<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3</id>
		<title>ジョン・フォン・ノイマン - 変更履歴</title>
		<link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3"/>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3&amp;action=history"/>
		<updated>2026-04-13T03:48:24Z</updated>
		<subtitle>このウィキのこのページに関する変更履歴</subtitle>
		<generator>MediaWiki 1.25.1</generator>

	<entry>
		<id>http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3&amp;diff=170104&amp;oldid=prev</id>
		<title>Fromm: ページの作成：「ジョン・フォン・ノイマン '''ジョン・フォン・ノイマン'''（ハンガリー名：ノイマン・...」</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3&amp;diff=170104&amp;oldid=prev"/>
				<updated>2012-09-23T14:31:09Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ページの作成：「&lt;a href=&quot;/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:JohnvonNeumann-LosAlamos.gif&quot; title=&quot;ファイル:JohnvonNeumann-LosAlamos.gif&quot;&gt;ジョン・フォン・ノイマン&lt;/a&gt; &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;ジョン・フォン・ノイマン&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（ハンガリー名：ノイマン・...」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;[[Image:JohnvonNeumann-LosAlamos.gif|350px|thumb|ジョン・フォン・ノイマン]]&lt;br /&gt;
'''ジョン・フォン・ノイマン'''（ハンガリー名：ノイマン・ヤーノシュ、ドイツ名：ヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン, [[1903年]][[12月28日]] - [[1957年]][[2月8日]]）は[[ハンガリー]]出身の[[アメリカ合衆国]]の[[数学者]]。20世紀科学史における最重要人物の一人。[[数学]]・[[物理学]]・[[工学]]・[[計算機科学]]・[[経済学]]・[[気象学]]・[[心理学]]・[[政治学]]に影響を与えた。[[第二次世界大戦]]中の[[原子爆弾]]開発や、その後の核政策への関与でも知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初に結婚した[[クヴェシュ・マリエッタ|マリエット・ケヴェシ]]の娘[[マリーナ・フォン・ノイマン・ホイットマン]]は、[[1973年]]から[[ピッツバーグ大学]][[経済学部]][[教授]]だった。[[1979年]]に[[ゼネラルモーターズ]]社に入り、[[1985年]]から[[1992年]]まで副社長を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==来歴==&lt;br /&gt;
*[[1903年]]： [[ブダペスト]]にて3人兄弟の長男として生まれた。名はヤーノシュ。愛称はヤーンチ。父は銀行の弁護士ノイマン・ミクシャ（英語名：マックス・ノイマン）、母はカン・マルギット（英語名：マーガレット・カン）で、ともにハンガリーに移住した[[ユダヤ系ドイツ人]]だった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*幼い頃より英才教育を受け、ラテン語とギリシャ語の才能を見せた。6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行い、父親と[[古典ギリシャ語]]でジョークを話せた。8歳で微分積分をものにした。興味は数学にとどまらず、家の一室にあった[[ウィルヘルム・オンケン]]の44巻本の歴史書『世界史』を読了した。好んで読んだもの、特に『世界史』や[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。長じてからも数学書や歴史書を好み、車を運転しながら読書することもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1910年]]ごろ： 父親が[[フェンシング]]の先生を招き、家族でフェンシングに取り組んだ。