル・スクール]]に入学し&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/09/29/2011092900744.html http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/09/29/2011092900744.html] - 朝鮮日報 2011年9月29日&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[フェイスブック]]に顔写真が公開されていると報道された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/10/01/2011100100407.html 「僕は民主主義がいい」　金総書記の孫が顔写真公開] - 朝鮮日報 2011年10月1日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 2011年10月、フェイスブックのアカウントを取得したと報道された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/10/01/2011100100408.html 金正男氏がフェイスブック開設か] - 朝鮮日報 2011年10月1日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 2012年1月20日、文藝春秋より「父・金正日と私：金正男独占告白」[[五味洋治]]/著 が出版された。2004年に名刺を交換した東京新聞の五味編集委員との150通にわたるメールのやりとりと、7時間のロングインタビューによって構成されている。この中で金正男は北朝鮮の三世代世襲制を批判し、また金正日も生前これを否定したことを語っている。この本の出版時期については金正男は、金正日の喪が明けたあとに考えたいとしていたが、五味によって半ば強行されている。&lt;br /&gt;
* 長男のハンソルはフランスで生活しているとされていたが、Youtubeで声明を発表し「安全な国家の下で生活している」ことをビデオメッセージの形で発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連文献==&lt;br /&gt;
* 『北朝鮮はるかなり　金正日官邸で暮らした20年』（叔母の[[成恵琅]]著、[[萩原遼]]訳、[[文藝春秋]]上・下　2001年、[[文春文庫]]、2003年）&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きむ しよんなむ}}&lt;br /&gt;
[[Category:北朝鮮の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:平壌直轄市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1971年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:全州金氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:2017年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本へ密入国した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:金正日]]&lt;br /&gt;
[[Category:金正恩]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E7%94%B0%E9%82%8A%E8%AA%A0&amp;diff=396231</id>
		<title>田邊誠</title>
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				<updated>2022-01-04T13:42:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''田邊 誠'''（'''田辺 誠'''、'''たなべ まこと'''、[[1922年]][[2月25日]] - [[2015年]][[7月2日]]）は、[[群馬県]][[前橋市]]出身の[[日本]]の[[政治家]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[衆議院議員]]（11期）、[[日本社会党委員長]]（第11代）を歴任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政界デビューまで ==&lt;br /&gt;
老人福祉事業に従事していた[[田邊熊蔵]]の長男として生まれる。旧制前橋中学（現在の[[群馬県立前橋高等学校]]）卒業後、旧制高校への進学を希望していたが、父が経営する養老院の運営がおもわしくなく、やむなく学費無料の[[逓信官吏練習所]]に進学した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
練習所卒業後、前橋郵便局に勤務した。[[1943年]]に応召し兵役に就いたが、軍隊内では熱心な[[クリスチャン]]であることを理由にむごいいじめにあったという。復員後、前橋郵便局に復職。上司にも堂々と意見する態度を買われて労働組合の指導者に推され、以後、[[日本郵政公社労働組合|全逓信労働組合]]群馬地区委員長、群馬地方労組評議会議長を歴任した。[[1955年]]、群馬県議会議員に当選。県議会ではダム建設にまつわる不正を追及して、当時の[[北野重雄]]知事を知事選への再出馬断念に追い込んでいる。[[第29回衆議院議員総選挙|1960年の総選挙]]で衆議院議員に初当選。[[第30回衆議院議員総選挙|1963年の総選挙]]では落選したが[[第31回衆議院議員総選挙|1967年の総選挙]]で復活し、以後引退まで連続当選を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 社会党での活動 ==&lt;br /&gt;
