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		<title>土屋達雄裁判 - 変更履歴</title>
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		<title>由亜辺出夫: 小菅・永井(1996)により加筆・修正。移入にあたっての諸修正。</title>
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				<updated>2018-05-06T12:14:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;小菅・永井(1996)により加筆・修正。移入にあたっての諸修正。&lt;/p&gt;
&lt;a href=&quot;http://75.2.66.110/mediawiki/index.php?title=%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E9%81%94%E9%9B%84%E8%A3%81%E5%88%A4&amp;amp;diff=354259&amp;amp;oldid=354250&quot;&gt;差分を表示&lt;/a&gt;</summary>
		<author><name>由亜辺出夫</name></author>	</entry>

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		<title>由亜辺出夫: :wiki:ja:土屋達雄裁判 2016年9月6日 (火) 14:03‎の 宇井木辺出夫 による版を転記。</title>
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				<updated>2018-05-06T08:48:00Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/ja:%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E9%81%94%E9%9B%84%E8%A3%81%E5%88%A4&quot; class=&quot;extiw&quot; title=&quot;wiki:ja:土屋達雄裁判&quot;&gt;wiki:ja:土屋達雄裁判&lt;/a&gt; 2016年9月6日 (火) 14:03‎の 宇井木辺出夫 による版を転記。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''土屋達雄裁判'''（つちやたつおさいばん）は、1945年12月から翌年1月にかけて[[横浜軍事法廷|アメリカ軍横浜裁判]]で審理された、土屋達雄・元[[軍属]]を被告人とする[[BC級戦犯]]裁判。1942年11月から1944年11月の[[長野県]]の{{仮リンク|満島俘虜収容所|en|Mitsushima}}勤務時代の、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]][[捕虜]]の虐待致死等の罪に問われた。土屋の裁判は、横浜裁判の第1号事件として注目された。判決は終身刑で、土屋は1951年の[[サンフランシスコ講和条約]]締結後に釈放された。&amp;lt;!--概要文全体にかかる注。句点の後に置く。--&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;この記事の主な出典は、{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|pp=44-62}}、{{Harvtxt|岩川|1995|pp=16-68}}および{{Harvtxt|上坂|1981|pp=19-21}}。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 背景 ==&lt;br /&gt;
土屋達雄&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|岩川|1995|pp=16-68}}では、「土屋辰雄」。&amp;lt;/ref&amp;gt;は、長野県南佐久郡[[平賀村]]の出身{{Sfn|岩川|1995|p=17}}。1938年、20歳のとき志願して[[松本連隊]]に入隊し、間もなく中国戦線に従軍、負傷して1942年9月に日本に帰国した{{Sfn|横浜弁護士会|2004|pp=51,52}}{{Sfn|岩川|1995|p=17}}。帰国後、病院から退院し、[[傷痍軍人]]として郷里で療養していたが、1942年12月から満島俘虜収容所に軍属として勤務し、監視員兼物資管理担当を務めていた{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=51}}{{Sfn|岩川|1995|p=17}}。土屋は戦傷のため左眼にガラスの義眼を入れており、米軍捕虜たちから「リトル・グラス・アイ（義眼の小男）」というあだ名で呼ばれていた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|pp=47,51,53}}。満島収容所にはもう1人義眼の監視員が勤務しており、「義眼の大男」というあだ名で呼ばれていた（同）。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|岩川|1995|pp=17,34-35}}。同書では、「小さなガラスの眼」と訳している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{仮リンク|満島俘虜収容所|en|Mitsushima}}&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|p=53}}によると、東京俘虜収容所の第2収容分遣所、第12収容所、第3収容分遣所&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|岩川|1995|pp=16-17}}では、「東京俘虜収容所第3分所」で、終戦直前に「第11分所」に改称した、としている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|上坂|1981|pp=19-20}}では、「東京俘虜収容所第12分所」としている。&amp;lt;/ref&amp;gt;は、[[平岡村 (長野県下伊那郡)|長野県下伊那郡平岡村]]（現・天龍村）に置かれていた{{Sfn|岩川|1995|p=17}}。満島俘虜収容所に収容された連合軍捕虜は、同地での[[熊谷組]]による[[水力発電所]]のダム（[[平岡ダム]]）の建設工事に使役された{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=51}}{{Sfn|岩川|1995|pp=17-18,33}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件 ==&lt;br /&gt;