もっとも、ヤーノシュはまったく上達せず、先生も匙を投げてしまう。また、音楽の先生にピアノやチェロを習わせたが、これもまったく上達しなかった。実はレッスンの最中に譜面の裏に歴史や数学の本を隠して読んでいたことが後から判明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1913年]]： 父親が貴族の称号をお金で購入した（[[オーストリア]]の[[ユンカー]]に相当する位）。この段階で「ノイマン・ヤーノシュ」は「'''[[フォン (前置詞)|フォン]]'''・ノイマン・ヤーノシュ」になり、さらにドイツ語のヨハン・フォン・ノイマン''Johann von Neumann''に変わることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1914年]]： [[ブダペスト]]にある[[ルーテル教会|ルーテル]]・[[ギムナジウム]]「アウグスト信仰の福音学校」へ入学。[[ノーベル物理学賞]]受賞者[[ユージン・ウィグナー]]とはルーテル校で学友だった。入学したルーテル校のラースロー・ラーツ先生がヤーノシュの数学の才能を見抜き、父親に「ご子息に普通の数学を教えるのはもったいないし、罪悪とすらいえるでしょう。もしもご異存がなければ、私どもの責任でご子息にもっと高度な数学を学べるように手配いたします。」と話し、父親が承諾すると、ラーツ先生は[[ブダペスト大学]]の数学者に引き合わせた。その数学者のひとりである[[ヨージェフ・キルシャーク]]教授が[[ガブリエル・セゲー]]講師に家庭教師を頼んだ。セゲーは最初の授業で試しに出題した問題を見事に回答したので、その夜、自宅で涙を浮かべて喜んでいたと、セゲーの妻は記憶している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1915年]]から[[1916年]]： セゲーは家庭教師を続けた。その後、ブダペスト大学の数学者たちが個人教授をうけもった。そのうちの[[ミヒャエル・フェケテ]]と[[リポート・フェイエール]]が最もよく付き合った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1920年]]： 17才のギムナジウム時代に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を書く。その論文は[[1922年]]にドイツ数学会雑誌に掲載される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1921年]]： ラーツ先生は父親との約束を守り、ヤーノシュが数学以外の科目を勉強するように指導した。ヤーノシュはギリシャ語、ラテン語や歴史、そして数学の授業も他の生徒と同じようにうけていた。同窓生の[[ウィルヘルム・フェルナー]]やウィグナーによると、ヤーノシュはみんなから好かれようと懸命に努力しており、威張る素振りや自分の殻に閉じこもって周りを無視するようなことは無かった。しかし、体育は何をしてもまったくダメで、どうしても周りの学生と一緒になることはできなかった。ギムナジウムでは首席であり、当時の成績表によると、ほとんどの科目は「優」であった。いっぽう、例外的に[[習字]]・[[体育]]・[[音楽]]の成績は落第すれすれの「可」であった。6月に受験した卒業試験「マトゥーラ」では首席であり、さらに[[エトヴェシュ賞]]にも合格した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1921年]]から[[1926年]]： [[ブダペスト大学]]の大学院で[[数学]]を学ぶ。数学よりも金になる学問をつけさせようと望んだ父親が[[セオドア・フォン・カルマン]]に相談した結果、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]と[[チューリッヒ工科大学]]を掛け持ちして[[化学工学]]を学ぶことになった。授業を欠席しても試験では非常に優秀な成績だった。23歳で数学・物理・化学の博士号を授与された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1926年]]： 論文が[[ダフィット・ヒルベルト]]に甚く気に入られ、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]でヒルベルトに師事する。ヒルベルトも彼に感心するばかりで、瞬く間にヒルベルト学派の旗手となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1927年]]から[[1930年]]： 最年少でベルリン大学の私講師 (''Privatdozent'') を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1930年代は[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権を嫌い、ノイマン一家は[[アメリカ合衆国]]に移住することになり、ジョンというアメリカ風の名前に改名した。奇妙なことに兄弟は皆異なった姓の表記に変え、ヤーノシュは、フォン・ノイマンvon Neumannという貴族風の匂いが強く残る苗字に、彼の兄弟たちはVonneumannとニューマンNewmanにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1930年]]： プリンストンに招かれ、[[プリンストン高等研究所]]の所員に選ばれ（4人のメンバーのうち2人は[[アルベルト・アインシュタイン]]と[[ヘルマン・ワイル]]であった）、*[[1933年]]以降、この研究所で数学の教授を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==活動==&lt;br /&gt;