衆議院では社会労働委員会に属し、社会福祉政策の充実を訴えた。一方、社会党内では[[江田三郎]]派に属し、次第に右派の重鎮としての地位を築いていった。1977年、社会党の[[国会対策委員長]]に就任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国対委員長時代には、自民党の[[金丸信]]国対委員長とのパイプを築いた。金丸との盟友関係は金丸の死去まで続き、互いに「マムシとナマズ」と呼び合うほどだった。後に金丸が不正蓄財問題で失脚した後、金丸と仲の良かった田辺もダーティーなイメージで見られたが、側近の船橋成幸は、「田辺の私生活は清潔であった」と著書の中で述べている。&amp;lt;ref&amp;gt;船橋成幸『＜証言＞戦後半世紀の政治過程-混迷のいま、21世紀へのメッセージ-』明石書店、2001年、126～131ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;自民党の実力者との交流は、社会党関係者や市民運動家の要求を通しやすくするためにおこなわれていた側面もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1981年]][[1月]]、旧水曜会を中心に右派既成派閥「[[政権構想研究会]]」結成に参加し、会長に[[武藤山治]]政審会長を据えた。しかし、同年11月の社会党委員長選で自派の武藤政審会長が[[飛鳥田一雄]]委員長に大敗し、国対委員長を退任した。[[1982年]][[7月]]、平林剛書記長の急死で書記長代行に就任。さらに、[[1983年]]7月には、[[石橋政嗣]]委員長の下で書記長に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1986年]]7月、衆参同日選で、社会党が大敗すると石橋委員長の辞任に合わせて、書記長を辞任した。[[1989年]]、土井たか子委員長の下で、副委員長に就任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年、統一地方選挙では敗北の責任をとって土井委員長が辞任すると、後任の委員長に就任した。[[河上丈太郎]]委員長以来、26年ぶりの右派出身の委員長であり、自民党や中道政党とも太いパイプを持つ田邊は、社会党を政権交代可能な政党へと脱皮させる人物としてマスコミなどから期待された。田邊もそれに応えるように、[[影の内閣]]を党内に設置するなど、政権交代を視野にいれた路線を打ち出した。しかし、委員長選挙で左派が推す[[上田哲]]との得票差がわずか1万票に過ぎなかったことは、田邊の党内支持基盤が脆弱であることを党の内外に露呈した。田邊自身も必要以上に左派に気を使うようになり、思ったような党内運営は出来なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1992年]]、通常国会で田邊委員長は、[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|PKO法案]]に対し、当初は自衛隊とは別組織にする条件で妥協する予定だった。しかし、自民・[[公明党|公明]]・[[民社党|民社]]の三党が約束を反故にしたなどの理由で、社民連、連合参議院、共産党と共に[[牛歩戦術]]や社会党衆議院議員総辞職で反対姿勢を示した。党内基盤の弱い田邊は徹底抗戦を訴える左派を説得することは出来ず、また左派も田邊と自民党とのパイプをはなから期待して、事態の収拾に動こうとはしなかった。PKO関連法案は、自民・公明・民社の自公民協力体制で成立。7月の参院選では、PKO法案に強硬に反対しながら、同法案に賛同した公明党、民社党と選挙協力するという一貫性のない対応が仇となり敗北した。党内で参院選の敗北の責任を問う声が高まったことや、田邊の盟友の金丸が失脚したことで、政治家としての田邊のイメージも悪化したことから、[[1993年]]1月、書記長だった[[山花貞夫]]を後継の委員長に指名して、委員長を辞任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1993年、[[細川護熙]]連立政権が誕生すると、[[日本労働組合総連合会|連合]]の[[山岸章]]会長は田邊を衆議院議長に推したが、[[新生党]]の[[小沢一郎]]らは左派の発言力封じのために土井を議長に推し、田邊議長は実現しなかった。それでも、田邊は右派の中心人物として新生党らとの非自民連立政権維持を説いてまわった。そのため、自民党との連立を選んだ[[村山富市]]内閣とは距離を置き、[[1996年]][[9月]]には社会党の後身である[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]を離党し、[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]]設立委員会に参加した。1996年総選挙には立候補せず、政界引退。[[2005年]]2月に[[民主党_(日本_1998-)|民主党]]群馬県連常任顧問に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は父から受け継いだ老人ホームの経営に専念している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、田邊は[[1990年]]に金丸信と共に[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を訪問し、[[金日成]]国家主席・[[朝鮮労働党]]総書記と会談するなど、北朝鮮との交流に熱心であったことが知られている。しかし北朝鮮による日本人拉致発覚後は、北朝鮮側に対し自分をだましていたことを抗議し、関係を絶っている。{{main|北朝鮮による日本人拉致問題|社会民主党_(日本_1996-)#朝鮮民主主義人民共和国}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===南京大虐殺紀念館の建設要請===&lt;br /&gt;
[[浜田幸一]]によると田邊が1980年代に[[南京市]]を訪れた際に[[南京大虐殺紀念館]]を建設するよう求めたという。浜田はこの要請や[[総評]]から南京市への3000万円の寄付によって同紀念館が建設されたと語っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[浜田幸一]]『[[日本をダメにした九人の政治家]]』[[講談社]] 1993年 ISBN 406206779X&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*田邊誠『敬神愛人-田邊熊蔵の生涯』[[日本評論社]]、1984年。ISBN 4535575231&lt;br /&gt;
*田邊誠『愛と知と力の政治』日本評論社、1988年。ISBN 453557765X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本社会党]]&lt;br /&gt;
*[[日本社会党委員長]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{start box}}&lt;br /&gt;
{{s-ppo}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[日本社会党委員長]]&lt;br /&gt;
| before = [[土井たか子]]&lt;br /&gt;
| years  = 第11代 : 1991年 - 1993年&lt;br /&gt;
| after  = [[山花貞夫]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title  = [[日本社会党|日本社会党書記長]]&lt;br /&gt;