土屋の起訴理由は8項目から成り、1942年11月から1944年11月までの間、満島俘虜収容所に監視員&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|上坂|1981|pp=19-20}}では、「衛生伍長」。&amp;lt;/ref&amp;gt;として勤務していたときに、&lt;br /&gt;
*単独・または他の勤務者と共同で、同所に収容中の捕虜、アラン・M・コーリー少佐ほか4人に殴打・暴行を加え、米軍捕虜のロバート・ゴードン・ティーズを死亡させた{{Sfn|横浜弁護士会|2004|pp=51,53}}{{Sfn|岩川|1995|pp=46,51}}&lt;br /&gt;
**複数の捕虜仲間の供述によると、死亡したティーズ1等兵は、栄養失調と[[赤痢]]のため病臥していたが、土屋や他の監視員から節を作ったロープや棒、拳で殴打され続け、5日目に意識不明となって、死亡した{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=53}}。&lt;br /&gt;
*捕虜を向かい合わせて並ばせ、倒れるまで殴り合わせた（いわゆる「[[平手打ち#暴力行為|対抗びんた]]」をさせた）&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|pp=50,51}}。ダム建設工事に携わった捕虜の作業ぶりが不満だとして、懲罰としてやらせたとされる（同）。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[赤十字社#国際赤十字・赤新月運動|国際赤十字社]]から同所の捕虜にあてて送られてきた食糧などの救恤品を横領して私用に供した{{Sfn|横浜弁護士会|2004|pp=50,51}}{{Sfn|岩川|1995|pp=46,51}}&lt;br /&gt;
とされた{{Sfn|横浜弁護士会|2004|pp=51,53-}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、米軍が、満島俘虜収容所にいた元捕虜に対して行った聴取調査の結果から、土屋は戦犯容疑者として指名手配され、1945年11月に逮捕された&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|岩川|1995|pp=16-19}}によると、戦後、郷里に帰っていた土屋は、1945年11月10日に新聞で自分の名前が俘虜収容所における捕虜虐待の戦犯容疑者として挙げられているのを見つけ、東京の[[巣鴨プリズン]]に出頭したところを、日本国内における第1号のBC級戦犯容疑者としてそのまま逮捕・拘束された。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土屋の裁判は、[[横浜軍事法廷|アメリカ軍横浜裁判]] の[[BC級戦犯]]第1号事件として審理されることとなり{{Sfn|横浜弁護士会|2004|pp=44-45}}{{Sfn|上坂|1981|pp=19-20}}、当時の新聞各紙で報道された{{Sfn|横浜弁護士会|2004|pp=49-52}}{{Sfn|岩川|1995|pp=59-60}}{{Sfn|上坂|1981|p=20}}。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--長いので省略。岩川(1995)、上坂(1981)は同じ文献から異なる箇所を引用している。&lt;br /&gt;
公判の情景は、『[[シカゴ・トリビューン]]』紙の記者{{仮リンク|マーク・ゲイン|en|Mark Gayn}}の『ニッポン日記』（筑摩書房刊）に記されている{{Sfn|上坂|1981|p=20}}&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|岩川|1995|p=59}}。同書では『[[シカゴ・サンタイムズ|シカゴ・サン]]』紙の特派記者として来日した、としている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
「12月18日横浜&lt;br /&gt;
……小さなやせた眼鏡をかけた、年のころ28ぐらいの&amp;quot;小さなガラスの眼&amp;quot;は、椅子に固くなって腰かけ、それをアメリカのカメラマンが大勢とりまき、あっちを向かせたり、こっちを向かせたりしてはフラッシュの雨を浴びせていた。{{Sfn|岩川|1995|p=59}}{{Sfn|上坂|1981|p=20}}&lt;br /&gt;
（中略）&lt;br /&gt;
証拠が提出されるにおよんで、この農夫出身のおだやかな顔つきをした男が、かつて衛兵をつとめていた捕虜収容所で捕虜たちに科する残酷ないろいろの刑罰を発明したサディストだったことは疑いもなくなった。彼は、よく米英の俘虜を2列にならばせ、自分が見あきるまでお互いになぐり合いっこをさせた。&amp;quot;わに口&amp;quot;、&amp;quot;屑&amp;quot;、&amp;quot;ミッキィ・マウス&amp;quot;、&amp;quot;乱杭歯（らんぐいば）&amp;quot;などというあだ名で知られていた衛兵たちと一緒に彼は棍棒や荒縄で俘虜を殴ったり、裸で雪の中に立たせたりした。イリノイ州のロバート・ゴードン・ティーズという若い俘虜が、みんなのみている前でこうして殺された。{{Sfn|岩川|1995|p=60}}&lt;br /&gt;