===数学===&lt;br /&gt;
*純粋数学では、[[数学基礎論]]、[[集合論]]や[[測度論]]、[[作用素環論]]、[[エルゴード理論]]、また[[ゲーム理論]]の成立に貢献している。特に[[ミニマックス法|ミニマックス定理]]の証明は数学の分野だけでなく、企業経営における戦略の理論や、軍事戦略の基礎理論、[[ゼロ和|ゼロサムゲーム]]における戦略（将棋やチェスなどのコンピュータプログラムを含む）などに指針を与え社会に大きな影響を与えた。&lt;br /&gt;
*[[数学基礎論]]ではゲーデルとは別に、[[ゲーデルの不完全性定理|第二不完全性定理]]を発見している。[[公理的集合論]]における[[正則性公理]]を提唱した。[[モンテカルロ法]]の考案。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物理学===&lt;br /&gt;
*物理では[[量子力学の数学的基礎]]付けを行っている。量子力学の解釈の中で現在主流の[[コペンハーゲン解釈]]は、ノイマンの考えが最も大きな影響を及ぼした。彼は[[量子力学]]の波動関数の収縮という現象を、量子力学の数学的枠組みで説明することができないことを証明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===気象学===&lt;br /&gt;
*[[ジュール・グレゴリー・チャーニー]]、[[フョルトフト]]とともに[[地球流体力学|気象力学]]の草分けの一人。[[気象学]]において[[数理モデル]]とコンピュータを使う斬新な手法を持ち込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===経済学===&lt;br /&gt;
*フォン・ノイマン多部門成長モデルによる[[経済成長理論]]への貢献、&lt;br /&gt;
*[[生産集合]]・[[再生産]]の生産システム概念の導入、&lt;br /&gt;
*[[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー|ブラウワー]]の[[不動点|不動点定理]]を使い[[均衡]]の存在を証明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*経済学での最も大きな貢献として、[[オスカー・モルゲンシュテルン]]と共に経済学に[[ゲーム理論]]を持ち込んだことが挙げられる。この応用がゲーム理論の本格的な幕開けとされ、現在、経済学では[[ミクロ経済学]]・[[マクロ経済学]]と並ぶ重要な分野として確立している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===計算機科学===&lt;br /&gt;
*[[EDVAC]]開発に参加した際、'''[[プログラム内蔵方式|ストアードプログラム方式]]'''に関する論文を自分名義で発表したため、ストアードプログラム方式の考案者であると言われていた。その方式は「'''[[ノイマン型|ノイマン型コンピュータ]]'''」とも言われ、現在のほとんどの[[コンピュータ]]の動作原理である。[[アラン・チューリング]]、[[クロード・シャノン]]らとともに、現在のコンピュータの基礎を築いた功績者とされているが、実際には[[EDVAC]]開発チームの[[ジョン・エッカート]]と[[ジョン・モークリー]]が発想した方式をまとめ、数学的基礎を与えたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''[[セル・オートマトン]]'''の分野を自ら創出し、（当時はろくにコンピュータも無かったにもかかわらず）実に方眼紙とペンだけで、自己増殖の事例を構築してみせた。ここでユニバーサル・コンストラクタの概念が考え出された。この分野については、彼の死後『'''自己増殖[[オートマトン]]の理論'''』''Theory of Self Reproducing Automata''が出版されている。この自己増殖マシンを使用すれば、例えば月全体を探索するというような大規模探索の課題は、指数級数的な増加の利点を活かして、最も効率的に行うことができることを示してみせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[アルゴリズム]]の研究にも貢献。[[ドナルド・クヌース]]は、彼が有名な「'''[[マージソート]]'''」アルゴリズム（ソーティングのアルゴリズム）の発明者であると指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*クヌースは[[数値流体力学]]の分野にも挑戦したことも指摘している。