| before = [[平林剛]]&lt;br /&gt;
| years  = 第10代 : 1983年 - 1986年&lt;br /&gt;
| after  = [[山口鶴男]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{end box}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{社会民主党}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たなへ まこと}}&lt;br /&gt;
[[Category:衆議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:群馬県の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:群馬県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:群馬県選出の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本社会党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:社会民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:民主党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1922年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2015年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E6%B5%B7%E6%B4%A5%E9%9B%85%E8%8B%B1&amp;diff=396230</id>
		<title>海津雅英</title>
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				<updated>2022-01-04T13:40:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:海津雅英1.jpg|300px|thumb|海津 雅英]]&lt;br /&gt;
'''海津 雅英'''（かいづ まさひで、[[1983年]][[2月22日]] - ）とは、朝から12時間酒を飲んで[[携帯電話]]を操作しながら車を運転し、4人をひき逃げ3人を死亡させ、事故後は応急手当や通報せず煙草を購入する、[[北海道]][[札幌市]]の飲食店従業員である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件概要 ==&lt;br /&gt;
[[Image:石崎里枝.JPG|300px|thumb|殺害された石崎 里枝さん]]&lt;br /&gt;
[[2014年]][[7月13日]]午後4時半ごろ、海津は[[北海道]][[小樽市]]の海水浴場「おたるドリームビーチ」に近い市道で[[RV]]を飲酒運転、4人をはねて死傷させ逃走した。4人は昼ごろからビーチで遊んだ後、帰るため駅に向かって幅約5メートルの道の端を歩いていた際に後ろからはねられた。海津は朝からビーチで酒を飲み「携帯電話を操作しながら運転していた」と供述した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死亡した3人は[[札幌市]]の医療機関事務員、石崎 里枝さん(29)、[[北海道]][[岩見沢市]]の店員、瓦 裕子さん(30)、同市の会社員、原野 沙耶佳さん(29)と発表。頸椎骨折などの重傷を負ったのは札幌市の会社員、中村 奈津子さん(30)で、4人は岩見沢市の[[岩見沢農業高等学校]]時代の同級生だった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道警は[[7月14日]]、[[自動車運転処罰法]]違反(過失致死傷)と[[道交法]]違反(ひき逃げ、酒気帯び運転)で、飲食店従業員、海津 雅英(31)＝札幌市西区発寒11条＝を逮捕した。「酒を飲んで人をはねた」と容疑を認めた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海津は事件の後、4人の手当てや通報をせず、そのまま近くの店までたばこを買いに行っていた。海津は、現場近くの海岸で酒を飲んだ後、RVを運転して買い物に行き、13日午後4時半ごろに事件を起こした。たばこを買った後、友人に電話し友人から警察に連絡するように言われ、同4時45分ごろに「人をはねた」と110番。現場から700メートル離れた路上で海津を警察官が見つけ、取り押さえた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 被害女性4人は高校の同級生。卒業12年の友情が暗転 ==&lt;br /&gt;
[[Image:海津雅英6.jpg|300px|thumb|海津 雅英に曳かれた4人]]&lt;br /&gt;
水着が散乱していた事件現場には献花台が設けられ、3人の早すぎる死を悼む人々が手を合わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「遊びに行ってくるね」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に聞いた最愛の娘の声は元気だった。原野さんの父・和則さん(61)が14日、岩見沢市の自宅前で胸中を語った。沙耶佳さんが出発したのは13日午前9時ごろ。その後、夕方のニュースが事件の発生を報じていたが「4人以上で出掛けるとは聞いていたが、たぶん違うだろう」と思っていた。しかし、夜になっても沙耶佳さんは帰宅しなかった。不安な気持ちが募り、小樽署に電話した。警察官に告げられたのは、あまりにもつらい言葉だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「あなたの娘さんです」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
耳を疑った。「何かの冗談だ」沙耶佳さんは測量会社で経理を担当。和則さんは毎朝、会社に送っていった。沙耶佳さんは帰宅すると、一日にあった出来事をよく話してくれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「生きる屍になったようです」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
肩を落とした。石崎さんの兄(36)は「いまだに妹が死んだという実感がない」。里枝さんは長期休暇を取ると実家に帰り、アスパラの収穫など、家業の農業を手伝う家族思い。両親が見せる涙に胸が締め付けられる兄は「もう戻って来ることはないけれど、妹を返してほしい」と怒りを口にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
