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		<title>横山丸三 - 変更履歴</title>
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		<title>由亜辺出夫: 大井1868、細川1922などにより新規作成</title>
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				<updated>2021-11-12T05:45:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;大井1868、細川1922などにより新規作成&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''横山 丸三'''（よこやま まるみつ、[[1780年]] - [[1854年]]）は、[[江戸時代]]後期の幕臣、宗教活動家、[[淘宮術]]の創始者{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。淘道では'''淘祖'''と呼ばれている{{Sfn|大井|1868|p=1}}。通称は'''横山三之助'''、諱は'''興孝'''{{Sfn|大井|1868|p=4}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経歴==&lt;br /&gt;
===生い立ち===&lt;br /&gt;
[[安永]]9年（1780）4月2日、東京[[小石川]]の[[小日向]]武島巷に生れる{{Sfn|井上|1896|p=227}}{{Sfn|大井|1868|p=4}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめ名を'''三五郎'''といった。[[武蔵国|武州]][[川越市|川越]]の人で、父は又兵衛といって農業を営んでいたが、知合いの[[御広敷小遣]]の者に仕えて[[御下男]]([[大奥]]女中方の雑用をする者&amp;lt;ref&amp;gt;{{Kotobank|下男|精選版 日本国語大辞典}}&amp;lt;/ref&amp;gt;）となった。母は某氏で名を嘉宇（かう）といい、やはり川越の人で、横山は2人きょうだいの長子だった。{{Sfn|大井|1868|p=4}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼い頃は病弱で、11歳の頃に[[内障眼]]を患って読書・習字を止め、毎日仏神に祈って過ごし、鼓吹などの[[俗楽]]を習っていたという{{Sfn|大井|1868|pp=4-5}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[田安家]]の[[物頭]]・野崎藤五郎の妹・梶と結婚し、2女1男をもうけた{{Sfn|大井|1868|p=5}}。文化5年（1808）に生まれた末子は男子で幼名は辰蔵、成長してから正則と称した{{Sfn|大井|1868|p=7}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化7年（1824）に父が致仕し、その後を受けて御下男となった{{Sfn|大井|1868|p=5}}。同年12月に[[小普請組]]、文化12年（1815）に[[御留守居番]]同心、文政5年（1822）に[[組頭]]となった。{{Sfn|大井|1868|p=5}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===天源術入門===&lt;br /&gt;
横山の妻・梶は再婚で、前夫との間に長女があり、再婚後に福島治右衛門に嫁がせていた。文政4年（1821）の春頃にこの長女が病気になり、横山の家に戻って療養していた。このとき、同僚で、[[天源術]]に通じて[[観相]]を極めていた[[奥野南卜|奥野清次郎]]が、横山の顔を見て、家に病人が居ることを言い当て、治るかどうか尋ねると、治し難いと答えた。3月某日に長女は死去した。すると、まだ葬送も済まないうちに奥野は弔喪の書を送って来た。横山はこれに驚き、天源術を学ぼうと考えた、という。{{Sfn|大井|1868|pp=5-6}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、42歳のとき、奥野の門下に入り、天源術の伝授を受けた{{Sfn|井上|1896|p=227}}{{Sfn|大井|1868|p=7}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奥野はその3年後に病にかかり、文政10年（1827）に死去{{Sfn|大井|1868|p=7}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===陶宮学創始===&lt;br /&gt;
横山はその後、天源術を離れ、天保5年（1834）に[[淘宮術|淘宮学]]を創始した{{Sfn|井上|1896|p=228}}{{Sfn|大井|1868|pp=12-13}}。&lt;br /&gt;
*後年、幕府が横山から聴取したところによれば、奥野は横山が入門して3年で病気を患い、そのまま6年後に亡くなったため、横山は十分に奥野の術を習うことができず、12宮のことは自分自身で理屈を考えて、「開運淘宮術」と名付けた、という{{Sfn|細川|1922}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保8年（1837）に組頭を辞し、同11年（1840）に致仕。実子の正則が後を継いだ。同13年に[[牛込]]赤城の失火が延焼して[[大塚]]の家が焼けた。同14年（1843）に出家して、'''丸三'''を道号とした。{{Sfn|大井|1868|p=14}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別号には、'''春亀斎'''（しゅんきさい）のほか、'''木黄山人'''（もくおうさんじん）、'''小响葊'''（しょうこうあん）、'''毛陶人'''（もうとうじん）、'''陶山人'''（とうさんじん）、'''百田楼不学'''（ひゃくでんろうふがく）、'''千亀支牀'''（せんきししょう）などがあった{{Sfn|井上|1896|p=227}}{{Sfn|大井|1868|p=14}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
淘宮学の創始以来、横山に教えを請う弟子は増えていき、嘉永元年には1,040人に達した{{Sfn|井上|1896|p=228}}{{Sfn|大井|1868|p=13}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===禁令===&lt;br /&gt;