R.D.Ritchmyerとともに、&amp;quot;[[人工粘性]]&amp;quot;''artificial viscosity''を決定するアルゴリズムを開発し、その成果により人類の[[衝撃波]]についての理解が進歩することになった。その後の[[天体物理学]]の分野の進歩や、高度な[[ジェットエンジン]]や[[ロケットエンジン]]の開発に、この研究は大いに貢献している。流体力学、空気力学の問題をコンピュータで計算する時には、計算すべき格子点（グリッド）が多くなりすぎるという問題があるのだが、この&amp;quot;人工粘性&amp;quot;という数学的な道具を用いることで、基本的な物理学特性を損なわずに、衝撃の伝播をコンピュータで計算しやすい形で表現することができるようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[人工知能]]の父の[[ジョン・マッカーシー]]と[[マービン・ミンスキー]]にも論文指導やアドバイスを行い、大きな影響も与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 核兵器開発への加担 ===&lt;br /&gt;
[[Image:John von Neumann ID badge.png|frame|thumb|Left|150px|[[原子爆弾]]開発に参加したころのIDバッジ写真]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1937年]]にアメリカに移住してほどなく応用数学を研究し始め、ドイツとの戦争に[[数値解析]]が必要と考えたノイマンは、[[アメリカ合衆国陸軍]]に自ら志願する。これはノイマンに化学の道を開いたカルマンが弾道研究所の責任者だったので不思議ではなかったが、不採用になった。しかしほどなくして爆発物の分野での第一人者となり、特に[[アメリカ合衆国海軍]]へのコンサルティングの仕事をした。この分野での彼の主要な結果に「大きな爆弾による被害は爆弾が地上に落ちる前に爆発したときの方が大きくなる」がある。この理論は、広島と長崎に落とされた[[原子爆弾]]にも利用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*またアメリカ合衆国による原子爆弾開発のための[[マンハッタン計画]]に参加していた。長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾[[ファット・マン]]のための[[爆縮レンズ]]の開発を担当し、1940年代に爆轟波面の構造に関する[[ZND理論]]を確立し、この理論を元に10ヶ月に渡る数値解析によって、爆薬を[[切頂二十面体|32面体]]に配置することによって、[[原子爆弾]]が実際に実現できることを示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[赤狩り]]の際は[[エドワード・テラー]]と対立して[[ロバート・オッペンハイマー]]を擁護し､ソ連のスパイだった[[クラウス・フックス]]との共同作業で自身も非難されている。また、日本に対する原爆投下の目標地点を選定する際には「京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっているからこそ殲滅すべき」だとして、[[京都]]への投下を進言した。このような側面を持つノイマンは、スタンリー・キューブリックによる映画『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』の登場人物のモデルの一人ともされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==晩年==&lt;br /&gt;
*1950年代には様々な仕事を引き受け、特に[[アメリカ合衆国空軍]]へのコンサルティングが増え、1953年に発足した通称「フォン・ノイマン委員会」の答申によって合計6種の戦略ミサイルが開発された。&lt;br /&gt;
*太平洋での核爆弾実験の観測や[[ロスアラモス国立研究所]]での核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因となって、1955年に[[骨腫瘍]]あるいは[[すい臓がん]]と診断された（同僚の[[エンリコ・フェルミ]]も1954年に骨がんで死亡している）。癌は全身に転移。その後も精力的に活動を続け、合衆国政府の相談役として重要な役割を果たし続けていた。原子力委員会初代委員長[[ルイス・ストラウス]]の回想によれば「あるとき国防総省がノイマンに相談することになった…移民だった彼のベッドはいまや[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]、副長官、陸海軍の長官や参謀長達に囲まれていた」という。&lt;br /&gt;
*1956年1月に[[ウォルター・リード病院]]に入院。死が間近になると、以前は信仰に熱心でなかったにもかかわらず、一度目の結婚時に改宗した[[カトリック教会]]の司祭と話すことを望んで、周囲を驚かせた。猛烈な痛みに苦しめられながら最期を迎え、ニュージャージー州のプリンストン墓地に埋葬されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==逸話==&lt;br /&gt;