瓦さんの兄も「優しい妹だった。まだ気持ちの整理がつかない」と声を落とした。北海道岩見沢農業高校によると、事件に巻き込まれた4人は生活科学科の同級生。3年間同じクラスで園芸、被服、調理などをともに学んだ。卒業から12年が経過した今も、友情を育み続けた親友同士だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 犠牲の2人通夜。友人ら飲酒運転に怒り ==&lt;br /&gt;
[[Image:海津雅英5.jpg|300px|thumb|海津 雅英に殺された3人]]&lt;br /&gt;
北海道小樽市で女性4人が死傷したひき逃げ事件で、亡くなった札幌市南区の医療事務員、石崎 里枝さん(29)と岩見沢市のスーパー店員、瓦 裕子さん(30)の通夜が17日、実家のある[[美唄市]]などの斎場で営まれた。親族や友人らは突然の悲報と理不尽な死に怒りをあらわにしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石崎さんの知人で[[北広島市]]の会社員、岡田 洋樹さん(27)は「いつも笑顔で優しい人だった。事故は腹立たしくて許せない。飲酒運転をすること自体考えられない」と涙ながらに話した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石崎さんの親族で美唄市の会社員、渡辺 由美子さん(50)は「里枝さんは優しくて穏やかな女性だった。容疑者の男を本当に許せない」と語気を強めた。友人で同市の介護士、米内 郁美さん(29)は「一緒にカラオケに行ったり、誕生日を祝ったりしてくれた。いつでも会えると思っていたけれど……」と言葉を詰まらせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岩見沢市であった瓦さんの通夜に参列した女性は、「祭壇の写真は笑顔でした。本当に可哀そう」と話すのがやっとで、ハンカチで目頭を押さえながら足早に会場を後にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==「危険運転致死の適用を」遺族らが最高検に上申書(2014年9月) ==&lt;br /&gt;
[[Image:海津雅英2.jpg|300px|thumb|海津 雅英]]&lt;br /&gt;
北海道小樽市で3人が死亡するなどした飲酒ひき逃げ事件で、遺族らでつくる「7・13小樽飲酒ひき逃げ事件被害者等連絡会」は24日、自動車運転処罰法違反(過失致死傷)などの罪で起訴された札幌市の男について、同法違反(危険運転致死傷)罪への訴因変更を求める上申書を[[最高検]]に提出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
起訴状などによると、男は7月13日午後、酒を飲んで車を運転、女性4人をはね、救護することなく逃げたとされる。[[札幌地検]]は8月、「事故後に近くの[[コンビニ]]まで正常に運転しており、アルコールの影響で事故を起こしたとの認定は困難」とし、危険運転致死傷罪の適用を見送っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同会の前田敏章・北海道交通事故被害者の会代表(65)は「札幌地検の判断では、飲酒事故を起こしても『正常な運転ができた』と示すための逃走を助長してしまう。刑事司法への不信を招く」と訴えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同会は既に札幌地検に訴因変更を求める要望書を提出。25日には計約6万人分の要望署名を同地検に提出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 小樽飲酒ひき逃げ事件、危険運転致死傷に訴因変更(2014年11月) ==&lt;br /&gt;
[[Image:海津雅英3.png|300px|thumb|[[自己破産]]していた海津 雅英]]&lt;br /&gt;
小樽市銭函で海水浴帰りの女性4人が死傷した飲酒ひき逃げ事件で、札幌地検は24日、自動車運転処罰法違反(過失致死傷)などの罪で起訴した海津雅英(かいづまさひで)被告(31)について、より罰則の重い同法の危険運転致死傷罪に訴因変更することを決めて、被害者家族に伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
札幌地検は、事故原因は運転中に[[スマートフォン]]を操作するなどした脇見運転だとして過失致死傷罪で起訴したが、被害者連絡会は「脇見運転自体が飲酒で判断力などが低下していたため」と主張。「危険運転」の適用を求める署名活動を行うとともに、最高検に上申書を提出していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同様に訴因変更したケースは、[[兵庫県]][[加西市]]で[[2011年]]12月、小学生の兄弟が飲酒運転の軽トラックにはねられ死亡した事故がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 署名7万、訴え実る。小樽事件で訴因変更請求 ==&lt;br /&gt;
[[Image:瓦裕子.JPG|300px|thumb|海津 雅英に殺された瓦　裕子さん]]&lt;br /&gt;
2カ月で7万4332人分の署名を集めた遺族の思いが実った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小樽市の市道で7月、女性3人が死亡、1人が重傷を負った飲酒ひき逃げ事件で、[[札幌地検]]は24日、[[自動車運転死傷処罰法]]違反(過失運転致死傷)罪などで起訴した海津雅英被告(31)について、[[危険運転致死傷罪]]への訴因変更を請求し、遺族らに伝えた。会見した遺族らは「娘に良い報告ができる」「関わってくれたみなさまに感謝したい」と口々に語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[8月4日]]に海津被告が起訴された後、遺族らは危険運転致死傷罪への変更を求め、街頭やインターネットで署名を呼びかけた。訴因変更を請求した24日の朝まで署名活動は続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亡くなった原野沙耶佳さん(当時29)の母悦子さん(58)は「街頭でかけてくれた言葉や送られた手紙のおかげで、心が折れずにここまで来られた。ありがとうございます」。父和則さん(62)は「検察は真摯に受け止めてくれた」と話した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事件 ==&lt;br /&gt;
* [[福岡海の中道大橋飲酒運転事故]]&lt;br /&gt;