嘉永元年（1848）9月、弟子が増えたことで幕府の目に止まり、当時三教（[[神道]]・[[儒教]]・[[仏教]]&amp;lt;ref&amp;gt;{{Kotobank|三教|精選版 日本国語大辞典}}&amp;lt;/ref&amp;gt;）以外の宗教を禁止していた幕府（組頭・[[豊田友直|豊田藤之進]]）の糺問を受けた{{Sfn|大井|1868|pp=15,42}}{{Sfn|細川|1922}}。「訛伝紛伝の首罪者は遠流される」などの説もあり、弟子たちは動揺した{{Sfn|大井|1868|pp=15,42}}{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌10月晦日に、幕府（若年寄・[[大岡忠固|大岡主膳正]]）から、淘宮術自体は禁止しないが、門人・生徒を集めての術の教授を禁止する、との命令を受けた{{Sfn|大井|1868|pp=15,42}}{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。これにより、信仰が固まっていなかった弟子の中には門下を離れる者も出た{{Sfn|大井|1868|p=15}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===死去===&lt;br /&gt;
安政元年（1854・嘉永7）7月、門弟だった井上某公の[[御成道]]の邸宅で「夜来淘話」をしていた席上で倒れ、8月に危篤となり、同月13日に死去した{{Sfn|大井|1868|pp=16-20}}。享年75{{Sfn|井上|1896|p=228}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月14日に[[音羽町]]の妙法山蓮光寺に葬られた。諡は「釈氏春亀斎静詠信士」。{{Sfn|大井|1868|p=20}}&lt;br /&gt;
*{{Harvtxt|武田|1903}}は、[[関口台町]]の日蓮宗蓮花寺に葬られた、としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==後継者==&lt;br /&gt;
丸三の後継ぎ・横山辰蔵は「木黄（もくおう）」と号した。その妻・横山花子は「丸喜（まるき）」と号して、辰蔵の没後、その道統を継ぎ、1914年以前に没した。没後は丸三の孫・横山正令が後を継いだ。{{Sfn|西川|1914|p=126}}&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvtxt|西川|1914|p=126}}は、正令について「素より其器にあらず、世皆其教祖を辱かしむを惜む」と評している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==評価==&lt;br /&gt;
*{{Harvtxt|鈴木|1966|p=9}}は、横山は和歌に堪能で、和歌を通して淘宮術の奥義を説き、門人を啓発する才能を持っていたようだ、と評している。&lt;br /&gt;
**{{Harvtxt|武田|1903}}は、横山の詠歌の短冊を「此術（淘宮術）を信する徒輩は金科玉条と尊む」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{Harvtxt|大井|1868|p=23}}によると、横山は若い頃、眼病にかかったため書学を深く学んでおらず、晩年に地蔵道士庵彦（[[樋口東壽]]）から書を学び、62歳のとき初めて短冊を書いた。&lt;br /&gt;
*高弟の[[佐野量丸]]の話によると、横山は『阿気の顕支』という小冊子を著し、「この外に淘宮術には書はない」と示したという。『十二の辛苦』以下の7部はもともと天源術の書で、淘宮術のオリジナル書は『阿気の顕支』と淘詠集の2部のみだった。{{Sfn|大井|1868|p=23}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 付録 ==&lt;br /&gt;
=== 脚注 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist|20em}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 参考文献 ===&lt;br /&gt;
*{{Aya|大井|year=1868}} 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42（原著：慶応4・1868）、pp.4-44、{{NDLJP|2209062/10}}&lt;br /&gt;
*{{Aya|井上|year=1896}} 井上円了（講述）『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、{{NDLJP|1080793/118}}&lt;br /&gt;
*{{Aya|武田|year=1903}} 武田醉霞「古跡部類 墓所集覧（小石川区） 横山丸三」『好古類纂（第1編）第12集』好古社、明治36年6月、p.24、{{NDLJP|1244999/84}}{{閉}}&lt;br /&gt;
*{{Aya|西川|year=1914}} 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、大正3、{{NDLJP|908681}}&lt;br /&gt;
*{{Aya|細川|year=1922}} 細川潤次郎「淘宮術」『梧園随筆 賸編 3』西川忠亮、大正11、{{NDLJP|985320/7}}&lt;br /&gt;
*{{Aya|鈴木|year=1966}} 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、{{NDLJP|2985880/8}}{{閉}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:よこやま まるみつ}}&lt;br /&gt;
[[Category:1780年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の宗教活動家]]&lt;br /&gt;
[[Category:天源術]]&lt;br /&gt;
[[Category:淘宮術]]&lt;br /&gt;
[[Category:1854年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>由亜辺出夫</name></author>	</entry>

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