*その驚異的な計算能力と特異な思考様式、極めて広い活躍領域から「悪魔の頭脳」「火星人」「1000分の1インチの精度で噛み合う歯車を持った完璧な機械」と評された。&lt;br /&gt;
*圧倒的な計算能力については数々の逸話が残っている。&lt;br /&gt;
**電話帳の適当に開いたページをさっと眺めて、番号の総和を言って遊んでいた。&lt;br /&gt;
**水爆の効率概算のために[[エンリコ・フェルミ]]は大型計算尺で、[[リチャード・P・ファインマン]]は卓上計算機で、ノイマンは天井を向いて[[暗算]]したが、ノイマンが最も速く正確な値を出した。&lt;br /&gt;
**[[ENIAC]]との計算勝負で勝ち、「俺の次に頭の良い奴ができた」と喜んだ。&lt;br /&gt;
**しかし死の直前には腫瘍が脳にまで達し、3+4という一桁の計算すらできなかった（上記「[[#晩年|晩年]]」の節の記述のごとく）。&lt;br /&gt;
*幼少時代、深い思考に入るときに部屋の隅へ行き壁と壁の継ぎ目を凝視するクセがあった。&lt;br /&gt;
*米軍だけでなく、[[IBM]]、[[ゼネラル・エレクトリック]]、[[スタンダード・オイル]]など大企業の顧問をやっていた。&lt;br /&gt;
*入院後は車椅子で[[救急車]]に乗ってまで、[[アメリカ原子力委員会]]の会合に出席したりした。&lt;br /&gt;
*[[ノーベル経済学賞]]受賞者[[ポール・サミュエルソン]]の教科書をみて「ニュートン以前の数学ではないか」と言って笑った。&lt;br /&gt;
*ノーベル経済学賞受賞者[[ジョン・ナッシュ]]の[[ナッシュ均衡]]に関する歴史的論文を一瞬見て「くだらない、[[不動点]]定理の応用ではないか」と貶めた。&lt;br /&gt;
*[[1930年]][[9月7日]]に[[ケーニヒスベルク]]で開催されていた「厳密科学における認識論」についての第2回会議において[[クルト・ゲーデル]]が[[ゲーデルの不完全性定理|第一不完全性定理]]を発表すると、発表の後にノイマンはゲーデルと個人的に会話を行い、定理の内容を直ちに理解した。その会議の後、ゲーデルは[[ゲーデルの不完全性定理|第二不完全性定理]]を得て論文にまとめ、論文は[[11月17日]]に受理された。いっぽう、ノイマンは独力で第二不完全性定理を導き、その結果を[[11月20日]]付けの手紙でゲーデルに知らせた。ゲーデルはすぐに返答の手紙を書き、論文の[[別刷]]を添えて返送した。この分野で自分に先んじたゲーデルのことは例外的に尊敬しており、生涯高く評価し続けた。&lt;br /&gt;
*何十年も居住している家の棚の食器の位置すら覚えられなかった他、1日前に会った人物の名前すら浮かばなかった。興味がないものに対しては全く無関心であると評された。&lt;br /&gt;
*政治での立場は[[タカ派]]であった。&lt;br /&gt;
**青年期に経験した[[ハンガリー革命 (1919年)|ハンガリー革命]]、[[アーサー・ケストラー]]の『真昼の暗黒』や[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]政権下の[[ソビエト連邦]]への短い旅行などを通じて、ソ連に敵意を燃やしていた。ソ連への核攻撃を強く主張し、死後、『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌が伝えたところによれば、1950年に「明日彼らを爆撃しようではないかと言われたら、なぜ今日爆撃しないのかと言う。今日の5時にと言うなら、なぜ1時にしないのかと言う。」(&amp;quot;If you say why not bomb them tomorrow, I say why not bomb them today? If you say today at five o'clock, I say why not one o'clock?&amp;quot;) という発言をしたとされる。&lt;br /&gt;
**[[ハト派]]だった[[ノーバート・ウィーナー]]とは性格から政治信条まで好対照だったため、比較に出されることが多い。ウィーナーとは1945年以降に[[サイバネティックス]]の分野で共同研究をした。1940年代後半にノイマンが生物学の研究のためには[[細胞]]を研究すべきという手紙をウィーナーに出した結果、ウィーナーの怒りを買い、共同研究は終わりを告げた。&lt;br /&gt;
* 子供の頃に遊びで分厚い電話帳を完全に暗記してみせる&lt;br /&gt;
* 6歳のとき、電話帳を使い8桁の割り算を暗算で計算することができた&lt;br /&gt;
* 8歳の時には『微積分法』をマスター、12歳の頃には『関数論』を読破した。ちなみに『関数論』は、大学の理工系の学生が1、2年次に学ぶ数学で、高校時代に数学が得意で鳴らした学生でも、完全に理解できる者は少ない。&lt;br /&gt;
* 数学者が3ヶ月の苦心惨憺の末、ついに解いた問題をノイマンは脳内だけで一瞬で解いた&lt;br /&gt;
* 一度見聞きしたら、決して忘れない写真のような記憶力&lt;br /&gt;