* [[東名高速飲酒運転事故]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:海津雅英4.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かいつ まさひて}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の交通事故]]&lt;br /&gt;
[[Category:飲酒運転]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の殺人犯]]&lt;br /&gt;
[[Category:平成時代の殺人事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:2014年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:小樽市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:人殺し]]&lt;br /&gt;
[[Category:札幌市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1983年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E3%81%B8%E3%81%9A%E3%81%BE%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86&amp;diff=396229</id>
		<title>へずまりゅう</title>
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				<updated>2022-01-04T13:32:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''へずまりゅう'''（英語：Hezuma ryu、[[1991年]][[5月9日]] - ）とは、[[日本]]の[[YouTuber]]である。&lt;br /&gt;
{{ActorActress&lt;br /&gt;
| 芸名 = へずまりゅう&lt;br /&gt;
| ふりがな = &lt;br /&gt;
| 画像ファイル =[[ファイル:サンプル.jpg]]&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =&lt;br /&gt;
| 画像コメント =&lt;br /&gt;
| 本名 = 原田将大&lt;br /&gt;
| 別名義 = &amp;lt;!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 出生地 = {{JPN}}・[[山口県]]&lt;br /&gt;
| 死没地 = &lt;br /&gt;
| 国籍 = [[日本]]&lt;br /&gt;
| 民族 = [[日本]]&lt;br /&gt;
| 身長 = 181cm&lt;br /&gt;
| 体重 =  &lt;br /&gt;
| 血液型 = [[AB型]]&lt;br /&gt;
| 生年 = 1991&lt;br /&gt;
| 生月 = 5&lt;br /&gt;
| 生日 = 9&lt;br /&gt;
| 没年 = &lt;br /&gt;
| 没月 = &lt;br /&gt;
| 没日 = &lt;br /&gt;
| 職業 = [[YouTube|YouTuber]]&lt;br /&gt;
| ジャンル = [[動画]]&lt;br /&gt;
| 活動期間 = [[2010年]] -&lt;br /&gt;
| 活動内容 = 動画配信&lt;br /&gt;
| 配偶者 = &lt;br /&gt;
| 著名な家族 = &lt;br /&gt;
| 事務所 =[[株式会社]][[uuum]]&lt;br /&gt;
| 公式サイト = [http://www.uuum.jp/ YouTuberプロダクション事務所 uuum] &lt;br /&gt;
| 主な作品 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
凸する相手を選ばない猪突猛進の物申す系迷惑YouTuber。[[山口県]]出身の[[1991年]][[5月9日]]生まれ。出身地に非常に愛着を持っているようで山口県代表を自称しており度々郷土愛を呟いている。町おこしも企画している。身長181cm(あくまで推定。シバターの公称180cmを信用するならそれ以上)。有名なYouTuberなどに強引にメントスコーラでのコラボを迫るなどの過激な動画内容ゆえ何度もアカウントを停止させられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プロレスラーの[[シバター]]が小さく見えるほどの肉体と朝倉未来を押し倒すパワーを持つ(ちなみに朝倉があげた動画ではへずまを即倒したかのような編集がされている)など日本YouTuber界屈指の戦闘力を持つ。これは昔打ち込んでいたレスリングの賜物。右肩の怪我で引退したがインターハイや国体に出場し[[オリンピック]]を目指す地元では名の知れた選手だった。高校三年時の合宿で[[吉田沙保里]]からポイントを取ったこともあるらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
[[2020年]]に上京。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2020年6月初頭に逮捕(シバターへの凸とは別件)。看守の言うことを聞かずに頭を壁に打ち付けたり、就寝時間に叫んだり、取り調べに一切話をしない状態でいる。精神鑑定を受ける可能性もある模様。数日後に釈放。謝罪動画をあげこれからは万人受けするクリーンな動画を目指すのと従来のファンへのニーズには応えづらいということを話したがそのすぐ後に兵隊を募集するなど反省は見られない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2020年7月に窃盗容疑で逮捕。今回で2度目の逮捕となる。[[愛知県]][[岡崎市]]内のスーパーで会計前の魚の切り身を店内で食べ、空の容器をレジに持っていき会計する様子を収めた動画を「店の商品、会計前に食ってやったぜー」というタイトルでYouTube上にアップロードした。この動画を見た店舗が警察に相談していた。なお、この動画は5月末頃に撮影されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その後[[7月15日]]に岡崎警察署に留置している被疑者が[[新型コロナウイルス]]に感染していることが判明したと愛知県から発表される。発表内容に記載されたその足取りが[[Twitter]]上でへずま本人が公開していた内容と一致することから、「感染者はへずまではないか」とネット上で憶測が広がるほか、11日には逮捕前にへずまが公開した動画の中で激しく咳き込み、直後に「コロナ」とつぶやく場面もあった。&lt;br /&gt;