（中略）&lt;br /&gt;
しかし検事たちのこの事件の処理の仕方をみていると、私たちは惑わざるを得なかった。どの検事もこの歴史的な役割には不適任だった。（中略）その口供書のあるものたるや法廷はおろか警察担当記者の検討にさえ堪えないものだった。みんな食いちがいが甚だしく、1は土屋を5尺位の小男だといい、他の1つは6尺の大男だといっている。（中略）左の限がガラスの義眼だというのもあれば、右だというのもある始末だ。実のところその収容所には『ガラスの眼の男』が2人いて、どっちも同様に悪質だった。&lt;br /&gt;
（中略）&lt;br /&gt;
私たちは思わずくすくす笑いだしたが、ァメリカの正義観念をもつ文明人として、やがて不安になり恥しくもなってきた。（中略）彼は絞首刑に処せられるか、獄中で死ぬか、また我々がこの国を去るまで禁鋼されつづけるかも知れないが、この実例によって次の戦争の際には人道と公正を遵守しようなどと考える日本人は1人もいまい」{{Sfn|岩川|1995|p=60}}{{Sfn|上坂|1981|p=20}}&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
== 裁判 ==&lt;br /&gt;
1945年12月18日に[[横浜地方裁判所]]で第1回公判が行われた{{Sfn|横浜弁護士会|2004|pp=44,49-50}}{{Sfn|岩川|1995|p=58}}。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--裁判長：トレッチャー&lt;br /&gt;
検察側：ゲッヘン少佐&lt;br /&gt;
弁護人：デッキンス中佐以下10名{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=50}}--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 土屋のアメリカ人弁護団の1人はS.H.シムス中尉{{Sfn|岩川|1995|p=55}}。[[横浜弁護士会]]の[[渡邊治湟]]会長が土屋の日本人弁護士を担当した{{Sfn|岩川|1995|p=55}}。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 公判 ===&lt;br /&gt;
公判で、検察側は、上述の起訴理由を挙げ、特に暴行の結果、捕虜1人が死亡しているとして、死刑を求刑した{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=50}}。&lt;br /&gt;
==== 土屋の証言 ====&lt;br /&gt;
土屋は、死亡したティーズ1等兵が収容所の規則に違反したため何度か平手打ちしたと認めたが、捕虜仲間たちの宣誓供述書にあったロープや棒による殴打は否認した{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=53}}。土屋は捕虜の氏名を覚えておらず、番号でしか識別できなかった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|p=53}}。このため、法廷で暴行殴打を認めたことは、捕虜に対して日常的に暴力を振っていたことを認めたものと解釈された（同）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また土屋は、捕虜への殴打が上官の命令によるものだったと主張したが、弁護側証人として出廷した元収容所長は暴行を命令したことを否定した{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=58}}。&lt;br /&gt;
==== ティーズ1等兵の死因 ====&lt;br /&gt;
死亡したティーズ1等兵の死因について、日本の軍医による死亡診断書では死因は急性[[腸炎]]とされていた{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=54}}。弁護側は、ティーズ1等兵の死因について、もともと病院に入院していたため、死因が暴行によるのか病気によるのか判然とせず、当時の満島収容所では病気による捕虜の死亡率が最も高かったと主張した{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=60}}。審理の中で、死亡診断書が軍中央からの「俘虜の死体を見て死亡診断書を作成してはならない」という指示に基づいて作成されていたことが明らかにされ、暴行を受けた直後に容体が急変し死亡したという複数の捕虜の目撃証言から、米軍の軍医によって死因は暴行によるものと推定された{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=54}}。&lt;br /&gt;
==== 宣誓供述書の証拠能力 ====&lt;br /&gt;
殴打暴行容疑のうち1件は、他の勤務者3人とともに捕虜を殴打した、という内容で、「義眼の大男」と呼ばれていた監視員も含まれていたにも関わらず、土屋以外の監視員は起訴されておらず、また証拠は宣誓供述書1件のみだった{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=54}}。供述書を提出した捕虜は出廷していなかったため、弁護側は反対尋問をすることができず、弁護側は動議を提出して宣誓供述書の証拠能力を争ったが、軍事委員会は動議を却下した{{Sfn|横浜弁護士会|2004|pp=53,54}}{{Sfn|岩川|1995|pp=34-35}}。かわりに、元捕虜の供述を録取したうちの1人が検察官として事件を担当していたため、法廷で録取状況について尋問を受けた{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=53}}。&lt;br /&gt;
==== 「対抗びんた」 ====&lt;br /&gt;
「対抗びんた」の容疑については、弁護側は日本陸軍では普段から懲戒手段として行われていた制裁であり、[[ジュネーブ条約]]では自国兵士に加える懲罰を捕虜に加えることは許容されていると主張した{{Sfn|横浜弁護士会|2004|pp=50,55}}。検察側は、捕虜虐待に該当すると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|p=55}}。判決の確認（審査）では、日本陸軍の一般的な懲戒方式とは認められない、とされた（同）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