* コンピュータ並みの計算速度　実際、ノイマンは、自らが発明したコンピュータと競争し、勝利している&lt;br /&gt;
* ノーベル賞受賞者ですらついていけない頭の回転&lt;br /&gt;
* 脳内には装着された面積1ヘクタールほどもあるバーチャルホワイトボードがありノイマンは、紙と鉛筆を使わず、この脳キャンパスだけで、人間が及びもつかない複雑で込みいった思考をすることができた&lt;br /&gt;
* あまりの人間離れした思考に人間ではないと疑われた&lt;br /&gt;
* 水爆の効率概算のためにフェルミは大型計算尺で、ファインマンは卓上計算機で、ノイマンは天井を向いて暗算したが、ノイマンが最も速く正確な値を出した。&lt;br /&gt;
* 一日4時間の睡眠時間以外は常に思考&lt;br /&gt;
* セクハラ魔で有名で秘書のスカートの中を覗くが趣味でその振る舞い方は下品そのものだった&lt;br /&gt;
* 推定IQは250～300、仮に東大の医学部を目指せば1週間～で入れるレベル&lt;br /&gt;
* 天才といわれる学者の中でもかなり異質である&lt;br /&gt;
* 一度見たものは決して忘れない、計算は一般的なコンピューターより速い&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[技術的特異点]]&lt;br /&gt;
*[[数学者]]&lt;br /&gt;
*[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか]]（主人公ストレンジラブのモデルとされる。1950年にしたとされる「なぜ爆撃しない」発言などが挙げられる）&lt;br /&gt;
*[[フィラデルフィア実験]]&lt;br /&gt;
*[[フォン・ノイマンメダル]]&lt;br /&gt;
*[[マッドサイエンティスト]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://cruel.org/econthought/profiles/neumann.html ジョン・フォン＝ノイマン]&lt;br /&gt;
*{{MacTutor Biography|id=Von_Neumann}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:のいまん しよん ふおん}}&lt;br /&gt;
[[Category:ハンガリーの数学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:数値解析研究者]]&lt;br /&gt;
[[Category:気象学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:マンハッタン計画の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ゲーム理論家]]&lt;br /&gt;
[[Category:コンピュータ関連人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:20世紀の数学者|031228]]&lt;br /&gt;
[[Category:ゼネラルモーターズの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:フンボルト大学ベルリンの教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ランド研究所の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:プリンストン高等研究所の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロスアラモス国立研究所の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ハンガリーの貴族]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国帰化市民]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユダヤ系ハンガリー人]]&lt;br /&gt;
[[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツユダヤ系アメリカ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ブダペスト出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1903年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1957年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:数学に関する記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:天才]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Fromm</name></author>	</entry>

	</feed>