そして17日の山口県の発表でへずまと会食した人物が感染したことが発表されるとともに、通例感染者やその家族の人権に配慮して氏名未公表が原則の中、異例とも言えるへずまの名前を出した上で、彼と接触した人物に対し保健所へ連絡するよう呼びかけることになった。これには会見で[[村岡嗣政]]山口県知事も「なんてことをしてくれるんだ」と怒りを露わにした。&lt;br /&gt;
また、岡崎署勤務の警察官にも感染者が出ているほか、一連の足取りから東京・千葉・静岡・広島にも滞在し、その過程の中で再開したばかりの[[東京ディズニーランド]]に来園、東京都知事選では候補者の[[立花孝志]]の応援演説もしていることから、これまでの犯罪よりも深刻な問題に発展する可能性もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:☁]]&lt;br /&gt;
[[Category:徳山大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:山口県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1991年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

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		<title>山口達也 (ジャニーズ)</title>
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				<updated>2022-01-04T13:29:24Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Ohtani100show: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{先編集権主張|Sir knight}}&lt;br /&gt;
'''山口 達也'''（やまぐち たつや、[[1972年]][[1月10日]] - ）は、[[日本]]の元[[ベーシスト|バンドマン・ベーシスト]]・[[俳優]]・[[タレント]]・[[司会者]]・[[ニュースキャスター|キャスター]]であり、1989年頃から[[ジャニーズ事務所]]に所属するタレントとしてテレビに出演し始め、2018年5月まで同事務所の[[アイドル]]バンド・[[TOKIO]]のメンバーとして在籍していた。現在は犯罪者の範疇にいる。[[埼玉県]][[草加市]]出身&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.ntv.co.jp/bonbi/bk/2017/0207.html 2017年2月7日OA ★スペシャル企画！どっちが幸せに暮らせるか!?街対決!!!]. 幸せ！ボンビーガール 公式サイト - 過去の放送. 日本テレビ (n.d.) 2018年1月29日閲覧。&amp;lt;/ref&amp;gt;。身長167cm。血液型O型。前科1犯前歴2回。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==略歴==&lt;br /&gt;
*1993年 - 出演したドラマ『[[同窓会 (テレビドラマ)|同窓会]]』で[[斉藤由貴]]演じる主人公の女性を相手に「売り専」(中出しして妊娠させる)をして男性とのホテル代を稼ぐ[[両性愛|バイセクシュアル]]の少年という役柄をこなす。&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[9月21日]] - [[国分太一]]、[[松岡昌宏]]、[[長瀬智也]]のグループ加入を経て、現在の「[[TOKIO]]」として「[[LOVE YOU ONLY]]」でCDデビュー。&lt;br /&gt;
*1997年 - 『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』では100kmの[[チャリティー]][[マラソン]]に挑戦し、完走した。&lt;br /&gt;
*2008年3月8日 - 午前10時に5歳年下の元モデルと婚姻届届出。同日夜の日本武道館ライブでファンに報告した。TOKIOの中で最初の既婚者であった。&lt;br /&gt;
*2008年5月6日 - 午後5時18分、第1子となる男児が誕生。&lt;br /&gt;
*2010年9月17日 - 第2子（男児）誕生。&lt;br /&gt;
*2016年8月5日 - 離婚をしたことが明らかになった。&lt;br /&gt;
*2018年4月25日、同年2月に女子高生に対して強制わいせつを行った容疑で書類送検されたことが報道され、ジャニーズ事務所から無期限謹慎処分を受けた。これを受け、レギュラー番組からの降板・放映終了などが相次いだ。その後、5月2日に山口を除く4人は会見を開き、4月30日に山口がTOKIOに「辞表」を提出して脱退を申し出たことを城島が明かした。なお城島は山口の処遇について、その日のうちに結論が出ずに保留になったとしているが、ジャニーズ事務所の公式サイト上では同日までに山口のプロフィールや写真、レギュラー番組の情報などが削除された。また、長瀬が「彼（山口）の音（ベース）がないと楽曲は形にならない」と口にしたことで、山口の謹慎によって音楽活動が白紙の状態になっていることと、デビュー25周年に向けてのアルバムやツアーの計画に影響が出ていることが明らかになり、年末のNHK紅白歌合戦出場が絶望的と報道された。同年5月6日、山口から提出された「辞表」について、ジャニーズ事務所が正式に受理。これにより山口はTOKIOから脱退すると共にジャニーズ事務所からも退所した。事務所は「本人の強い意思に基づきジャニー社長と城島リーダーの2人で協議を行った結果契約を解除した」としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人物===&lt;br /&gt;
*弟は[[ヴォーカリスト]]（TSP、ex.[[CYCLE (バンド)|the CYCLE]]）であり[[666 (プロレス)|666]]所属[[プロレスラー]]の、山口公次（Kouzy）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/story.html?q=cyzowoman_01Mar2011_12424 肉体派ミュージシャン兄弟、TOKIO山口達也の弟がプロレスデビュー!?]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*極度のアルコール依存、ロリコン、キモ面、おたく、チビ、デブ、エロ、46歳のくせに恥知らず、10代フェチのクズ野郎。 顔は、ブス男子であり、面長、二重まぶた、彫りが深いという、イケメン3条件を全て満たしたイケメンである、あったらいいな、あると、山口自身は、思うんだな。そのイケメンの顔だったらいな顔で女性には大変モテたと、山口自身は勘違い野郎なんだな、現実は、アルコール依存が理由で元妻と別れたアル中男だという。また、[[DASH村]]の副村長らしく、農業、養殖業にはすごく自信がある男であり、日本の貧しい農家を馬鹿にしている。反面、[[農林水産省]]等に「僕らの農家だって福島と同じ災難に見舞われた、あなた方も責任とれるかな」と豪語するように、自分の経営するDASH村よりレベルの高い農業経済学者、農本主義者、農学者、酪農家等に対しては卑屈になる。 &lt;br /&gt;