==== 横領と虐待致死の関係 ====&lt;br /&gt;
審理の最終段階で、俘虜収容所で連絡役となっていた英軍の将校の無宣誓の供述書が提出され、土屋たちが死亡したティーズ1等兵を殴打し続けた理由について、死亡の3日前にティーズが病床に国際赤十字から支給された缶詰数個を隠し持っていたのが見つかり、それをこの英軍将校が収容所の下士官に報告したところ、下士官が衣類・食料品の管理者だった土屋と相談して、ティーズに「缶詰ではなく、シャツを盗んだ」と虚偽の自白をさせるために暴行を加えた、とされていた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|p=54}}。同書では、この証言は国際赤十字支給品の横領を裏付ける内容になっており、被告人に不利に作用したと推測している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 判決 ===&lt;br /&gt;
7回の公判の後、土屋は1945年12月27日に終身刑の判決を受けた{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=52}}{{Sfn|岩川|1995|p=60}}。8つの起訴理由のうち、傷害致死の件と、捕虜への殴打・暴行5件のうち1件および「対抗びんた」の件が有罪と認定された{{Sfn|横浜弁護士会|2004|p=52}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土屋は[[サンフランシスコ講和条約]]締結後に釈放された{{Sfn|上坂|1981|p=20}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事件 ==&lt;br /&gt;
ティーズ1等兵の虐待致死に関しては、土屋のほかに満島俘虜収容所の警備員6人と分所長が起訴され、分所長以下5人に絞首刑の判決が下された&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|p=61}}。75号事件、1947年2月21日判決、1948年8月21日判決通り刑執行（同）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また満島俘虜収容所の関連では、別事件で警備員3人が起訴されて、1人が絞首刑、1人が終身刑、1人が重労働25年の判決を受け&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|p=61}}。159号事件、1947年8月28日判決、1948年8月21日刑執行（同）。&amp;lt;/ref&amp;gt;、また満島俘虜収容所の本所にあたる東京俘虜収容所の歴代所長2人が起訴され、いずれも終身刑を宣告されている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|横浜弁護士会|2004|p=61}}。305号事件、1948年11月19日判決（同）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|岩川|1995|pp=67-68}}では、土屋の戦犯裁判を含めて3件が立件され、横浜裁判の第128号事件（満島俘虜収容所の分所長・中島祐雄大尉ら7人を被告人とした裁判）では、1947年2月21日に、収容所の衛兵を含む5人に絞首刑の判決が下された、としている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|last = 横浜弁護士会|year = 2004|first = BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会|title = 法廷の星条旗－BC級戦犯横浜裁判の記録|publisher = 日本評論社|isbn = 4535583919 |ref= harv}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|last = 岩川 |year = 1995 |first= 隆 |authorlink = 岩川隆 |title = 孤島の土となるとも-BC級戦犯裁判 |publisher = 講談社 |isbn= 4062074915 |ref= harv}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|last = 上坂 |year= 1981 |first= 冬子 |authorlink= 上坂冬子 |title = 巣鴨プリズン13号鉄扉 |publisher = 新潮社 |ref= harv}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- == 関連書籍 == --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- == 外部リンク == --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:つちやたつおさいはん}}&lt;br /&gt;
[[Category:第二次世界大戦中の戦争犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の戦争犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本における戦争犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ軍横浜裁判]]&lt;br /&gt;
[[Category:1945年の日本の事件]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>由亜辺出夫</name></author>	</entry>

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