*埼玉のFM局「[[エフエムナックファイブ|FM NACK5]]」の番組『[[NACK ON TOWN]]』の準レギュラーかつリスナーでもあり、時折実名でメッセージを投稿することもある。&lt;br /&gt;
*かつては1992年放映『愛きらきら』を始めとする多くのテレビドラマに出演したが、近年は出演することがなく、2017年現在、2007年放映『[[受験の神様]]』を最後にテレビドラマからは遠ざかっている。&lt;br /&gt;
*2010年7月、『[[ザ!鉄腕!DASH!!]]』の企画である「DASH海岸」で自ら[[潜水]]するために[[潜水士]]の資格を取得した。&lt;br /&gt;
*2013年には同じく『鉄腕DASH』内の企画「DASH島」にて資材の運搬船を操縦するため、[[小型船舶操縦士|一級小型船舶操縦士]]を取得した。&lt;br /&gt;
*2011年3月11日、DASH村での番組収録中に[[東北地方太平洋沖地震]]に遭い避難、[[福島第一原子力発電所事故]]によりDASH村は「計画的避難区域」となった。同年7月以降、[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]の協力要請を受け、DASH村にヒマワリの種を植えるなどの除染活動に積極的に関わっている。また『ザ!鉄腕!DASH!!』の取材で、[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]の被害を受けた[[ウクライナ]]や[[ベラルーシ]]を訪問し、現地の事情を視察した。&lt;br /&gt;
*[[2011年]][[8月28日]]、車線変更禁止区域で車線を変更し、警察署の署員に停止するように求められた。山口が免許証を提示したところ、免許の期限が同年2月であったことが発覚し、[[道路交通法]]違反（[[無免許運転]]）で書類送検された。翌29日夜、東京[[汐留]]の[[日本テレビタワー|日本テレビ]]で記者会見を行い、謝罪の意を示した。後に不起訴処分となる。この件に関し、[[ヤマト運輸]]と[[富士重工業]]は、山口が出演している[[コマーシャルメッセージ|CM]]を当面放送しない方針を明らかにした。富士重工業(現[[SUBARU]])は、自粛されたまま契約期間が終了したが、ヤマト運輸は後に放映再開されたものの、山口以外のメンバーも含め、営業車やトラックを運転するシーンを2017年現在一切使用していない。同じく2017年現在、放映されている[[スズキ (企業)|スズキ]]の[[スズキ・ソリオ|ソリオ]]のCMでは、山口が運転するシーンがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出演==&lt;br /&gt;
===過去===&lt;br /&gt;
番組は全て降板済み。&lt;br /&gt;
===バラエティ番組===&lt;br /&gt;
*C・C・C カー・クラッシュ・クラブ（2001年4月、[[TBSテレビ|TBS]]） - 司会&lt;br /&gt;
*P・P・P（2001年10月、TBS）司会）&lt;br /&gt;
*[[天 (テレビ番組)|天]]（2002年4月、TBS／司会）&lt;br /&gt;
*[[ブーケをねらえ!]]（2002年10月 - 2003年12月、TBS） - 司会&lt;br /&gt;
*[[おネエ★MANS]]（2006年10月 - 2009年3月、日本テレビ） - 司会&lt;br /&gt;
*[[魔女たちの22時]]（2009年4月 - 2011年3月22日、日本テレビ） - 司会&lt;br /&gt;
*[[直伝 和の極意]] あっぱれ!江戸のテクノロジー（2011年6月 - 7月、NHK教育テレビ） - 生徒 役&lt;br /&gt;
*ニッポン食の王座決定戦!（2011年11月25日、日本テレビ）&lt;br /&gt;
*[[Rの法則]]（2011年2月 - 2018年4月25日、NHK教育テレビ→NHK Eテレ） - 司会&lt;br /&gt;
*[[幸せ!ボンビーガール]]（2011年4月13日 - 2018年4月24日、日本テレビ） - 司会&lt;br /&gt;
*[[ZIP!]]（2011年4月6日 - 2018年4月25日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]） - 水曜日コメンテーター→月・水曜日メインパーソナリティー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===テレビドラマ===&lt;br /&gt;
*愛きらきら（1992年・TBS）&lt;br /&gt;
*[[渡る世間は鬼ばかり]]（1993年、TBS）※ゲスト出演&lt;br /&gt;
*[[同窓会 (テレビドラマ)|同窓会]]（1993年、日本テレビ） - 丹野嵐 役&amp;lt;ref&amp;gt;大反響を呼んだバイセクシュアルの役で男性とのラブシーンにも果敢に挑戦。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[長男の嫁]]（1994年、TBS） - 中村光三郎 役 &lt;br /&gt;
*[[サザンスコール]]（1994年、[[日本放送協会|NHK]]） - 杉野和彦 役&lt;br /&gt;
*[[夜に抱かれて]]（1994年、日本テレビ） - 村上剣 役&lt;br /&gt;
*[[部屋においでよ]]（1995年、TBS） - 塩村ミキオ 役&lt;br /&gt;
*[[夏!デパート物語]]（1995年、TBS） - 栗山良太 役 ※主演&lt;br /&gt;
*[[長男の嫁#長男の嫁2〜実家天国|長男の嫁2〜実家天国]]（1995年、TBS） - 赤木光太 役&lt;br /&gt;
*[[小児病棟・命の季節]]（1996年、テレビ朝日） - 高岡里志 役&lt;br /&gt;
*いのちの事件簿 ケースワーカー奮闘記（1997年、NHK）&lt;br /&gt;
*SPEECHES（1997年、フジ）&lt;br /&gt;
*[[D×D]]（1997年、日本テレビ）※第1話ゲスト&lt;br /&gt;
*[[番茶も出花]]（1997年、TBS） - 丸田浩史 役&lt;br /&gt;
*[[傷だらけの女]]（1999年、フジテレビ） - 牧田修一 役&lt;br /&gt;
*[[Friends (テレビドラマ)|Friends]]（2000年、TBS） - 三浦修 役&lt;br /&gt;
*[[かるたクイーン]]（2003年、NHK） - 山崎亮平 役&lt;br /&gt;
*[[光とともに…#テレビドラマ|光とともに…〜自閉症児を抱えて〜]]（2004年、日本テレビ） - 東雅人 役&lt;br /&gt;
*[[上を向いて歩こう〜坂本九物語〜]]（2005年、[[テレビ東京]]） - [[坂本九]] 役&lt;br /&gt;
*[[女の一代記|女の一代記 悪女の一生〜芝居と結婚した女優・杉村春子の生涯〜]]（2005年、フジテレビ系）&lt;br /&gt;
*林家三平ものがたり　おかしな夫婦でどーもスィマセーン!（2006年、テレビ東京） - [[林家三平 (初代)|林家三平]] 役&lt;br /&gt;
*[[ユウキ (テレビドラマ)|ユウキ]]（2006年、日本テレビ [[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ]]スペシャルドラマ）&lt;br /&gt;
*[[受験の神様]]（2007年、日本テレビ） - 梅沢勇 役&lt;br /&gt;
*[[Rの法則]]スペシャル 大江戸ロボコン（2017年、NHKEテレ） -岩渕敏夫役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===映画===&lt;br /&gt;
*首領を殺った男 （[[1994年]]、[[東映]]）&lt;br /&gt;
*[[That's カンニング! 史上最大の作戦?]] （[[1996年]]、東映） - 木村見次 役&lt;br /&gt;
*[[カンフー・パンダ]] ''Kung Fu Panda'' （[[2008年]]、[[角川映画]]） - 日本語吹替版声優、ポー 役&lt;br /&gt;
*[[カンフー・パンダ2]] ''Kung Fu Panda 2'' （[[2011年]]、角川映画） - 日本語吹替版声優、ポー 役&lt;br /&gt;
*[[怪物くん (テレビドラマ)#映画|怪物くん]]（2011年）- 声優、ドラゴン 役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他のテレビ番組===&lt;br /&gt;
*[[最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦]]（1998年・1999年、[[TBSテレビ|TBS]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ラジオ番組===&lt;br /&gt;
*[[TOKIO WALKER]]（[[エフエムナックファイブ|NACK5]]）1996年4月 -&lt;br /&gt;
:この番組の名前からとり、TOKIOファンのことをウォーカーと呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===CM===&lt;br /&gt;
*[[大塚ビバレジ]]「ジャワティー」&lt;br /&gt;
*[[ごはん食推進委員会]]（城島茂と共演）&lt;br /&gt;
*公共広告機構（後の[[ACジャパン]]）([[2002年]])&lt;br /&gt;
*[[ローソン]]「ごはん亭」&lt;br /&gt;
*[[日本コカ・コーラ]]「[[一]]（はじめ）」（城島茂と共演）&lt;br /&gt;
*[[大正製薬]]「[[リポビタンD]]」（[[ケイン・コスギ]]と共演）&lt;br /&gt;
*[[富士重工業]]「[[スバル・レガシィ|レガシィ]]」&lt;br /&gt;
*[[東京建物]]「アパートメンツタワー勝どき」&lt;br /&gt;
*[[日清オイリオグループ]]「[[ヘルシーリセッタ]]」（城島茂と共演）&lt;br /&gt;
*[[富士重工業]]「先進運転支援システム『新型[[EyeSight]](アイサイト)』」（2010年 -2013年9月、2012年1月から国分太一と共演）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==書籍==&lt;br /&gt;
*山口達也のこっち向いてじゅのん!（2000年6月、[[主婦と生活社]]）&lt;br /&gt;
===写真集===&lt;br /&gt;
*山口達也 SURFIN’FREE STYLE（2004年、日之出出版）&lt;br /&gt;
===雑誌連載===&lt;br /&gt;
*[[Fine]] 「エンドレスSURFクルーズ」（日之出出版）&lt;br /&gt;
*[[Fine]] 「Tatsuya's Holiday Surf Trip!」（日之出出版）&lt;br /&gt;
*[[ESSE]] 「山口達也の男目線!」（扶桑社）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
===注釈===&lt;br /&gt;
{{Reflist|group=注釈}}&lt;br /&gt;
===出典===&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:やまくち たつや}}&lt;br /&gt;
[[Category:山口達也|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の男優]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のアイドル]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の司会者]]&lt;br /&gt;
[[Category:TOKIOのメンバー]]&lt;br /&gt;
[[Category:埼玉県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1972年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のベーシスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:ZIP!関係者]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロリコン]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[en:Tatsuya Yamaguchi (actor)]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Ohtani100show</name></author>	</entry>

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